古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

隋皇帝からの「訓令」とは-2

2024年01月21日 | 古代史
 「隋」の高祖「文帝」は「皇帝」に即位した後すぐにそれまで抑圧されていた仏教を解放し、仏教に依拠して統治の体制を造り上げたとされており、『隋書』の中では「菩薩天子」と称され、また「重興仏法」つまり一度「廃仏」の憂き目にあった仏教を再度盛んにした人物として書かれているわけです。
 彼はそれまでの「北周」による宗教弾圧から回復させたわけですが、「学校」における教育の中身が「儒教」が中心であったことから文帝はその「学校」を縮小したことが知られています。それは仏教重視のあまりであった事がその理由の一つであったものと思われ、そのように仏教に傾倒し、仏教を国教の地位にまで昇らせた彼が「夷蛮」の国において「未開」な土着信仰とそれを元にした政治体制の中にいると考えられた「倭国王」に対して、やはり仏教(特に「南朝」からもたらされた「最新」の仏教)を示しそれを国教とすべしとしたという可能性は高いものと推量します。それが「法華経」であったと思われ、そのため派遣した「隋使」にそれらを講説させたものではないでしょうか。
 これに関しては『二中歴』の「端正」の項に「唐より法華経始めて渡る」という記述がこの「訓令」に関連していると考えられます。

「端政五年己酉 自唐/法華経始渡」(「自唐」以降は小文字で二行書、また「/」は改行を意味します。)

 この「端正」は「五八九年から五九三年」までであったと思われますから、この年次以前に「遣隋使」が派遣され、その「表報使」として「隋」から使者が派遣されたことを如実に示すものといえます。彼が「訓令書」を携え、「倭国王」に対し「統治」の体制を見直すことを強く「指示」したというわけです。そしてその具体的方策として「法華経」が示された(講義された)ものと考えていますが、同時に「文帝」が「大興善寺」を都の中心に据えて仏教を国策の中心とするシンボルとしたように、「倭国」においても「国策」としての寺院を「都」に建設するべきという進言(あるいは勧告)をしたものではなかったでしょうか。そのために必要な技術と人材及び物資を「援助」したという可能性が考えられます。
 既に考察したように「高麗大興王」という存在は実際には「隋帝」を意味するものであり、「高麗大興王」からの援助という黄金も実際には「隋帝」からの援助であったと思われるわけです。そしてその「黄金」が使用されて「丈六仏像」が完成したのが「元興寺」であったというわけですから、この「元興寺」は「隋」における「大興善寺」の役割を負っていたものと考えられます。(この「元興寺」については後述)
 ここで「隋使」が行ったと思われる「講説」を受けて「法華経」に基づく仏教文化が発展するわけであり、「六世紀末」から「阿弥陀信仰」が急速に発展すると云うところにこの「訓令」の影響があったものと思われます。(それは特に「法隆寺」に関することに強く表れているものであり、「玉虫厨子」の裾部分にも「阿弥陀像」が押し出しで描かれているなどのことに現れています。またその「法隆寺」には「瓦」などを初めとして「四天王寺」や「飛鳥寺」などのように「百済」の影響がほとんど感じられず、かえって「隋・唐」の影響があると見られることがあり、それらは深く関連していると考えられます。)
 このような仏教文化の発展には色々な要素があったものと思われますが、この時「文帝」から「訓令」されたことが一つの大きなインパクトになっていると考えられるものです。
 このような趣旨で「隋使」が「講説」を行ったとすると、それが行われた場所(地域)として「倭国王」の所在する場所であり、また「遣隋使」により「俗」として「如意寶珠」があり、「祷祭」が行われているとされた「倭国」の本国である「九州島」において、まず「新・法華経」が講説されたみられることとなるでしょう。
 「九州島」が「倭国」の本国であることは『隋書』の中でも「阿蘇山」を初めとする「九州島」内部の様子の描写が物語っているものであり、そう考えると「倭国」の主要支持勢力も九州島の中に求めるべき事となるでしょう。その筆頭にあげられるのは「海人族」であり、「住吉」「宗像」「安曇」などの諸氏です。(「如意寶珠」は海中の大魚の脳中にあるとされますから、海人族との関係が最も深いものと推量します。)
 そして特にその「法華経」(「堤婆達多品」の補綴されたもの)の内容が「九州」の有力者であった「宗像君」にとってはあたかも自分自身のことを言われたような衝撃を受けたとしてまた不思議はないと思われます。
 その新しい「法華経」の白眉としては「女性」が(でも)「往生」できるとする立場です。その典型的な場面は「女人変成男子」説話です。これは「提婆達多品」にあるもので、「文殊私利菩薩」が「海龍王」の元に行き「法華経」を講説したところ「海龍王」の娘が悟りを開いたという説話であり、その際「娘」は「男性」に姿を変えた上で「悟り」を開いたとされます。(これ自体はそれ以前の仏教が抱えていた「女性差別」という欠陥に対するアンチテーゼとしての「男性」への変身であり、「法華経」自体の主張ではないとされます。)
 このような内容は「王権」やその支持勢力の女性達にとって「斬新」であり、興味をかき立てられたことでしょう。「宗像君」の周辺の女性達もまた例外ではなかったと思われ、積極的反応を示したのではないでしょうか。
 実際に「複数」の娘がいたと思われる「宗像君」にとってみればこの「法華経」の内容はまさに自分自身のことであり、「娑竭羅龍王」に自分自身を重ね合わせることはたやすいことであったものと思われます。そのため彼自ら「率先」して「法華経」に帰依したものと思われ、その結果彼の一族も挙って「法華経」の布教・拡大に乗り出すこととなったものと思われます。それはもちろん彼らにとっては「瀬戸内」の制海権を手に入れるという実質的利益を確保する狙いもあったものでしょうけれど、また「倭国王権」の意志に沿ったものであったのが大きいと思われます。
 こうして「厳島神社」「伊豫三島神社」など「瀬戸内」の西側まで「宗像三姉妹」を核とした「法華経」が伝搬したものと思われます。
 この時点以前にすでに「市杵島姫」を初めとする「宗像三姉妹」に対する信仰は、特に海人族において篤かったものと思われますが、それが「法華経」という外来のものに結びつくことで伝搬力が増したという世界もあったのではないでしょうか。つまり「堤婆達多品」が添付された形で「隋」から伝わったと思われる「法華経」が、「宗像三姉妹」により受容され、在地信仰と一体化した形での強い伝搬(いわば「神仏混交」の発生といえるでしょうか)がこのとき発生したものであり、それ以前の「百済」からの純粋仏教とは異なる性質を持っていたものです。
 これら「宗像族」による「法華経」信仰とその拡大は「倭国王権」の意志に適うものであり、強く歓迎されたものと思われます。
 このように「訓令」により「統治体制」と「宗教」について改革が行われることとなったと思われるわけですが、さらにそれが現れているのが「前方後円墳」における祭祀の停止であり、「薄葬令」の施行であったと思われます。
 この「前方後円墳」で行われていた祭祀の中身は不明ですが、明らかに仏教以前に属するものであり、それと「兄弟統治」と解される「統治体制」が「古典的」と称すべき同じ時代の位相に部類するのは理解できるものです。
 「祭政一致」と云われるように「統治」と「祭祀」とは不可分のものであり、「訓令」により「統治」の根拠を仏教とすべしとされたなら、古来からの「祭祀」についても改革されるべき事となるのは当然であり、そのような「祭祀」が必須であったと思われる「前方後円墳」そのものの築造停止というものも国内諸氏に求められたものと思われます。
 後にも述べますが、「薄葬令」は「七世紀半ば」に出されたとすると遺跡などとの齟齬が大きく、これは「六世紀末」あるいは「七世紀初め」に出されたと理解するべきものであると思われ、これが「隋」の皇帝からの「訓令」の影響あるいは効果によるものであったと見る事ができると考えられるものです。
 ところで、「小野妹子」が「百済」国内で「国書」を盗まれたという記事が『書紀』にありますが、この「盗まれた国書」というものがこの「訓令書」であったというような理解があるようです。しかし、それには従えません。「訓令書」についてもそれが「文書」という形態を取っていた場合は「国書」に準じた扱いであったと思われ、「隋使」が終始所持・保有していたと考えられます。「皇帝」の「勅使」としての重大性を考えるとそのような「訓令書」についても当然「隋使」が「肌身離さず」所持して当然であり、また「訓令」は本来「皇帝」が「倭国王」に対して直接行うものですが、遠距離のため皇帝の代理として「隋使」が「倭国」を訪れ「倭国王」に対し「訓令」することとなるわけですから、その瞬間まで「訓令書」が他の誰かの手に渡るはずがないこととなるでしょう。いずれにしても「小野妹子」の主張は真実ではなく、それは「文帝」が激怒した結果「使者」が「国書」を持参しなかった「言い訳」であったと判断できるでしょう。(妹子が同行したのは2回目の文林郎としての裴世清と思われますから)
 ただしこの「訓令書」が「国書」と同一であったという可能性もあります。つまり「国書」の末尾に「訓令」が書き加えられていたという体裁であった可能性もあると思われるからです。その場合『推古紀』の国書には「続き」があったということとなるものと思われますが、詳細は不明です。

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