よもやまカンボジア

カンボジアの日本語学校で起こった不思議な出来事を…。

リーハウイ(さようなら) JOAS!

2006-12-31 10:22:47 | Weblog
とりあえずボランティア(無給)で1ヶ月やってみてと言われて来たのが2003年。正直、来た瞬間に帰ろうと思った。ベトナム、タイ、ラオスと私が好きな国の隣国なので、軽い気持ちで来てみたものの、何がと問われれば難しいのだが、生活、人、磁場など、とにかくすべてがいまいちピンと来なかった。私は自分の動物的な感覚をけっこう信じている。さすがに社会人経験もある身として、「いやだ、帰りたい」と無責任にするわけにもいかなかった。しかし、すべてが直感的に合わないと悟ったので、最初に決めた1ヶ月がたったら、アンコールワットでも観光して、即効で日本に帰ろうと決めていた。手帳に毎日×をつけていたのを、昨日のことのように覚えている。そのとき、まさかこんなにいることになるとは、1%さえも思っていなかった。

そして今まで時が流れてしまった。
「タガイ カエ コンロン タウ(歳月は過ぎ行く)」私が好きなクメール語のひとつである。
先日、友だちから3年ははやいねといわれたが、あっという間の楽しい3年間でした!と笑顔でいえるほどではない。振り返ってみればいい3年だったといえるが、しかしそれは、カンボジアの未舗装道路のようなでこぼこ道だった。とにかく1年目は何もないところから、学校が開校したばかりだったので、今では考えられないようなハードな毎日だった。学生も少なかったので、生徒集めから広告(チラシ配りも!)・カリキュラム・教材・テキスト・テスト作成、学校や生活環境の整備、そして授業準備と、とにかく忙しい日々。予算もじゅうぶんになく、朝から晩まで手作り文字カードや絵カードをラミネートした日が懐かしい。週末も早朝から夜遅くまで連日働き続けたものだ。衣食住はすべて学校。みんなで車座になって床で飯を食い、夜は教室で寝ていた。一つのシャワーをクメール人スタッフもあわせて10人くらいで共同で使っていたこともあった。

日本でも終電までの残業や徹夜、休日出勤などかなりハードな仕事をこなしたが、そんな日本のサラリーマン生活に比べても、あのときは本当にすごかった。「たぶんカンボジアでいちばん私たちが働いている気がする」とよく言い合ったものだ。時給換算してみたら、30円に満たなくて、驚愕の声をあげたあのころ。1ヶ月くらいたって、初めて学校の外で食べた、小さな食堂の麺の味は一生忘れないであろう。ほんの一歩、学校外に出ただけで感激したものだった。それほどまでにストイックな生活を送っていたのかと、今では自分でも信じられない。

当時の同僚、スタッフは私が3年間いたなかでも最強の濃い~面々であった。しかし、この大変な時代があったからこそ、今のJOASがあるような気がする。今いる同僚やスタッフにももちろん愛着があるのだが、立ち上げ当時のあの苦労は自分のJOAS勤務を振り返るうえで、また、カンボジアの日々を思い出すとき、これからもずっと忘れられないであろう。今はカンボジアに、日本に、世界にと各地に散らばった当時の同志達は、おそらく同じ気持ちに違いない。

時代はうつりかわり、今は校舎も新しい場所に移り、学校環境や住居環境も格段によくなった。カリキュラムも落ち着き、教材もテストもそろい、教務や事務の流れもシステマチックになったので、もうあわてふためることもほとんどない。新しい先生が来ても、自分の授業準備以外にたいしてやることもないほどに、学校は少し大人になった(まあ学校としてはこれが普通といえば普通か)。来たばかりのころ、ベテランの主任の先生が「学校は3年はたたないとわからない」と言っていたが、それもよくわかる気がする。一時は閉校かなんて危機もあったが、3年たって、ようやく落ち着きをみせてきている。

学生も教師もスタッフも来ては去り、また来ては去り。1ヶ月、1週間、1日でやめていく人も多いお国柄、短期間だけ教えた学生も入れればいったい何人の学生に教えたのだろうか。彼らが日本語を学ぶうえで、何かを少しでも学び取ってくれていれば、と思うのは教師の勝手な幻想である。やめていった学生は「あいうえお」すら忘れているかもしれない。人の入れ替わりは本当に激しく、クメール人スタッフもかなりの数のスタッフが来ては去っていった。そして、私の記憶が確かであれば去っていった日本人教師は全部で13人。いい人も、びっくりするようなとんでもない人も、本当にさまざまな人がいた。私は14人目になる。この学校で得た経験はいいことも、悪いことも今後の自分の「実」になってくれることを願いつつ、学校と学生の成長を願ってリーハウイ(さようなら)JOAS!

PS>今まで読んでくださったみなさんどうもありがとうございました。意外なところで、いろいろな方がブログを読んでいるので、本当にびっくりしました。JOASはまだまだたくさん教師がいます。今後は新しい教師も来る予定です。年明けからは新たな先生たちのブログもスタートします。お楽しみに!


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『戦火と混迷の日々 悲劇のインドシナ』

2006-12-30 10:39:14 | Weblog
という本をご存知だろうか。ベトナム戦争時代の特派員として著作も多い近藤紘一氏の本である。この作品は、戦後日本人として初めてカンボジア男性と結婚し、その後あの悲惨なポルポト時代を生き抜いた内藤泰子さんという方(故人)についてのドキュメントを軸に近藤氏のフィールドであるインドシナについて書かれている。私は以前、知り合いのカンボジア人に「ナイトウヤスコ」っていう日本人を知ってる?と聞かれ、「誰?歌手の?」などとまぬけな回答をしてしまったことがあり、あの時は本当に不勉強な自分を恥じた。インターネットなどでいろいろ調べて、以前から興味を持っていたが、ここカンボジアではなかなかその書物にめぐりあうことがなかった。おそらく日本でも絶版になっているだろうが、日本でだったら図書館にいって調べれば一発である。こんなとき日本の図書館が本当に恋しくなる。ずっと読みたいと思っていた矢先、先日たまたま図書館で見つけたので、すぐに借りてきた。本の内容や感想はこれから読む人のためにふせておくが、この本を読んでポルポト時代の残虐さをあらためて思い、そして思ったことがもうひとつ。それはポルポト時代前の、美しかったといわれるプノンペンの姿を見てみたいということだ。フランススタイルが残り、インドシナのオアシスと呼ばれた美しく、幸せなプノンペン。残虐なポルポト時代が語られれば語られるほど、いろいろな人の話や書物で見るにつけ、その悲惨な時代の前のつかの間の幸福だったプノンペンをのぞいてみたい。これも現代人の絶対に戻れない過去へのあこがれか。

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信じる?信じない?

2006-12-26 10:00:06 | Weblog
前から学生たちと占いに行こうという話で盛り上がっていたが、よくあたると評判のその占い師が行こうと思ったら急に病気になってしまい、ずっと延期になっていた。その占い師はいまだ病気のようでそのまま話は立ち消えかと思ったが、日曜日に学生とごはんを食べにいったとき、またその話になり占いに行ってきた。

今回いった場所はプノンペンで占いといえばここ!といわれるほどに有名な、占いのメッカ、ワットプノン。ガイドブックにものっているワットプノンという有名なお寺の近くに占い師がいっぱい集まっている一角がある。まあ、世界各国、寺といえば占いがつきものだ。たくさん占い師がいるため、うさんくさい占い師も多く、熱心に通う人が多い一方、ここの占い師なんてどれもいかさまだ、と信じない人も多いエリアでもある。学生たちも当初はワットプノンはねえ、、、というひややかな目であったが、なんだかんだいいながらみんなでわいわいと見てもらい、外国人の私としてはなかなか楽しめた。

今回やったのはトランプを使ったものだが、個人的にはまあまああたっているなという感じ。将来のことはどうなるかそのときになってみないなとわからないが、現在までのところはなかなかあたっていたと思う。いっしょにいった学生の一人は、あの人のいうことは全然違う!と憤慨していたが、まあ占いなんてそんなものである。

日本で働いていたときの同僚に占い好きの人や、半分占い師のような人がいて、けっこういろいろな占いにいった。その後、中国、台湾、韓国などでもいろいろやってみたが、占いは世界共通だなと思う。私のなかで世界を渡り歩ける不動の3つは、スポーツ(とくにサッカー)、音楽、料理なのだが、言葉の問題さえクリアすれば占いも世界を舞台にできるもののひとつであるような気がする。占い師のあの雰囲気や話し方、目線など、言葉が通じなくても、こちらに通じる空気感がある。今いっているのは悪いことだとか、いいことだとか、言葉をいいよどんでいるときの含みなんかもどこでも同じである。何か悪いものを見てしまったときの占い師の顔というのも、あれも世界共通だ。世界的規模で占いに関心がある人のマーケットはかなり大きいに違いない。占いに料金表がないのも定番だ。今回は仕事や将来など3つほど占ってもらって、学生が一人5000リエル(150円くらい)でいいというので、その金額を支払った。料金を払ったときに、ぱっと隠すようにテーブルに敷いている布の影に素早くお札をすりこませる、あの動きも日本の占い師とまったく同じであった。

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クリスマスパーティー

2006-12-25 17:33:22 | Weblog
土曜日、学校でクリスマスパーティーをした。学生は当初の予定より少なく、スタート時点(2時)での集まりも悪かったため、どうなることかと心配していた。しかし、3時になると学生が集まり始めたため、無事始めることができた。まずは、「風船割ゲーム」。チーム対抗で、風船を早く割り、なおかつ風船の中の紙に書いてあるものを借りてくるというもの。風船を必死に割る姿は微笑ましかったが、物を借りている姿は凄まじかった。「金のネックレス」「茶色のベルト」を借りている姿は、借りているというより、強奪しているようだった。しかしこのゲームで一気に楽しい雰囲気となり、次のマジックショーへと移っていった。マジックは100均に売っているものだが、なかなか楽しいショーだった。マジックを披露してくれたスタッフのサロン君は最後、種まであかして去っていった。その後、やはり盛り上がったのがビンゴ大会。皆真剣にカードを見つめ、出てくる玉に神経を集中させている。「ビンゴ!」という声と共に一番にビンゴになった学生は、慎重に景品をチェックし、一番大きくて重い景品を選んでいった。景品は大きいものから売れていき、小さい景品は見事に残っていた。多分カンボジア人が舌きりすずめのお宿へ行ったら、皆ババを引くと思う。面白い光景だった。その後、プレゼント交換をし、キリーロム遠足で仕込んだ歌を歌い、最後にサプライズで登場したサンタとトナカイが飴を配ったところで盛り上がりは最高潮に達した。お決まりのスプレーをかけあい、クメールのダンスで皆踊って、パーティーは無事終了した。楽しい雰囲気の中、クメールのリズムにのって学生達は帰って行った。

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あなたがもっともやりたくない職業は?

2006-12-22 10:34:45 | Weblog
あなたがもっともやりたくない職業は?と問われたらあなたは即座に答えられるだろうか?まあ、ちょっと考えてみていただきたい。できれば直感で。・・・・・ 思い浮かんだだろうか?これは深層心理的には、実は自分がもっとも関心がある職業だという。先日、うちのボスがふとこの質問をみんなにした。若い女の先生2名はそれぞれ即座に答えをぱっと出した。二人とも種明かしをされて「え~!!」と驚いていたが・・・。 私も若いときにこのテストをされて、即答で「教師」と答えていたものだ。私は子どものころから教師が嫌いだったし(もちろん大きくなってからはいい教師にもたくさんめぐりあったが)、学校とか組織とかがあまり好きじゃない人間だった。だから、「先生」とよばれる人にどこか嫌悪感があったのかもしれない。そんな自分が教師をやっているんだから、本当に不思議なものである。でも、今教師をやっている自分をしても、この心理テストはある程度あたっているのかもしれない。 私は今、もっともやりたくない職業が、思い浮かばない。これは裏をかえせば、関心がある、やりたい職業がないということだ。そう思うとちょっと愕然とする。これが年をとったということか。よく解釈すれば、それだけ教師があっているということか?その後一生懸命考えて出た答えは「給料が安い仕事」。う~ん、この心理テストすごいかも。私がもっとも興味がある仕事が、給料が安い仕事・・・。まさしく日本語教師である。もう一人の同僚の先生(30代男性)に聞いてみてもやはり特に思い浮かばないという。年をとることにそれほど、嫌悪感はないけれど、こんなとき、どんなに外見や気持ちを若く保っても、精神の根底の部分が年を重ねているような気がする。 あなたのもっともやりたくない職業は何ですか?今度、授業で学生にも聞いてみようっと。

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