古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

薄葬令について(続き2)

2015年02月27日 | 古代史
 「薄葬令」についての考察から、この「詔」が「六世紀後半」及び「七世紀初め」の二回に渡って出されたものと推定したわけですが、その時代に造られた、いわゆる「古墳時代終末期」の古墳である、「方墳」と「円墳」について見てみると、この「薄葬令」の中で規定している寸法と一見著しく相違しているように見えます。
 いわゆる「古墳時代終末期」(六世紀末から七世紀初頭)には「前方後円墳」以外の各種の古墳が確認されますが、その中でも特に多く見られる「方墳」と「円墳」のうち、代表的なもの(サイズの大きいもの)について調べてみると、以下のようになっています。

(ア)「方墳」
 「方墳」では「龍角寺岩屋古墳(千葉県)」:「78m四方」、「宇摩向山古墳(愛媛県)」:「70m×46m」、「駄ノ塚古墳(千葉県)」:「62m四方」、「山田高塚古墳(大阪府)」:63m×56m」)、「石舞台古墳(奈良県)」:「50m四方」などがあります。

(イ)「円墳」
 「円墳」では、「山室姫塚古墳(千葉県)」:(以下いずれも直径)「66m」、「ムネサカ一号墳(奈良県)」:「45m」、「峯塚古墳(奈良県)」:「35m」、「牧野古墳(奈良県)」:「50m」などが代表的なところのようです。
 これらはいずれも「薄葬令」に言う、最大長でも「其外域方九尋」という規定には則っていないように見えます。

「薄葬令」の「大きさ」(外寸)に関する部分の抜粋
「甲申。詔曰。朕聞。…夫王以上之墓者。其内長九尺。濶五尺。其外域方九尋。高五尋役一千人。七日使訖。其葬時帷帳等用白布。有轜車。…」

 ここで「大きさ」の単位として使用している「尋」は、「両手を広げた」長さと言われ、主に「海」などの深さ(垂直方向)の単位として知られています。しかしここでは「墓」の外寸として使用されており、明らかに「水平方向」の長さを表すものとして使用されています。
 その長さとしては「1.8m程度」という説もあり、この長さはおよそ身長に等しいとも言われますが、古代の人がそれほど高身長だったとは思えず、実際にはもっと短かったものと思われます。ただし「説文」では「一尋」は「八尺」であるとされています。
 「鎮懐石」の寸法についての記事の中で考察したように「殷代」以降列島では「尺」の単位長として「18cm」ほどが長期間に亘り使用されてきたと推定されるわけですが、「説文」が説くように「一尋」を「八尺」とした場合これは「1.44m」ほどとなります。
 これから計算すると、「薄葬令」に規定する「諸王以上」の墳墓の「外域」の大きさとして書かれた「九尋」は「13m」ほどにしかなりませんから、上に見る「終末期古墳」の大きさとは、まったく整合していないこととなります。
 もし、これらの「方墳」や「円墳」がこの時点で「薄葬令」が出され、それに基づき造られたものとすると、その規定に合致しない理由を別に考える必要があるでしょう。
 たとえば、これを「薄葬令」を「無視」した、あるいは「令」の値は「単なる基準値」であり、堅く守る必要がなかったと考えることもできるかも知れませんが、この時代の「倭国王」の「権威」の強さを考えると、そのような「無視」ないし「軽視」が通用するものか、かなり疑問です。
 この時の倭国王「阿毎多利思北孤」あるいはそれを嗣いだ「利歌彌多仏利」は、それまで「倭国」で決して見られなかった「全国一斉」に何事かを為すということを可能とした最初の人物であり、それまでの「倭国王」とは「権力」の強さに大きな差があると考えられます。そのような中で出された「詔」がしっかり守られないということは考えにくいものです。そうすると、この「違い」には別の理由があると考えなければいけないでしょう。

 たとえば、「薄葬令」中に示されている基準値(13m程度)に対する実際の大きさとの「比」を算出してみると、上の「方墳」や「円墳」のうち最大のものは約「6倍」程度の値となります。
 つまり「方墳」や「円墳」は以前の「前方後円墳」のように「巨大」なものは存在しないのです。これは「経済力」や「権力」の大きさの違いなどではなく、「墓制」に対する規制の結果ではないかと考えられ、このように「基準値」に対してある一定以上大きくはないということは、「上限」が「ルール」として存在していることを示唆します。それは「前方後円墳」の築造が停止されたと同様に「王権」からの指示によると見られるわけです。
 つまりこの時出された指示内容は「前方後円墳」について築造停止すると共に「方墳」などについてその上限を設定したものと思えるわけです。そう考えると、その内容はまさに「薄葬令」で指示している内容と重なるものといえるでしょう。そこでは「形状」について「方」で示すことにより「前方後円墳」について規制し、さらに「九尋」という寸法を指定することにより大きさについても規制しているわけです。
 このことはやはり「薄葬令」がその「規制」の基準として機能していることを強く示唆するものですが、現実として作られた墳墓の大きさは示された基準値と違うと思われるわけであり、それが何に拠るかを説明する必要があります。最も考えられるのは「単位系」の変化によるものではないかということです。
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