スピリチュアリズムに出会い
生き方が180度かわりました
シルバーバーチの霊訓を人生の指針としています
6 . 死者は49日の間は家にいるのか
彼らは自由にどこにでも行けます。
外国にだってすぐに行けます。
肉体から離れたら束縛がなくなるのです。
肉体に宿っていたら移動の手段が必要になるし交通費もかかります。
肉体を離れて霊になると一切そういうものは必要がありません。
思っただけで行きたい場所に移動が出来るのです。
我々が夢の中でどこか遠い所に行っているのと同じ原理が働きます。
ずっと家にいても誰も自分の存在を分かってくれないし家族の心も丸見えなので本心が分かってしまいます。
自分に好意的でなかったり悪口を言っているのを見ると居たたまれなくなってしまいます。
ずっと家にいるという人は稀でしょう。
誰も話し相手になってくれないし空しさが募るだけです。
彼らは49日という期間に関係なく何時でも家に来られるし自由にどこにでも行けるのです。
中陰の供養の時は殆ど来て様子をみています。
中には一緒に座って儀式に参加している人もいます。
家族だけの小さな催しで嫌いな人もいないしリラックスしているようです。
知らない人が大勢来る大掛かりな葬儀より家族の愛のこもった催しは嬉しいようです。
死後は肉体が無くなり霊感が鋭くなるので物を言わなくても人間が何を考えているかすぐにわかってしまうのです。
誰もが霊能力者になるというわけです。
例えば少し精神統一をして亡くなった人(愛でつなかっていた人)の写真を見ながら心の中で呼びかけてみて下さい。
それは必ず届いています。
5. 葬儀の時には何が起きているのか
当人が眠っている場合は盛大に葬儀をしても何も知らないということになります。
そういう事も全て天地自然の法則(神の摂理)によって導かれ、自然にそういう状態になります。
人がどんな状態であろうと そこには必ずこの天地自然の法則が働いているのです。
葬儀の時には私の体験では半数くらいは当人が先に他界している自分の親や祖父や祖母に付き添われて葬儀を見に来ているようです。
大抵の人が祭壇の前で参列者にお礼の挨拶をしています。
その場で私は当人からのメッセージを受け取ることもあります。
当人(死者)が最も関心のある事は自分を愛し、愛していた人です。
それ以外の人にはあまり関心がないようです。
義理で葬儀に来ている人には失礼ながらあまり興味がないのです。
今までに見た範囲ではどうも彼らは葬儀に来てもしばらくするといなくなるようです。
葬儀を見学し、親しい人に対面して一定時間過ごしたらさっさとどこかへ行ってしまうようです。
斎場にもいかないのかそこで何らかの反応があった事はありません。
それから最近は火葬が殆どですが死後最低2日間は置いた方がいいのです。
あまり急いで火葬にすると霊体の一部が残っていることがありダメージを与えることがあるのです。
世間では葬儀にかなりのお金を使います。
その費用は半端なものではありません。
世間では宗教的な儀式をすることは死者を導きより良い所へ連れて行ってもらえるというような認識があるのでしょうか?
それともそれをやらなかったら死者は成仏できないのでしょうか?
事実を言えばそうではないのです。
人は次の世でどのレベルに進むかということはすでにその時点で決まってしまっているからです。
それまでの人生でその人の積み上げたものが行き着く場所を自動的に決めるのです。
死は唯、肉体が無くなっただけの状態でありその人間の本質は何一つ変わっていないのです。
急に仏様のようになるのではありません。
人は死後長い年月をかけて成長していきます。
人生は永遠に続くのです。
ですから自分が進んで行く死後の世界はこの世で積み上げた世界の延長であり、それ以上でもそれ以下でもないのです。
その辺のところは法則によって不公平なく決まってしまうのです。
それは絶対に間違えることはありません。
その法則の働きこそが神なのです。
神は法則で宇宙のすべてのものを支配しているのです。
その神の働きに対して何らかの影響を及ぼす力を持ったものは全宇宙に存在しないのです。
この辺の所を正しく理解することが大切です。
僧侶が何十人集まってお経を唱えようが、豪勢な儀式をしようが神の働きには指一本ふれることは出来ません。
またお経自体が特別な力を持っているわけではないのです。
もしお経が特別な力を持っていたとしたらそれを唱えれば自分の犯した罪が消えるかもしれません。
またお経を唱えれば問題が解決するかもしれません。
しかしそういうことは実際にはありません。
魔法の言葉のようなものがありそれを唱えたら自分の望みがかなうというようなものは存在しません。
もしそういうことが許されるならば全宇宙をコントロールしている秩序が根底から崩れてしまいます。
人間もその他のものも神の法則を越えては何事も成し得ないのです。
お経やその他の祈りの言葉はその言葉自体が霊界に届くのではなくその人の心そのものが届くのです。
ですから人の心の内容をそれに乗せて届けると考えたほうがいいと思います。
霊界では言葉は必要なく心の内容がテレパシーによって一瞬に伝達されます。
この世とは意志伝達の方法が全く違うのです。
位牌や戒名というものがあり院号を付ければ高額なものになっているようですがそれも遺族の自己満足と言えば失礼かもしれませんが、そうしたからと言ってあちらに旅立つ人を守護したり導いたりすることは出来ません。
本来仏教にはそういうものはありませんでした。
仏教が中国、韓国をわたって日本に伝来する間に儒教やその他の思想の影響を受けた結果生まれたものです。
墓、仏壇、位牌などはこの世の人間の発想から出来たものであり、そこに死者の霊が宿るということはありません。
あちらは地上世界(この世)とは違った価値観で動いています。
この世は物質の世界、あちらは非物質の世界です。
あちらに旅立った人を思う時、墓や仏壇を連想する人が多いかもしれませんが実際は彼らは束縛のない広くて自由な世界で生き生きと暮らしています。
彼らを墓や仏壇に閉じ込めておくことは出来ません。
この世の人間こそ物質界の暗くて狭い所に閉じ込められているのです。
死後の世界に進んで行った人達が一番嬉しいものは何でしょうか?
それは愛です。
家族や親しかった人達が自分に向けてくれる ” 愛 ” なのです。
第三者である宗教者が儀式をしてもそれはあくまでも儀式に過ぎません。
遺族や親友の愛に勝るものはないのです。
葬儀とはこの世の卒業式であり本当は祝福すべきものなのです。
苦しいこの世の修業から解放されたのですから。
稀に自分が死んだことがわからない人がいます。
そういう人にとって自分の葬儀を見ることは状況を正しく理解させるということで意味があるでしょう。
きちんと理解が出来ていれば葬儀すら必要がないのです。
葬儀は殆どがこの世の人達に向けたものです。
4 . 死後の前後に起きていること
家族の誰かが亡くなって葬儀やお通夜を体験したことがない人はまずいないと思います。
そういう時、死んでいく人達の身の上には実際どういうことが起きているのか、自分の霊的な体験と最近のスピリチュアリズム(人間の本質は霊であることを知り、世の真理を追究する学問、哲学)の考え方を基に検証してみたいと思います。
数年前に義父と叔父が他界しました。
私は2人からは今までに何度も貴重なメッセージを貰っています。
そしてそれは今も続いています。
ここでは彼らの事例を中心に挙げてみたいと思います。
亡くなる前日または前々日からあるいはもっと前からこの世を去るにあたって親族のところに挨拶にきます。
夢の中に現れてくることも多いかもしれません。
毎日祈りや瞑想をしている人であればその場に現れるかもしれません。
自分の死期を察してお別れの挨拶に来るのです。
そこでは彼らは「これから旅立つけど今までありがとう、これまでにしてくれたことに心から感謝しているよ」というような内容のメッセージを送ってくるようです。
一度私は叔母さんが亡くなる前に足元にしがみ付かれてびっくりしたことがありました。
最近ではほとんどの人が自宅ではなく病院で亡くなります。
私は叔父の遺体を病院から自宅に搬送車で運ぶのに同乗していましたが、その時はまさに叔父が一緒に同乗者として乗っているという感じがしました。
その時車内では兄弟同士で葬儀の打ち合わせをしていました。
当然話の内容は叔父に伝わっています。
しかし肉体から抜け出たばかりの霊体は意識がまだぼんやりしているので詳細なことまでは分からなかったでしょう。
自宅に連れて帰ってからお通夜までは全く何の反応もありませんでした。
これは義父の場合も同様です。
肉体から抜け出たあとは暫くの間眠りにつくようです。
私の今までに見た範囲ではお通夜の事は覚えていないケースが多いのではないかと思います。しかし例外も数多くあることでしょう。
病気で長い間苦しんできた人は休養の為に自然に眠りにつきます。
事故死の場合もそのショックを和らげるための眠りの時間があるでしょう。
この眠りの時間の長短は本人がいかに霊的に覚醒しているかによって決まります。
霊的真理をよく理解し悟っている人の場合は死後直ちに目覚めが来るようですし、自分が肉体から離れていく様子さえも分かるようです。
病院という所は実はとても霊的な所なのです。
人が亡くなる前には肉体と霊体を結んでいるシルバーコードが切れます。
それがスムーズに切れるように霊界の医者やその人の親や霊的繋がりのある人達(全てこの世の人ではない)がその場で手助けをします。
丁度子供がこの世に生れ出てくるのと逆の現象が起きているわけです(出産の時臍の緒を切るのと同じ)。
また手術などの時は必ず親やその他の人が来て見守っています。
私の時も娘の時も霊界の父が傍に来てくれてじっと見守ってくれていました。
医者がご臨終ですと宣言する時には実際には霊界からの医者や親たちもその場に同席しているということになるのです。
この世の人は悲しみ、あちらの世界の人からはよく帰ってきたねと祝福を受けるという正反対のことが起きていることになります。
最近はお産も病院でする人が殆どです。
寺院や葬儀場など宗教的行事の場ではなく実際は病院においてこの世とあの世の行き来が行われていることになります。
ですから病院はそういう意味で霊的な場所ということになりますが病院関係者も家族もあまりそういう自覚はないようです。
3. 人の死に偶然はない
人の寿命は決まっているということを述べました。
病気であろうと老衰であろうと事故死であろうと大体 人はその時が来ればこの世を去ります。
事故で死ぬのは偶然じゃないかと思うでしょう。
しかし本当はこの宇宙に偶然の出来事は存在しないのです。
偶然と見えることも実は必然なのです。
例えば事故に会う場合、自分の持っている因子がその事故が起きる現場へと引き寄せられることになるのです。
説明が難しいですが全宇宙は原因と結果の法則によって支配されています。
星の軌道や巡りくる四季、潮の干満など、少しの間違いもなく営まれています。
人の行動も自分で勝手にしているようで、実はこの法則の通りに動かされています。
それ以外の事は起きないのです。
この話は難しいかもしれないのでこの辺にして、次からは実際に死んだらどういうことが起きているのか、身近なところでお通夜から葬儀その後の事について考えてみることにします。
2. 人の寿命は決まっている
にわかに信じられないかもしれませんが人の寿命は決まっています。
誤差があっても数年位です。
とにかく死にたくないと考えたところでどうしょうもないのです。
これも初めて聞く人には理解し難い かもしれませんが、人はこの世に生まれ出てくる前に自分で寿命を決めてくるのです。
しかし母親の胎内に宿ったら最後その記憶は消し去られてしまうのでそれが思い出せないのです。
人はこの世で学ぶべきいくつかのテーマを決めてその人生にふさわしい両親のもとに生まれてきます。
そして目的を達成するためには何年くらい必要かということを指導霊のもとで決めてきます。
人は意味もなく生まれてくることはなく必ず何かの目的を持って生まれてきます。
目的は一人ひとり違います。
しかし、もし自分の寿命がわかってしまったら仕事や家事に打ち込めるでしょうか?それが分からない事に意味があるのです。
弘法大師は自分の死期を自覚して入定したと言われています。
しかし誰でも病気になって治る見込みがないことが分かれば、 ほぼ この世を去る時期というのは悟っています。
故に自分がこの世を去る時が来たら喜んで旅立っていけばいいのです。
この世は苦しい修業の場、そこから卒業して新しい環境に旅立つ事が死なのです。
本当は死ではなく新しい世界への誕生なのです。