新 ノ 城  Okinawa

おきなわを サラ・さらっと 視る

  

おなり神【1】

2020年11月25日 00時00分18秒 | 日記

 おなり神(をなり神)とは

妹(おなり・をなり・うない)が

兄(えけり)を霊的守護すると考え

 

妹の霊力を信仰する沖縄の信仰

兄(いきが)の守護者として妹を

 

神格化して呼称するもの

民俗学の伊波普猷が述べている

 

沖縄の女性一般に霊力が強いと

考えられており、ノロ(神女)や

シャーマンである「ユタ」も女性である

 

この霊力は特に兄弟(イキガ)を守護すると

考えるものが「おなり神」信仰である

 

おなり神信仰は

沖縄宗教の基本概念の一つである

 

「おもろさうし」の中に「おなり神」を

詠んだ「おもろ(歌)」が数多く見られる

 

妹を兄の「おなり神」と呼び

妹を神格化する

 

この信仰から

男は漁や戦争に行く時は

 

妹の毛髪や手拭をお守りとして

貰う習俗があった

 

この思想が琉球王国の

祭政一体制の基盤を作ったと考えられている

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仲尾次盛隆【5】

2020年11月20日 00時00分15秒 | 日記

 政隆の尽力によって宮良橋は完成した

その時、島民は喜び盛隆を称え謡を作った

 

仲尾次主(シュー)ヌウ陰(カギ)ニ ~ 仲尾次様のお陰で

宮良(メーラ)大川(ウーガー)ヤ  ~ 宮良大川に

 

宝橋カキティ            ~ 宝のような橋が出来

見事(ミグトゥ)デムヌ       ~ 見事なようすです

 

宝橋上(ウイ)カラ         ~ 宝の橋の上から

通(カ)ユルヒトゥヤ        ~ 通う人々は

 

眼眉(ミマユ)打チ張(ハ)リティ ~ 目眉が生き生きとして

笑(ワラ)イフクイ        ~ 笑顔に満ちている。

以下略する 

 

また、頌徳碑と言う石碑も建っている

盛隆の赦免運動を官民上げて行い

 

嘆願書を王府に提出され終身流刑だったが

1865年に放免となった、実に11年の流刑で那覇泉崎に戻り

 

政隆は6年後1871年7月8日、65歳で永眠する

仲尾次政隆は信仰に基づく実績と活動は評価される

 

無期流刑の中にあっても、信仰は深められ

信仰者として社会実践は奇跡であると

 

伊波普猷は著書の中で述べている

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仲尾次盛隆【4】

2020年11月15日 00時00分17秒 | 日記

  八重山諸島石垣島に宮良節と言う民謡がある

政隆が流刑となり石垣島に居していた時に

 

宮良橋の建設に尽力をつくした

功績を称え作られた歌であると言う

 

宮良川(めーらかーら)は石垣島最大の河川である

この河川に初めて橋が架けられたのは、

 

1658年である宮良橋は東西を結ぶ

島民にとっては重要な橋であったが

 

災害(主に台風)のために何度も破壊され

その度に修理や掛け替えが繰り返さてきた

 

1771年八重山地震による明和大津波によって

宮良橋は破壊された

 

その後、橋は架けられることなく

島民は干潮時を待って歩いて渡り満潮時には渡船を利用し

 

不便を余儀なくされていた橋は90年間再建されなかった

1860年に百二石余りの建設費をかけて、工事が始まる

 

その時流刑で前栄里に居していた

政隆は私財を投じて中心的な役割を果たした

 

長さ約135メートル・幅3.6メートル

高さやく4.2メートルの木の橋が、

1861年に完成したがその翌年台風によって破壊されたが

 

政隆は再度私財を投じて橋を復興させた

人々は橋の完成を喜び

 

民謡、宮良節を作り盛隆を称えた

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仲尾次盛隆【3】

2020年11月10日 00時00分15秒 | 日記

  政隆は禁教の浄土宗を布教したと言う理由で

石垣島へ終身流刑となった

 

政隆が記した、配流日記に石垣島に行く前に

座間味島に一年半ほど滞在し

 

1856年11月に息子と二人の共が同行して

流刑地石垣島に12月1日真泊に入港したと記されている

 

石垣島での生活は拘束もなく妻を得て子供を儲け

船を持ち貿易・事業などに従事して

 

流刑人とはおもえない自由な生活をしている

石垣島で11年間の記録を記した配流日記に

 

島での出来事を詳細に記述されている

日記の中に島の生活で詠んだ

 

和歌542首、126首の琉歌が記されている

石垣島では、和歌・琉歌の関心は高く

 

政隆は島の知識人や

僧侶・上級役人などとの和歌、琉歌を

通して交流を持ち人間関係を深めていった

 

仲尾次政隆は自身の資産だけを増やすことなく

以前から、王府へ台風や干ばつ(2回)や

 

王子らが薩摩へ行く旅費

また徳川将軍の即位に行く旅費

 

学校の建設費などの多額を献上し

無利息の貨与などもしている

 

中村家・政隆は信仰者として社会に貢献し還元している

仲尾次家の家譜に記述されている

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仲尾次盛隆【2】

2020年11月05日 00時00分16秒 | 日記

  中村宇兵衛は、貿易船を所有し

琉球から薩摩へ貢納米運送、貿易などで財を成した

 

中村家の三男として生まれた

政隆は勉学に努め

 

今帰仁の間切りの地頭・那覇総横目

那覇船改め奉行などの

 

要職を務め、仲尾次親雲上(ペークミー)政隆と称していた

また当時の士族として、高い教養を身に付けた政隆であった

 

歌人の宜野湾朝保から和歌を学び

書は久米村の儀間より

 

弓は三司官の小禄親方から

鉢は村山鍛三に学び

 

ほかにも人相学・医術・風水・土木・生け花

茶など学んだと言われている

 

薩摩で禁制していた

キリスト教、浄土宗を

 

琉球侵攻(1609年)後、支配していた

琉球においても禁制にした

 

禁教の浄土宗の一信徒であったが

本願寺から了覚と言う法名与えられ

 

その熱心さから布教し続けていた

特に遊女に布教していた、

 

その実は大きく三百人を超える信者が帰依し

目立つようになり拠点を自宅に移し

 

中山子尼講社と称する講社を結成し活動するが

王府に発覚し詮議の結果

 

石垣島へ、無期の流刑となった

仲尾次政隆45歳の頃と言われている

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仲尾次盛隆【1】

2020年11月01日 00時06分59秒 | 日記

  仲尾次盛隆とは

伊波譜猷の著書(1926年)

真宗沖縄開教前史―仲尾次政隆と其の背景で

 

仲尾次盛隆の生涯と禁教浄土真宗の信仰に基づく

実践とその活動が記されている

 

また知名定寛の琉球仏教史の研究(2008年)で

仲尾次は沖縄の浄土宗真宗にとって

 

極めて重要な役割を果たした人物で

沖縄仏教史の中でよく名が知られた人物として紹介している

 

仲尾次は那覇泉崎で1810年

士族の家で生まれる

 

仲尾次の家系は

京都の中村氏で五代前の中村孫之極にいたり

 

彼の孫の代に薩摩、久志浦に移住し

そこで生まれたのが仲尾次の父中村宇兵衛である

 

宇兵衛は交易船を所有して沖縄を始め

諸藩との貿易・運送に従事し

 

財を成し那覇泉崎に居を構えた

 

中村宇兵衛は、久志浦に妻子がいたが

琉球においても

 

久米村の思加那を妻に迎え

政栄・正明・政隆・政根・政記と五人の子供を儲ける

 

中村家は代々浄土真宗を信仰していた

政隆は、正光寺の住職八木正蔵に

 

儀式の手順など多くの教を受け

交換した複数の書簡がある、

 

伊波も書簡の事を記述している

政隆は八木正蔵の推挙により

 

本山・本願寺から

了覚と言う法名を与えられている

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菊隱宗意【5】

2020年10月25日 00時00分16秒 | 日記

  尚寧王一行は、将軍秀忠に謁見のため江戸に菊隠も同行した

1610年8月28日の事である

 

そのとき薩摩藩は幕府から琉球の支配権と

奄美諸島を割譲し直轄領地として承認を得た

 

その道中摂政具志上王子が病死している

(静岡市清水区清見寺に葬られている)

 

1611年薩摩から「琉球は古来より薩摩藩の付属国である」と

記述された起請文書に

 

署名を要求され尚寧王と三司官は受け入れ

拒んだ三司官の一人謝名利山は斬首された

 

薩摩藩の支配は明治維新まで

二百七十年続くことになった

 

また貿易管轄権などの「掟十五条」を認めさせられ

琉球の貿易は薩摩藩が握るようになった

こうして間接支配するようになり

 

年貢の上納・貿易の統制

そして江戸上がりなどの義務を負うことになった

 

琉球国は対外的には

独立した王国として存在するようになった

 

尚寧王一行は、1611年8月まで薩摩に滞在した

三年後に帰国した

 

菊隠は、国難のときに対する

功績により大里間切を給地され、

 

その地に西来院を建立し

開山祖菊隠西来和尚と称された

 

僧侶にもかかわらず

摂政同格の加判役王子の位も与えられ

 

そして琉陽国師の称号も賜った

菊隠宗意は老いのため、三司官・諸々役職を辞し隠居、

 

隠居寺の料として知行高四百斛を与えられる

1620年8月7日に菊隠宗意は示寂した

墓は現在も西来院に現存する

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菊隱宗意【4】

2020年10月20日 00時00分17秒 | 日記

  薩摩軍が奄美大島に到着の報告を受け

琉球国は和議を申し入れるため

 

天龍寺の以文を派遣したが、以文は恐れ

隠れて接触すらしなかった

後に勘を蒙ったと言われている

 

薩摩軍が今帰仁運天港に到着したとき

王府は再び和睦の使者として

 

三司官名護親方・茶人の喜案

そして菊隠らを送った

 

戦禍の中をなんとか今帰仁に着き

和睦を申し入れた、交渉の結果

名護親方が人質になり

 

首里で和睦の交渉を行う事が決まった

薩摩軍は進攻し、三月二十九日読谷大湾に上陸した

 

軍は二手に分け本体は陸路で首里を目指した

一方の船隊は那覇港へ

 

四月一日首里に到着し

二日から講和交渉が開始された

 

琉球側は摂政具志頭朝盛・喜案・菊隠ら

八人が列席して始まった、

 

組織的な軍事行動は終結した

四日尚寧王は降伏(無条件降伏に等しかった)し

首里城を下城した

 

五日から城内荷物御改し宝物の目録作成が行われ

十日~十三日かかった

 

五月十五日尚寧王は、薩摩へ連行され、

翌年1610年尚寧王と随行者百余人(琉球側)

藩主島津忠恒と共に、

 

徳川将軍に謁見のため江戸へ向かった

そのとき菊隠も同行している

 

この戦争で薩摩側は、二百人近く戦死者

多数の負傷者が出た

 

琉球は戦兵・住民を含めると薩摩より

数倍あったと言われているが正確な数の記録がない

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菊隱宗意【3】

2020年10月15日 00時01分18秒 | 日記

  1609年、薩摩藩軍、大将樺山久高は

総勢三千人・八十余の艦艇

 

鉄砲七三四挺・弾丸・火薬三万七百放(一艇に三百放)

弓百十七張りで火力重視の構成であった

 

その頃の琉球国の、軍事力組織は約一万人の兵力で

三隊で構成された、三番「ヒキ」と言われた

 

首里城・那覇港湾などの守りであった

弓約五百張りで、鉄砲役二百挺

 

大砲数門保有し那覇の両岸に砲台設置されていたが

武器は主に弓矢が中心であった

 

薩摩軍は、3月4日に山川港を出港した

3月24日には奄美諸島すべてを占領する

 

それを知った王府は、和睦のため日本語に通じる

菊隠宗意を使者として遣わす事になった

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菊隱宗意【2】

2020年10月10日 00時00分16秒 | 日記

  1609年に薩摩軍が琉球国に侵攻してきた

侵攻して来た経緯については諸説あるが

 

歴史学者の先生方はほぼ同じ事を述べている

 

薩摩藩の事情

 

江戸幕府の事情

 

琉球側の事情があったとしている

 

その経緯は、1602年睦奥伊達に

琉球国の船が漂着した

 

その時徳川幕府の命により

1603年に39人を琉球に送還した

 

また、1604年には平戸にも漂着し送還している

後に幕府は薩摩藩を介し謝恩使を派遣するように求めてきた

 

琉球側は無視、繰り返し要求したが

琉球国は応じなかった

 

薩摩藩は改めて大慈寺の龍雲僧らを遣わし説得し

朝聘するよう求めたが琉球国は応じなかった

 

当時幕府の鎖国政策(1612年から始まる)前で

そのころ各藩の商船が多数貿易のため琉球国に出入りしていた

 

薩摩は薩摩藩の朱印状を持たない

船舶との貿易を認めないよう要求したが

 

貿易国の琉球としては到底受け入れる事は出来なかった

それまでの良好関係が崩れ対立関係が生じ

侵攻へと至る過程に大きく影響したと言われている

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菊隱宗意【1】

2020年10月05日 00時00分15秒 | 日記

  菊隠宗意は幼い時に出家得度

円覚寺住持洞観和尚によって剃髪して入寺

 

その後、日本に渡り

京都五山派大徳寺笑嶺宗訢(1490~1568年)より

 

師事を受け禅堂首座にまでなったと言うが

法嗣を受け継ぐことはなかった

 

その後、古渓宗陳(1532~1597年)に師事し、

法嗣を受け継いで古渓僧師より、

菊隠の称号を受け継ぐ

 

菊隠は、十数年の修行仏法の学びを終えて

琉球に帰国し、天王寺住寺となり

琉球において大徳寺の仏法を教え伝えた

 

菊隠は、薩摩藩などとの外交に携わる

 

島津家の家督継承の祝いの時も

紋船で外交使節として

 

度々薩摩を訪問して島津義久・義弘・家久らと

親交があったと言われている

 

その後、円覚寺十八代住持となり長きに渡って勤めが

老齢のため辞し、千手寺に閑居した

 

1609年に、琉球国始まって以来の最大の危機が訪れる

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袋中良定【6】

2020年10月01日 00時00分17秒 | 日記

  袋中は、中国明に渡る機会を待っていたが

その目的を果たすことが出来ず、1606年帰国する

 

琉球国で、三年の滞在期間であった、

渡船を待ちつつ、浄土念仏の布教活動を熱心に行ってきた

 

尚寧王始め王府の高官、一般民衆も帰依し

琉球の人々、文化に多大な影響を与えた

 

袋中が教えた、念仏踊りは

エイサーへと発展し沖縄各地域へと広まり

 

旧盆の時期には

全島で盛んにエイサー祭りが行われ

全国的に知られ、有名になっている

 

袋中帰国、三年後琉球は薩摩藩の侵攻を受け

琉球国王尚寧は薩摩に連行されて行く

 

その後尚寧王は

時の将軍二代目徳川秀忠に謁見するため

 

江戸への道中

京都伏見で袋中と親しく再開した

 

袋中に親筆と賛辞と肖像画・書棚・青貝掛板・クバ団扇・

西湖図など、三十数点余りの宝物、送られた

 

尚寧王直筆の肖像画には

「私は法を譲りて、師を奉げるため、師の像を描き

師が桂林寺を創建された以来我が師と仰ぐ」と記されている

 

尚寧王と袋中上人の親交の深さ、信頼関係が伺える

これらの宝物は、現在京都府の博物館に保管されている

 

袋中良定上人は、

1639年2月23日、八十八歳で入滅する

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袋中良定【5】

2020年09月25日 00時00分26秒 | 日記

  袋中に厚く帰依した

馬幸明が琉球は神国であるのに未だその伝記がない

 

是非とも書いて欲しいと袋中に懇願した

袋中は旅行中の身であることを理由に断ったが

 

あまりに懇願するので

琉球神道記五巻・琉球往来記一巻を著わした

 

檀王法林袋中上人―琉球と京都の架け橋・飯岡西方寺関山記

寤寐集(ごびしゅう)などに、その経緯がしるされている

 

また、馬幸明という人物についても詳しく記述されている

馬幸明は那覇港に勤める士族、国土黄冠の中で

 

最高位となる位階三位で王府の高官であるとしている

しかし、琉球では、王、その一族、上級士族には

 

すべて家譜(系図)を作ることが決められていた

馬幸明に関する家譜がない

 

袋中の著書には、詳しく、多く記されている

そのため実在の人物であると推測されている

 

袋中の著書、琉球神道記から沖縄の正史である、

中山世鑑・地誌・琉球国由来記などは

 

参照、資料とされていることが多々あると

歴史学者の東恩納寛惇は述べている

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袋中良定【4】

2020年09月20日 00時00分20秒 | 日記

  琉球に仏教が伝来したのは13世紀頃

禅鑑が来流し浦添に極楽寺を創建し住寺したと

 

中山世譜・琉球国由来記巻の琉球諸寺旧記序に

仏教が伝来したのが始めてであるとしているが

 

753年鑑真が来流したと云う伝承もある

その後14世紀頃、真言宗・臨済宗が伝来し布教した

 

両派の修行や難解な仏法の教に比べ

浄土宗の教は、易行・易修の教は

ただ念ずるだけで救われ

 

誰でも特別な修行をしなくても

念仏を唱えるだけで救われると教を説いたため

一般民衆に易行易修の信仰が広まった

 

琉球国由来記に「俗にやはらげて」初めて

那覇の人民に伝ふと記述があるように

 

土着信仰の強い

沖縄においてたやすく受け入れられたと記されている

 

浄土宗は、袋中帰国後継承者がなく

また、三年後(1609年)薩摩藩の侵攻があり

 

1659年薩摩で行っていた禁教を沖縄においても

キリスト教と浄土宗を禁教とした

 

そのため浄土宗は次第に衰微していった

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袋中良定【3】

2020年09月15日 00時00分25秒 | 日記

  袋中は以前より

中国明に渡り仏法を学びたいと望んでいた

 

五十二歳(1603年)の時

意思を固め郷里の磐城を旅たち

 

明への便船を求め九州の長崎平戸より

出国したとされている

 

しかし当時は日本と中国明との関係は断絶状態であり

日本人は入国出来なかった

 

やむなく琉球に渡り

そこで渡明する機会を待つことにした

 

袋中が琉球に渡った経緯については

「袋中上人絵詞伝」と

 

「檀王林袋中上人―琉球と京都の架け橋」に

詳しく記されている

 

袋中は渡船を待つかたわら

念仏布教を熱心に活動していく

 

士族で王府の高官那覇港に勤めていた馬幸明が帰依し

また、儀間真常も深く帰依する

 

儀間真常は沖縄の五大偉人の一人である

中国から伝来したウム(甘藷)の普及、

 

砂糖の制法の伝播、琉球絣の木綿栽培、織などの

沖縄の産業の基礎を築いた人である、

 

袋中から儀間真常に「麻性家譜」に

袋中直筆の「受了徳公」書を賜ったと記された

掛け軸が残されている

 

時の七代目尚寧王も

袋中に厚く帰依して松下町に桂林寺を建立し

袋中は居寺し布教活動をしていく

 

多くの人々の信仰を集め

沖縄の文化に大きな影響を与える

 

「袋中上人絵詞伝」や

「檀王林袋中上人―琉球と京都の架け橋」に

詳しく記述されている

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