新 ノ 城  Okinawa

おきなわを サラ・さらっと 視る

  

ユタ 【4】

2021年01月20日 00時00分15秒 | 日記

  ユタは入巫や成巫の過程で創出した特殊な神を奉じ

それが生涯にわたる守護神として信仰の対象となる

 

ユタはこの神霊の世界の一分野に即応する

巫儀の執者となる

 

言い換えればユタごとに

それぞれ管掌する専門領域が制限され先祖の

 

系統を捜すのが得意なユタ

死んで間もない人の判断が得意なユタなど

 

その専門分野が分れている

ユタは自らに憑依する霊的存在が

 

祖霊・死霊・精霊のいずれであるかわ重視しないと言う

超自然観を持つが神観念の曖昧性がその

 

影響度を低下させないようである

ユタ信仰には戒律も教義もないため

 

婚姻の有無や処女性なども問わない

ユタは、公的祭儀は行わないが神に仕えており

 

御嶽を巡って神と交信し霊障や病氣

冠婚葬祭などの問題を中心に助言を行い

 

加えて公徳心や道徳を説くことが多い

教義、戒律の希薄さから無宗教化が進んでいる

 

一例として、一般にユタの祭壇には

仏教や神道、キリスト教などの

偶像や牌などが無秩序に並べられている

 

また、ユタは必ずしも正業ではなく

副業として行っている者も多い

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ユタ 【3】

2021年01月15日 00時02分35秒 | 日記

  ユタになる運命は生まれたときから定まっていると

信じている沖縄の人々は少なくないと

 

桜井徳太郎は述べているが

彼が面接したユタもまた例外なく

 

ユタになるのは宿命であったと答えている

宿命であると考える理由を問うと

 

サーダカンマリであると言う

「性高い生まれ」と訳される資質は

 

神霊・死霊・精霊の霊界と交渉を持ち

巫女として超自然的超越者の意志を聞くことができる

 

聖職者となるために備え持つ基本的資質であり

不可欠な要件である

 

サーダカンマリの素質は神に選ばれた者ののみに

与えられるとユタは信じているが

 

選ばれているユタは最初から思っているわけではなく

巫事(ユタグトゥ)を積み重ねるうち次第に形成されている

 

沖縄では幻覚症状を伴った無意識行動を取ることを

ターリィと言い、その内容が神事

 

つまり神々に関係がある場合にカミダーリィと言う

しかし夢遊病者的行動に出るのは

 

神の導きによって生起すると見られるので

ターリィ全般をカミダーリィと言うことが多い

 

このカミダーリィは

精神病者である狂人(フリムン)

 

物狂い(フリトゥーン)

狂暴(フラーグァ)とは区別される

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ユタ 【2】

2021年01月10日 00時00分48秒 | 日記

  ユタの語源を「ユンタク(おしゃべり)」

あるいは神がかりの時、体が「ユタめく(揺れる)」

ことから名付けられたと言われている

 

ユタと言う、ユタ業はどのように成立したか諸説あるが

断定されていないと言われている

 

伊波普猷は、信託を宣伝すべき神人の中に

その様な力を持たない名ばかりの者がおり

 

かわって信託の宣伝する者が民間に出て

職業とするようになったのが

 

トキまたはユタと称する者であると述べ

ユタがノロ(神人)から分化したのだと考えを示した

 

また、ユタと言う語とユンタ(しゃべる)と

言う語の間には内容上の関係があるかもしれないと述べている

 

桜井徳太郎は、部落共同体のシャーマンであった

ノロ(祝女)や根神が中央集権的琉球王府の

 

官僚的祭司体制に編入される際に

公共祭祀以外の宗教的機能を担った

 

呪術的宗教者が現れたとし

そうしたアウトローの呪術的宗教者は

 

地域社会の民間信仰といっそう密着しながら

在地性を発揮して民衆の要望に応えることになった

 

そして終に官僚化した司祭者ノロ(祝女)と

袂を分かったのだと述べている

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ユタ 【1】

2021年01月05日 00時00分17秒 | 日記

  ユタとは

おもに死霊の憑依を受けてトランス(入神状態)に入り

その託宣を述べるものを「ユタ」と呼ばれる

 

個々、家族、部落、村落や私的な、祈願事運勢

病気などの指針的信仰に関与している

 

ユタになるものは必ず原因不明の病気が随伴する

カミダーリィと呼ばれる状態を通過体験する

 

このカミダーリィは、巫病の性格

内容を典型的に備えたものであり

 

カミダーリィになる者は悩みに悩んだ末

ユタに運命判断を求めユタになる

 

道順の手ほどきを受けてユタになる

ユタという職能者の成立については

 

ノロなどの神人から文化したという説を

伊波普猷は唱えている

 

 *今年も皆様のグロブを訪問し投稿を拝見したさいに

          読ませて頂いて、有難うの意味を込めて

           全て、ポチッと、押させて頂きます*

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謹賀新年

2021年01月01日 00時00分23秒 | 日記

             謹んで新春のお慶び申し上げます

             

       旧年中は当ブログへの訪問,コメント、アクション、フォロー

 

                  有難う御座います

                 

           皆様には素晴らしい一年と成りますように

                       

                  心からお祈り申し上げます

                                 

 

               今年もこのブログへの訪問お待ちしております             

            

           毎月、1日・5日・10日・15日・20日・25日に投稿する予定です

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ノロ 【5】

2020年12月25日 00時00分27秒 | 日記

  聞得大君は

首里城内の10の御嶽と斎場御嶽を

掌管し全国の「ノロ」たちを支配していたが

 

ノロの任命辞令は国王が行っていた

 

聞得大君の下には

それ以前から有力な神女である

阿応理屋恵佐司笠などの「君」や

 

首里の三間切をそれぞれ掌管する

3人の大阿母良礼(おおあもしられ)がおり

その下に各地方を統括する「大阿母」たち

 

さらにその下に各地域の祭祀掌管する

「ノロ」を配する階層構造を形成していた

 

なお、高級神女たちを総じて「三十三君」と呼んでいた

33人ではなく(三十三は大勢と言う意味)

 

そのほとんどは首里に存在し

王家となんらかの血縁関係にあったと考えられている

 

この神女体制は17世紀中ごろ形骸化し

ほとんどの高級神女職は廃職された

 

ちなみに、この時期に残った三十三君は

今帰仁の阿応理屋恵

(一度廃職後18世紀に復活現在は廃職)

 

伊平屋の大阿母(昭和5年廃職)

久米島の君南風(チンペー)の三職のみで

いずれも首里に上らない地方在住の「ノロ」である

 

しかしその後も各地域の「ノロ」職は存続を続け

多くが現在まで各地に残っている

 

なお聞得大君職は王国滅亡後も長く存続し

太平洋戦争中の1944年就任した

 

第18代・恩戸金翁主を最後に

大戦後に廃職となっている

 

現在三十三君にあたる高級神女では

久米島の君南風(チンペー)職が

久米島最高位の「ノロ」として存続している

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ノロ 【4】

2020年12月20日 00時00分15秒 | 日記

  聞得大君とは

尚真王の治世に、全国の神女体制を整理し

 

沖縄の信仰と

統治機構を一体化した全国的な祭政一致を確立した

 

「ノロ」という呼称はその時に

神職の正式名称として制定されたものだが

 

祭祀制度そのものはそのとき初めて

制定されたものではなく

 

以前から各地域に女司祭がおり

各地域の祭祀を行っていたと考えられている

 

尚真王はすでにあったものを整備し

中央集権的に階層化したのである

 

ノロにあたる女祭司を総称して便宜上「神人」と通称される

 

尚真王時代に

全国のノロの頂点として制定されたのが

「鳴響む精高子(とよむせだかこ)」

(名高き霊力溢れる君)の

異名を持つ聞得大君だった

(聞得大君は「最も名高い君」と言う意味)

 

聞得大君は琉球王国を

守護する国王の「おなり神」であり

王国守護し豊穣をもたらす「おなり神」とされた

 

事実、初代の聞得大君は

尚真王の妹である

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ノロ 【3】

2020年12月15日 00時00分16秒 | 日記

  ノロは豊穣を願い

災厄を払い、祖先を迎え

 

豊穣を祝うといった時期にある数多くの

祭祀において神を自身に

 

憑依させる依り代になることが

存在意義であるため

 

戒律や経典はなく

他の宗教のように民衆に啓蒙する

神の教えなどはない

 

また、偶像崇拝はしない

御嶽にあるイビ石などが神体として崇拝されるが

いわゆる「依り代」に対する尊崇である

 

特に処女性は問わないが

既婚か独身か

年齢要件などは現在も確認される

 

琉球国の最高位のノロである

聞得大君の2代目までが

生涯独身であったことや

 

聞得大君以前からの由緒あるノロである

阿応理屋恵職が生涯独身だったという記録もあり

 

以前には処女性が要求されたと考える説もある

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ノロ 【2】

2020年12月10日 00時00分15秒 | 日記

  ノロは、世襲制で

ノロ殿内(どぅんち)の家系から出ることになっている

 

ノロの多くは、王府より任命され

各地域を統治する按司(あじ)の

肉親(妹、姉、妻)と考えられている

 

これは、沖縄の信仰の背景にある

「おなり神」信仰に由来すると考えられている

 

新たなノロの就任に当っては

久高島のイザイホーに代表されるように

それぞれの地域で認証儀礼があった

 

ノロは原則として終生職であるが

三代後(祖母から孫娘)に霊格である霊威(セジ)が

引き継がれると考えられている

 

ノロには決まった服装はないが

着流しの白装束であることが多い

 

また草の冠(神カムリ)などの草装も見られる

そうした異形の装束は神が憑依していることを

意味している

 

また装身具として

勾玉を身に着けることも多く見られる

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ノロ 【1】

2020年12月05日 00時00分18秒 | 日記

   ノロとは

沖縄の信仰における女司祭、神官、巫(かんなぎ)

 

地域の祭祀を取り仕切り

御嶽を管理する、ヌール、ヌルとも言う

 

琉球国王尚真王(1477年~1526年)の

時代に制定されたと言われている 神職

 

沖縄の信仰はアニミズムと

祖霊信仰を基本とするもので

 

海の彼方のニライカナイと

天上のオボツカグラの他界概念を想定する

 

これらの他界に太陽神(ティダ)を

始めとする多数の神が存在し

 

また生者の魂も死後にニライカナイに渡って

肉親の守護神になるとされる

 

こうした神々は

時を定めて現世を訪れて豊穣をもたらし

人々を災難から守護すると考えられている

 

宗教概念上「ノロ」はこれら沖縄の神々と

交信することが出来る存在であり

 

また祭祀の間はその身に神を憑依し

神そのものになる存在とされている

 

そのため、「ノロ」は

神人(かみんちゅ)とも呼ばれる

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おなり神【2】

2020年12月01日 00時00分16秒 | 日記

 男が政治を行い

神に仕える女がその男を霊的に守護し、神事を司り

 

信託を受けて霊的に

指導するという祭政一致制の基盤となり

この原則は集落から国王まで一貫されている

 

集落のもっとも古い宗家の主人は

根人(ニーッチュ)と呼ばれその妹は

集落の祭事を司る根神(ニーガン)となる

 

さらに領地を統治する按司(アジ)の妹は

その領地の祭事の司祭である「ノロ」となる

 

そして国王と

「ノロ」の最高位の

聞得大君もまた「えけり」と「おなり」の

強固な関係で結ばれて

 

「おなり神」の持つ霊的守護力の概念が

兄から家族、家族から集落、集落から地域

地域から国王へと拡張して行く

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おなり神【1】

2020年11月25日 00時00分18秒 | 日記

 おなり神(をなり神)とは

妹(おなり・をなり・うない)が

兄(えけり)を霊的守護すると考え

 

妹の霊力を信仰する沖縄の信仰

兄(いきが)の守護者として妹を

 

神格化して呼称するもの

民俗学の伊波普猷が述べている

 

沖縄の女性一般に霊力が強いと

考えられており、ノロ(神女)や

シャーマンである「ユタ」も女性である

 

この霊力は特に兄弟(イキガ)を守護すると

考えるものが「おなり神」信仰である

 

おなり神信仰は

沖縄宗教の基本概念の一つである

 

「おもろさうし」の中に「おなり神」を

詠んだ「おもろ(歌)」が数多く見られる

 

妹を兄の「おなり神」と呼び

妹を神格化する

 

この信仰から

男は漁や戦争に行く時は

 

妹の毛髪や手拭をお守りとして

貰う習俗があった

 

この思想が琉球王国の

祭政一体制の基盤を作ったと考えられている

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仲尾次盛隆【5】

2020年11月20日 00時00分15秒 | 日記

 政隆の尽力によって宮良橋は完成した

その時、島民は喜び盛隆を称え謡を作った

 

仲尾次主(シュー)ヌウ陰(カギ)ニ ~ 仲尾次様のお陰で

宮良(メーラ)大川(ウーガー)ヤ  ~ 宮良大川に

 

宝橋カキティ            ~ 宝のような橋が出来

見事(ミグトゥ)デムヌ       ~ 見事なようすです

 

宝橋上(ウイ)カラ         ~ 宝の橋の上から

通(カ)ユルヒトゥヤ        ~ 通う人々は

 

眼眉(ミマユ)打チ張(ハ)リティ ~ 目眉が生き生きとして

笑(ワラ)イフクイ        ~ 笑顔に満ちている。

以下略する 

 

また、頌徳碑と言う石碑も建っている

盛隆の赦免運動を官民上げて行い

 

嘆願書を王府に提出され終身流刑だったが

1865年に放免となった、実に11年の流刑で那覇泉崎に戻り

 

政隆は6年後1871年7月8日、65歳で永眠する

仲尾次政隆は信仰に基づく実績と活動は評価される

 

無期流刑の中にあっても、信仰は深められ

信仰者として社会実践は奇跡であると

 

伊波普猷は著書の中で述べている

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仲尾次盛隆【4】

2020年11月15日 00時00分17秒 | 日記

  八重山諸島石垣島に宮良節と言う民謡がある

政隆が流刑となり石垣島に居していた時に

 

宮良橋の建設に尽力をつくした

功績を称え作られた歌であると言う

 

宮良川(めーらかーら)は石垣島最大の河川である

この河川に初めて橋が架けられたのは、

 

1658年である宮良橋は東西を結ぶ

島民にとっては重要な橋であったが

 

災害(主に台風)のために何度も破壊され

その度に修理や掛け替えが繰り返さてきた

 

1771年八重山地震による明和大津波によって

宮良橋は破壊された

 

その後、橋は架けられることなく

島民は干潮時を待って歩いて渡り満潮時には渡船を利用し

 

不便を余儀なくされていた橋は90年間再建されなかった

1860年に百二石余りの建設費をかけて、工事が始まる

 

その時流刑で前栄里に居していた

政隆は私財を投じて中心的な役割を果たした

 

長さ約135メートル・幅3.6メートル

高さやく4.2メートルの木の橋が、

1861年に完成したがその翌年台風によって破壊されたが

 

政隆は再度私財を投じて橋を復興させた

人々は橋の完成を喜び

 

民謡、宮良節を作り盛隆を称えた

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仲尾次盛隆【3】

2020年11月10日 00時00分15秒 | 日記

  政隆は禁教の浄土宗を布教したと言う理由で

石垣島へ終身流刑となった

 

政隆が記した、配流日記に石垣島に行く前に

座間味島に一年半ほど滞在し

 

1856年11月に息子と二人の共が同行して

流刑地石垣島に12月1日真泊に入港したと記されている

 

石垣島での生活は拘束もなく妻を得て子供を儲け

船を持ち貿易・事業などに従事して

 

流刑人とはおもえない自由な生活をしている

石垣島で11年間の記録を記した配流日記に

 

島での出来事を詳細に記述されている

日記の中に島の生活で詠んだ

 

和歌542首、126首の琉歌が記されている

石垣島では、和歌・琉歌の関心は高く

 

政隆は島の知識人や

僧侶・上級役人などとの和歌、琉歌を

通して交流を持ち人間関係を深めていった

 

仲尾次政隆は自身の資産だけを増やすことなく

以前から、王府へ台風や干ばつ(2回)や

 

王子らが薩摩へ行く旅費

また徳川将軍の即位に行く旅費

 

学校の建設費などの多額を献上し

無利息の貨与などもしている

 

中村家・政隆は信仰者として社会に貢献し還元している

仲尾次家の家譜に記述されている

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