昨日は、物事の理解は像としてということを、「信仰とは」の自身の理解とともに、『恩讐の彼方に』を取り上げて説いたのであるが、奇しくも昨日は、看護の日=フローレンス・ナイチンゲール生誕二百年であった、と知り、「信仰とは」の実例としては、フローレンス・ナイチンゲールをこそ取り上げるべきであったとのとの思いとなった。
ほとんどの方には、看護関係の方をも含めて、フローレンス・ナイチンゲールについて . . . 本文を読む
『恩讐の彼方に』(菊池寛)を、本来の信仰とはのリアルなイメージを描かせてくれる書である、と感動とともに読んだ。像として理解することの大事性、実感する。
「信仰と学的観念の違いは何かを説けば、観念というのは、客観的世界を頭脳活動としてアタマの中に宿すことです。そして信仰というのは、逆に自分の信仰としての思いを客観の世界、つまり外界に創っていくことです。確かに信仰は何かを信じることであり、 . . . 本文を読む
何事も、<絶対精神の自己運動>として捉え返すべき、と思える。 昨日は、午前中に近くの公園で50段程度の階段の昇降を約20分、その後、川の土手を約2時間歩き、午後は、庭の片付け(以前に伐った木をゴミ袋に入るように切る作業)おこなった。階段昇降は、久々の空手の練習へと直接的に繋がるものとの思いでの、であったが、案の定、わずかに50段程度の階段の昇降で息切れ、夜には、足が攣ることも。それゆ . . . 本文を読む
"Das echte Leid gibt einem die geistige Haltung wieder."(眞の苦難は吾人に氣魄を取り戻させる。)
コロナ感染症の影響で(自身も含めて)多くの人が諸々に追い詰められていき、の現在である。しかしながら、それだけに、何があっても悔いを残さないように、可能な限りの努力を!と(何よりも自身の問題として)思う。
鍼灸・東洋医学もまた同様に、 . . . 本文を読む
「若い衆や、死ぬが嫌なら今死にやれ。一度死ねばもう死なぬぞや。生きた中は憂きも辛きも楽しみよ。侍じゃとて死んでよかろか。」(白隠禅師)
現在の日本は、コロナウイルスに関わっての不安が不安心へとまでなっていって、である。それだけに、日本固有の精神・文化である「悟り」や刀術の「極意」というものが、求められる、求められて然るべきである、と思う。
昨日、一昨日とゴールデンウィーク連休前 . . . 本文を読む