古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「改新の詔」と「部民」と「奴婢」

2024年05月07日 | 古代史
 「改新の詔」に先立って「東国国司詔」が出されています。

「大化元年(六四五年)八月丙申朔庚子条」「拜東國等國司。仍詔國司等曰。隨天神之所奉寄。方今始將修萬國。凡國家所有公民。大小所領人衆。汝等之任。皆作戸籍。及校田畝。其薗池水陸之利。」

 この「詔」では「万民」は全て公民(国家所有)という前提(大義名分)が謳われていると思われ、それは諸豪族に対する「牽制」の意義が強いと思われます。それが顕著に表れるのが「土地兼併禁止詔」と云われる「大化元年九月」の「詔」です。

「大化元年(六四五年)九月丙寅朔甲申条」「遣使者於諸國。録民元數。仍詔曰。自古以降。毎天皇時。置標代民。垂名於後。其臣連等。伴造。國造各置己民。恣情駈使。又株國縣山海林野池田。以爲己財。爭戰不已。或者■并數萬頃田。或者全無容針少地。及進調賦時。其臣連。伴造等先自收斂。然後分進。修治宮殿。築造園陵。各率己民隨事而作。易曰。損上益下。節以制度。不傷財害民。方今百姓猶乏。而有勢者分株水陸以爲私地。賣與百姓。年索其價。從今以後不得賣地。勿妄作主、兼并劣弱。百姓大悦。」

 ここでは特に「仍詔曰。自古以降。毎天皇時。置標代民。垂名於後。其臣連等。伴造。國造各置己民。恣情駈使。又割國縣山海林野池田。以爲己財。」の部分が注目されます。そこでは「天皇ごとに」置かれた「標代民」という存在と、「其臣連等。伴造。國造」が置いた「己民」というものが書かれており、この両者については従来「並列的」に存在しているという理解が大勢であったものです。しかしそれでは文意が通らないのは明らかです。もしそう理解するなら「毎天皇時。置標代民。」と云う文が前置されている意味が不明となってしまうでしょう。
 ここは明らかに「標代民」という存在が「其臣連等。伴造。國造」によって「窃取」されており、それが彼らの「己民」とされていて「恣情駈使」されているということを糾弾している文章であると理解すべきです
「標野」というものが「薬草」を採集するために「区画」された領域を示すものであると考えられることの類推から、この「標代民」というものも、他から「区画」され「天皇」のために特別に配置された「人民」を示すと考えられますが、それが「窃取」され、「恣意的」に使用されているということと思われます。
 それはその直後の対句的文章である「又割國縣山海林野池田。以爲己財。」という中にも現れており、「國縣山海林野池田」は本来私的なものではなく「倭国王」の所有にかかるものであるのにも関わらず、それを「割いて」「己財」としていると非難しているわけです。そして今後その様な事態(実体)を認めないという宣言であると思われます。
 従来からもこの宣言における「権力」は「所有権」として発せられているもののそれは全ての諸豪族の権利を上回る「公権力」として発動されていると見るべきという考え方がありましたが、それは「正鵠」を得ていると云うべきであり、ここにおいて「強い権力」が発現したこと、そのような「権力者」が倭国に発生したことを示すものと考えられます。
 その直前の「東国国司詔」では「凡國家所有公民。大小所領人衆。」という表現が見られ、「公民」以外に「人衆」がいたという事を示していますが、その実体は「大小」(これは諸豪族を指すと思われる)の所領となっていた本来「公民」であったものを指すと思われます。
 ここでこれらの詔を通じて表明していることは、全ての民は「公民」であり、「諸豪族」の配下にあるような「民」も本来は全て「天皇の民」であると言う事でしょう。(このことからこの時点の「公民」の中には「奴婢」も入るべき事が判ります。それは「公地公民制」の象徴である「班田制」において「奴婢」にも「班田」が与えられていることからも理解できます。)
 しかし、もちろんこれはその「詔」を出した時点における「大義名分」が言わせる言葉であって、その現在時点における「大義名分」を過去に押し広げたものであるといえます。
 しかし、その直後に出された「改新の詔」ではややニュアンスが異なっています。

 「大化二年(六四六年)春正月甲子朔。賀正禮畢。即宣改新之詔曰 其一曰。罷昔在天皇等所立子代之民處々屯倉及別臣連。伴造國造村首所有部曲之民處處田庄。仍賜食封大夫以上各有差。降以布帛賜官人百姓有差。又曰 大夫所使治民也。能盡其治則民頼之。故重其祿所以爲民也。」

 ここでは「伴造國造村首所有部曲之民處處田庄」について、それが本来「倭国王」のものであるという非難はされておらず、その存在を認めつつ、今はそれを廃止して「食封」に変えるという事を宣言しています。つまり「所有権」が誰に帰するものかはここでは敢えて触れていないわけですが、それはそれ以前に出した「詔」に対する反発が強かったからではないしょうか。つまり「改新の詔」では実体を認める立場に微妙に変わったと考えられます。「窃取」や「横取り」などの感覚はある意味「被害者的」なものであり、また一方的でもあるわけで、それは元々統治能力の低下と関連しているわけですから、諸豪族に対して非難するいわれは本来ないわけです。
 「改新の詔」以前に「東国国司」などを通じて各諸国に伝えられたこのようなある意味一方的な情報に対してかなりの反発があり、その結果既定方針は変えないものの「諸豪族」の元の「部曲」(私奴婢ないしは家人)というものの存在を認めた上でそれを廃止するという事としたものと思われます。 
 ところで「翰苑」という史書があります。「唐」の張楚金の撰によるもので「七世紀後半」の作とされているものです。この中に「倭国」に関する歴史的認識が書かれている部分があります。

(以下「翰苑 蕃夷部 倭國」の全文。また【 】内は「雍公叡」による注を示します)

「憑山負海、鎮馬臺以建都/分職命官、統女王而列部/卑弥娥惑、翻叶群情/臺與幼齒、方諧衆望 」

 この中の「分職命官、統女王而列部」という部分は古田氏の解読によっても「官職を分って任命され、女王に統率せられてそれぞれ「~部」という形に分けられている。」という意とされます。つまり「卑弥呼」の元に「部」という官職が存在していたという記事なのです。
 ご存じのように「倭国」には古代より各種の「部」が存在していました。その起源について考える場合、「卑弥呼」の時代まで遡って考える必要があることを示すものです。
 たとえば、その代表的なものが「解部」であると思われます。これは『豊後風土記』にも出て来るものであり、その起源はかなり古く少なくとも「五世紀代」までは遡上すると考えられます。
 『倭人伝』にも「其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸、及宗族。尊卑各有差序、足相臣服。」という文章があり、これは「律」の存在とその実務を運用する吏員である「解部」の存在を推定させるものですが、それはまた一種の官僚構造の存在をも推定させるものです。
 いつの時代でも「国家秩序」の維持というのは重大事項であり、優先的にこれらに関する制度が決められ、また必要な「部」が決められていたと考えられるものです。
 『古事記』『書紀』を見ると、以下のように各種の「部」が見られます。

(以下例)
「額田部 三技部 雀部 鳥取部 鳥甘部 品遲部 土師部 田部 玉倉部 河上部 楯部 倭文部 神弓削部 神矢作部 大穴磯部 泊橿部 玉作部 神刑部 日置部 大刀佩部 川上部 鷹甘部 春米部 織部 壬生部 葛城部 飼部 車持部 藏部 宍人部 御戸部 廬城部 河上舍人部 史部 漢手人部 衣縫部 漢陶部 畫部 錦部 漢部  山部 山守部 佐伯部 石上部 犬養部…」
 
 以上のように多数に上りますが、いずれも「官僚制」というより「部民制」であり、同じ「部」から発してもそれを「職掌」としていたものが「世襲」になり、その職掌と離れた実体となってもなお「姓」(カバネ)となって生き続けてたものと思われます。つまりこれらについても起源は「卑弥呼」まで遡上するという可能性が強いと考えられることとなるわけです。
 そもそも「倭国」は「殷周」段階から既に「中国流」の制度で運用されていたと思料されます。そして、「漢代以降」はそれら「官僚制」の元に各諸国を統治するための「官吏」が派遣され、彼らの実務を実行するために各種の「部」が置かれたものであり、その後代的なものが『書紀』『古事記』に出てくる各種の「部」であると考えられます。 
 「六世紀後半」までの「倭国」はその「統治権」はかなり狭く、せいぜい西日本が統治エリアに入っていたものの、東国にはその権威は及んでいなかったと見られます。
 他方、後の新日本国王権となる「近畿王権」もまだ弱小であって、東国に広く統治権を及ぼすような権威は持っていなかったと見られます。
 この様な状況を総括して云うと「六世紀後半」までの「倭国」は、全国的な立場で見ると、その諸国への権威は間接的であり、また「緩やか」であったと見られるわけです。
 『常陸国風土記』など見ても「古」は「各」「クニ」に「別」や「造」などが配置されていたとされていますが、彼らは「九州倭国王朝」の権威を認めながらも、彼らに何らかの拘束や束縛はほとんど受けずに各々の「クニ」を統治していたと見られます。このような「倭国中央」と「諸国」の関係はあたかも「南北朝」以降の「中国皇帝」とその周辺諸国の関係に近似しており、「倭国王」が「将軍号」を貰い「倭国王」である旨の「承認」を「中国皇帝」から受けていたように、各諸国は「倭国中央」から「別」や「造」の地位を認めて貰い「直」などの「姓」をもらう事で「倭国」の「周辺諸国」としての地位を確固とする、という手法を用いていたと考えられます。
 これは「諸国連合」とも違い、「緩い封建制」とでも言うべき状態と思われ、各諸国がほぼ自立していた状態であると思われます。「諸国」にとって「九州倭国王朝」は「天朝」であり、遠くの存在であって日常の政治とは隔絶していたと考えられます。
 「五世紀」の「倭の五王」時代には「騎馬勢力」を使用して東国に至る広い範囲にその威厳と威力を示したものであり、「部」や「造」などにはそのような権威を直接著す「武具」「馬具」「刀剣」などが賜与されたと見られ、また「祭祀」や「墓制」などについては「倭国王朝」との結びつきを示す意味でも同様の形態を取ったものと見られますが、それはそれ以上ではなく、特に「倭国王朝」が直接「政治力」や「武力」を展開するというようなことはほぼなかったと見られます。
 折々、「倭国王朝」の権威を確認するようなイベントがあり(「即位」など)、各諸国は(特に首長クラス)はそのようなときには、「倭国」に使者を派遣し、あるいは首長が自ら出向き、互いの関係の再確認を行っていたと見られます。
 しかし、この「改新の詔」時点で始めて「東国」などに対して「統治権」を確立したわけであり、それは「中間管理的権力者」の存在を許さないという以下の詔の一文からも明らかです。

「「大化二年(六四六年)三月癸亥朔壬午条」「…天無雙日。國無二王。是故兼并天下。可使萬民。唯天皇耳。…」

 ここでは明確に「王」が直接「万民」を使役すると宣言しています。つまり、従来各諸国に(この場合「クニ」か)存在していた「別」や「造」という存在を飛び越えて、この時点で始めて彼らは直接的な統治権を奪取、確立したのであって、それ以前にはそのような強大な権力は保有していなかったと見られることとなります。
 これは一種の「革命」ですが、このような「革命」が成功した要因は「警察・検察」という「治安維持」に関する勢力を手中に収めたからであり、それを「諸国」に展開可能とする「官道」の整備との関連が重要であったと思われます。
 このような状況は、これが「改新の詔」と呼称されているように、また『書紀』では「蘇我氏」を打倒した「クーデター」により成立した政権であるところの「孝徳天皇」の「詔」として出されていることでも分かるように、彼らは「革命政権」であったと見られ、そのこととこれら「詔」が語る背景とは重なっていると言えるでしょう。
 また「部民」にとってみればそれまでともすれば「二重支配」となっていたものが、「倭国王」が直接支配すると云うことで、支配と搾取が二重に課せられることはなくなった訳ですから、この「革命」は歓迎されたものと見られます。
 「改新の詔」以前には「奴婢」と「部民」の大部分は実質なにも変わらないものであったとみられますが(「鳥飼部」「馬飼部」に典型的なように「奴婢」と同様「入墨(黥)」がされていたと見られる)、「改新の詔」以降は「間人」のような「雑戸」となって下層ではあるものの「良人」として「奴婢」からは区別されるようになり、「歴史的段階」としては一ステップ進んだものと言えるでしょう。
 それまでは「良民」や「奴婢」など「万民」が仮に「公民」であったとしても、諸国に配置した「別」や「造」によりその運用は負託されていたものであり、それは容易に彼らの「己民」つまり「私民」という扱いになり、また認識されることとなったと思われます。
 「別」や「造」などは「豪族」と呼ばれる存在であったとみられますが、彼らの存在や彼らの私民の存在を認めないということと、『常陸国風土記』に云う「惣領」により「我姫」を「八国」に分割再編したという事は、その事業内容において共通していると思われます。このような再編が「別」や「造」の権威を破棄するものとなり、「大国」としての「国」の誕生とそこに配置されることとなった「国宰」の権威を絶対化するものとなるのは当然とも思われ、『常陸国風土記』の記事はこの「詔」の内容が実行に移された時期と実態を示すものと考えられ、これらはほぼ同時期に行われたことを示唆するものと云えるでしょう。
 「部民制」というものについては、その起源が「五世紀」代にあり、当時は「倭国王権」と強くつながっていた民であり、当時の「武装植民」(屯田兵)として派遣されたような存在もいたと思われますが、多くは領土拡張の際に「捕虜」とされた人々であり、彼等は「奴婢」となり、特定の氏族に使役される形で「部民」とされていったものと思われます。本来は彼等は「倭国」という国家に直属するものであったはずですが、それが多少年代を過ぎると「倭国王権」の統治が「弛緩」するところとなり、「現地権力者」の使役するところとなっていったものと思われます。
 「倭国王権」の力を示す後続の行動や勢力が減退したり消滅したりしてしまったという実体が発生したことがそのような地方権力の成長を促す原因となったと思われます。そのような「諸国」と「倭国王権」との「つながり」が切れてしまうような「典型的」な出来事と言うのが「磐井の乱」であったのではないでしょうか。
 この「乱」は「筑紫」という「倭国王朝」の中心部と言うべき場所が、「物部」により占拠、制圧されてしまったことを意味すると考えられ、このことから「九州倭国王朝」の力が「東国」などに及ばなくなったと見られます。その結果、「起源」としては「倭国王権」と結びついていた「部民」さえも「地方勢力」の配下となって「己民」とされていったという経過を招くこととなったものでしょう。
 このような状態を打破するために行われたのが「改新」であり「革命」であったものと考えられ、それは「筑紫」を占有していた「物部」を打倒・追放した事により実現したものであって、『書紀』に云う「守屋」を打倒した「六世紀後半」に想定されるべきものであると考えられます。この時点で「受命」つまり「天命」を受けた人物が現れたものです。
 つまり、上に見たような「土地兼并禁止詔」などが出された時期というのは「六世紀末」ないしは「七世紀初め」という時期が最も想定されるものであり、『隋書俀国伝』に言う「阿毎多利思北孤」ないしはその太子「利歌彌多仏利」の為した事業と考えられます。(ただし「改新の詔」的なものはこれ以降も何度か出されたものと思われます)
 「改新の詔」以前も以後も、明確に「良民」と言えるものは「農民」特に「稲作」を行なっていた人々であると思われ、それは「公地公民制」の基本が「班田制」であり、「稲作」をして「租負担」を負うものだけが「公民」と考えられていたことからも明確であると思われます。(「奴婢」への班田は彼等の食用に供するためであり「租負担」はなかったもの)
 この「改新の詔」では「犯罪人」以外の「奴婢」を「良民」へと解放し「入墨」も廃止したものですが、それはひとつに「班田農民」として「租」を負担させる意義があったと見られます。この時点でかなりの「奴婢」が「良民」へと身分が変わったと思われ、彼等が「田作」をすることにより国家としての「租」生産能力のアップと、それが国家への収入という形で現実化することを期待したものと思料します。


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