霊の「関東……もとい、長州ウォーキング」

「関東歩き旅」の続編で、「長州歩き旅」を始めました

小郡から大田まで その2

2010年05月01日 | 山口の歩き旅
2010年5月1日(土) その1からの続き

「大田往還道松」を過ぎてすぐ、頭の上に工事中の高架道路が見える(写真上)。地元民にもそして多くの県民に不評の「小郡萩道路」と呼ばれる、国道490号バイパスの地域高規格道路だ。
そもそも国道490号になぜバイパスが必要なのかがよく分からないのだが、一年の内、秋吉台の花火大会の一日を除いて、この道路が混雑や渋滞などで地域の人が困ったという話を聞いたことがないのだ。
美祢東JCTから絵堂ICまでの約13kmを、来年のやまぐち国体開催に合わせて開通させるべく、急ピッチで工事が進められているようで、その先の絵堂ICから萩ICまでの約15kmは、いつ開通するのかまだ予定が立っていないみたいだ。
そんなに山口県にカネが余っているとは思えないが、道路を作りさえすればそれで「地域が活性化する」なぁ~んて、全くの「幻想」でしかないお題目を未だに声高に唱えている人が、我が県にはまだまだ多いのだろうな。
逆に、貴重な自然や継承すべき地域の特色などが、無謀な計画による道路によってどれほど失われてしまったのかを、もっと検証すべきではないのかネェ。
更にこのうえ山陰自動車道とかで、萩・美祢間に高速道路を作る計画もあるのだから、まぁ一体何を考えているのかジェンジェン分からん。

大田の町並みをほぼ通り過ぎた所に、「金麗社」なる社がある(写真中)。明治維新に至る大転換となる「大田・絵堂の戦い」の際に、高杉晋作の奇兵隊を始めとする革新派諸隊が本陣を置いたところだそうな。
そもそも幕末の長州藩は、なかなか藩論が統一されず、当初は尊王攘夷派の急先鋒だったのが、禁門の変・第一次長州征伐を経て、藩の要職は保守派(幕府寄り)が占めることになったぁ。
ところが、高杉晋作が長府功山寺で奇兵隊を旗揚げしたのに呼応して、藩内各地で革新勢力(諸隊)が勃興し、これらが集結して、赤間関街道から萩に攻め上がろうとしたのだナ。
これを迎え撃とうとして萩からやってきた政府軍(保守派)と衝突したのが、世に言う「大田・絵堂の戦い」となる訳だ。結局、10日間の激戦の末に政府軍が敗れ、長州藩の藩論は一気に「倒幕」へと進むことになることから、ここが「明治維新発祥の地」とされているようだ。…以上、幕末ミニ知識ナ
150年位前にこの社で、命を賭けて郷土や国を守ろうとした兵士たちが往来し、そして高杉晋作や伊藤博文などが作戦会議を行ったのかと思うと、とても感慨深いものがある。

大田のバスセンターに戻り、ここからバスで帰宅することにしたが、明るい戸外からバス待合所に入ってみると(写真下)、薄暗い照明と併せて、何ともレトロで心落ち着くいい感じの待合所であった。切符売りのお爺さんと売店のお婆さんは共に、もう100年以上もここで店番をしているような雰囲気を漂わせていた。
元気なあいだは、是非続けてくださいナ。

結局、小郡から大田までは、寄り道を含めて約6時間。見どころも結構あって、ウォーキングには手頃な距離ではあるゾェ。


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