新古今和歌集の部屋

軒端の梅は我をわするな -式子内親王墓の推定について-その2

3 幻の常光院
 常光院については、明月記の正治元年七月十七日に、出羽守基定の細君が、嫉妬により、常光院に行って、浮気相手を打ちすえて、大炊御門殿まで参上して子細を訴え、式子内親王の後見である民部卿吉田経房が、常光院の管理者を召し出して責め立て、検非違使まで呼ぶ始末となった事が記されている。しかし、吉田経房の日記吉記には、常光院に関しての記載が全くない。後見であり、後白河院の遺領の管理も任されていたと、この記事にはあるにも関わらずである。九条兼実の玉葉にも後白河院の遺領の処分については、殷富門院の金剛勝院についてのみ記載があり、それ以外は公家に任せられた荘園について詳細に記載がある。

明月記 正治元年七月
十八日天晴る。…略…
人云ふ、出羽守基定の細君代《院の御時に髪上げ》、嫉妬に依り、常光院に行き向ひ《齋院の御預り》、件の女を引き入れ、打ち調ず。件の女、女に從ひ、齋院に參ず。并びて、此の子細を訴へ申す。民部卿之を聞き、執行に仰せ、彼の院の預りを召し出して勘発、検非違使に及ぶと云々。刑罰、法に過ぐるか。共に以て不思議なり。下女と雖も、心操弾指すべし。女の髪、多く彼の御堂の廊に落ち散ると云々。

そこで、京都市周辺の常光院(常行寺、常行堂外)について、みてみると
①六波羅、②金戒光明寺常光院、③建仁寺常光院、④聖護院、⑤聖護院照高院、⑥法勝寺常行堂、⑦法成寺常行三昧堂がある。
①六波羅は、平家が西へ都落ちした時に焼き払われたと吉記にある。その附近にある常行院は、浄土宗西山禅林寺派の寺院で慶長年間創立。

②金戒光明寺常光院は、法然が建立した金戒光明寺の坊として、天正五年(1577年)法誉一岌法師が明寿院を建立。正保元年(1644年)常光院と改めて再興。永禄七年(1564年)栖松院建立し後に常光院と合併したもの、八橋検校(箏曲八橋流祖)の墓があるので有名。

③建仁寺常光院は、源頼家が建立、栄西が開基した建仁寺の坊で、開基は温仲宗純(?−1511年)。慶長9年、三江紹益に帰依した木下茂叔が堂舍を直した。温仲が明応2年(1493年)に今熊野から建仁寺に移した福聚院を合し、明治5年(1872年)には春松軒も合した。

④聖護院は、智証大師円珍開基 常住院を、増譽の白河上皇熊野御幸の案内の功により白河院として御賜された。三世覚忠の時、聖護院と号す。静恵法親王より宮門跡となった。聖護院のホームページによると、常住院ではなく常光院とある。

⑤聖護院照高院は、 聖護院門主の退隠所。妙法院に道昭が開基したが、方広寺鐘銘事件で廃寺。元和5年に興意法親王が伏見城の建物を譲り受け、北白川に再建。白川御殿、雪輪御所とも呼ばれた。明治元年智成親王が門主となるも、5年に薨去。8年兄の北白川宮が東京移住とともに廃寺。

⑥法勝寺常行堂は、山城名勝志 十四愛宕郡に常行堂《帝王編年記云、爲賢子中宮御菩提也。百練抄同之》とある。賢子中宮(藤原 賢子 天喜4年 -応徳元年9月22日 白河天皇の中宮、堀河天皇の国母。父は右大臣源顕房、母は源隆俊の女隆子。太政大臣藤原師実の養女。)菩提の為建立。

⑦法成寺常行三昧堂は、藤原彰子(上東門院)発願で、京極の法成寺の区域の東北にあったこと、東北院と称せられた。承安元年の火災で全焼し同年中に再建され、応仁の乱によって再び焼失し、以後は荒廃。一時期時宗寺院として再建に務められるが、元亀元年戦火で焼失。その後、元禄5年の火災で再度焼失し、その際真如堂などとともに移転を命ぜられて左京区浄土寺真如町に移った。

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