むすぶ つなぐ

「悪の枢軸」とされる国から思いつくまま……。

空気と無関心

2010年05月02日 12時22分38秒 | Weblog
先日、映画の撮影現場をのぞき、その後、イランの一線で活躍する若手ミュージシャンに会う機会があった。

さまざまな制限がある国で、映画や音楽にかかわる人の表情は柔らかで、力強かった。
制限された中で、何かを生み出そうとするエネルギー。
「本物」たちは、文句なく素敵だ。
ギリギリで頑張っている一部のイラン人記者たちも輝いていた。



ふと考える。
果たして、自分がもし環境が厳しいイランで生まれたら、同じ仕事についているだろうか。
やはり、びびって逃げだしているだろうか……(笑)


  ×   ×


「イランの今」を正確に伝えるのは難しい。
食糧や物資は豊富だし、日常の治安はいいし、人も穏やかだ。
日本食にこだわるような人以外は、暮らすのは難しくない。

間違ったネガティブな印象を消し、普段のイランの魅力を少しでも伝えたいと思う。
そんな中、たまにこのブログで消極的な言葉を書くと、すぐに「ぼやき」「愚痴」ととられることもある。

「あれ?イランは暮らしやすい国って書いていたのでは?もっと気楽にしたら」
そんな気持ちが伝わる。



気遣ってくれているのもわかるけれど、泣きごとを言いたいわけではない。
伝えたいのは、独特の「息苦しさ」だ。
それが今のイランの大事なキーワードだからだ。



先日の映画人、音楽人とも笑顔を見せながらも、その息苦しさを語っていた。
枠にはめられる苦しさ。
この国に来て自分もあらためて実感する。


  ×    ×


自由が限りなく保障された日本にいると感じることはない。

「好きなことが書ける」
「好きな映画がいつでも見られる」
「コンサートに行ける」
「アルコールが飲める」


日本では日々忙しいし、だれもが金がわるわけではないし、常に好きなことができるわけではない。
ただ、大事なのは「何かができる」という選択肢、可能性(たとえ少なくても)がすべての人に与えられていること、だと思う。



飢えや紛争が起きる海外の映像を見ると、だれもがかわいそうだと思う。
裏返せば、それ以外の目に見えにくいものには、あまりに無関心じゃないだろうか。
自分もそうだった。
イランに来るまで、さまざまな自由は「空気」のようなものだった。



日本で死刑存続支持が高いことも、そんな現れだと思う。
権力が暴走したり、冤罪が頻繁に起きたりする状況は、全く考えなくていいという当たり前の今があるからこそ、そんな世論調査の結果につながる。



日々与えられ、空気のようになる。
そして、人は無関心になる。