新古今和歌集の部屋

軒端の梅は我をわするな -式子内親王墓の推定について その3

4 常光院の所在
 多くの常光院候補がある中で、①は寿永二年(1183)年7月の平家都落ちの際、焼失している。③は建仁寺自体が、式子内親王薨去後の建仁二年(1202年)建立。⑤は桃山時代の開基となっている。⑦は薨去当時は白河にはない。
 ②は、石丸晶子氏が法然と式子内親王との関係を明らかにしていることから、浄土宗の関係で菩提を弔ってもらったとも考えられるが、金戒光明寺の当時は単なる一草庵であり、今の大伽藍を有する大本山寺をイメージはない。常光院自体は安土桃山時代に建立され、江戸時代に常光院と改名されていることから無関係と考えられる。
 残るのは、④聖護院と⑥常光堂となる。聖護院については、静恵法親王以来門跡として格式を持っているが、応仁の乱において主戦場となったため、詳細は不明となってしまった。当時のもう一つの門跡であった仁和寺は八条院領内にあり、聖護院が皇室の所領だった事も考えられる。常光堂については、法勝寺内にあった御堂であるが、法勝寺自体が広大な敷地を構えた白河院の菩提寺であるため、その一部を伝領したとも考えられる。常光堂を定家が、屏で囲まれていて、常光院と呼んでいたのかも知れない。
 法勝寺場所は、(財)京都市埋蔵文化財研究所によれば京都市動物園一帯とのことであり、法勝寺北に有ったとされる俊寛僧都の住居跡は今の満願寺(左京区岡崎法勝寺町)とのことである。同研究所の法勝寺復元図によると常光堂は寺の北東部に位置していたとあることから、常光堂の場所は今の私立学校共済の白河院となる。

5 式子内親王の墓の所在
 式子内親王の菩提を弔う寺であった常光院内に彼女の墓があったとは考えにくい。その時代の待賢門院陵と娘の上西門院統子陵は、仁和寺法金剛院裏の小山、八条院陵は常磐殿近隣の小高い場所にある。所領した寺院の近隣で埋葬されたと考えられる。

 金戒光明寺の黒谷周辺には、後一条天皇陵、陽成天皇陵、冷泉天皇陵や清和天皇を荼毘した火葬塚と皇室関係陵がある。

京都市左京区南禅寺下河原町墓陵 尊良親王(たかよししんのう ?~1337 生年1306~11の諸説あり)墓

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