日本会議熊本ブログ

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勇気と希望の沸いてくる海外からの言葉

2012-06-22 11:43:44 | その他
 我々が(オランダから)独立を勝ち得たのは、日本があれだけ戦ったのに、同じ有色人種の我々に同じことが出来ない訳はないと発憤したからである。
[スカルノ大統領]

 裁判官パール氏の主張が絶対に正しいことを、私は全然疑わない。
[ハンキー卿(英国枢密院顧問官)]

 日本人のように、幸せに生きていくための秘訣を十分に心得ている人々は、他の文明国にはいない。人生の喜びは、周囲の人たちの幸福にかかっており、そうであるからこそ、無私と忍耐を、われわれのうちに培う必要があるということを、日本人ほど広く一般に理解している国民は、他にあるまい。
[ラフカディオ・ハーン]

世界の国歌のうち最も荘厳なもの。(『君が代』について)
[ヘルベルト・フォン・カラヤン]

 日本の生活にも、短所もあれば、愚劣さもある。悪もあれば、残酷さもある。だが、よく見ていけばいくほど、その並外れた善良さ、奇跡的と思えるほどの辛抱強さ、いつも変わることのない慇懃さ、素朴な心、相手をすぐに思いやる察しのよさに、目を見張るばかりだ。
[ラフカディオ・ハーン]


 大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗けたのはむしろイギリスをはじめとする植民地を持った欧米諸国であった。彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。
 戦争に勝った敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決まる、というのはクラウゼヴィッツの戦争論である。日本は戦闘に敗れて戦争目的を達成した。日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ、”聖なる戦争”であった。
 ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが、こんなものはすぐに回復できたではないか。二百数十万人の戦死者は確かに帰ってこないが、しかし彼らは英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて、国民尊崇対象となるのである。
[朴鉄柱(韓国、韓日文化研究所)]

 日本の天皇の宣戦書には、東洋平和を維持し大韓独立を強固にすると書かれていた。そのような大義は青天白日の光線より勝っていたのであり、韓・清の人々の智恩を論ずることなく、みな心を同じくして、賛同し服従したのである。
 もう一つは、日露の開戦は黄白両人種の競争というべきものであって、前日までの日本に対する仇敵の心情がたちまち消え、かえって、一大愛党となるにいたったのであり、これまた人情の順序であり、理に合うものであった。
 快なるかな、壮なるかな。数百年来、悪を行い続けてきた白人種の先鋒が、鼓を一打したたけで大破してしまったのである。日露戦争の勝利は一千古に稀な事業として万国で記念すべき功績であった。だからこのとき韓・清両国の有志は、はからずも同じように、自分たちが勝ったように喜んだ。
[安重根(伊藤博文を暗殺した韓国の“英雄”)]

 私は貧農の生まれで、学校に通うなど思いもよらなかったが日本人の役人が両親を説得して小学校に行く事が出来た。そしたら学校の教師がお前は頭が良いから無料の師範学校に行った方が良いと推薦してくれた。師範学校では更に優秀さを認めてくれて陸軍士官学校に推薦してくれた。その結果士官学校首席として日本人同期生のトップで卒業し、陸軍将校に成る事が出来た。今の私が有るのは清廉で誠実な日本人達のおかげである。
[朴正熙(韓国元大統領)]

 日本人はいずれも色白く、きわめて礼儀正しい。一般庶民や労働者でもその社会では驚嘆すべき礼節をもって上品に育てられ、あたかも宮廷の使用人のように見受けられる。この点においては、東洋の他の諸民族のみならず、我等ヨーロッパ人よりも優れている。
[ヴァリニャーノ]

 アジアの希望は植民地体制の粉砕でした。大東亜戦争は私たちアジア人の戦争を日本が代表して敢行したものです。
[ナチール(インドネシア元首相)]

 日本人は自分の子弟を立派に薫育する能力を持つてゐる。ごく幼い頃から讀み書き、法制、國史、地理などを教へ、大きくなると武術を教へる。しかし一等大切な點は、日本人が幼年時代から子弟に忍耐、質素、禮儀を極めて巧みに教へこむことである。われわれは實地にこの賞讃すべき日本人の資質を何度もためす機會を得た。
[ゴロヴニン]

 日本軍がもたらした『大和魂』のような考え方をもつことは、独立のためにどうしても必要でした。日本軍政下の訓練の結果、日本が降伏した後、英国人が戻ってきて植民地時代よりも悪質な独裁的制度をマレーシアに課そうとしたとき、人々は立ち上がったのです。
[ノンチック(元マレーシア上院議員)]

 この村落は、美術の中心地から遠く離れているというのに、この宿の中には、日本人の造型に対するすぐれた美的感覚を表してないものは、何ひとつとしてない。花の金蒔絵が施された時代ものの目を見張るような菓子器。飛び跳ねるエビが、一匹小さく金であしらわれた透かしの陶器の盃。巻き上がった蓮の葉の形をした、青銅製の茶托。さらに、竜と雲の模様が施された鉄瓶や、取っ手に仏陀の獅子の頭がついた真鍮の火鉢までもが、私の目を楽しませてくれ、空想をも刺激してくれるのである。実際に、今日の日本のどこかで、まったく面白味のない陶器や金属製品など、どこにでもあるような醜いものを目にしたなら、その嫌悪感を催させるものは、まず外国の影響を受けて作られたと思って間違いない。
[ラフカディオ・ハーン]


 この国に来られた日本のある学校の先生は、「日本軍はマレー人を虐殺したに違いない。その事実を調べに来たのだ」と言っていました。私は驚きました。「日本軍はマレー人を一人も殺していません。」と私は答えてやりました。日本軍が殺したのは、戦闘で闘った英軍や、その英軍に協力したチャイナ系の抗日ゲリラだけでした。
[ノンチック(元マレーシア上院議員)]


かつて日本人は清らかで美しかった 
かつて日本人は親切でこころ豊かだった
アジアの国の誰にでも自分のことのように一生懸命つくしてくれた

何千万人もの人のなかには少しは変な人もいたしおこりんぼや わがままな人もいた自分の考えを おしつけていばってばかりいる人だっていなかったわけじゃない
でもその頃の日本人はそんな少しのいやなことや不愉快さを越えておおらかでまじめで希望に満ちて明るかった

 戦後の日本人は自分たち 日本人のことを悪者だと思い込まされた学校も ジャーナリズムもそうだとしか教えなかったからまじめに自分たちの父祖や先輩は悪いことばかりした 残酷無情なひどい人たちだったと 思っているようだ
だから アジアの国に行ったらひたすら ペコペコあやまって私たちはそんなことはいたしませんと言えばよいと思っているそのくせ 経済力がついてきて技術が向上してくると自分の国や自分までがえらいと思うようになってきてうわべや口先では済まなかった悪かったと言いながらひとりよがりの自分本位のえらそうな態度をする

そんな今の日本人が心配だ

 本当にどうなっちまったんだろう

日本人は そんなはずじゃなかったのに
本当の日本人を知っているわたしたちは今は いつも 歯がゆくてくやしい思いがする

自分のことや自分の会社の利益ばかり考えてこせこせと身勝手な行動ばかりしているヒョロヒョロの日本人はこれが本当の日本人なのだろうか自分たちだけで集まっては自分たちだけの楽しみやぜいたくにふけりながら自分がお世話になって住んでいる自分の会社が仕事をしているその国と 国民のことをさげすんだ眼で見たりバカにしたりする 

こんなひとたちと本当に仲良くしてゆけるだろうかどうして どうして日本人は こんなになってしまったんだ
[ラジャー・ダト・ノンチック]


 日本はどんな悪いこ事をしたと言うのか。大東亜戦争でマレー半島を南下した時の日本軍は凄かった。わずか3ヶ月でシンガポールを陥落させ、我々にはとてもかなわないと思っていたイギリスを屈服させたのだ。私はまだ若かったが、あの時は神の軍隊がやってきたと思っていた。日本は敗れたが英軍は再び取り返すことができずマレーシアは独立したのだ。
[シャフィー(元マレーシア外務大臣)]


 特にインドネシアが感謝することは戦争が終わってから日本軍人約1000人が帰国せず、インドネシア国軍と共にオランダと戦い、独立に貢献してくれたことである。日本の戦死者は国軍墓地に祀り、功績を讃えて殊勲章を贈っているが、それだけですむものではない。
[サンパス(インドネシア元復員軍人省長官)]

 世界に最も「良い影響」を与えている国は日本。米メリーランド大が世界の約4万人を対象に実施した英BBC放送との共同世論調査で、こんな結果が出た。 同大が3日発表した。
 調査は昨年10-12月に米州、欧州、中東、アフリカ、アジア各地域の33カ国で行われた。質問の対象となったのは日本、米国、中国、ロシア、フランス、英国、インド、イランの8カ国と欧州。調査結果によると、日本が世界に「好影響」を与えているとの回答は、33カ国中31カ国で「悪影響」を上回り、平均すると好影響が55%、悪影響が18%だった。[(共同通信2006/02/04)]

 東京裁判はいくつかの重大な誤判を含むのみならず、全体として、復讐の感情に駆られた、公正ならざる裁判だった。
[キーナン(極東国際軍事裁判首席検事)]


 この裁判は歴史上最悪の偽善であった。このような裁判が行われたので息子には軍人になることを禁ずる。
[ウィロビー(GHQ参謀第二部長)]


 ほんの昨日のことであったが、革帯が一つ紛失していた。もう暗くなっていたが、その馬子はそれを探しに一里も戻った。彼にその骨折賃として何銭かあげようとしたが、彼は、旅の終りまで無事届けるのが当然の責任だ、と言って、どうしてもお金を受けとらなかった。
[イザベラ・バード]

 日本は西洋諸国の植民地を解放した罪によって罰せられたが、その四半世紀もたたないうちに、1960年(昭和35年)に国連が植民地を保有することを不法行為であると宣言し、その後、国連総会が植民地の保有を犯罪として規定すらした。
[レーリンク(極東国際軍事裁判蘭代表判事)]

 我々は戦争法規を擁護する為に裁判をしているはずだったのに、連合国が戦争規を徹底的に踏みにじった事を、毎日見せつけられていたのだから、それは酷いものだった。もちろん、勝者と敗者を一緒に裁く事は不可能だった。東條が東京裁判は勝者による復讐劇だと言ったのはまさに正しかった。
[レーリンク(極東国際軍事裁判蘭代表判事)]

 このたびの日本の敗戦は真に痛ましく、心から同情申し上げる。しかし、一旦の勝負の如きは必ずしも失望落胆するに当たらない。殊に優秀な貴国国民においておやである。私は日本が十年以内にアジアの大国として再び復興繁栄する事を確信する。インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のお陰で三十年早まった。これはインドだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。インド四億の国民は深くこれを銘記している。インド国民は日本の国民の復興にあらゆる協力を惜しまないであろう。他の東亜諸民族も同様である。
[グラバイ・デサイ(インド弁護士会会長)]


 日本人はわがポーランドとは全く縁故の遠い異人種である。日本はわがポーランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国である。しかも、わが不運なるポーランドの児童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表わしてくれた以上、われわれポーランド人は肝に銘じてその恩を忘れることはない。

 われわれの児童たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本人の子供が、孤児たちの服装の惨めなのを見て、自分の着ていた最もきれいな衣服を脱いで与えようとしたり、髪に結ったリボン、櫛、飾り帯、さては指輪までもとってポーランドの子供たちに与えようとした。

 こんなことは一度や二度ではない。しばしばあった。ポーランド国民もまた高尚な国民であるが故に、われわれは何時までも恩を忘れない国民であることを日本人に告げたい。

 日本人がポーランドの児童のために尽くしてくれたことは、ポーランドはもとより米国でも広く知られている。ここに、ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、最も深い感銘、最も深い感恩、最も温かき友情、愛情を持っていることを伝えしたい。
[ヤクブケヴィッチ(ポーランド極東委員会副会長)]


 日本の戦争責任を問うならば、それより以前、非人間的な支配と収奪をつづけた欧米の宗主国の責任はどうなるのか。日本が来たことで植民地支配から解放され近代化がもたらされた。
[マハティール(マレーシア首相)]

 有色人種が先天的に劣っているという誤解を日本が打破してくれた。日本が有色人種を白色人種の奴隷から救ってくれるので、有色人種は日本を指導者として従い我々の夢を実現しなければならない。
[ウィリアム・デ・ボイス(アフリカ解放の父)]

 日本人の間には、罵倒、呪詛、悪口、非難、侮辱の言葉がなく、また戦争、借用者、海賊の名目をもってなされる場合を除けば、盗みは行なわれず、窃盗行為はひどく憎悪され、厳罰に処せられる。[ヴァリニャーノ]


 日本人は造園芸術にかけては世界一ともいうべく、彼等はあらゆる事象の美しさをたのしむらしく見えた。
[モース]

 私は、日本人ほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。子どもを抱いたり、背負ったり、歩くときには手をとり、子どもの遊戯をじっと見ていたり、参加したり、いつも新しい玩具をくれてやり、遠足や祭りに連れて行き、子どもがいないといつもつまらなそうである。
[イザベラ・バード]

 欧米諸国は日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって、自分らのアジア侵略の正当性を誇示する目的であったにちがいない。
 日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、退廃に流れていくのを、私は平然と見過ごす訳にはゆかない。誤られた彼らの宣伝を払拭せよ。誤られた歴史は書き換えられなければならない。
[ラダ・ビノード・パル(極東国際軍事裁判判事)]

 日本は国際法に照らし、全被告は無罪である。
[ラダ・ビノード・パル(極東国際軍事裁判判事)]

 人々が正直である国にいることは実に気持がよい。私は決して札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。錠をかけぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは一日に数十回出入りしても、触ってならぬ物には決して手を触れぬ。
[モース]

 第一に、私たちが交際することによって知りえた限りでは、日本人は今までに発見された国民のなかで最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。
 彼らは親しみやすく、一般に善良で、悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます。大部分の人びとは貧しいのですが、武士も、そうでない人びとも、貧しいことを不名誉とは思っていません。
[フランシスコ・ザビエル]

 日本国民は有能で、秀でた理解力を有し、子供達は我等の学問や規律をすべてよく学びとり、ヨーロッパの子供達よりも、はるかに容易に、かつ短期間に我等の言葉で読み書きすることを覚える。また下層の人々の間にも、我等ヨーロッパ人の間に見受けられる粗暴や無能力ということがなく、一般にみな優れた理解力を有し、上品に育てられ、仕事に熟達している。
[ヴァリニャーノ]



 ノギとかトーゴーとかいう名前の者は、この辺はたくさんいましてね。ノギ集まれ、トーゴー集まれっていったらこの教会からはみだしますよ。「ノギ」というのは乃木大将のノギですよ。「トーゴー」はもちろん東郷平八郎に因んでのことです。
[ポーランドのある教会の神父]

 この勝利(日露戦争)がアジア人の意識の底流に与えた影響は決して消えることはなかった。それはすべての虐げられた民衆に新しい夢を与える歴史的な夜明けだったのである。ビルマ人は英国の統治下に入って初めてアジアの一国民の偉大さについて聞いたのである。それはわれわれに新しい誇りを与えてくれた。歴史的にみれば、日本の勝利は、アジアの目覚めの発端、またはその発端の出発点とも呼べるものであった。
[バ・モー(ビルマ首相)]

 私達は国旗の選択に相当苦労した。
応募者は悉く各島の人々であり、それぞれの旗にパラオの歴史と伝統がこめられていた。だから、選考委員は真剣であった。

 選考に日数をかけた。でも、最終的にこの旗に決まったのは、日本の旗に一番似ていたので、最大の人気が集まった。日の丸の部分を黄色にしたのは、月を現わす。周囲の青地は海を意味する。月は太陽が出ないと輝くことができない。つまり月は太陽によって支えられ、月としての生命を持つ。太陽とは日本のことである。海に囲まれたパラオという国は、日本の太陽の反射によって輝かねば生きられないのである。

 我々はまた戦争中に、日の丸を掲げて強大な米軍と交戦した日本軍将兵の勇敢さと純粋さに、大きな魅力と尊敬を捧げている。一万に及ぶ英霊たちは私達に、勇気と国を想う心があれば、アメリカよりも強くなれることを教えて死んだのである。
[パラオ国旗の解説文]

 アジアの一国である日本の(日露戦争の)勝利は、アジアの総ての国々に大きな影響を与えた。ヨーロッパの一大強国が破れたとすれば、アジアは昔たびたびそうであったように、今でもヨーロッパを打ち破ることができるはずだ。ナショナリズムは急速に東方諸国に広がり『アジア人のアジア』の叫びが起きた。日本の勝利は、アジアにとって偉大な救いであった。
[ネール(インド首相)]


 これら日本の英雄達(大東亜戦争の戦士)は、この世界に純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた。彼らは1000年の遠い過去から今日に、人間の偉大さというすでに忘れ去られてしまったことの使命を、とり出して見せつけてくれたのである
。[ベルナール・ミロー(フランス人ジャーナリスト)]

 私は海外に出て初めて「実物の日本人」と会い、かれらが予想外に洗練された人たちであり、韓国人と比べて立派な点が多くあることを知りました。
[金完燮]

 日本のみなさん、自信を持って下さい。まだまだ日本には底力があります。皆さんが立ち上がって、大国としての政治をやれば日本は強い国になります。欧米の金融メジャーからアジア経済を守り、共産主義国家の武力侵攻に対抗できる国は日本しかありません。地球環境保護の問題で世界をリードできる技術も日本は持っています。
 私は、日本がもっと強い国になり、政治経済の上で本当にアジアの盟主となってくれることを願っています。日本と台湾が手を取り合って頑張れば、きっとアジアはもっとすばらしい発展を遂げることができると思います。・・・皆さん、すばらしい日本と台湾、そして新しいアジアの建設のために共に努力してゆこうではありませんか。
[許国雄]

 アメリカの青年たちよ。東洋には、すばらしい国がある。それは日本だ。日本には君達が想像もつかない立派な青年がいる。ああいう青年がいたら、やがて日本は世界の盟主になるに違いない。奮起しろ!
[スプルアンス(硫黄島の激闘時の米軍司令官)]

 日本は貧しい、しかし高貴だ。世界でただ一つ、どうしても生き残って欲しい民族をあげるとしたら、それは日本だ。
[ポール・クローデル]

 日本民族の勇気、万邦安泰の礎たらんとする熱誠、自然や神々との緊密な結びつき、歴史の連続性、文化の奥深い独創性などからして、日本こそ、明日の文明の座標軸の一つとなってしかるべきではないでしょうか。
[オリヴィエ・ジェルマントマ]

 昭和23年の国会で教育勅語がとりやめになったのは残念です。教育勅語で日本の教育が成功したんです。・・・もういっぺん日本は教育勅語をやり直すべきです。
[許国雄]


・・・どうぞ心に留めていただきたい。“日本”は、あなた方現代の日本人だけのものではない、我々“元日本人”のものでもあることを。私は、台湾にやってくる日本人に説く。「自分の国を愛しなさい」と。自分の国をも愛せない人が、どうして他人や他の国の人々を愛せるだろうか。自らの祖先を敬い、親兄弟を愛し、そして、そうした人々が幸せに暮らす祖国を愛してこそ、世界の人々を愛せるのだ。・・・どうぞ台湾に日本の正しい歴史を学び、自身と誇りを取り戻していただきたい。そして誇りある日本がアジア地域の安定と平和を担う真のリーダーたらんことを願う。日本人よ胸を張りなさい![蔡焜燦]

 敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花これは、私が敬愛する新渡戸稲造先生の名著『武士道』の中で改めて紹介されている本居宣長の和歌ですが、この「大和心」こそ、日本人が最も誇りに思うべき普遍的真理であり、人類社会がいま直面している危機状況を乗り切っていくために、絶対に必要不可欠な精神的指針なのではないでしょうか。[李登輝]

 しかし、結局のところ、最後に勝ったのは日本だった。日本のとった道、すなわち、自らの主権のもとに、近代化、西洋化をはかるという道が、結局、西洋を打ち負かした。日本は西洋を取り込むことによって、西洋の支配を免れた。軍事的には、日本は第二次世界大戦(大東亜戦争)において、歴史上、最も決定的な敗北を喫した。自ら植民地大国たらんとする政治的な野望は達せられなかった。しかし、その後の推移では、政治的に敗北したのは西洋だった。日本は、西洋をアジアから追い出し、西洋の植民地勢力の権威を失墜させることに成功した。その結果、西洋はアジア、ついでアフリカの西洋化された非西洋世界に対する支配権を放棄せざるをえなくなった。
[P・F・ドラッガー]

 日本の占領は、後に大きな影響を及ぼすような利点を残した。第一に、オランダ語と英語が禁止されたので、インドネシア語が成長し、使用が広まった。日本軍政の3年半に培われたインドネシア語は驚異的発展をとげた。第二に、日本は青年達に軍事教練を課して、竹槍、木銃によるものだったとはいえ、きびしい規律を教え込み、勇敢に戦うことや耐え忍ぶことを訓練した。第三に、職場からオランダ人がすべていなくなり、日本はインドネシア人に高い地位を与えて、われわれに高い能力や大きい責任を要求する、重要な仕事をまかせた。
[インドネシアの中学3年用の歴史教科書]

 第二次大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大なる歴史を残したと言わねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。
[アーノルド・トインビー]

 この聖地において、私は、あらゆる宗教の根底的な統一性を感得する。(伊勢神宮について)[アーノルド・トインビー]神宮の建築は、ギリシアのパルテノンに比すべき、すばらしいものである。天から降ってきたようなこの建築は、日本固有文化の精髄であり、世界建築の王座である。
[ブルーノ・タウト]

アジアの諸国民はなぜ、日本が自由になることを切望しているのか。それは、アジア諸国民と日本との長きにわたる結びつきのゆえであり、また、植民地として従属的地位にあったアジア諸国民が、日本に対して抱いている深い尊敬のゆえである。往時、アジア諸民族の中で、日本のみが強力かつ自由であって、アジア諸民族は日本を守護者かつ友邦として、仰ぎ見た。私は前大戦中のいろいろな出来事を思い出せるが、当時、大東亜共栄圏のスローガンは、従属諸民族に強く訴えるものがあり、ビルマ、インド、インドネシアの指導者たちの中には、最愛の祖国が解放されることを希望して、日本に協力した者がいたのである。
[J・R・ジャヤワルダナ蔵相(セイロン -現スリランカ)]

 日本のお陰でアジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジア諸国民がアメリカやイギリスと対等に話ができるのは一体誰のお陰であるのか。それは『身を殺して仁をなした』日本というお母さんがあった為である。
 12月8日は我々に、この重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決意された日である。更に8月15日は我々の大切なお母さんが病の床に伏した日である。我々はこの2つの日を忘れてはならない。
[ククリット・プラモード(タイ元首相)]

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「尖閣諸島を守ろう、100万人募金呼びかけ」街頭活動とその後

2012-06-20 13:32:49 | その他
6月17日は、沖縄返還協定が日米間で締結された日。

午後2時から4時まで熊本市街下通りダイエー前で「尖閣諸島を守ろう」の街頭署名活動を行なった。

 今回の活動には、石原東京都知事が進めている尖閣購入募金の振込先が「ゆうちょ銀行」でも出来ることを衆知させる目的が加わった。

 人通りは多いもの若者がほとんどで、チラシや呼びかけに対して素知らぬ顔ばかり。

その中にあって、進んで署名台に来る青年や「県外でも良いのですか?」と問いながら署名をくれた中年男性、子供にも署名を促すお母さんがいた。

 また、幟を見ながら立ちすくむご夫人がいた。声をかけると、彼女は、「(尖閣の件は)なんとかしたい。今募金したいが、生憎持ち合わせが無い。明日も(署名活動を)していますか?」と言う。私は、お礼を言った上で、ビラを見せながら、本日の趣旨を説明すると、彼女は大変喜び、「明日、妹と一緒に(振込みに)行ってきます。皆さんの活動にとても感謝します。頑張ってください。」と励ましの言葉まで下さった。

 八女から来た年配の方もいた。「尖閣諸島を開拓したのは八女の古賀氏で、最初に調査に行ったのは、熊本の上益城の人なんです」と説明すると、驚いていた。

 今回初めて署名活動を経験したというA氏は、心境の変化をブログで語っている。



全般的な感想は「結構、面白い!」。

ビラを配ると、どういう人が受け取るか?
1 若い男性は、ほぼ100%受け取らない。
2 アベックも絶対受け取らない。
3 若い連中、特に高・中生は結構受け取り、署名してくれる。 特に女子高・中生。4 おじさん、おばさんは良く受け取り、署名してくれる。特に、おばさん)!
ということで、チラシを受け取る人は圧倒的に女性が多い。

 男って、ダメじゃん。これからの日本は、(正直な気持ち)女性に期待するしかない。

 最初は、ビラを配りながら「署名、お願いします」とお願いの気持ちでしたが、
次第に「この人はどうかな?」という気持ちに変わり、
最後は「私は、日本のためにこんだけがんばっているんだぜ!」という誇らしい気持ちになり、堂々と「お願いします」と言えるようになりました。

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昨日(17日)、一般の方から電話がありました。

「熊日」で活動の記事を見たが・・ビラをもらえないか、と・・・・

 近所の方だったので直接届け、ゆうちょ銀行 でも振込み可能であることを伝えてきました。
 
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【東京都の尖閣諸島寄付金窓口】

○ゆうちょ銀行
  口座記号 00110-9
番 号 386056
加入者名 「東京都尖閣諸島寄付金」

(お問い合わせ)東京都 知事局 尖閣諸島寄付担当  電話03-5388-2206



沖縄祖国復帰四〇周年記念研修旅行の報告

2012-06-18 16:31:43 | その他

旅行は5月11~13日の日程で行われました。熊本から十九名の参加、全行程好天に恵まれ有意義且つ楽しい研修旅行となりました。

第一日目、豊見城の旧海軍司令部壕を見学。鍬やつるはしの痕が残る壕は見事なものでした。「沖縄県民かく戦へり」の打電を最後に、太田實司令官が将兵と共に自決した部屋は当時のまま残されていて、手榴弾痕と血潮の跡には、息を呑んでしまいました。

第二日目、宜野湾市嘉数高地展望所に行きました。ここから普天間飛行場がみえましたが、週末のためか、ひっそりとしていました。

次に、普天満宮参拝の後、此処から出発する約一時間の日の丸行進に参加しました。集合場所には、仲村俊子先生もおられ、ご挨拶されたお姿は凛として心を打つものがありました。

行進は街中を整然と進み、シュプレヒコールをあげて高く掲げる日の丸の波は沖縄の空に映えてとても美しいものでした。

約1時間かけて、行進は祖国復帰四十周年式典会場の宜野湾市民会館に到着しました。その間、交通警察官の姿が一人も見えず、左派デモの方に関わっていたのでしょう。
 式典会場は、日本会議202名を含む1300名以上の満席でした。日本会議の三好会長、宜野湾市長らの挨拶の後、俳優津川雅彦氏が「日本人の誇り」と題して記念講演されました。

 夜は、日本会議九州および中国ブロックの懇親会があった。中村俊子先生のご挨拶があり、「日本各地からお祝いに駆けつけてくれた皆様の姿を見て、今日の日がとても嬉しい。自分も、90歳を超えたが、まだまだ頑張って行きたい」と話されました。

会の最後には「勝利の日まで」を全員で合唱し、沖縄祖国復帰50年に向けて活動を続けていくことを決意しました。

第三日目 糸満市平和祈念堂にの日本会議全国旅行団200名が集合、日本会議主催で、沖縄戦全戦没者のための慰霊祭を行いました。

平和像の背後地下室には全世界から送られた石が陳列されていて、ベルリンの壁石もありました。

 その後、各県毎に別れ、我々は「火の国の塔」と「義烈空挺隊の碑」に行き、慰霊を行った。印象的だったのは、摩文仁の丘にある慰霊碑の中で、この場所が一番、バンザイクリフに近いことであった。

二、三日目ともバスで移動しました。片岡事務局長の名ガイド振りに、拍手がおこりました。
 ご参加の皆様、大変お疲れ様でした。