古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「大伴部博麻」の「三十年」の拘束の理由(一)

2013年10月17日 | 古代史

  「大伴部博麻」は「薩耶麻達」に旅費などを捻出するため「身を売り」、そのため「三十年」に渡って帰国することが出来なかったとされています。しかし、既に見たように彼は「奴隷」となったわけではなく、あくまでも「債務」を負い、それを「労働」で返済するという形でした。つまり「借金」が返済されれば解放されたはずなのです。その弁済に「三十年」かかったということとなるでしょう。
 ところで「博麻」が債務を負ったのは何人分の「衣糧」なのでしょう。それに関して「持統天皇」の「詔」を見てみます。

「持統四年(六九〇)冬十月乙丑 詔軍丁築後國上陽咩郡人大伴部博麻曰 於天豐財重日足?天皇七年 救百濟之役 汝為唐軍見虜 洎天命開別天皇三年 土師連富杼 冰連老 筑紫君薩夜麻 弓削連元寶兒 四人 思欲奏聞唐人所計 ?無衣糧 憂不能答 於是博麻謂土師富杼等曰 我欲共汝還向本朝 ?無衣糧 ?不能去 願賣我身 以充衣食 富杼等依博麻計得通天朝 汝獨淹滯他界於今三十年矣 朕嘉厥尊朝愛國賣己顯忠 故賜務大肆并絁五匹綿十一屯布三十端稻一千束水田肆町 其水田及至曾孫也 免三族課役 以顯其功.」

 この「詔」によると「大伴部博麻」が「筑紫君薩夜麻」達「四人」のために「体」を売ったと書かれているようですが、確かにこの「詔」の中では「富杼等」と言うように「複数形」では書かれていますが、この「等」が「土師連富杼。氷連老。筑紫君薩夜麻。弓削連元寶兒」の四人全員を指すかというとそれは明らかに違うと思われます。
 そもそも「大伴部博麻」が「献身」して帰国費用を捻出させたはずの「筑紫君薩耶麻」が帰国したのは「書紀」によれば「六七一年」のことであり、明らかに「富杼等」という中に「薩耶麻」は入っていないこととなるでしょう。
 「持統天皇」の詔にある、「薩耶麻」達を帰還させるために「大伴部博麻」の献身が提案された年次である「天命開別天皇三年」というのが何年の事なのかについては、諸説があるものの「書紀」中の「天命開別天皇の何年」という例は全て「称制期間」を指すものであり、ここでいう「天命開別天皇三年」も同様に「称制期間」と考えるべきものですから、「六六四年」のこととなります。すると「薩耶麻」の帰国はその時点から「七年」も経過していることとなります。
 この帰国に「博麻」の「献身」が効果を発揮したならば、「同年」(六六四年)か遅くても翌年の(六六五年)には帰国可能であったかと思慮され、(身を売ってまで帰国して通報しなければならない「緊急性」のある事項ならば、その年の内か、遅くてもその翌年には帰国していなければならないでしょう)かなり遅れて帰国した「薩夜麻」の、帰国に伴う事情と「博麻」の「献身」とは関連性が薄いものと判断されざるを得ません。

 さらに「正木氏」も論文(「薩夜麻の「冤罪」Ⅲ」古田史学会報八十三号)の「補論」で述べているように、この「薩耶麻」の帰国にあたって、はたして「費用」を自前で用意する必要があったかは疑問です。
 彼は当時「百済」を占領していた「唐将」「劉仁願」の部下と考えられる「郭務宋」に同行して帰国したわけですから、彼の帰国は「熊津都督府」の「公務」の一環であると見なされるものであり、そうであれば彼の帰国費用を彼自身が負担したとは考えられないこととなります。
 つまり少なくとも「薩耶麻」の帰国は「大伴部博麻」の献身とは全く別個に行われたものと推定され、帰国した「富杼等」という表現には「薩耶麻」が入っていないのは明確です。それでは残り三人は同時に帰国したのかというと、それも違うと思われます。それは「氷連老人」の帰国の年次が、かなり遅れた「慶雲元年」(七〇四年)であると推測されるからです。かれも「富杼」とは別行動であったと推測されます。
 

 「白雉年間」の「遣唐使記事」に続いて「伊吉博徳言」という「コメント様」のものがあり、そこに「今年」という文言があり、この年次が「氷連老人」の帰国の年とされているのです。

「孝徳紀」
「(白雉)四年(六五三)夏五月辛亥朔壬戌 發遣大唐大使小山上吉士長丹 副使小乙上吉士駒 駒更名絲 學問僧道嚴 道通 道光 惠施 覺勝 弁正 惠照 僧忍 知聰 道昭 定惠 定惠?大臣之長子也 安達 安達中臣渠?連之子 道觀 道觀春日粟田臣百濟之子 學生巨勢臣藥 藥豐足臣之子 冰連老人 老人真玉之子 或本以學問僧知弁 義德 學生阪合部連磐積而增焉并一百二十一人 ?乘一船 以室原首御田為送使 又大使大山下高田首根麻呂 更名八掬脛 副使小乙上掃守連小麻呂 學問僧道福 義向并一百二十人 ?乘一船 以土師連八手為送使.」

「白雉五年(六五四)二月 遣大唐押使大錦上高向使玄理 或本云夏五月 遣大唐押使大花下高向玄理 大使小錦下河邊臣麻呂 副使大山下藥師惠日 判官大乙上書直麻呂 宮首阿彌陀 或本云判官小山下書直麻呂 小乙上岡君宜 置始連大伯 小乙下中臣間人連老 老此云於唹 田邊使鳥等分乘二船留連數月 取新羅道泊於萊周 遂到于京奉覲天子.
 於是東宮監門郭丈舉悉問日本國之地里及國初之神名 皆隨問而答.
 押使高向玄理卒於大唐.」

「伊吉博徳言 學問僧惠妙於唐死 知聰於海死 智國於海死 智宗以庚寅年付新羅舩歸 覺勝於唐死 義通於海死 定惠以乙丑年付劉德高等舩歸 妙位 法謄 學生氷連老人 高黄金并十二人別倭種韓智興 趙元寶今年共使人歸。」

 
 この「伊吉博徳言」の中の文章中に「今年」とあり、これがいつの事なのかが問題であり、この「今年」に「學生氷連老人」が帰国したとされているわけですから、この「今年」が何時なのかを明確にする必要があるわけです。
 これについては諸説があり、「体系」の「注」では「『天智三年』から『七年』の間の某年」とされており、不定とされています。また、「天智四年」(六六五年)という説もあり、「正木裕氏」も論文「薩夜麻の『冤罪』Ⅰ」(古田史学会報八十一号 )では「天智四年」説を採られています。
 また、体系の「補注」には「正木氏」も引用されたように「各種」の学説が書かれていますが、いずれも納得できません。なぜならどの説も「伊吉博徳言」の中にある(つまり「伊吉博徳の言葉」の中にある)「智宗以庚寅年付新羅舩歸」という部分についてしっかり考慮が払われていないからです。
 ここに書かれた「伊吉博徳言」とはまさに「伊吉博徳」が話した内容を示していますから、その話された年次こそが「今年」と考えられますが、その中に「庚寅年」(「六九〇年」)があるということは、この「今年」というのが、少なくともこの「庚寅年」(六九〇年)よりも「後年」のことであることを明確に示しています。 この部分が後からの「偽入」でない限り、この年次が「今年」の下限と考えられます。そうでなければ、この部分は現在(今年)よりも先の事(未来の事)を話していることとなる「矛盾」が発生してしまいます。
 では「庚寅年」(六九〇年)以降のいつなのか、ということとなりますが、ここに書かれた「妙位・法謄・學生氷連老人・高黄金并十二人別倭種韓智興・趙元寶今年共使人歸。」は合計十八名になり 、かなり多量の人数と考えられ、これほどの数の人間の帰国は「遣唐使船」が用意されなければ実現できなかったものと思われます。「新羅船」などを想定する場合は、彼らの様に多数の人間がなぜ「新羅」にいるか、ということが疑問とならざるを得ず、「唐」から「新羅」まで帰国途中であったと推定することとなりますが、「定恵」や後の「大伴部博麻」の帰国の際に一緒であった「大唐學問僧智宗、義徳、淨願」のようにせいぜい「三~四人」程度なら理解できますが、「総勢十八名」が「一斉に」帰国途中であって、「新羅」まで来ていたと想定するのは無理があるものと思われます。
 さらに「共使人歸」という表現は「彼ら」と「使人」が「共に帰ってきた」という表現であり、「使人」も「帰国」した、ということと考えざるを得ません。すると「使人」も「倭人」であるという事を示していると考えられます。これは「劉徳高」などの「唐使」には似つかわしくない表現であると考えられるものです。
 「伊吉博徳言」の中でも「付新羅舩歸」とか「付劉德高等舩歸」というように、外国の船で帰国した場合は「付~帰」という表現を使用しており、区別されているようです。明らかにここでいう「使人」は「倭人」を意味するものと考えられ、「唐」や「新羅」などの「外国船」で帰国したというわけではないと推察されます。
 以上のことから考えると、「八世紀」最初の遣唐使の帰国である「慶雲元年(七〇四年)」が「今年共使人歸」の「今年」に該当すると考えるのが最も妥当ではないでしょうか。
 つまり「使人」とはこの時の「遣唐執節使」である「粟田真人」を指すと考えられます。

(続き)

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