憲法九条やまとの会

今、日本国憲法九条改憲を止める
 ・・・平和を望み、維持したい・・・

10月25日「自由と民主主義を求め続けます」

2015年10月30日 | 企画

10/25シンポジウム「岐路に立つ日本の立憲主義・民主主義・平和主義
―大学人の使命と責任を問い直す」
http://anti-security-related-bill.jp/images/poster1025.pdf

この集まりが、立教大学が場所貸しを撤回し、法政大学で行われたものなんですね。
立教大学は汚点を残したと思われます。

下記ブログが詳しいです。他の人の話も、動画で紹介されています。ぜひご参考に。
http://blog.livedoor.jp/wakaben6888/archives/45819697.html
下記は、最初の基調報告者の最後の方の話です。

☆☆ <基調報告>大澤茉実さん(SEALDs KANSAI)のスピーチ全文 ☆
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SEALDsKANSAIからきました、立命館大学2回生の、大澤茉実といいます。

これだけの学者の先生のあとで、なにをお話しようかとずっと悩んでたんですが、学者の先生には学者の先生にしかできない話があるように、めだたない私ですが、私にしかお話しできないこともあると思いますので、今日はそういう話をしたいと思います。(拍手)SEALDsKANSAI は、 SEALDs とおんなじ日に活動をスタートして、 勉強会と並行しながら地元関西で6 月から毎月デモを行い、 7 月からは毎週金曜日に街宣も行ってきました。

おんなじ街に住んでても、自分とは違う国籍や経済状況にある人のスピーチは、私に、自分とは違う誰かと生きていくことへの想像力をくれました。もうすでにこの街で一緒に生きていたんや、って気づかせてくれました。それは、誰かに死ねというよりも、自分が明日どう生きていくか語る方がよっぽど未来を変える力を持っていることを教えてくれました。

自民党の改憲草案では、福祉という言葉が利益や秩序という言葉にすり替わりました。でも、私はもう十分に、その福祉という言葉に、多くの人々の生活や自分自身の権利を想像できるようになったんです。草案では、国家権力を縛るための憲法が、私たちを縛ろうとしていますが、中身のない言葉では、もう私たちを動かすことは出来ません。(拍手)

それは、この夏、「心」を持つ私たちが、決して無力なんかじゃないことを知ったからです。この社会には、自己責任という見て見ぬフリ、自分だけを責めることが美化される姿勢、他人を傷つけることで解消する鬱憤や、弱い者に皺寄せの行く「仕方のなさ」が溢れています。常に何かに追い立てられるように、数字で、金で、ノルマで、自分を語ることが求められています。飛び交う言葉には中身がなくなり、それは誰かを傷つけ、言葉で傷ついた人は言葉で傷つけることで自分を守ろうとします。その感覚が、私には痛いほどわかります。

私も、小さい時から「良い子」を求められてきたからです。先生に気に入られる、空気を読む、長いものに巻かれ、議論を避け、ルールは疑わない。学校に通い続けることが正義、偏差値が高ければ勝ち組。それこそが幸福! 私はいつのまにか、自分の感覚や感情を頼りに行動することが怖くなっていました。私は、言葉を自分の中に押し込めて、黙ることを覚えました。そうやって、ひたすら教室に、この社会に順応することが普通やと思ってました。

でも、この夏、普通だったことは、どんどん普通じゃなくなりました。昨日までファッションの話しかしなかった学生が、政治を語り始めた。本とパソコンの前から動かなかった学者が、雨に打たれながら路上に立った。(笑い、拍手) 多くの芸能人がタブーを破り政治的な意見を表明した。あるサラリーマンは金曜の会社帰りは街宣に立ち寄るようになったし、スピーチを聞いた彼女は通りすぎようとした恋人を引き止めた。友達は初めて来たデモで、黙ってプラカードを掲げたし、臆病なわたしが、国会前でマイクを握った。

「当たり前」に順応するのではなく、何を「当たり前」にしたいのか 常に思考し行動し続けること、どうやらそれだけが、未来を連れてきてくれるようです。空気を読んでいては、いつまでも空気は変わらないんです。そのことを、デモをするたび、街宣をするたび、一緒に声をあげる名前も知らない人たちが、その勇気でもって教えてくれました。武器を持ち、人を殺すことが「普通の国」だというのなら、わたしはその「普通」を変えたいんです。

 私には、私を支えてくれる大切な女の子たちがいます。そのうちの一人が、この間、私が嘘ついて冗談で教えた誕生日に、ない金はたいてホールケーキ買って全力でお祝いしてくれて。私が、私なんかが 生まれてきたことを喜んでくれたんです。嘘の誕生日やったけど、生まれてきてよかったって、生まれてはじめてあんなに思いました。私はその子が、本当は行きたかった専門学校を諦めたこと、家庭環境を馬鹿にされたこと、家が安心出来る場所じゃないこと、しんどい時にしんどいと言われへんこと、その全部を「当たり前」のままになんかしたくない。

だから私は、もう絶望という当たり前に慣れてしまうことをやめました。明日からも、その子と生きていきたいからです。私は、手触りと沈黙を大切にし、私の言葉で私を語り続けます。それが、私にとって唯一のアイデンティティであり、私にとっての"自由"であり、私の反戦の誓いであり、ファシズムとすべての差別に対する私に出来る最大の抵抗だからです。(拍手)そして誰にもそれを打ち砕くことは出来ない!なぜなら、私の想像力も、私の言葉ひとつひとつの背景にある笑いや涙の経験も、誰にも侵すことは出来ないからです。

私はほんの数年前まで新聞の中にだけあった"沖縄"を、"東北"を、こんなにも近くに感じたことはなかった。彼らの息遣いが、怒りの声が、今の私には聞こえます。そして、原爆ドームの前に立ち尽くすあの人を、 杖をついて国会前に足を運び続けるあの人を、 弱音を吐けないまま死んでしまった大好きなあの子を、これほど近くに感じた夏はなかった。こんなにも人の温もりを感じた夏はなかった。こんなにも自分が生きていることを噛み締めた夏はなかった。

 私は、戦後70年を迎えるこの国に、世界中で銃声に怯える子どもたちに明るい未来を見せる努力を求めます。
 貧困大国であると同時に自殺大国でもあるこの国に、安心して命を育める環境を求めます。政治家の一人ひとりに、この国とこの世界に生きる人々の、暮らしや、夢や、命に対する想像力を求めます。

私の言葉を理想論だとか綺麗事やと笑う人がいるかもしれません。も、希望も語れなくなったら本当の終わりです。だから、私は明日からも路上に立ちながら大いに理想を語ります、夢を語ります。それは、そうやって社会を作っていくのが、これからを生きるすべての人に対する私の使命やと思ってるからです。いま、言葉を失い、打ちひしがれ、自分には力がないと思いこまされている全ての人に、過去の私に、その姿を見せなあかんと思っているからです。
生きる希望を見せなあかんと思っているからです。

私はもうぜんぶ失ってしまった。国への信頼も、豊かさへの信頼も、自分らしく生きる場所も、搾り取られるように失ってしまった。そして一方で誰かからそれらを奪い取っている。この国のどこかで、第三世界の大地で。私の手の中には、ただ、未来だけが残されてます。

私はもう、何も奪いたくないし、何も奪わせない。その理想を掲げ続けます。
私の望む未来から、安倍政権の退陣を求めます!(拍手)
本を読み、過去に学び、路上に立ち続けましょう。
希望を語り、小さなことをやり続けましょう。
それが、目の前の「当たり前」の絶望を変えていくことを、歴史が証明しています。

2015 年 10 月 25 日 大澤茉実、私は安全保障関連法に反対し、私と、私の大切な人が生きる社会に、自由と民主主義を求め続けます。 (長い拍手)


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