議員だよりでは、紙面の都合上掲載できなかった伊藤浩之議員の文教経済常任委員会の視察報告を掲載します。伊藤浩之議員のブログに掲載されたものを短くしたものです。原発事故を経験しているいわき市として、水俣に学ぶことは大切なことだと感じました。少しボリュームがありますが、ぜひ多くの方に読んでいただけたらと思います。
全文はこちらでご覧ください。
伊藤浩之ブログ
http://pub.ne.jp/hiroyuki1960/?entry_id=5193142
文教経済常任委員会は、1月23日に熊本県水俣市での視察を行いました。水俣市漁業協同組合で漁協関係者から話を聞き、その後、水俣市立水俣病資料館で「水俣病公害の歴史と現状及び水産業の復興」について説明を聞きました。
視察を終え、浮かんでくるのは「歴史は繰り返す」という言葉です。水俣で起こったことは、原発事故後、まさに本市で起こっていることと同じに見えたのです。歴史を繰り返さないために、水俣から何をくみ取るかが大切だということをあらためて認識しました。
◆水俣とチッソ
被害の実像を知る上で、水俣とチッソ株式会社の関係を抜きにすることはできません。
水俣でのチッソの歴史は古く、1908(明治41)年に、日本窒素肥料株式会社(以下チッソと表記)を設立した時にさかのぼります。以降、化学産業を担う企業として規模を拡大させますが、戦前・戦中は軍需工場でもあったため爆撃を受け工場が破壊。戦後再建されたチッソ水俣工場では、プラスチック製造に必要なアセトアルデヒドが作られ、その製造過程で無機水銀が触媒に使われていました。この工場は、水俣市の人口が約5万7,000人の時代に社員を約5,000人かかえ、多くの市民が何らかの形でチッソに関わり、かつ、市の財政の48%がチッソに依存していました。このため「チッソ城下町、チッソ運命共同体」という強い意識を持つことになりました。

◆経過
チッソは、その排水をそのまま水俣湾に流し続けていました。ある時期から、住民に手足の震えをはじめ運動機能障害などを発症する奇病が発現しだしました。病気の原因は不明でしたが、本格的な原因究明が行われることはありませんでした。
公式に水俣病が確認されたのは1956(昭和31)年です。原因は謎のままでした。熊本大学研究班による原因究明の努力は続けられ、有機水銀説を発表したりしていますが、チッソはこれに反論を加え原因の確定ができないでいました。
厚生省が正式に「新日本窒素(現チッソ)水俣工場の工場排水に含まれたメチル水銀化合物」が原因と認めたのは、68(昭和43)年でした。患者が公式に確認されてから12年も過ぎ、この間、患者は拡大し続けました。
患者拡大を防ぐ機会は何度かありました。
57(昭和32)年、水俣保健所の伊藤蓮雄所長(当時)がネコ7匹を飼い魚や貝を与える実験を行い、早い個体では実験開始後1周間で奇病が発生。しかし、国は食品衛生法による魚等の摂取制限を取りませんでした。
59(昭和34)年にチッソ付属病院の細川一院長が、排水を混ぜた餌をネコに食べさせる実験を行い、ネコに奇病が発生し、原因がチッソの排水にあることが明らかになりました。院長は会社幹部にこの事実を伝えましたが、情報は握りつぶされました。
チッソは、批判の高まりを受け、59年サイクレーターと呼ばれる排水浄化装置を設置。ペーハーの調整と固形物を凝集沈殿させ除去することを目的とした装置で、水銀を除去する能力はありませんでした。しかし、排水はサイクレーターを通さずに直接放流されていたのです。
疑いであっても問題の発生が確認されたときに、国やチッソが対策を講じていれば、犠牲者を増やすことはありませんでした。なぜ対策を講じなかったのか。ここに、津波の危険性の訴えに耳を貸さず原発事故を引き起こした東電福島第一原発事故と、共通する問題があるように思えてなりません。
水俣では、汚染原因であるアセトアルデヒド製造をチッソが中止した後も、汚染魚が確認されました。このため、74(昭和49)年に汚染魚を水俣湾に閉じ込める目的で水俣湾口に仕切り網が設置され、77(昭和52)年に湾内環境を浄化するために汚泥の撤去と汚染魚の捕獲をするなど公害防止策をとり始めました。
汚泥及びドラム缶に詰められた汚染魚は、水銀値が高い湾奥部の約58万㎡を鋼矢板で仕切り埋め立てられました。その後、埋立地には公園などが整備されています。しかし、埋め立ては最終処分ではありません。汚泥等の処分方法は未だ決まっておらず、今後の課題だといいます。

◆被害
水俣では3つの被害が発生しています。
一つは健康被害です。
水俣病では、運動機能障害に加え視野狭窄などの症状も現れますが、これは排水に含まれるメチル水銀(有機水銀)中毒によって中枢神経が障害を受けたことによるものでした。最悪の場合死に至ります。直接接種した住民だけでなく、流産・死産が多発し、胎児期に母親の胎盤を通じて水銀に侵され発症する胎児性の患者も現れました。
二つ目に、患者とその家族への偏見や差別、いやがらせが行われるなど住民が分断されたことです。チッソと運命共同体という土地柄から、チッソを守ろうとする住民が患者や家族に「ニセ患者」「金欲しさ」などの悪罵を投げつけました。
そして三つ目に漁業被害です。水俣湾は良質の漁港で良い魚が獲れる海でした。そこが水銀で汚染され、当然海産物は売れなくなりました。水俣の海で公害防止策がすすめられ、97(平成9)年には熊本県による安全宣言が出されました。以後も毎年2回の海産物検査を実施、安全の確認を行っているといいます。
しかし視察に対応した漁協関係者は、「(裁判の報道など)何かがあれば再びダメージが出る」。風評被害は未だに残っている。水俣の漁業者は未だにそういう実感を持っています。
◆被害者救済や住民分断への水俣市の取り組み
こうした事態に水俣市はどのように取り組んできたのでしょうか。
水俣病を発病し慰謝料等を求める第一陣訴訟に加わった杉本さん一家の経緯をたどった本「のさり―水俣漁師、杉本家の記憶より」には、水俣病により生業の漁業も十分できず、困窮を極め生活保護を申請した時に、漁具等の所有を理由に受け付けられなかった、税の滞納を理由に差し押さえなども受けたという記述があります。こうした措置は、被害者が市に対して深い不信を抱く原因になったようです。1970年代初頭のことです。
その後、杉本家の行政不信が解け始めたことが記述されています。この頃から水俣被害に対する市の取り組みが変わったのでしょう。水俣市は水俣病問題の反省にたって、環境に対する取り組み強化と同時に、長年続いた住民の分断と対立を克服する事業をすすめてきました。
90(平成2)年度には水俣市と熊本県の共同事業として「環境創造みなまた推進事業」が始められました。環境問題に関する国際会議や水俣病問題を正面に見すえた市民講座等を通じて、正しい理解と市民相互の理解や対外的イメージ転換を図るなど、水俣再生に向けた取り組みです。こうした取り組みの結果、長年続いた患者と住民の分断・対立から、正面から向き合って話すことがなかった水俣病(問題)について、人前で話せるようになった、様々な取組に患者・市民・行政が共同した『もやい直し』が進んだ、とされています。
「もやい」とは船と船をつなぐこと、「もやい直し」はそのロープを結び直すこと。水俣病で傷ついた市民の絆を取り戻すために、水俣病と向き合い、理解しあうことで意識改革をはかろうという考えが「もやい直し」です。
94(平成6)年、吉井正澄市長が、第3回水俣病犠牲者慰霊式で、次のように市長として初めての公式謝罪をしました。
「(水俣病被害者は)いわれなき中傷、偏見、差別を受け、心身ともに悲惨な状況に置かれ」ました。「(水俣市は)患者の苦しみを目の前にしながら十分に役割を果たし得たのだろうか、あの時こうすればよかった、こうしなければならなかったのではと悔やまれてなりません。水俣病で犠牲になられた方々に対し、十分な対策をとりえなかったことを、誠に申し訳なく思います。」
視察では、引き続く風評被害の発生など、住民の中のわだかまりが完全に氷解したとは思えない面があることを感じる時もありました。しかし、「もやい直し」は住民の融和を確実にすすめているのだと思います。

◆漁業被害への取り組み
水俣湾では漁をすることができなくなり、漁業を離れる人達も多く、再び漁業に戻るのは困難だったようです。水俣病が問題になる前は400名程だった水俣市漁業協同組合の組合員は、現在、正組合が51名、准組合員が105名、合計156名、「組合員の高齢化もすすみ、厳しい状況」に置かれているといいます。
漁業をできなかった住民には補償があったようです。そして、県から委託された湾内の汚染魚の捕獲漁の手当が漁民の生活を支えました。
しかし、新しく漁業を始めた漁民には補償がありませんでした。現在の水俣市漁協組合長は新規就労者で、シラス漁を行っています。水俣に上がる魚はほぼ地場で消費されるようですが、シラスは「チリメンジャコ」などに加工し関西方面などに出荷されています。ある時、市場関係者から「産地に水俣と書いてくれるな」と言われ、「熊本」とだけ書いて出荷したところ、行政から指導を受けて大変な思いしたといいます。それでも、何の賠償もなかったといいます。
やがて水俣湾口の仕切り網が撤去され、汚泥等の撤去が終了、97年(平成9)年に県が安全宣言を発します。現在も「排水(現在のチッソは製造過程で水銀は使っていないので汚染はありません)を流し続ける迷惑料」の意味合いで漁協に対して年600万円の補償がされています。これは漁協の運営費につぎ込まれて、個人への補償はないといいます。また前組合長は、熊本県による安全宣言が出された以降も魚価が戻らないという印象を持っていると話していました。
困難をどう乗り越えていくのか。シラス漁に取り組む組合長はこう話します。
「品物が認められるまで時間がかかりました。いいものを作って評価をしてもらえるように努力を積み重ねた結果です」。風評の克服は、質の良い物、うまい物を提供する。その努力の積み重ねで克服できると教えてくれました。元組合長は、豊かな漁場作りの一環と思われますが、水作り事業、漁場回復として漁礁の設置などの事業にもとりくんだことを話していました。
◆何を学び何を活かすのか
水俣の歴史と取り組みから何を学ぶのか。
第一に、東電福島原発事故に活かされなかった水俣病問題の歴史そのものに学び、その教訓を活かすということです。
チッソは戦前戦中も国策を支える会社として栄え、戦後もプラスチック製造等の化学産業として高度経済成長を支えました。だからこそ公害による人的被害を知りながら、企業も国も工場を止めるような措置をとらなかったと思わざる得ない状況です。
水俣病資料館では、水銀の排出が止まった時期には「プラスチックが石油から作れるようになり、アセトアルデヒド酢酸の製造は終わっていた」と話していました。チッソのアセトアルデヒド生産設備が操業を終えたのは68(昭和43)年5月、政府・厚労省が水銀を含むチッソの排水が水俣病の原因と認めたのは同年9月でした。この状況を見ると、政府が国策を支えるチッソの利益を守ったようにしか見えません。
原子力発電も、国策のもと進められてきました。過酷事故は起きないという「安全神話」のもとで作られてきたのです。そして、事故収束のめども技術もない中で、政府は原発再稼働の方針を決め再稼働申請を受付け、海外への原発輸出に躍起です。国策のためには住民の犠牲をいとわないという点で、水俣も東電福島第一原発も共通しています。
原発事故は、避難区域の住民には住む土地、耕す土地、働く場所を奪い、長期にわたる避難生活を強いています。いわき市民には、飛び散った放射性物質での被曝に対する不安、原発事故そのものと収束作業に絡んで発生する事故での漁業・農業・観光業・製造業への実害と風評被害、これらの問題から身を守るために市外へ自主避難の選択を余儀なくさせ、家計に重荷を背負わせ、場合によって家族関係に重大な亀裂を産み出すなどの損害を与えています。
国策のために犠牲もいとわないという政府と、それに支えられる企業の利益本位の姿勢を是正させ、水俣から原発事故へと続いた企業経営優先、人命軽視の姿勢を正していくことが求められていると思いました。
二つ目に、住民の分断と対立の歴史を繰り返させないということです。
水俣では、患者と発症していない市民の間に様々な亀裂が生じ、市民が分断・対立する構図が広がりました。そしてこの構図は、質の違いこそあれ、現在も残っていることが実感されました。
対立の原因は、風評被害を恐れたこと。もう一つは、チッソが同市の基幹産業だったこと。また、認定基準に地域による線引きによる賠償の格差が患者間にも分断と対立を生じさせたといいます。
今、本市では双葉郡避難住民と市民の間に軋轢・感情的な対立が続いています。賠償の格差がその要因となっています。こうした賠償の線引きや格差で生じる住民間の対立は、行政の作為によって生じています。文科省は「最低限の基準として(損害賠償の)指針を示した。因果関係のあるものについて東電は相応の賠償すべき」と言い、東電は「国の指針に従って賠償する」との対応をとり、お互いが責任逃れをしています。この結果、損害賠償のあり方に納得ができずにいるのです。
行政がこれを正すよう求めていくことが何よりも求められます。本市では、市長をはじめ市議会も、国や東電に対し十分な損害賠償をするよう求めています。実現させるための市民的共同の発展と世論の高揚、市議会及び市のより強い対応が求めらると感じました。
同時に、本市では、例えば地場産の食べ物に問題がないと考えている方と不安を感じている方の間に、感情的な問題も含めて対立的な状況が生まれつつあるように感じます。その格差は、住民に責任があるのではなく、事故を起こした国と東電にあります。非難は国と東電にこそ向けられるべきですが、現実には住民に向けられることもあります。
放射性物質の不安を取り除いていくために重要なことは、①原発事故にかかわる機敏で正確な情報公開、②その情報を読み解く力を住民が備えること、③特に放射性物質の影響をどう捉えるかを市民的規模で学ぶこと、が大切だと思います。
そのためにふさわしいプログラムと教材を、幅広い専門家の知見を集めて開発し、活用していくことが望まれていると思います。国や東電が実施しないならば、この取り組みを本市独自にすすめ、必要な費用は、国・東電に負担させるべきでしょう。
住民間の感情の行き違いは、原発事故を引き起こした国と東電の責任を覆い隠してしまいます。このことが、原発事故の原因究明を遅らせ、今後の原発政策に対する政策判断をあやまらせ、その結果、発事故を再来させる危険を増大させる要因となります。この点からも、放射性物質に対する理解を広げる取り組みと対話は重要だと思います。
◆結び
チッソと国による公害のために、「水俣=公害病」というイメージが作られてしまいました。「福島=原発事故」というイメージがつくられた今、私たちはどのような姿勢でのぞむことが求められるのか。作りだされたイメージではなく、測定データなどで総合的に安全性が確認しながら住み・食するという姿勢だと思います。
原発事故でマイナスイメージを植え付けられた本市でも、水俣のあり方に学んで今後のまちづくりを進めなければなりません。