古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

薄葬令について(続き3)

2015年02月28日 | 古代史
 既に述べたように「六世紀末」という段階(隋の「開皇年間」の始め)で「遣隋使」を派遣し「隋」との正式な国交を始めた「倭国」では「隋」の諸制度が導入されたと考えられる訳ですが、その中に「度量衡」もあったと見ることができるでしょう。その結果(少なくとも「倭国中央」では)「長里」系に変更されたという可能性が考えられます。
 例えば「戸籍」については「正倉院文書」中の「大宝二年戸籍」の解析から、「北部九州諸国」は「隋代」まで北朝で使用されていた「戸籍」(両魏式)と「様式」が酷似していることが確認されていますが、この「戸籍」が「隋」では「班田制」の前提であったことを考えると、「倭国」でも「班田制」やそれに必要な「地割制」などについても「隋」から学んだという可能性が考えられます。(全国的展開が行われたかどうかは別として)そうすると、「地割」に必要な「長さ」や「距離」の単位も含めて導入されたと考えるべきこととなります。逆に「遣隋使」派遣により各種の知識を吸収したとすると、この時点で「隋」で使用されていた「基準尺」が導入されなかったとすると不審でさえあります。
 それまで「倭国」で使用していた「殷代」に起源を持つ「単位系」では、「尺」は「18cm」程度であったと思われるわけですが、それに対し「歩」(周歩)は「77m」の三百分の一、つまり「25.7cm」程度であったと思われます。このように「尺」と「歩」は似たような長さであったものであり、それは「倭国」では「秦」の「始皇帝」が六尺を一歩とするという改定を行う以前の状態が遺存していたということを意味します。このように倭国では古制がそのまま遺存し続けたと思われるわけですが、この「六世紀末」という時点になって「隋」と通交することにより初めて「六尺一歩制」が導入されたものと見られます。すると当然「歩」の長さは拡大することとなります。それまでの「歩」から「新歩」へと変更・拡大しなければならなくなったものと思われますが、それをそのまま実行すると混乱するのは必然です。これを解消するため「新歩」については「歩」の呼称を止め「折衷案」として「新歩」の長さを「尋」という呼称に置き換えて代用するという策を実行したものではなかったでしょうか。
 「尋」は海などで深さを表すもの程度にしか使用されず、その長さが多少変更になっても「陸上」の生活に限ればほとんど支障がなかったものと思われ、そのため選ばれたものと推量します。

 つまり「尋」は「隋制」が導入された時点で「新歩」から読み替えられることとなったものと思われ、それまで「尋」は「八尺」ないし「六尺」とされていたものが、この時点以降「尋」は「六新歩」へと変更されたものと思われるわけです。ただし、一尺は29.6cmへと(これは隋制通り)変更となったと思われ「六尺一歩」という制度の下「新歩」の読み替えとしての「新尋」の単位長としては「10m」程度まで拡大したものと思料されます。(10.65m)つまり「薄葬令」に現れる「尋」は「新尋」であり、「九尋」とは「約90m」程の長さを意味することとなったものと見られるわけです。
 これらの数字は、確かに現存する「終末期古墳」の大きさを超えないものであり、「上限値」として機能していることが推定されます。つまり、「薄葬令」は確かに「六世紀後半」に出されたものであり、その時点において、「単位長」及び「建築系」と「測地系」の換算を「変更」を併せて行なったものと思料されます。
 これを証するのが「役」つまり労働力として示されている「千人」で「七日間」という数量です。

 「尋」を「新尋」として「方九尋高さ五尋」という規定をそのまま計算すると高さが非常に高くなり、(底面80m四方で高さ45mということとなります)これを土を積み上げて45mにすることはかなり困難であって、実際にはその4分の1程度の高さであったと思われます。実際に代表的な終末期古墳である龍角寺岩屋古墳で見てみると高さ13mという程度であり、他にはこれを上回るものが確認できません。
 これを例にして考えると、例えばこれを「四角錐」と見立てて単純計算で容量を算出してみると、26000立米ほどであり、これを土砂と見て七日間千人で運ぶとした場合一日一人あたり約5トンという重量となります。これは負担としてはかなり重いものですが、何とか対応可能な量ではないでしょうか。
 これが元の「尋」で示される程度の場合ちょうど岡山の宮山古墳程度のサイズ(一辺15m高さ1―2m)が措定され、この場合容量は上の土砂の量の200分の1程度まで減少すると思われ、一人一日あたり土砂の重さとして25kg程度となりますが、これを一日かけて運ぶというのは労働としてはかなり軽微なものとなるでしょう。この程度のものがそもそもの基準として示されたとすると延べ人数で七千人という人工の指定がかなり意味のないものとなる可能性が高いと思われます。
 もちろん労働は単に運ぶだけではなく土を掘り、運搬して積み上げるということを行うものですから、かなりな負担であることは間違いありませんが、それでも一日25kgというのは軽微に過ぎると思われます。

 このような「令」は中国にその前例がありません。「薄葬令」そのものは「中国」に古くからあるものであり、また「隋」代においても同様に有効であったと思われるわけですが、ここに見られるような階級によって細かく大きさや人夫の数などを定めるというのは史料の中には確認できません。また後代の「養老令」の中に書かれた「葬喪令」では基準の区分けが異なっています。このことはこの「薄葬令」が後代の潤色ではないと共に、それが倭国のオリジナルであったことを示しています。
 「隋」から新制度を導入していた「倭国」王朝がなぜこのような倭国独自の制度を決めたのでしょう。それは「前方後円墳」とそれを築いていた勢力に対する「牽制」であったものと思われます。
 既に述べたようにこの「薄葬令」はこれを遵守する限り必然的に「前方後円墳」が作れなくなりまたそこにおいて祭祀が行うことができなくなる点で「前方後円墳」を「狙い撃ち」にしたものと考えられますが、それはまた同時にその「前方後円墳」を築造していた勢力(特に近畿に中心を置いていたもの)に対する牽制の意義があったものと推量できるでしょう。
 彼らに対してはこの「令」を厳格に守らせることとしたものと思われ、終末期古墳のバリエーションである「横口式石槨」古墳についてはその「内寸」などを見てみると、ほぼ全てにおいてこの基準以下の数字であることが確認できると共にこの「横口式石槨」古墳そのものが近畿に集中的に見られるということの中にも、「倭国中央」が「近畿」の勢力に対する圧力を加える政策をとっていたことが窺え、これらも強制的に守らされたものであるといえるでしょう。
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