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乳がんになってスピリチュアリズムに出会うVol.2

スピリチュアリズムに出会い
生き方が180度かわりました
シルバーバーチの霊訓を人生の指針としています

良い心がけ

2017-12-24 21:10:57 | 私は霊力の証を見た M・H・テスター著
良い心がけが無駄に終わることはありません。

地上においてもこちらの世界においても、絶対にありません。

そのことを常に念頭に置いておいてください。

真心から出た思念、行為、人のためという願いは、いつか、どこかで、だれかの役に立ちます。

そうした願いのあるところには必ず霊界から援助の手が差し向けられるからです。



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なぜこんな目に

2017-12-12 20:05:56 | 私は霊力の証を見た M・H・テスター著
「私はなぜこんな目に遭うのでしょう」


こんな目に遭うという言い方のウラには、その災難を何かのバチと受けとめている心理が働いている。

しかし事実はそうではなく、その原因はみずから呼び寄せている場合が多い。

信念のない人間には迷いとイライラがつきまとう。

それだけで潰瘍が生じることもある。

ではその潰瘍は迷いとイライラのバチかというと、それは観方一つだ。

バチが当ったのではなく、イライラの心が潰瘍を生じることを知らずに間違った心の姿勢を続けたその結果にすぎないと受けとめれば、単なる因果律の働きにすぎない。

人間の悩みの大半は、存外、人間みずからが引き寄せているものだ。

つまり悩みとして受けとめているにすぎない。

実際は悩みでもなんでもないことなのだ。

といって私は人間に悩みや苦しみはないと言っているのではない。

確かにある。

がそれは悩みではなくて神が与える試練なのだ。

つまりそれにどう対処するかであなたの真価が問われる重大な時なのだ。




神は人間を深みに連れて行くことがある

おぼれさせようとするのではない

魂の洗濯をさせるためだ



これは私がよく患者に引用して聞かせる言葉である。

挫けてはいけない。

勇気をもって事に当ることだ。

なぜこんな目に、という疑問をもつということは、あなたが真理を求めようとしはじめた一つの表われでもあるのだ。



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あなたがもしも今夜死ぬとしたら

2017-08-23 16:10:38 | 私は霊力の証を見た M・H・テスター著
かつて私は、ガンで死の宣告を受けた若者と一時間ばかり話をしたことがある。

自分の病状についてすでに全部を知らされ、あと二か月の命であるとも言われた。

私は彼に、残された道は二つしかないと説いた。

私の治療によって治るか治らないかである。

もし治らなかったら、二か月先の死という大冒険の準備に取りかからねばならない。

いずれにしてもあと二か月すればその病気とは縁が切れる、と私は述べた。

もしあなたがこの青年と同じように余命いくばくもないと知らされたらどうされるだろうか。

かりに今夜死ぬとわかったらどうされるだろうか。

物的準備は簡単である。

財産家なら遺言状を整理することだ。

財産という財産を残らず記録し、執行者が間違いを犯さないよう、出来るだけ多くの情報を用意しておくことだろう。

もし財産がなければ、そんなつまらぬ面倒の手間も省けるというものである。

が霊的な準備はそう簡単にはいかない。

死ぬということは大変な冒険だ。

この世からあの世への旅立ちをあなたはどう準備するか。

仮りに火星へ旅行することになったとしよう。

まず誰もがするであろうことは火星について出来るだけ多くの知識を集めることだ。

図書館へ行って本を借りてくるかも知れない。

ガイドブック、天体写真集、専門書などで火星の状態を勉強するだろう。

あるいは火星へ行ったことのある人を探し出して、火星とは一体どんなところかを聞きたいと思うだろう。

が、火星へ行ったら二度と地球へ戻ってこれないと知ったらどうだろう。

多分その勉強にいっそうの熱がこもるであろう。

さらに、火星に着いた時から火星人になってしまうと知ったら、火星人とはいかなる人種かについても知ろうとするだろう。

実は、人間の全てが、こうした火星旅行など近くの海岸への日帰り旅行にしか匹敵しないほどの大旅行に向かって日一日と近づきつつあるのだ。

霊界への旅立ちである。

われわれはその旅行への準備をしなければならない。

ではどう準備をしたらいいのか。

一体何が準備なのか。

実は「死」と呼ばれている旅立ちまでの「人生」こそが準備なのだ。

その人生についてのガイドがほかならぬ霊的真理(スピリチュアリズム)だ。

これについては多くの本が出ている。

霊界旅行から一時的に地上に戻って、霊媒を通じて、霊界とはどんなところか、死後どんなコースを辿るのか、どういう心がけで生きれば良いかについて語ってくれたことが本になってたくさん出ている。

但し一つだけ分らないことがある。

いつ死ぬかということである。

実際には寿命は決まっている。

霊的にはそれがわかっている。

が脳を通じての意識(顕在意識)にはそれが分らないようになっている。

百歳まで生きるかもしれないし、今日中に事故で死ぬかもしれない。

霊界への旅立ちはいつ始まるか、誰にもわからない。

結局われわれが為すべきことは、いつ死んでもいいように心の準備をしておくことだ。

毎日を今日が最後かも知れないという覚悟で生きることだ。

過去はもう過ぎ去ってしまった。

過去に起きたことは何一つとして変えられない。

愚かなこともし、バカなことも言い、過ちを犯し、しくじりもした。

が今さらどうしようもない。

出来ることは、そうした体験から教訓を学ぶことだ。

悔んだり残念がったりして、あたら時間を費し心を痛める愚だけはやめることだ。

教訓だけを学んであとは忘れてしまうことだ。

成功から学ぶことなら誰にでも出来る。

難しいのは失敗から学ぶことだ。

過去はいろいろと教えてくれる。

過去の体験によってあなたは道徳的にも霊的にも成長した。

同時にあなたの間違っている点も教えてくれた。

因果律の働きも教えてくれた。

だから過去には大いに感謝しなければならない。

過去がなかったら今のあなたも存在しないのだ。

良いことや楽しいことも為になったが、失敗や不幸も為になっている。

が、その過去の出来ごとは一切忘れて、教訓だけを忘れないようにすることだ。

未来はまだ来ない。

どんなものをもたらしてくれるかは誰にも分らない。

果たして自分に未来があるかどうかも分らない。

未来についてわれわれ人間はどうしようもないのだ。

大いなる未知、すばらしき冒険、それが未来だ。

そのどこかで死が待ち受けている。

人生のどこかの曲り角であなたを待ちうけている。

わかっているのは現在だけだ。

今日は正真正銘の今日だ。

その今日という時を精一杯生きることだ。

明日のことを思い煩ってはいけない。

「神を信じ、一日一日を大切に生きよ」―死に備える現在の生き方の心得はこれしかない。

過去の教訓のもとに現在に最善を尽くすのだ。

一日が終ったら、無事に終った一日を神に感謝する。

二度と同じ日は来ないであろう。

明日はまだ来ない。

もしかしたら、あなたには明日という日はないかも知れない。

今夜でおしまいかも知れない。

それは分らない。

はっきりしていることは、いつかは死ぬということだ。

だから一日一日をこれが最後と思って大事に生きることだ。

悔いなくこの世を後に出来るように。

人生を達観すると、あなたの心身を蝕んできた挫折も蓄財も欲望も嫉妬も後悔も、ことごとく無意味であることに気づく。

今日かぎりそうした低級な感情と決別し、平静と愛と同情心と理解と寛容と笑いの人生に置き替えることだ。

心霊治療家としての経験から私は、永遠の生命に目覚めることこそ人生の万能薬であることを知った。

すべての心身の病を癒すだけでなく、予防にもなる。

全人類がこの事実に目覚めた時、病院のベットはガラガラになり、医者は時間にゆとりが出来、西洋社会の経済問題も解決されるであろう。

所詮、地上は宇宙学校の幼稚園にすぎない、せいぜい気ラクに明るく、心にゆとりをもって生きることだ。

そう悟った今夜から、あなたの霊的成長の旅が始まる。


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感情のコントロール

2017-08-18 00:55:51 | 私は霊力の証を見た M・H・テスター著
私はよく本を読む。これまでも随分読んできた。

少年の頃は学校のカバンにたいてい一冊は冒険物語を忍ばせていたものだ。

最近は旅行することが多いが、近代的な乗り物は確かに快適かもしれないが面白味がない。

だから乗り物の中では読書が多くなる。

英国人というのは概してはにかみ屋が多い。

私もその一人で、その性格の延長で私は自分の読んでいるものを人からのぞき見されるのが大嫌いである。

そこで、対策として一計を案じた。

専用のカバーを二枚用意したのである。

一枚は「核代数の二元方式」と題してあり、もう一枚は「誰にでもわかる神経外科」と題してある。

何を読む際にも、どちらか大きさの合うほうを使うことにしたのである。

その反応を見るのもまた一興だった。

代数のカバーをしていると、それを見た人の反応はたいてい同じで、まず溜息をもらし、よくもこんな難しい本を・・・といった感心の表情をみせる。

神経外科の方だと、驚きと同時に不審そうな表情を見せる。

「面白いですか」と聞いてみる人すらいなかった。

はにかみ、遠慮、無口―こうした一連の性向は英国民の特質である。

英国人は何でも自分の中に仕舞い込んでおこうとする傾向がある。

つまり内向的なのだ。

これは健全な精神とは言いがたい。

と言って私は今日から外向的になれと言うつもりはない。

奥さんを撲りとばしたり、大酒を呑んで暴れまわるのが健全な発散方法だなどとは、さらさら思わない。

そんなものよりもっと健全な発散方法、自然が用意してくれた安全弁がある。

それを活用すれば英国人はもっと健康になれるのではないかと思う。

ではその安全弁とは何か。

その一つは、素直に涙を流すということである。

キッと歯を食いしばって強情を張るのがしっかりしているという考えはもう古い。

頑(かたく)なに意地を張っていると、その意地で自分を損ねてしまう。

風に柳がなびくように、自然な情の流れに身をまかせることも時には必要である。

英国人は泣かなすぎる。

もっと涙を流すべきである。

素直に泣いてみるとよい。

緊張がほぐれて身も心もすっきりするはずである。

次に、怒りの発散が時として心の衛生になることがある。

何かと腹を立てる、というのとは意味が違う。

それはキリスト教でいうところの七つの大罪の一つであって、他人へ向けての敵意に満ちた怒りのことである。

私のいう怒りは、誤った心の姿勢から積もり積もった欲求不満を思い切って爆発させるという意味の怒りである。

あなたもイライラが堪まらなくなったら、どこか人気(ひとけ)のないところへ行き、上着を脱ぎ、ネクタイをゆるめてから、大股で歩きながら十分間ほど大声で怒鳴ってみるとよい。

気持ちがすっきりし、同時に、自分をイライラさせていたことが実はいたって他愛ないことだったことが分かって、バカバカしささえ覚えるであろう。

それは、うっ積していた感情の発散によって心の姿勢が変わり、前とはまったく違った角度から物を見るようになったからである。

自分の悩みごとを心おきなく語れる相手をもつことも大切である。

カトリックの教会には〝告白室〟というのがある。

過去の罪を告白して神の許しを乞う部屋であるが、心理学的に言ってもこれは精神衛生上よい習慣である。

昨今は精神分析学の発達によってお株を奪われた恰好であるが、私に言わせれば、そういういかめしいものの世話にならなくても、心の中を曝け出せる人をもつことで十分目的は達せられる。

が、問題はどこまで自分に正直になれるかということである。

私のもとに来る患者の大半が私から聞かなくても症状をいろいろと訴えてくれる。

が、そのいちばん奥の本当の原因をつかむのにかなりの時間を要する。

たとえば偏頭痛を訴える人が実は性的不能者で、それが原因で奥さんに気兼ねし、それが偏頭痛を生んでいることが、三度目にやっと分かったというケースがある。

ところが四度目に更にその奥の別の要因を発見した。

また肥満に悩む女性が股関節の痛風を訴える。が問い質してみると何一つ心配することのない正常なわが子のことでアレコレと思い悩み、それが痛風を悪化させている。

そのイライラが衝動食いをさせて、それが肥満を助長させている。

このように、次々と訪れる私の患者でさえ表面的な痛みや悩みは訴えても、心の奥まではなかなか曝け出してくれない。

その心の奥をのぞいてみると、そこには内向した感情、挫折感、疑念、無知、等々が巣くっている。

それがみな内側を向いていてほんとの姿を見せようとしない。

ために実際とは無関係の想像上の過ち、悩み、取越苦労が渦巻くのである。

人間が遠慮なく自由に手に入れることの出来る援助には三つある。

霊的知識と、背後霊の指導と、他人からの好意である。

まず霊的知識であるが、人間は教育を受け理性が発達するにつれて、幼少時代に読んだ寓話やおとぎ話をばかばかしく思うようになる。

それは一応当然の成り行きといえる。

が残念なことに、そうした一見他愛なく思える話の中に埋もれた貴重な真理まで捨て去ってはいないだろうか。

世界のいずこの宗教も必ず黄金の真理というものが含まれているものである。

みな霊界という同じ源に発しているからである。



感情のコントロール

やっと出口が見えてきた。


山村幸夫さんの言葉より

自分の感情には、必ず肉体我がはいっておりますから、「これは、自分の自我我欲だけでの判断ではなかろうか?」と常に省みるのです。

そして、「自分さえ良ければいいというような判断ではなかろうか」
とも考えてみるのです。

あるいは、二者択一で困った時には、〝少しでも周りのひとのためになる道、あるいは、一人でも多くの人のためになる道〝を選んで下さい。

それが間違いのない選択の基準です。




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過ちを犯すとバチが当たるか

2017-08-05 20:15:00 | 私は霊力の証を見た M・H・テスター著
罰にもいろんな種類がある。

のけ者にされるのも罰である。

みんなアイスクリームをもらったのに自分だけもらえなかったら、それを罰と受けとめるであろう。

みんなガールフレンドがいるのに自分だけ相手にされないと、何かバチでも当たったのかと思う人もいる。

良心の呵責によって罰を受けることもある。

何か悪いことをしてずっと心にひっかかり、それが身体の病気にまで発展することがある。

それはすでに説いた因果律の一つのパータンである。

たった一回の過ちで全人生を歪めてしまうことがある。

何もかも狂ってしまう。

悩みの絶えることがなく、常に気が気でない状態になり、生活が不自然になっていく。

晩年になってわが人生がみじめで迷いの連続であったことを知る。

生涯を振り返って、何のために生きて来たのかわからないということになる。

これも又、罰である。

反対に良いことをすると気分が晴れやかになる。

その気分が周りの人にも好感を与え、何をやってもうまく行くようになる。

晩年に振り返って充実した幸せな人生であったと満足する。

善い行いとは何か、悪い行いとは何かについてはすでに述べた。

精神科医はいろいろと理屈を言い患者の弁護をするが、善悪は厳然として存在し、霊的に成長するほど道義的感覚が鋭くなってくるものである。

人間は誰しも過ちを犯す。

が置かれた条件下において、どうするのが善であるかを判断することは絶対に可能である。

たとえば生体解剖と、毎年英国だけで五百万回も行われている動物実験(うち八十パーセントは麻薬なしで)は誰が何と言おうと悪である。

「その実験のおかげで英国人の健康が増進される」などという弁解は私には通じない。

私自身がその結果を毎日この目で、この手で確かめている。

英国は今や病人の国である。

真に健康な人が実に少ない。

大体道義的に許すべからざることをやっていて、それが医学的に正当化されるわけがない。

どう弁解しても正当化する答えにはならない。

人をごまかし、ウソをつき、公私で二枚舌を使いわけるのも悪である。

そのほうが儲かるからといっても、それで不道徳が是認されるはずがない。

商売においても、仕事においても、私生活においても、道徳の基準は一つでなければならない。

人道的に不正なものが商道徳上で正しいはずがないのである。

私は今どの行いが善でどの行いが悪だという厳密な法典を作るつもりはない。

第一、すべてに適用できる定まった掟というものは有り得ないはずだ。

所詮あなたにとって正しいか否かは、あなたの霊的発達程度によって定まるからである。

人喰い人種はやっつけた相手を食べるが、これは彼ら人喰い人種にとっては悪とは言えないかもしれない。

それが彼らにとっての習慣なのであり、相手の肉を食べることによって相手のもつ力と徳を自分のものにできると信じているのである。

それが良いことであるか悪いことであるかは考えないのである。

が、あなたがそんなことをしたら、それは悪である。

なぜなら、あなたはそれがいけないことであることを道義的に知っているからである。

同じ意味で、動物を殺して食べることはいけないことだと思わない人はいくら肉を食べても悪くはないが、もしもあなたが人間が動物を保護する立場にあること、人間の得手勝手で無理やり飼育し、し、食卓にのぼせるべきではないと実感をもって信じているならば、あなたにとって肉食は悪であることになる。

このように、万人に共通した善行とか悪行と言うものはない。

では何を基準にして善悪を判断したらいいかということになるが、私は〝あなたの動機に照らして判断せよ〟と言いたい。

そして、もちろん、その判断に際して自分に正直でなくてはいけない。

動機さえ善であれば、あなたの行為は間違いなく善である。

もしも動機が自己中心で物欲的で権力欲に発しているとしたら、その行為は、それが何であろうと悪である。

その分だけあなたの人生は無益で、無意味なものになる。

たとえ一時的には利益を得ても、それはいずれあなたの人生を破綻へと導く。

因果律が自動的に罰をもたらすのである。

そこであなたは尋ねるかもしれない。死んであの世へ行ったら私は地獄へ送られて苦しめられるだろうか。

最後の審判の日に地上で犯した罪状を読み上げられ、良い行いの分を差し引かれて刑を言い渡されるのだろうかと。

そんなことは絶対にない。

が次のようなことは必ず体験させられる。

まず、あなたを霊界から援助してくれた背後霊とともに、あなたの送った地上生活を振り返る。

正しかったことも間違っていたことも、細大もらさずビデオを見るように再現され、この判断は正しかったが、あれはいけなかった。

ここでこんなことをしたからああなった。

といった調子で背後霊から説明をうける。

それが終ると、背後霊と相談の上で、もう一段高い世界へ挑戦するか、それとももう一度地上へ戻るかを判断する。もし地上へ戻ると決まったら、しばらく休息をとり精神統一をしながら調整する。

やがて霊的な準備が整う。

指導霊の協力を得て新しい地上生活のパターンを選ぶ。

それまでに何世紀も経っていることもある。

いよいよ機が熟すると、前と同じように深い睡眠状態に入り、それまでの一切の記憶を捨てて地上の一女性の胎内へと入っていく。

宇宙学校の第二学期が始まったのである。



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