新 ノ 城  Okinawa

おきなわを サラ・さらっと 視る

  

グシク 【3】

2019年10月20日 00時00分23秒 | 日記

 グシクを何を持ってグシクと定義するか

グシクの実態は多種、多様なため

 

現在まで様々なグシク説が提起されたが

現在も決着していない

 

多数あるグシク説の中で特に論点されて来た主な三点

城郭説・聖域説・集落説が議論されて来た

 

鳥羽正雄や比嘉春潮らが著書で立地や構造を見る限り、

多数あるグシクの大部分が国王・按司の居城であるとした

 

鳥越三郎もこの説を受け入れ著書「琉球教宗教史の研究」で

これらの見解を述べてグシクは城郭説とした

 

城郭説に異を唱えたのが中松弥秀である

グシクの立地、分布や構造から

城郭だとする考えに疑問を呈した

 

グシクは祖先の共同の葬所の場所であり

グシク内には神が降り、神が鎮座している

御願所と一つにした聖域であるとした

 

でも城郭説を全て否定しないとも言っている

 

古代史学の平野邦や民俗学の国分直一も

聖域説を提起している

 

嵩原政秀が聖域説、城郭説を否定し集落説を提起した

田村浩もグシクを集落と関連告げて

 

マキヨ(血族小集団)と呼ばれた小集団が集落を形成し

自衛のため防護のためグシクが発成してきた

 

また、墓地や御嶽(拝所)を中心に発生してきた

集落であるとした

 

聖域説を支持する国分直一や中松弥秀などからは

これらの説には、難点があるとした

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グシク 【2】

2019年10月15日 00時00分23秒 | 日記

 グシク(城)は奄美群島から先島諸島の範囲に

470以上あると言われている

 

グシクの形態は実に様々で城壁や城郭などを持つ城塞としての

グシクはごく一部で大多数は小規模なグシクである

 

琉球国時代にグシクを「城」と言う当て字にしたため

現在でもグシクを城と解釈している

 

そのためグシクと言われていたもの

全てを城と記録され、呼ぶようになっている

 

私たちが思う城とは戦国時代以前の城は

軍事拠点を主に外敵から防衛をする為

城作から環濠、土堀、堀、土塁の作事などと

 

時代とともに石塁から石垣による城壁、城郭を

持つ城塞としての城をイメージするが

 

古琉球国時代の城と言われるグシクの

大多数は全く違う形態である

 

グシクと言われる遺跡は小高丘や岩山に

立地した宗教上の聖域や墓陵、按司の家館

 

集落跡などを、グシク跡と言われている

どうみても城とは思えない物である

 

グシクの実態が様々なため何を持ってグシクとするか

定義するか決まっていない

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グシク 【1】

2019年10月10日 00時00分26秒 | 日記

 グシク(城)とは、琉球列島に存在する

琉球独特のグシクと言われる城跡の事です

 

琉球列島に同じ古流球文化を共有する

北は奄美群島から南は宮古・八重山諸島に

様々な形態のグシクがある

 

岩台地や小高丘などに小規模なグシクが

マキヨ(血族)と呼ばれる小集団・集落を

柵で囲ったものから、堀、土塁の作事

 

そして時代とともに石塁、石垣のグシクへと

外敵から防衛するためグシクは発展していった

その大部分は小規模なグシクであった

 

私たちが現在目にしている城とは

まったく違う形態のものである

 

沖縄本島及び周辺離島に

380のグシクがある

 

それから奄美群島に40グシク

宮古諸島に29のグシク

八重山諸島に39のグシクがあると言われている

 

合計すると468グシクになる

 

この数字は沖縄県教育委員会発行誌

各市町村史・各市町村教育委員会が発行した雑誌及び

 

関係する誌等に載っているグシク

そして各地域で伝わるグシク跡などの数字である

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城 【4】

2019年10月05日 00時01分32秒 | 日記

  江戸幕府の一国一城令による城の破却によって

三千以上あった城は百七十城ほどに激減する

 

1873年(明治6年)明治政府による廃藩置県

に伴う廃城令により約百五十城が廃城処分となり

四十余りの城が残った

 

そして火災や戦争によって

破壊、焼失し多くの城が失われた

 

破却、廃城となる中

中村重遠や大隅重信、市川重造そうして民間人らが

 

日本の城は建築的にも、美術的にみても

世界に類をみない価値あるものであると考え

 

城の修理や保存を国や国民に

城の所有者地方自治体に働きかけた

 

姫路城や名古屋城、彦根城、松本城など

多数の城が修復、保存された

 

現在も各地方にある城

城跡など整備され復元されている

 

日本にある天守十二城

弘前城・松本城・丸岡城・犬山城・彦根城

姫路城・松江城・備中松山城・丸亀城・

伊予松山城・宇和島城・高知城

 

重要文化財に 七城が指定

丸岡城・宇和島城・伊予松山城・高知城

弘前城・備中松山城・丸亀城

 

国宝

犬山城・松本城・彦根城・姫路城・松江城

 

ユネスコ世界遺産登録

姫路城・二条城・

 

沖縄、五か所の城まとめ

世界遺産に登録されている

今帰仁城跡・座間味城跡・勝連城跡・中城城跡・首里城

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城 【3】

2019年10月01日 00時00分37秒 | 日記

  日本の歴史の中で最も城が

建築されたのは戦国時代

 

平地を望む丘陵の平山城や

平地に築いた平城、平城が主流となり

天守や櫓なども建築されるようになる

 

その頃全国各地に、三千以上の城が築かれ

天守は百余りあった

 

江戸時代、江戸三百藩と言われる

約三百の藩がありそれぞれの藩は

数城(家臣の城)の城を持っていたが

 

徳川幕府は武家諸法度と一国一城令によって

大名の居城となる一城以外は破却となった

 

全国にあった三千の城は

百七十ほどに激減した

 

江戸時代の城は軍事拠点としての

意義を失い政治を行う政庁としての役目を行っていく

 

だが幕末になると外国船への対策として

日本各地に台場や砲台など五稜郭や

四稜郭、稜堡式の城郭が多数築城されている

 

そうして明治時代になると

1873年(明治6年)の廃城令、廃藩置県により

 

約百五十の城が廃城処分となり四十余りの城が残った

だが保存や修築などはされなかった

 

そして火災や戦争によって破壊

焼失し多くの城が失われた

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城 【2】

2019年09月25日 00時00分32秒 | 日記

  人類は誕生以来、戦闘は絶える事はなかった

狩猟時代(縄文時代)から

農耕時代(弥生時代)になると

 

定住生活へ始まり集落が形成され集落単位に

柵や環濠が設けられた侵入する外敵を防ぐためである

 

これが「城」の始めであるとされている

城は時代とともに進化し堀や土塁の作事

 

さらに石垣による城郭、城壁、外郭を築いていき

天守や櫓も建築された城は戦国時代

全国で最も多く建築されたと言われている

 

日本には二万から八万以上の城が

あったと言われているが

 

城として初めて記録されている文献は

664年に天智天皇が建造した

「水城」だと言われている

 

遺跡や言い伝えなどの記録や遺構

地方の文献、資料などの数字は

二万以上の城と言われている

 

歴史的資料では七千以上の城と

城跡があると言われる

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城 【1】

2019年09月20日 00時00分26秒 | 日記

  日本には「城」と呼ばれる城は

二万から八万以上の城が言われている

 

この数字には、かなりの幅がある

何を指して城と呼ぶか人によってかなり違ってくる

城の定義が曖昧だからである

 

日本の城は狩猟時代(縄文)から、農耕時代(弥生)になり

定住生活が始まり、集落が形成され

 

そうして集落単位で移住地を柵や環濠が設けられた

これが城の成り立ちといわれる

 

城は時代とともに堀や土塁の作事

石垣による城壁、城郭、外壁を築いていった

 

戦国時代初期までは、山城が多かった

外敵から身を守るための、要塞堅固な山城であった

 

戦国時代中期からは

平山城や平地に築かれた平城が築かれ

平城が主流になって行く

 

山城は防衛には優れているが

政治をするには不向きであった

 

戦国末期までに日本の歴史の中で最も多くの

城が建築された時代であったと言われている

 

その時に石垣による城壁、城郭、外壁や堀など

そうして天守が多く建設された

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沖縄人のルーツ【2】

2019年09月15日 00時00分47秒 | 日記

  両大学研究チームの研究では

沖縄本島・宮古・八重山地方から

 

計350人のDNAを採収、一人当たり

50万ヶ所以上の塩基配列の違いを分析した結果

 

遺伝的に、沖縄列島の人々は大陸や台湾の人々との繋がりを否定、

 

アジア全体を通してみても、

日本本土にもっとも近いと研究成果を結論付けた

 

この結果宮古・八重山諸島の人々は

沖縄諸島から南下して移住したとみている

 

またDNA情報から遺伝的距離を導く調査によって

移動は古くても、1万年よりも後の時代と推定している

 

約2万6千年前に宮古島に存在したとみられる

ピンザアブ洞窟人の人骨や

 

約2万年前の白保竿根田原洞窟人(石垣)の人骨は

現在の宮古・八重山諸島の人々の主要な

祖先ではないと結論付けている

 

また沖縄本島の港川人、約1万8千年前の人骨は

沖縄列島の人々の祖先ではないかと関心を呼んだが

 

沖縄列島の人々の主要な祖先ではない

可能性が高いことを示していると推測しているものも

 

さらなる精査が必要と述べている

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沖縄人のルーツ【1】

2019年09月10日 00時00分25秒 | 日記

  沖縄列島(沖縄本島・宮古・八重山諸島)人のルーツは

大陸や台湾・東南アジア系統であると

 

いわゆる南方系であると言う説が多勢であった

 

琉球大学・大学院医学研究科佐藤丈寛博士研究員

木村亮介准教授、北里大学、統計数理研究所の

共同研究チームが

 

現在の沖縄列島に住む人々の核ゲノムDNAを

解析した結果、隣国台湾や大陸の人々とは直接の

遺伝的に沖縄列島の人々は繫がなく

 

日本本島に最も近いと言う研究成果を

2014年9月16日琉球大学が発表した

 

これまで骨や一部、DNAの分析から沖縄列島の人々は

中国や地理的に近い台湾より日本本土の人々に近いとする

研究成果を発表されてきたが

 

今回初めて全ゲノムを網羅した解析によって

同様の成果が得られた

 

宮古・八重山地方も含め大規模に精査した結果である

 

木村准教授は沖縄の人々については

東南アジアや台湾系統に属すると言う

南方系との説もあったが今回の研究はこれを否定している

 

沖縄の人々の成立を明らかにする上で

貴重なデータになると述べている

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日本人のルーツ【4】

2019年09月05日 00時02分45秒 | 日記

  日本列島は、最北端択捉島から

最南西端の与那国島は直線距離、3294㎞ある

 

北海道・本州・四国・九州は橋で繋がっている

 

日本列島のほかに、千島列島・琉球列島に

約1億2623万人(令和元年6月1日)の人が住んでいる

 

約4万年以上前から人々が住んでいたことが

考古学的・人類的証拠が証明されていると言われている

 

現在アイヌ人・本州人・沖縄人の三人類の人々が住んでいる

 

日本列島に最初に移住した縄文人は東アジアに住んでいた

古いアジア人の子孫である弥生時代に北東アジアから

 

日本列島に渡来して来た寒冷地に住んでいたために

顔などは縄文人とは異なっていた

 

この新しい人類(弥生渡来人)は北九州から日本海岸

近畿地方に移住し縄文人と混血を繰り返して来た

 

ところが北海道の縄文人と渡来人との

混血はほとんどなかったため縄文人の

DNAを多く残す事に成った

 

沖縄列島の人々も本州から多く移住したが

本州人よりも縄文人のDNAを多くのこしていると言う

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日本人のルーツ【3】

2019年09月01日 00時00分28秒 | 日記

  東京大学、大学院医学系研究科人類遺伝学専攻分野の徳永勝士教授と

遺伝学研究所集団遺伝研究部門の斉藤成也教授

東京大学・大学医院理学系研究科・理学部の尾本恵市名誉教授を

中心とする研究グループは

 

日本列島人(アイヌ・沖縄・本島人)のゲノム解析により

現在の日本人は縄文人の系統と弥生系渡来人の系統の

混血であるとしている

 

これまでの遺伝学的研究では

アイヌ人と沖縄人は近いことが幾つか得られたが

決定的ではなかった

 

研究グループは、人ゲノム中の単一塩基多形を示す

100万塩基サイトを一挙に調べることが出来る

システムを用いて、日本列島人のDNA分析を行った、

 

その結果アイヌ人に沖縄人は遺伝的に最も近く

日本列島の中間に位置する本土人は沖縄人に次いで

アイヌに近いことが示されたと言う

 

現在日本には、旧石器時代から住む縄文人の系統と

弥生系渡来人の系統が共存すると言う

 

二重構造説を強く支持するとしている

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日本人のルーツ【2】

2019年08月25日 00時00分36秒 | 日記

 東アジアの東端に位置する日本列島に

約4万年前から人が住んでいたことが

石器の出土からわかっている

 

「人」が日本列島に住み付いてから

1万年以上前までを、後期旧石器時代

 

1万年前から、紀元前3世紀頃までの

約8000年間を縄文時代

 

起元前3世紀頃から、起元後3世紀頃までの

500~600年間を弥生時代と呼ばれている

 

日本列島の住人は狩猟の生活であったが

弥生時代に大陸、北東アジアからの

渡来人(弥生渡来人)によって水稲伝来し

稲耕作が始まった

 

渡来人は平坦な顔で歯が大きく長身であった

日本に住む縄文人は彫の深い顔で歯が小さかった

 

渡来人が日本列島に渡来して来たことは

化石からなどから明らかになっている

 

縄文人と渡来人が徐々に混血していくことで

現在の日本列島人が形成された

 

そのため日本人の成立を説明する学説として

二重構造説が定説と成っている

 

日本列島の北の端に住む、アイヌ人と

南に住む沖縄人は、縄文人の遺伝的にもっとも近く

 

中間に位置する本土人は、沖縄人の次に

アイヌ人に近い事がわかった

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日本人のルーツ【1】

2019年08月20日 00時00分26秒 | 日記

  私たち人類(ホモ・サピエンス)は、約5~10万年前に

アフリカを出て世界中に拡散していったとされている

 

その一部の集団が約4~5万年前に東アジアに来たと

化石の証拠などから証明されている

 

人の歴史を得る研究は、人骨や化石、土器などを

観察する考古学や人類学の方法が用いられて来たが

 

1980年代以降は、いろいろな方面の科学技術が進み

DNA、から人類の歴史を読み解く遺伝子学的研究も

盛んに行われるようになった

 

人が100万年以上前に、

アフリカを出て世界中に拡散した

古人類の子孫ではなく

 

約20万年前に

アフリカで誕生した「人」の系統の子孫だとされる

 

また、遺伝学研究によって

アフリカ単一起源説が証明されたと言われている

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琉球開闢説話【7】

2019年08月15日 00時00分28秒 | 日記

  開闢 <2>

最高神天帝がアマミク(阿摩美久)に命じ

琉球の島々を創造させた

 

また、アマミクは神々を拝する霊地(御嶽)を造り

これを称して開闢七御嶽と言われ

現在でも年間を通して祭祀、祭礼が執り行われている

 

それから数万年経っても人が生まれず

これでは神の威光を顕しようがないと

アマミクは、また天帝に人間の種を乞うた

天帝は自分の子である男女の神を下さった

 

そして二人の間から三男二女が誕生した

長男は国の王、天孫氏に

次男は地方の按司(領主)の始めに

三男は百姓の始めに

 

長女は君君(神職の最高位)の始めに

次女はノロノロ(地方の神女)の始めに成ったとある

 

即ち沖縄の島々はアマミクによって創造され

天帝の子が降臨して沖縄の人々の

祖先に成ったと言う事である

 

この説話は沖縄の最も古い中山世鑑に記述されている

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琉球開闢説話【6】

2019年08月10日 00時00分27秒 | 日記

  開闢 <1>

琉球の歴史書中山世鑑(1650年)と球陽(1743~1876年)

遺老瀬節伝(1743~1745年)などに編纂された国創り、人類創世説話

 

昔・大昔、最高神天帝が、アマミク(阿摩美久)を呼んで

この地上に神が鎮座すべき、霊処がある

 

しかし未だに島に成っていない

下界に降りて島を創でと命じた

 

アマミクは降りてみると霊地はあるが

東から西え、西から東えと、海の波が超えていくような状態であった

霊地は島に成っていなかった

 

そこでアマミクは、天に上がり

天帝に土・石・草木を下さるならば島を創りましょうと申し上げた

 

天帝は土・石・草木を与えた

アマミクは持ち下り、沖縄の島々を創造した

 

そうして神々を拝する霊地(御嶽)を造った

始めに国頭の辺戸に、アスムィ(安須森)御嶽

次に今帰仁今泊まりに、クバ御嶽

セーファ(斎場)御嶽を南城市知念

ヤブサツ(藪薩)御嶽は南城市玉城

アマツジ テンツギ(雨つづ天つづ)御嶽は南城市玉城、玉城グスく内

クボー御嶽を南城市知念久高島

シュイマダムイ(首里真玉森)御嶽を首里城内に

 

九つの御嶽を造ったとされているが

現在、この七つが、琉球開闢七御嶽として

沖縄の神聖な拝所として

沖縄の信仰を集めている

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