新古今和歌集の部屋

軒端の梅は我をわするな -式子内親王墓の推定について- その1

(ウェッブリブログ 2015年03月15日~)

眺めつる今日は昔になりぬとも軒端の梅は我をわするな
式子内親王 正治二年後鳥羽院初度百首

 建仁元年1月25日薨去 旧暦の命日に寄せて

1 はじめに
 式子内親王(久安5年- 建仁元年1月25日)は、父後白河天皇(建久3年3月13日崩御)、母藤原成子(安元3年3月11日 高倉三位局。権大納言藤原季成の娘)の皇女として生まれ、同母弟 守覚法親王(建仁2年8月26日寂滅。仁和寺第6世門跡)、同母姉 亮子内親王(殷富門院 建保4年4月2日崩御 斎宮)、同母姉 好子内親王(建久3年7月3日薨去 斎宮)、同母妹 休子内親王(嘉応3年3月1日薨去 斎宮)、同母弟 以仁王 (治承4年5月26日戦死)がいる。又全国に二百ヶ所以上の荘園を有する実力者の伯母 暲子内親王(八条院 建暦元年6月26日崩御)がいた。

 式子内親王の墓所については現在は不明で、後の室町時代の伝説により、謡曲「定家」が作られ、今出川千本通の定家の時雨亭にあるとされた。

 しかし内親王がここに葬られている事はなく、謡曲「定家」により、藤原定家の妄執の思いがテイカカズラとなって、墓にまとわりつき苦しめているなどという伝説が、現在も内親王を貶めている現実がある。そもそも定家は、後には和歌の大家となったが、当時は式子内親王に仕える竜寿御前の使い走りをしていただけの少将であり、決して式子内親王の恋愛対象となることは有り得ない。

 そこで、様々な日記等より、式子内親王の墓所を推定することとする。

2 謡曲「定家」
 謡曲「定家」は、三番目物で金春禅竹作。北国の僧一行が、都に上り千本辺りで時雨が降り出し、庵で晴れ間を待つ間女が現れ、ここが定家卿の時雨亭と教え、蔦葛にまとわれた式子内親王の墓に案内する。内親王は定家との秘めた恋が世間に漏れ始めたため、二度と会わずにこの世を去ったが、定家は、思いは晴れず、死後の執心が蔦葛となって墓にまとわりついていると語り、自分こそ内親王と告げ、救いを求めて姿を消す。所の者が僧の問いに答えて定家葛の由来を語り、供養を勧めて退く。
その夜読経し弔っていると、痩せ衰えた内親王の霊が現れ、薬草喩品の功徳で呪縛が解け、苦しみが和らいだと喜び報恩の舞を舞い、再び墓の中に消えると定家葛にまとわりつく。

というものである。

謡曲「定家」
ワキ:急候程に、是ははや都千本あたりにて有げに候、暫く此あたりに休らはばやと思ひ候。面白や比は神無月十日あまり、木々の梢も冬枯れて、枝に殘りの紅葉の色、所々の有樣までも、都の氣色は一入の、眺め殊なる夕かな、荒笑止や、俄に時雨が降り來りて候、是に由有げなる宿りの候、立寄り時雨を晴らさばやと思候。
シテ女:なふなふ御僧、其宿りへは何とて立ち寄り給ひ候ぞ
ワキ:唯今の時雨を晴らさむために立寄りてこそ候へ、扨ここをばいづくと申候ぞ
女 それは時雨の亭とて由ある所なり、其心をも知ろしめして立寄らせ給ふかと思へばかやうに申なり。
ワキ げにげに是なる額を見れば、時雨の亭と書かれたり、折から面白うこそ候へ、是はいかなる人の立置かれたる所にて候ぞ。
女:是は藤原の定家卿の建て置き給へる所なり、都のうちとは申ながら、心凄く、時雨物哀なればとて、此亭を建て置き、時雨の比の年々は、爰にて歌をも詠じ給ひしとなり、古跡といひ折からといひ、其心をも知ろしめして、逆縁の法をも説き給ひ、彼御菩提を御とぶらひあれと、勧め參らせん其ために、これまで顯れ來りたり。

 この「都千本」、「時雨亭跡」という伝承により、千本今出川の京都市立嘉楽中学校近隣の般舟院御陵の横とされた。そもそも、千本通は、旧朱雀大路で、今出川は洛外とはいえ平安京大内裏の玄輝門の裏となる。ここに隠居後の時雨亭を作ったとするにも無理がある。

2 後白河院遺領「常光院」
 建久三年三月十三日に六条西洞院殿で崩御された後白河法皇は、玉葉建久三年二月十七日及び十八日によると、生前自分の所領を、内親王に遺産し、また多くの所領(白川御堂等、蓮華王院、法華堂、鳥羽、法住寺等)は公家が決めるとした。ただし、白河の金剛勝院については、亮子内親王(殷富門院)に残すとしている。

玉葉 建久三年二月
十七日辛庚申晴。晩に及び院に參る。昨夜殊夜の外辛苦し給ふと云々。その後落居すと雖も猶快からずと云々。右大臣《兼雅》に謁す。密に御処分の事を語る。北面の下臈等競ひて新立の荘を立つ。甚だ不便。然れども力及ばずと云々。大途公家の御沙汰と云々。尤も珍重なり。子細故らにこれを記さず。次に參内し宿し候ふ。明晩行幸に依りてなり。
十八日 …略…申の刻還御の後、丹二品法皇の御使となり參上し、申さるる事等あり《余院の御氣色に依り、御前に候ふ。故らに詔旨を承る。女房の示すに依るなり》。白川御堂等、蓮華王院、法華堂、鳥羽、法住寺等皆公家の御沙汰たるべし。自余散在の所領等、宮達に分かち給ふ事等あり。聞し食し及ぶに随ひ、面々御沙汰あるべしと云々《この外、今日吉、今熊野、最勝光院、後院の領、神崎、豊原、會賀、福地等、皆公家の御沙汰たるべし。但し金剛勝院一所、殷富門院領たるべしと云々》。この後処分の躰、誠に穏便なり。

 明月記三月十四日によると、式子内親王は、大炊御門殿と常光院を遺産したとある。しかし、住んでいた白河押小路殿は、殷富門院が相続することなったため、大炊御門殿に移ろうとするが、既に間借りしていた九条兼実から無視され、やむを得ず後見をしていた吉田の吉田経房の別邸に移ることとなった。

明月記 建久三年三月
十四日丙戌 朝後陰る。申後小雨。午の時許りに院に參ず。人々多く參入す。法王御尊号、後白河院と云々。
…略…
人々云ふ、殷富門院御受分け押小路《彼御後主上の御領となすべし》、宣陽門院《六条殿、長講堂已下事、庄々等》、前齋院《大炊殿、白河常光院、其の外の御庄両三分け奉らると云々》、前齋宮花園殿《仁和寺》、法住寺殿、蓮華王院、六勝寺、鳥羽等惣て公家の御沙汰となすべし。
即ち寳倉以下、殿下御封を付けらるると云々。爲保出家。自餘大略虚言。

玉葉 建久三年五月
一日壬申雨降る。…略…
前齋院(式子内親王)この亭に渡らるべし《法皇の処分によるなり》と云々。仍つて兼親を以て使となし、右大臣並びに經房卿に触れ遣はす《件の卿、かの齋院の御見たりと云々》。夜に入り歸り來たり云はく、
右大臣云はく、公家の御沙汰、法住寺の萱御所、若しは西八條泉御所等、齋院暫くおはします。尤も然るべし。但しかの宮の事進退する能はず。戸部に触れ仰せらるべしと云々。
經房云はく、日來事の由を申すべき旨、頻りに仰せあり。然れども心無きに依り申し出でずと云々。今この仰せあり。早くかの宮に申し、御返事を申すべし。若し渡御すべくば、五月忌あり。六月渡り給ふべしと云々。…略…

 この常光院について、式子内親王薨去1年後、明月記建仁二年九月二十五日に、姉の竜寿御前が、定家と会い、常光院にまめに行っていると告げる。
二十五日は、式子内親王の月命日に当たる。つまり、式子内親王は、常光院に埋葬されたこととなる。

明月記 建仁二年九月
廿五日 天晴る。竜御前渡らる。常光院に実(まめやか)に參ずと云云。

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