「食とは地球からわかれた生命体が母なる地球との一体性を保つための相互浸透の形態の一つである。」
一般論としてはそうであっても、ではその具体は如何なること、ものであるのかを考える必要性がある。なぜかならば、実践するということは、一般論だけでは不可能であり、必ず具体へ<おりる>必要性がある。
この場合であれば、アタマの中で「食とは地球との一体性を保つための相互浸透!」といくら思って見ても、(もちろん一般論を持つことは実践の指針であり是非とも必要なことである!念の為......)実際に食べるということ、ものは具体の何かしら、例えば玄米、例えばチリメンジャコ、例えば納豆、であり、一般論を食べるわけにはいかないのだから......。
これは鍼灸で言えば、患者の一般論=本質であるところの「証」を決めることは大事なことであるのだけれども、それ抜きでは施術が行き当たりばったりになっていってしまいかねないと言っていいほどの大事性を持つものであるけれども、現実の施術で問題となるのは、鍼の長さと太さであり、その素材であり、その打ち方ということになる、あるいはそれ以前に鍼なのか灸なのかということも問題となる、のと同じことである。
しかしながら、このように考えて見ると、この一般論から具体に<おりる>ということには、本当は構造論が必要であり、と思える。
なぜかならば、一般論から具体へ<おりる>ことは必要であり、それ抜きでは実践は不可能なのであるが、いきなりは一般論から具体へ<おりる>わけにはいかないからである。
というか、それでは知識的にしかおりれないからである。(より正確には、一般論からおりているつもりで、本当はおりれていない、から)
知識的であってなぜ不味いのか!?具体に<おりる>ことが出来れば、それで実践は可能=効果のある鍼が打てる=健康的に食べれる、ではないか!との反論もあるかと思うが、それは、知識的に<おりる>ということは、言ってみれば他人の実力でおろしてもらっているだけであり、それでは、再び自身の実力で<おりる>ことが出来ないから、である。
そのように考えるならば、本当は一般論へも<のぼる>でなければならない、となるはずであり......。
一般論としてはそうであっても、ではその具体は如何なること、ものであるのかを考える必要性がある。なぜかならば、実践するということは、一般論だけでは不可能であり、必ず具体へ<おりる>必要性がある。
この場合であれば、アタマの中で「食とは地球との一体性を保つための相互浸透!」といくら思って見ても、(もちろん一般論を持つことは実践の指針であり是非とも必要なことである!念の為......)実際に食べるということ、ものは具体の何かしら、例えば玄米、例えばチリメンジャコ、例えば納豆、であり、一般論を食べるわけにはいかないのだから......。
これは鍼灸で言えば、患者の一般論=本質であるところの「証」を決めることは大事なことであるのだけれども、それ抜きでは施術が行き当たりばったりになっていってしまいかねないと言っていいほどの大事性を持つものであるけれども、現実の施術で問題となるのは、鍼の長さと太さであり、その素材であり、その打ち方ということになる、あるいはそれ以前に鍼なのか灸なのかということも問題となる、のと同じことである。
しかしながら、このように考えて見ると、この一般論から具体に<おりる>ということには、本当は構造論が必要であり、と思える。
なぜかならば、一般論から具体へ<おりる>ことは必要であり、それ抜きでは実践は不可能なのであるが、いきなりは一般論から具体へ<おりる>わけにはいかないからである。
というか、それでは知識的にしかおりれないからである。(より正確には、一般論からおりているつもりで、本当はおりれていない、から)
知識的であってなぜ不味いのか!?具体に<おりる>ことが出来れば、それで実践は可能=効果のある鍼が打てる=健康的に食べれる、ではないか!との反論もあるかと思うが、それは、知識的に<おりる>ということは、言ってみれば他人の実力でおろしてもらっているだけであり、それでは、再び自身の実力で<おりる>ことが出来ないから、である。
そのように考えるならば、本当は一般論へも<のぼる>でなければならない、となるはずであり......。
♪~目から鱗が落ちました~♪
♪♪♪ありがとうございます♪♪♪
♪♪感謝感激でもございます♪♪
今回の記事の記述から、
私の中で今まで言語化できていなかった事が、
ハッキリ鮮明化しました。
それは以下の言葉からです。
>…本当は構造論が必要であり、と思える。…
>…知識的にしかおりれないからである。…
>…(より正確には、一般論からおりているつもりで、本当はおりれていない、から)…
>…本当は一般論へも<のぼる>でなければならない、となるはずであり......。
以上の言葉を手掛かりにして、
私の中の南郷師範の言葉と私の体験・経験を練り合わせて、
今の私の専門についての構造論の構築を試みてみます。
!乞うご期待を!
そもそも「地球との一体性を保つ」とは何か。大雑把に言えば、生物であろうが無生物であろうが、生きていようが死んでいようが、地球上の存在は全て「地球が変化した物質の一部」です。だから極論をすれば、毒を摂っても「地球の一部を取り入れる」には違いないのです。だから「地球との一体性を保つ」という事の中身には「地球上の物質を取り入れる」という大枠と、更にその内に「生命体として代謝を維持するために必要な物質を取り入れる」というもう一つの枠がある筈なのです。ここを構造的に極めるには、生命現象が発生した当時の地球の地表の状態と、「その当時の地球と生命現象の相互浸透のあり方」を捉える必要があります。まあその辺の具体的内容は弁証法論理学研究会の「秘中の秘」「切り札中の切り札」の一つなのでしょうが…。
それにしても地球から独立して発展し始めた生命体が、結局その当時の状態に現在も規定され続けているというのは、なんともセンス・オブ・ワンダーをかき立てます。
>「地球との一体性を保つ」とは何か?
この一般論を自分の個体性・個別性を考慮して
具体化・具現化・実践する事が重要なのでしょう。
それは、自分の日頃の食事・運動・睡眠…を含めての「…一体性を保つ…」です。
そんな具体論を書けば、自分には誠、他の人には嘘、となり得ます。
因みに、猛毒でも、微量なら薬となり得ます。
その人にとっての「地球と一体性を保つ為」の食事とは、激しい運動後の食事、安静時の食事、病気の時の食事…それぞれの具体的食事を、大勢を想定した書物にはいちいち書けません。
>…センス・オブ・ワンダーをかき立てます。
とは、
南郷先生の記述・言葉を現実的ではなく、
SF的に捉えていますね…
実に残念!な事ですね…
この言葉は嫌味にも取れますね ♪♪♪
「嫌味」なら、ここに個性がにじみ出ます。
南郷先生と南郷学派の先生方の著作全体を素読レベルででも読まれれば、例えば、「生命の歴史を丸ごと」「植物性の雑食に加えるに動物性の雑食」等々と構造的に説いていただいている。
のみならず、南郷先生ご自身の食のあり方を具体的に、「玄米、野菜、漬物、小魚あるいは卵」あるいは、「食事に招待されても食べられるものが無いからお断りする」と説いていただいています。
これ以上のことは、自身で実際に実践してみて、では無いかと思います。
また、「地球との一体性を保ち続ける」ということの理解ですが、
「原始の地球との一体性」ということ、どこでそんなことが説かれてあったのか?と疑問に思います。
地球にも歴史性があるのだから、地球との一体性を保ち続けるということにも、当然に歴史性があると私には思えます。
思いつきレベルのコメントしか出来ませんが、参考にしていただければ。