日本会議熊本ブログ

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知られざる日独友好の歴史 バルトの楽園公開③

2006-07-11 17:50:42 | 歴史
ドイツとの交流は互いの国に戦争がありその後、しばらく途絶えた。また再び交流が始まるのは昭和35年の「徳島新聞」にある記事が紹介された事から始まる。

その新聞の内容は、13年にわたりドイツ人俘虜の墓を掃除してきた高橋春枝さんのことを紹介した記事である。高橋さんは釜山で終戦を迎え、夫がソ連の捕虜としてウズベキスタンに送られていた為、鳴門の引揚者住宅にすんだ。それが元板東俘虜収容所だったわけである。

夫の無事を願いつつの掃除であったのだろう。13年間にも及ぶ善行は各方面に伝えられ、一ヵ月後に西ドイツ駐日大使館のウィルヘルム・ハース夫妻が感謝状を渡した。翌々昭和三十七年一月には、西ドイツ在住の元俘虜エドアルト・ライポルト氏から手紙が寄せられた。

 なつかしき板東の皆さん
 バンドーラーゲルの五ヵ年は、歳月がどんなに経過しても、わたしたちの心のなかで色あせることはありません。
 いま、ますます鮮やかによみがえる。
 あの頃の仲間で、現在も生き残って西ドイツに住んでいる者のうち、連絡のとれている三十三人は、年に幾度かフランクフルトに集まって「バンドーを偲ぶ会」を、もう二十年も続けております。
 目をつむるといまもまざまざと、マツエ大佐、バラック、町のたたずまい、町の人々、山や森や野原などが、瞼の裏に浮かんできます。出来ることならこの眼でもう一度、見たいのです。

その後、ドイツとの民間交流は続き今に至る。上の手紙を説明なしに見たら誰が俘虜収容所を思い返し書いたものだと思うだろう。ここにこそ当時の日本人が持ちえた精神が、国を越えて伝わった事を示すなによりのものであろう。

私は改めてこの様な歴史を知り、なぜこの様な事を教科書に載せないのであろうかと思う。この出来事だけではない。日本には教科書には出てこない偉人はたくさん存在する。なぜ、他国の革命の闘士や反日活動家は取り上げ、子供たちに感動を与えるこれら素晴らしい人物達を語らないのだろう。

子供たちに必要なのは日本人としての「誇り」であり、自分もその様に生きたいという「憧れ」である。バルトの楽園を通して改めてそのことを考えさせられた。
<連載了>

知られざる日独友好の歴史 バルトの楽園公開②

2006-07-03 18:57:40 | 歴史
坂東の俘虜収容所の中で俘虜が作成し、発行していた新聞「ディ・バラッケ」という新聞がある。シベリア抑留時につくられた「日本新聞」とは大きく異なり、自由な言論で当時の状況が伝わってくる貴重な資料である。その一部をご紹介したい。

【武士道】
収容所の戦友のなかには「武士道」という言葉を知らない者が多いことであろう。それゆえちょっと簡単に説明しよう。感心をもっている人もいることだろうから。「武士道」とは日本語の「武士」プラス「道」、すなわち戦士のあゆむべき道であり、いい換えると古い封建社会のなかでの日本の騎士、サムライの古い作法であり、サムライが守るべきあらゆる道徳的な原理がそこに含まれている。自己の行いに責任を持ち、自制心を鍛錬し、恥を知ることである。決断に際しては熟考し、臆病でいないこと。主人と祖国のために、命をすすんで投げ出すこと、弱者と貧者に対して好意を持ち、親切であること、更には倹約を実行し、華美を戒めること、あらゆる不正に対する羞恥心と正義を行うという名誉心のなかに、おそらく武士道の最高の神聖性がある。


現代の日本人が書いてもここまで武士道の考察が書けるだろうか。見事な武士道に対する考察である。新聞記者になった者は収容所外にも取材に出かける事を許可されており、これだけの事を理解するまでには何度も取材を重ねた事であろう。これ以外にも八十八か所巡りの考察を書いたものなど、その内容は俘虜が書いたものとは思えない内容である。

この坂東以外にも立派な収容所はありその記録は岡山大学大学院文化科学科の高橋輝和教授によってまとめられた『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』創刊号に掲載されているそうなので感心がある方は調べてみると面白いかもしれない。

坂東の場合、当時を偲ぶ事の出来るもう一つの資料があるそれは収容小歌である


【なぜそんなに急ぐのか】
坂東ってところは第一級のホテルだ おいらたち罪人がみつけたホームさ T大尉が警備兵に合図してるぜ 「ドアを早く開けろ」 なぜそんなに急ぐのかもうすこし待ってるぜ


この歌も非常に面白い。当時の人達の気持ちが伝わってくるようだ。この様な事を可能にしたのは松江所長の人柄によるところが大きいと言われている。松江所長の初日の訓示は実に感動的である。「諸君は祖国を遠く離れた孤立無援の青島において、最後まで勇敢に戦った兵士である。しかし、利あらず日本軍に降伏したのである。それゆえに私は諸君の立場に同情を禁じえない。諸君は自らの名誉を汚すことなく行動して欲しい」「私の考えは博愛と人道の精神と武士の情けをもって、諸君に接する事である。諸君もこのことを理解し、秩序ある行動をとって欲しい。」松江所長のこの発言はドイツが闘いに破れ不慮たちが解放されるまで終始一貫して貫かれた。所長の口癖は「ドイツ人も国のために戦ったのだ」というものだったそうである。

鳴門市ドイツ館館長田村一郎氏は「会津人・松江豊寿」と題した文章の中で、「松江の行動を理解する上で忘れてはならないのは、この人が会津の出身であることである。~中略~松江は賊軍の出である。松江は西欧的な意味でのヒューマニストというよりは、よい意味での純粋で頑固一徹な軍人気質の持ち主だったのだろう。そうした敗者の心をも思いやる姿勢が、武士道に西洋の騎士道にも通じる広がりを与えた」と書いている。

松江所長は会津武士道の精神を生きた。その精神がドイツ人に感動を与え、再び映画となり現代に甦った。この事を思うとき、真の国際人とは武士道の精神を持った真の日本人ではないかと考えずにはいられないのである。

知られざる日独友好の歴史 バルトの楽園公開

2006-07-01 10:19:53 | 歴史
現在、「バルトの楽園」という映画が公開されていることを知り、CMを見たら収容所の話だそうで、お決まりの虐待ー反戦の映画か?と思っていたら、全然違う。この話は第一次世界大戦後、ドイツ人俘虜を手厚く収容した所長と、地元民の交流を通し、日独の歴史に迫る実話を元とした映画なのである。

映画はまだ見ていないので、どの様な形で取り上げられているのか解らないが、関連書籍を読んでみると、原作ノベライズ「バルトの楽園」はストーリーを盛り上げるため、若干事実を脚色し、史実とは違う部分もある。残念な部分も少なくないのだが、映画なので、盛り上げるストーリー構成には仕方がないと言うことだろうか。勿論、感動的な部分もきちんと残しつつ大筋は史実に沿うよう作られている為、真実の歴史に感心を持つきっかけには十分なると思う。

この収容所の所長・松江豊寿はサイパン島でシュガーキングとして有名な松江春次の兄である。会津出身の所長は俘虜に寛大で、新聞の発行、スポーツの奨励、音楽の奨励など様々な政策を行っていた。地元民も(徳島の坂東)お遍路さんが集う八十八箇所の第一霊場がある地の為、土地の者意外も受け入れる文化を持っていた土地であった。
驚くべき事に、俘虜たちが農業や、お菓子作り、器械体操や音楽など様々なことを地元民に教えている。我々が知る捕虜とは全く違っている事に大変驚いた。これはハーグ条約で捕虜の取り扱いについて述べられており、日本はこれを遵守した為であるが、世界中でこのようにきちんと条約を守った例は殆どない。

日本で有名なベートーベンの第九(歓喜の歌)はこの俘虜たちによって日本で始めて演奏された。ドイツ人にとってベートーベンは誇りであり、第九は準国家的意味合いがあると「バルトの楽園」で述べられている。収容所という敵国の兵を収容する施設に於いて何故、この様なことが行われたのか、次回から数回に渡って、当時の時代状況・松江所長の精神と坂東俘虜収容所・ドイツ人とのその後の交流を連載していきたい。