高知ファンクラブ

“高知をもっと元気にする”ボランティア集団、「高知ファンクラブ」のブログです。

長宗我部ファンクラブ通信・・・2012年 睦月号(1月8日発行)

2012-01-09 | 2011年2月~の記事

皆様 

長宗我部ファンクラブ事務局です。
いよいよ新年が始まりました。本年もどうぞよろしくお願い致します。
昨年は東日本大震災があり大変な1年となりましたが、今年は
ハッピーなことがたくさんある1年になるといいですね。
寒い日々が続きますが、体調には充分お気をつけてお過ごし
ください。

今月も長宗我部ファンクラブ通信をよろしくお願いします☆

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┃(1)長宗我部元親RALLY2間もなく終了(1月15日まで)
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以前もご紹介しましたが、長宗我部RALLY2が開催されています。
(高知県立歴史民俗資料館で受付中)
宝の地図をたよりに岡豊城などのチェックポイントを探し出し、豪華賞品をゲット
しませんか。1月15日までなので、終了間近です。ぜひお見逃しなく!
長宗我部RALLY2についての詳細はこちらをご覧ください
http://p.tl/r0_h

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┃(2)1月13日(金)第26回 長宗我部を語る会 開催!
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毎月1回開催している「長宗我部を語る会」。
今月も第2金曜の13日(金)、ゆうあい工房にて19時より
開催します。 
(ゆうあい工房は高知市はりまや町3丁目20番1号 北街ビル2階。
1階に不動産屋さんのあるビルです)

小浜亭馬楽さんによる講談もあります。ぜひ生の講談をお楽しみください♪
参加費はお一人様300円です。(1ドリンク代含む)
お誘い合わせの上お気軽にお越しください。(近隣にコインパーキングあり)

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┃(3)長宗我部紀行24-小浜亭馬楽- 
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小浜亭馬楽さんによる長宗我部関連史跡のご紹介です。

長宗我部紀行24
ここから始まる長浜城

高知市長浜
雪蹊寺の背後の山に
かつて長浜城があった
 
秦神社の西の道を上り
西宮神社より尾根道を登る
金網を越えてさらに上へ
詰の段は土塁に囲まれており
南側はよく残っている
 
ここに長宗我部軍300人が攻め寄せた
激しい雨の夜だったという
城主大窪美作守は
家の子郎等を集め
酒宴を催していたという
 
城は火をつけられ
一気に攻め寄せられた
城兵は我先に逃げ
討ち取られたり生け捕られたり
 
この城攻めから
長宗我部の四国平定は始まった
 
ここから長宗我部の
未来が見える
 
無限の空を抱きしめ
僕らは生きていくんだ
==編集後記==

今月のファンクラブ通信、いかがでしたか。
明日9日は成人の日。
これから成人式を迎える方、そしてもうン年前に迎えられた方、
何回目かの成人式を迎えるという方もいらっしゃるでしょう。
連休中、色々なハタチについて思いを馳せるのもいいかもしれませんね。

ではまた、来月お会いいたしましょう!
チャオチャオ!

■ ご意見、ご感想などはお気軽にどうぞ!
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発行    :長宗我部ファンクラブ事務局
お問合せ  :dokodemodoa0328@yahoo.co.jp

 

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沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その4)

2012-01-09 | 2011年2月~の記事

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その4)

首里の桃原、儀保付近の湧水

 首里城の西側にあたる丘陵の斜面は、首里城の城下町のようになっている。いくつもの集落が密集している。首里金城町に続いて、首里の山川から儀保(ギボ)に抜ける桃原(トウバル)本通りの付近の湧水を訪ねた。
 こちらは、とても深い谷川が流れている。でも谷川は排水路のような感じだ。飲み水、生活用水はやはり井泉に頼る。狭い地域に人口が多いから、井泉の水も豊富でないと生活できなかっただろう。  

       


  最初に行ったのは、佐司笠樋川(サジカサヒージャー)だ(左)。ここは、琉球最後の国王、尚泰の四男、尚順の屋敷だった「松山御殿」(マツヤマ ウドゥン)のすぐ裏側にある。いまだに尚家の敷地内である。



  といっても、かつての桃原村の貴重な水源だった。湧水はどこでも、祈願の対象だから、敷地を囲っている金網に「拝みをなさる方へ ここからご自由にお入り下さい」との表示があった。右写真は、この桶川とは無関係である。花街のあった那覇市辻の「二十日正月」行事の際の井戸への祈願の模様である。  

  
佐司笠樋川に行くため金網の戸を開けて入ると、驚くほど立派な樋川だった(上左)。琉球の黄金時代を築いた尚真王の長女、佐司笠按司加那志(サシカサアジカナシー)が、フクギの大木にいつも鷺(サギ)が止まるのを見て、掘り当てたという由来のある樋川だ。ちなみに、沖縄の井泉は、犬が濡れて帰ってきたので、水が湧いているのがわかり、井泉が見つかった、など湧水発見に動物かかかわっていることがよくある。



見事な琉球石灰岩の円形の石垣が三段に積み上げられている。芸術的ともいえる円形の石積みだ。恐らく、これだけの樋川は、沖縄でも指折りだろう。
どんな干ばつにも水は枯れず住民を助けた。村の貴重な水源だった。

いまでも水量が多く、井戸拝み(カーオガミ)に訪れる人が後を絶たないという。降りて行くと、石垣の奥の水源から石造りの樋で水を流していた。水槽は半円形で、これも見事な石積みだ(右)。そばに奇妙な石があった。直径1㍍くらいはある(右下)。何のためだろうか。他の井戸では見ない。

 

 それにしても、よく固い石をこれほど丸い形に仕上げたものだ。丸い石の外側の敷石も、この円形に石に合うように、石を加工している。
 琉球王府時代の石積みの技術には、つくづく感心する。それに、この樋川は、沖縄戦で激戦の地なのに、破壊されずに残ったのだろうか。説明はないので、多分残ったのだろう。


  
同じ敷地内のすぐ側に、「昔石道」(ンカシイシミチ)があった。石畳の道を降りて行く。また湧水がある。

世果報御井小(ユガフウ ウカーグヮー)という井戸だ(下)。王朝時代より炊事、洗濯など生活用水として使われた泉である。水がわいているので樋はない。
 

 
沖縄戦で埋没したけれど、昭和61年(1986)に掘り出された。その際、古い鍋や食器類が出土し、戦争中にここで炊事をし、飢えをしのいだ悲惨な状況が偲ばれたという。
 説明を書いた案内板が、もう剥げてきて字がまともに読めない。推測を含めてこんな説明だった。




桃原大通りから、急坂を上がると、安谷川嶽(アタニガータキ)に出た。アーチ型の門がある(左)。といっても門はただの門ではない。琉球では、神聖な御嶽(ウタキ)の前に立つ門が拝殿になる。首里王府の高級女神官の一人、大阿母志良礼(オオアムシラレ)が司る御嶽の一つである。由緒ある拝所だ。門のなかが聖なる場所である。

 この近くに安谷川(アタニガー)がある。石段を降りていくと井泉があった(右下)。あまり大きな井泉ではない。ここはなぜか、川の名がついていた。

次に、桃原本通りを下に少し降りると、谷川のそばに加良川(カラガー)がある。谷川が流れているが、この川の岸に共同井戸がある。川岸にある岩の洞穴から流れ出る水をせき止め、その前に石畳の水汲み広場が設けられている。
 加良川はなんと、大きなガジュマルの木の根のところにあたる(下)。


ただ、今は危ないから鉄板で蓋をしている。この井戸の上に橋がある。橋から井戸に降りてくる石畳の道が残っている。道幅を広くとり、川沿いに一段と高い道を設けて、水汲みに集まる人々が、順序よく出入りできるように工夫されているそうだ。すぐそばに石碑が建っている。この碑は、井戸とは関係ない。



 実は、琉球王府の時代、18世紀に初めて歌三線と台詞、踊りの総合芸能である「組踊(クミウドゥイ)」を創作した玉城朝薫(タマグスクチョウクン)の生誕の地を示す碑である。
朝薫は、王府で踊奉行(ウドゥイブヂョウ)をつとめ、中国から琉球国王を任命するためにやってくる冊封使(サッポウシ)を歓待するために、「組踊」を創作した。朝薫の創作した「執心鐘入」など「5番」と言われる「組踊」は、いまなお繰り返し上演される。

2010年、「組踊」はユネスコの無形文化遺産として認定された。

 

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ストローファームの作品が、教科書に載る!

2012-01-09 | 2011年2月~の記事

ストローファーム(安芸市)の作品(おふろでちゃぷちゃぷ)が、教科書(中学生の技術)に載る!

ストローファームさんから、こんな年賀状を戴きました。

木のおもちゃを普及させたいと思っていますので、特に紹介させていただきます。

安芸市川北甲2004-2のStrawfarm(ストローファーム) さん TEL/FAX 0887-34-4500 

ホームページ http://www.strawfarm.com

E-mail  straw_farm@yahoo.co.jp 

塗料などにも気を使った子どもがなめても大丈夫の、安全・安心の手づくり木のおもちゃです。 

 

HN:エコひーき

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沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その3)

2012-01-09 | 2011年2月~の記事

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その3)

雨乞い御嶽



首里金城町からマルソウ通りを東に向かうと首里崎山町に出る。首里王府の別邸だった御茶屋御殿(ウチャヤ ウドゥン)の跡がある。由緒ある場所であり、歩いてみた。
 崎山町の公園の一角に、大きな石造獅子がデーンと鎮座していた。1677年に造られた王府の別邸、御茶屋御殿にあった石造りの獅子だ。
 とても大きく迫力がある。御殿を火災やその他災厄から守る獅子だった。御殿はいまはないので、公園に鎮座している。
 石獅子は水と関係ない。実は、このすぐ近くにある雨乞御嶽(アマグイウタキ)を紹介したい。雨乞いの祈願をする御嶽(ウタキ、拝所)は、複数あるらしいが、ここはとても由緒あるところだ。

 雨が降らず干ばつで凶作となれば、王府と民百姓にとっては一大事。死活問題だ。だから大干ばつに襲われたとき、国王みずからが神女を従えて、雨乞いの儀礼をおこなったという。低い石垣が円形にぐるっと築かれている。丸く囲んだ区域が聖域とされ、石敷きの壇に香炉が設けられている。こんな円形の御嶽は見たことがない。王府の雨乞い儀式をするのだから、さすがに立派である。

 

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沢村昭洋さんの沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その2)

2012-01-09 | 2011年2月~の記事

沢村昭洋さんの沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その2) 


首里金城町の湧水

 高地に位置する首里城の南斜面に、士族たちが住んでいた首里金城町がある。石畳道が伸びていて、首里王府の時代の面影を残す雰囲気がある。NHK連続テレビドラマ「ちゅらさん」のロケでも使われたので、すっかり有名になった。人気ある観光スポットになっている。500年もの間、風雨や戦乱にも絶えてきた歴史の道だ。首里城から南部に行く時の要路だった。

 ほとんどの人は、斜面の坂道を登り降りするだけで終わる。でも、石畳道は、いくつもの横道があり、縦横に石畳道が伸びている。横道を入って行くと、そこには昔からの湧水がたくさんある。



実は、首里金城町を歩いたのは、この付近がとても湧水が多い地域なので、古い井泉(カー)を見るためだ。この石畳の道は、人々が通行するだけではない意外な役割がある。それは、この地域に住む人々の生活に欠かせない水の確保にも貢献したという。石畳道が水の確保に欠かせないとは、どういうことだろうか?
この付近に降った雨は、石畳道から地下に浸み込み、井泉に流れていくという。
  
 
石畳道を下から登って行くと、すぐ左側に「新垣(アラカチ)ヌカー」が見えてくる。琉球王府時代の末期に、この屋敷の主である新垣恒俊氏が男子出産を祈り、私費を投じて造った井戸だという。

 でも私用ではなく、首里金城町の共同井戸の一つになっている。
 この日、七か所回ったが、同じ金城町の湧水でも、やはり「ガー(井戸)」と呼ぶ場所と「樋川(フィージャー)」と呼ぶ場所がある。「ガー」とは、文字通り井戸のように、その場所で水が湧き出ている。「樋川」とは、石垣より奥に水脈があり、そこから琉球石灰岩で造られた樋(トイ)で水を導き、半月形の貯水池に溜める。必ず、樋から水が出る仕掛けになっている。上の写真の新垣ヌカーは、カーだから樋がない。

新垣ヌカーから西にのびた道を進むと「金城大樋川(カナグシク ウフフィージャー)」に出る。こちらはとても規模が大きい。やはり住民の共同井戸だ。二つのかけ樋で地下の水を導き出している(下)。



 昔は、坂道を上下する人馬が、水で喉を潤し、一息入れた場所だった。 ここの少し東の方に、琉球を支配していた薩摩で和紙の作り方を学び、琉球で最初に和紙をすいた人の屋敷跡がある。17世紀末頃、この樋川の水で和紙が作られたという。
 由緒あるフィージャー(樋川)である。



 ここから斜めに少し上がると「仲之川(ナーカヌカー)」があった(右)。
 東には、金城大樋川、西には寒水川樋川(スンガーヒージャー)という大きな井泉があり、その中間にあるからこの名前がついた。

 水質や水量がとても優れていて、日照りでも水が枯れなかった。だから王府時代は、日照りの時は、首里城内の御用水になっていたそうだ。
見事な石積みのカーである。カーだから樋はない。石垣の右上に小さく見えているのは、このカーの拝所である。水は命の源であり、井戸、樋川は祈願の対象である。だから、かならず拝所がある。

 1883年6月の大雨の際に、壊れて王府の役職者、百姓ら45人が五万貫文を拠出し、王府に願い出て修理をしたことがある。その由来を刻んだ石碑がカーの入り口にあった。だが、沖縄戦で破壊され、いまその土台と碑の一部が残っている。

ここまでは、首里金城町の西側の井泉を回った。
 集落の中央部の石畳道のそばに 村屋(ムラヤー)がある。昔の集会所のようなところだ。今度は金城町の東半分の方面を回ってみた。



 


村屋から東に歩いて行くと、「上ヌ東門(ウィヌアガリジョウ)ガー」に出た(左下)。
 沖縄では、東はアガリ、西はイリという。これは太陽が東から上がり、西に入るからである。分かりやすい。門はジョーと読む。なぜ門がジョーなのかいまだによくわからない。

 このガーは、18世紀頃に造られた共同井戸である。やはり樋はない。文字通り井戸である。

 ただ、ここの井戸にはしっかりフタがしてあった。もう使われないのだろう。このガーは毎年、旧暦9月に行われる「ウマーチヌウグヮン」(祀りのときの御願)と呼ばれる防火防災の祈願で拝所の一つになっているそうだ。



ここから下がったところに「下ヌ東門(シチャヌアガリジョウ)ガー」がある。でも、どこから行けばよいのか、入る道がわからなかった。ウロウロしていると、ちょうど、そこへ人間一人がやっと通れるような細道から、おばあが降りてきた。早速、連れ合いが行き方を尋ねた。「この道を上がっていけば下ヌ東門ガーがあるよ」といま歩いてきた道を指して教えてくれた。

入って行くとあったあった。こちらは、フタはなく、半円形に石積みされている。やはり共同井戸の一つで、18世紀頃に造られた。

 前面に水汲み場の石敷広場が設けられている。上下二段に分けられ、下段の広場は水を溜めて、洗濯やイモ洗いなどできるようになっている。この井戸に上から降りてくる道は、石畳である。


首里金城町の共同の井戸は、みんな18世紀頃に造られている。 なぜだろうか? 推測してみると、この時代は、天災地変が相次ぎ、琉球でも干ばつと凶作で飢餓が起きたと伝えられる。多分、日照り続きで水がなくて 困ったことがあり、水源を探して井戸、樋川を造ったのではないだろうか。



どのガー、樋川も、見事な半円形の石垣が築かれ、半月形の貯水池がある。そして広場は二段に分けられ、飲料に使った後、下の段では洗濯など出来る。さらに、排水溝があり、使用後の水は農業用水にも使うなど、とっても合理的な使い方をしている。水は人間の生存と生活に不可欠であり、かつ湧水だから、それほど多くはない。だから、とても貴重な水資源であり、みんな大切に使った事がよくわかる。
 
石畳道を少し離れ、上に登ると「マルソウ通り」という通りに出る。西に向かい歩くと首里寒川町になる。この通りを少し降りると「寒水川樋川(スンガーヒージャー)」があった(上)。

 折しも、おじいたちが、草刈り、清掃をしてくれていた。「ごくろうさまです」と声をかけると、湧水のことを聞かなくても「樋川はこの下にあるよ」と教えてくれた。それだけ名高いからなのだろう。

 こちらも18世紀頃に造られた村ガー(共同井戸)の一つ。上水道が普及するまで住民の大切な生活用水だった。
 樋口の奥にある水脈から琉球石灰岩で造られたかけ樋で水溜りに導かれている。あふれた水は、下手の水溜りに集められ、洗濯などしたあと、農業用水として活用された(右)。というわけで、たくさんの井泉を見た。



首里の湧水は、まだ他にもあるが、首里金城町にこれだけ集中してあるのはなぜだろうか。
 人々が井戸を使うのには、井戸に通う道が欠かせない。飲み水を桶に汲み、この石畳の道を運んだことだろう。洗濯や芋など担いで洗いに通ったことだろう。昔の暮らしに思いをはせた。

 

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小浜真英氏(瓦職人)作のシーサー その13 竹富島の町並み

2012-01-09 | 2011年2月~の記事

小浜真英氏(瓦職人)作のシーサー その13   竹富島の町並み

   

今回は、竹富島の町並みを代表する赤瓦と、その屋根の上に設置されている小浜真英氏(瓦職人)作のシーサーを追ってきました。

町並みを彩る風景には、家の周りにきれいに積まれた石垣や年間を通して咲き乱れる花々・樹木などもあり、また何よりも島民挙げて、この風景を大切に守ろうとする心意気が、大きい事を知りました。

 「竹富島フィールドミュージアム」として、島全体を博物館と位置づけ、様々な取り組みをされている事は、私たちの高知にも"吉良川の町並み"をはじめ、県下には素晴らしい町並みや自然があるので大変参考になり、先進的なモデルとなります。

 

 

 生活の中で育まれた文化遺産を観光資源として生かしていること・・・

島民の8割が観光で生活をしています・・・と言う説明がありました。ネット上で調べると竹富島を訪れる観光客数は、平成元年の約86,000人から、平成17年には約416,000人に!

 

日本最南端のお寺「喜宝院(きほういん)」と、併設する民俗資料館の「蒐集館(しゅうしゅうかん)」の館長・上勢頭芳徳さんのお話によると、2011年10月現在、世帯数165戸、人口357人(5月比11人増で、4人の赤ちゃんが生れた)、1955年より100人増えているとのこと

竹富島にはこんな方たちがいる!!

自分の年金を抵当に入れてお金を借りて、あかゆら(デイゴのことを島言葉で)を守った!!

 

【寄生虫】デイゴ危機 ヒメコバチ寄生拡大 :2010/09/17(金) 19:15:00 ID:???

県内の公園や学校などで市町村が管理する県花のデイゴ(マメ科)7200本のうち、
デイゴヒメコバチの被害を受けている木が、少なくとも6400本(89%)に上ることが
16日までに県の調べで分かった。
デイゴヒメコバチが寄生すると、デイゴは生育や開花不良になり、弱って枯死することもある。
県は「被害を受けていない木を探すほうが難しい状況」として、
本年度から薬剤による緊急防除対策に乗り出す方針だ。

 

 

民俗資料館の「蒐集館(しゅうしゅうかん)」の館長・上勢頭芳徳さんから直接聞けました・・

 

新聞記事も壁に貼られておりましたが、竹富島にある160本のデイゴの木がヒメコバチの被害を受けており、一日も早い防除が求められたので、行政側の処置を待っていたのでは間に合わないと判断した民俗資料館の「蒐集館(しゅうしゅうかん)」の館長・上勢頭芳徳さんは、(現在公民館長でもある)自分の年金を抵当に入れて210万円のお金を借りて、薬剤による緊急防除対策 をしたとか・・・御蔭で今年も竹富島に、きれいなデイゴの花を咲かせる事が出来ました・・・と話していました。

募金を募ったり、チャリティコンサート(350人の島に1,300人が集まってくれましたとのこと)などをして、お金を返す事も出来たようですが・・・水牛車の待合場には募金箱が置いてありました。

 

水牛車に乗って、ガイドのおじさんが三線を弾きながら歌う"島唄??"をのんびり聞きながら町並みを楽しむ 、また貸し自転車や歩いて見て廻る観光客など、様々なスタイルを見かけます。

私たちも10日間の石垣島滞在中に、80年ぶりに12月に開催された「種子取祭」の見物など、3回竹富島を訪れました。

 

 

 

 

 

 島木?とも言われるイヌマキが植えられています。成長が遅いけれど、随分硬い木なので、風雨にさらされる竹富島などの建築用材として貴重品扱いだそうです。

 町並みを歩いていると、石垣の上に蔓状に伸びているホウライカガミ(食草)にとまっている大型のきれいな蝶を見かけました。オオゴマダラと言う事でした。

鳩間島へ行った時も群舞して、交尾?しているのを見つけました。

出典:オオゴマダラ 日本にすむチョウの中で一番大きいそうです。食草のホウライカガミには毒があり,オオゴマダラは幼虫時期にその毒を体内にとり入れ成虫になっても体内に毒をもっています。だから,鳥などはオオゴマダラを取って食べることはないそうです。また,オオゴマダラは自分が毒チョウであることを示すために,わざとゆっくり飛ぶともいわれています。・・・石垣市の市のチョウでもあります。

 

 

瓦職人、小浜真英 氏作のシーサー に関する記事

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沢村昭洋さんの沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その1)

2012-01-09 | 2011年2月~の記事

沢村昭洋さんの沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その1)

                                       沢村昭洋 

 

沖縄にはたくさんの湧水がある。沖縄本島は、北部は山が高く、谷川がある。でも中南部は、丘陵はあっても山らしい山はない。土地は琉球石灰岩が地表を被っているので、雨水が浸透して地下水が流れている。高台の下の崖の所や低い土地でも窪みになったところなど、水がわき出ている。

 湧水は、島の人々にとって命の源であった。集落のあるところ、かならず湧水がある。水の湧き出るところは、石積みで整備し、貯水池を設けて、住民が共同で使用してきた。

 

 

こんな湧水を、沖縄では「カー」と言う。井戸とも呼んでいるが、大和でいう井戸とはまるで異なる。大和では地下水のありそうなところに、縦穴を掘った。昔は、つるべで水を汲み上げた。その後は、手押しのポンプで汲み上げていた。こういう井戸も沖縄にないわけではない。でも少ない。多いのは、自然の湧水である。井泉と呼ぶのが適しているかもしれない。 


 

 井泉の名称としては、通常、地表に水が湧き出て、すぐそのまま利用できるところを「カー」。斜面の奥に水源があり、石や木で樋(トイ)をつくり、水を導きだしているところは「ヒージャー(樋川)」と呼ぶ。「カー」と区別している。

 「カー」は漢字を当てるとすれば「川」ではなく「井」である。首里王府で編纂した『琉球国旧記』では、「井(かあ)」と記している。ときには、「川」を使っている井泉もあるが、大和でいう川ではない。あくまで湧水である。

 本島だけでも、一つの集落にいくつかの井戸がある。しかも、その湧水のある場所の地形や水の出方、利用の仕方はさまざまである。井泉といってもその姿はすべて同じものはない。地域ごとに異なる。まるで城の城壁のように、半円形に高く見事な石積みがされているところもあれば、素朴な井泉もある。上水道が普及してもう使われなくて、そのまま放置していると危険なので、コンクリートで蓋をしたり、鉄柵で囲い鍵をしているところもある。いまの姿は変わっていても、長年にわたり、住民の命と暮らしを支えてきた水源にはかわりない。島に生きる人々の水への思いは、大和で考えるよりはるかに大きい。

 だからどこの井泉でも、必ず住民が祈願する拝所がある。そして、いまなお人々が日々、祈願に訪れる。そんな井泉の拝所を見ると、いかに島の人々にとって、井泉がかけがえのない役割を果たしてきたのか、そういう意味ではいまなお神聖な場所であることを、うかがい知ることができる。
 たくさんの湧水をすべて見て回ることは不可能だ。たいていは、地域回りなどをしていて、井泉に出会う。そんな、歩いて見た湧水を紹介したい。

 

 

 

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