
あちこちへと出かけていた先週。
上海市内の街歩きも、だいぶ制覇してきた方だと思うけれど、まだ行ってない一角があった。
かつての日本人が多く住んでいた虹口地区にある、旧ユダヤ人街(ゲットー)。
当時の上海で、ユダヤ人と日本人、そして中国人がどんな生活を送っていたのか興味があったので、ふらりと出かけてみた。
いつの間にか開通していた地下鉄12号線に初めて乗って、提藍橋で下車。
すぐに石造りの洋風建築が目に入り、まずはその周辺の一角をぐるりと歩いてみる。
ユダヤ人達が集ったという劇場や公園、そしてユダヤ人達が住んでいた1920年代に建てられたアパートや、今も監獄として使われている
当時の収容所などが残っている。

その中の中心となる建物が、上海犹太(ユダヤ)難民記念館。
もとはロシア系ユダヤ人によって建てられたユダヤ教会"Ohel Moshe Synagogue"だったそうで、今はリノベーションされて博物館になっている。

1階は礼拝堂、2階には同時使用されていた調度品や小物などと、ユダヤ人難民に関するデータベースが閲覧できるコーナーなど。
そして3階はポーランドにあるアウシュヴィッツ強制収容所から提供された資料の一部が展示されていた。
私は4年前に実際にアウシュヴィッツ収容所を訪れているので新たな衝撃はなかったけれど、上海でその一部に触れることができるこの博物館は、
一見の価値があるかもしれないと思った。

この建物以外に展示室が2つ。
そこでは上海に避難してきたユダヤ人の背景や証言、当時の生活の様子を示す資料が展示されている。
多くのユダヤ人を助けた日本人のシンドラーこと杉原千畝さんの写真も。

ナチスドイツから逃れてきたユダヤ人が上海にいたことは聞いていたけれど、その中に杉原さんが発行した日本通過ビザで神戸へ逃れ、
そこからの避難先が決まらずに上海に送られた人たちがいたということは初めて知った。
当時の上海は世界で唯一ビザの要らない場所だったので、およそ2万人のユダヤ人がホロコーストから逃れたやってきたそう。
移民当初は自由で平和だった日々は、日米開戦と共に厳しく過酷なものへとなってゆく。
日本はドイツの指示であるホロコーストは拒否しつつも、同盟国への顔向けの為にもゲットーの管理を厳しくせざるを得なかったのかな・・・
終戦とともに、多くのユダヤ人は上海を去り、一部の人々は上海に残って代々生活しているという。
あまり接点がないと思っていた日本人とユダヤ人。
厳しく辛い時代をここ上海で過ごすことになったその歴史に触れて、考えさせられるものがあった。
上海犹太難民記念館
虹口区長陽路62号
上海市内の街歩きも、だいぶ制覇してきた方だと思うけれど、まだ行ってない一角があった。
かつての日本人が多く住んでいた虹口地区にある、旧ユダヤ人街(ゲットー)。
当時の上海で、ユダヤ人と日本人、そして中国人がどんな生活を送っていたのか興味があったので、ふらりと出かけてみた。
いつの間にか開通していた地下鉄12号線に初めて乗って、提藍橋で下車。
すぐに石造りの洋風建築が目に入り、まずはその周辺の一角をぐるりと歩いてみる。
ユダヤ人達が集ったという劇場や公園、そしてユダヤ人達が住んでいた1920年代に建てられたアパートや、今も監獄として使われている
当時の収容所などが残っている。

その中の中心となる建物が、上海犹太(ユダヤ)難民記念館。
もとはロシア系ユダヤ人によって建てられたユダヤ教会"Ohel Moshe Synagogue"だったそうで、今はリノベーションされて博物館になっている。

1階は礼拝堂、2階には同時使用されていた調度品や小物などと、ユダヤ人難民に関するデータベースが閲覧できるコーナーなど。
そして3階はポーランドにあるアウシュヴィッツ強制収容所から提供された資料の一部が展示されていた。
私は4年前に実際にアウシュヴィッツ収容所を訪れているので新たな衝撃はなかったけれど、上海でその一部に触れることができるこの博物館は、
一見の価値があるかもしれないと思った。


この建物以外に展示室が2つ。
そこでは上海に避難してきたユダヤ人の背景や証言、当時の生活の様子を示す資料が展示されている。
多くのユダヤ人を助けた日本人のシンドラーこと杉原千畝さんの写真も。


ナチスドイツから逃れてきたユダヤ人が上海にいたことは聞いていたけれど、その中に杉原さんが発行した日本通過ビザで神戸へ逃れ、
そこからの避難先が決まらずに上海に送られた人たちがいたということは初めて知った。
当時の上海は世界で唯一ビザの要らない場所だったので、およそ2万人のユダヤ人がホロコーストから逃れたやってきたそう。
移民当初は自由で平和だった日々は、日米開戦と共に厳しく過酷なものへとなってゆく。
日本はドイツの指示であるホロコーストは拒否しつつも、同盟国への顔向けの為にもゲットーの管理を厳しくせざるを得なかったのかな・・・
終戦とともに、多くのユダヤ人は上海を去り、一部の人々は上海に残って代々生活しているという。
あまり接点がないと思っていた日本人とユダヤ人。
厳しく辛い時代をここ上海で過ごすことになったその歴史に触れて、考えさせられるものがあった。
上海犹太難民記念館
虹口区長陽路62号
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