ネッタイシマカ(
Aedes aegypti)はデング熱、黄熱病といった感染症を媒介する重要な衛生害虫の一種だ。特にデング熱に関しては今のところ有効なワクチンや治療法が開発されていないので、殺虫剤による媒介蚊の駆除が主な対策手段となる。しかし厄介なことに、この蚊は都市部に非常に適応しているので、水桶や花壇の鉢の水など居住空間の様々な場所で繁殖することができる。そのため、生息地が分散してしまい集中的な殺虫剤の散布で個体数を減らすことが困難な場合が多い。
殺虫剤に変わる害虫の駆除方法として、不妊虫放飼という方法がある。この方法では、何らかの方法で人工的に不妊化(要するに”種無し”にする)した虫を大量に作って野外に放出する。すると、性欲は一人前にあるが子孫を残せない虫(通常オスが使われる)が野外に溢れることになるため、同じ種の虫の数が徐々に衰退していくことになる。この方法はうまくいけば非常に効果が高く、実際、特定の害虫種を完全に根絶してしまうことも可能である。日本でもウリミバエという外来の農業害虫を沖縄県から根絶した経緯がある。
蚊に対して不妊虫放飼法が行われた例はこれまでに幾つかあるようだが、大規模な実施での成功はまだ無い。一般的に、蚊の不妊虫放飼には以下のような困難が伴う
- 従来の方法で不妊化することが難しい
通常、昆虫の不妊化は蛹期に放射線を照射することで行われる。しかし蚊の場合、蛹の時期は水生生活(オニボウフラ)なので、扱いが困難で大量に処理できない。- 蚊の個体群サイズは幼虫期の資源獲得競争に規定されている
蚊の幼虫(ボウフラ)と蛹は水中で生活する。ネッタイシマカの場合、人工的な水溜りに卵を産み付けるが、これらの生育環境は限られている上に狭く餌資源も乏しいので幼虫同士の資源獲得競争が激しい。一方で、メスは一回の吸血―産卵で潜在的に沢山(数百)の卵を産み落とせる能力を持っているので、成虫の繁殖力を大幅に減らしても次世代の個体数に関してあまり影響は無い。つまり、蚊の個体数を減らすには成虫期ではなく幼虫期の個体群にインパクトを与えることが重要である。しかし、従来の放射線による不妊化では大抵の場合次世代は胚性致死(卵から孵らずに死んでしまう)になるので幼虫期で競合することは無い。- メスを放飼することはできない
もしあなたの家の近くにできた怪しげな施設が、血を吸うメスの蚊を毎日大量に放出し始めたら、迷わず最寄の行政機関に苦情を申し立てるにちがいない。従って放飼する蚊はオスだけでなければならない。雌雄の区別が明確に分かるのは蛹か成虫期だが、これを人間の手で区別してより分けるのはいずれにしても労力が必要だ。- 健康なまま放飼することが難しい
不妊虫放飼法にとって重要な点は、放飼するオスが野外のメスの獲得に十分競争力が無ければならないということだ。ヨレヨレの草食系オス蚊をいくら放しても、野生のオスたちに「へっ、見ろよあのオカマ」と鼻で笑われるだけで野外のメスと交尾する確率が低くなる。とくに蚊のオスはこれまで不妊虫放飼が行われてきたどんな虫よりもか弱く、不妊虫生産工場での様々な扱いで弱ってしまう。
昆虫の不妊化に関しては放射線を使う代わりに遺伝子組み換え技術を使って優勢致死遺伝子を導入する方法もある。優勢致死遺伝子保有昆虫放飼法(RIDL:Releasing of Insects carrying a Dominant Lethal)と呼ばれるが、従来の不妊虫放飼法に変わる技術として期待されている。この方法では、一度そのような系統を作ってしまえば放射線の照射などがいちいちいらない為、飼育施設を小規模化することができる。もちろんただの優勢致死遺伝子を組み込んだ昆虫を作っても、実験室で増やして野外に放す前に絶滅してしまうだけなので、飼育環境化では働かないが野外では確実に働くシステムが望ましい。また、他の野外個体の幼虫と競合するように幼虫期の間はその致死遺伝子の作用が発動しない方が良い。しかも、血を吸うメスは成虫にならずにそのまま死んでもらって、オスだけ生きて成虫になるようなシステムであれば、いちいち人間が選別する作業も必要なくなる。そんな都合の良い方法、可能なのだろうか?
英バイオ系のオキシテック(Oxitec)社はテトラサイクリンという抗生物質によって抑制されるtTA 遺伝子をドライバーとして、別に組み込んだ優勢致死遺伝子を発現させるという条件的致死な昆虫を作る技術をこれまでに確立している。この技術が使われた遺伝子組み換え昆虫は、テトラサイクリンンを与え続けることにより室内では普通に飼育できるが、テトラサイクリンが存在しない野外では組み込まれた致死遺伝子が発現することにより生活環を完了することができない。同社はこの技術を使って、以前に幼虫後期までは成育できるが、成虫にはなれない優勢致死遺伝子を持ったネッタイシマカ系統を作り出すことに成功していた。そして、今回この技術をさらに洗練させ、オスでは成虫に成れるがメスは成虫になれないという性特異性をも備えた新たな組換えネッタイシマカ系統を確立した。
この新しい系統 OX3604C に組み込まれたシステムの原理は、メスの関節飛翔筋(IFM:Indirect Flight Muscle)で蛹期に特異的に多く発現しているアクチン遺伝子
AeAct-4 のプロモーターを利用して tTA を発現させるというものである。IFM は飛翔にとって重要な器官である。都合が良いことに、
AeAct-4 はオスとメスで異なったスプライシングをされることが分かった。この選択的スプライシングを利用して、オスにだけ使われるエクソンにストップコドンを入れることによりほぼ完全に tTA の働きをメスに限定することができる。さらにこのシステムでは tTAの誘導がメスの蛹期でしか起こらないため、終齢幼虫まではオスメスどちらもテトラサイクリン無しで普通に生育できる。従って、野外の個体と幼虫期に競合することになる。しかし、蛹期にメスのIFMで tTA の発現が起こり、tTA の産物が細胞毒性のあるタンパクの発現を誘導する。この結果、正常な IFM の発達が阻害され、変態しても飛ぶことができないメス成虫が誕生する。これは完全に致死ではないが、飛べないということは吸血できないのだから人間の病気を媒介することはできないし、何より産卵も出来ない。つまりメス蚊にとっては実質的に死を意味することになる。一方でオスの蚊は、普通に飛立つことができる。
このシステムの素晴らしい点は、テトラサイクリンを与えなければメスは水面に漂うだけなので、自動的にオスだけを大量に手に入れることができるという点にある。さらにいえば、卵の状態で野外に放飼しても野外の(実質的な)メス個体を増やすことは無い。このやり方であればオス成虫を人間が取り扱うステップが無いので、懸念されるダメージが無くなるだろう。ネッタイシマカの卵は乾燥に強いため、簡単に保存し持ち運ぶことが可能だ。
遺伝子組み換え蚊を野に放して、病気を防ぐという方法はこれまでにも様々な研究者が考えてきたアイデアだが、今回オキシテック社が開発した方法はそれらの中でもより現実的にうまく働きそうに見える。問題は遺伝子組換えの昆虫を野外に放すということに対して社会的な理解が得られるかどうかだ。組み込まれる遺伝子自体はなんら蚊に有利な形質を与えるものではない(むしろ条件的にだが有害)ので、放飼をやめれば先細りになって自然界から直に消滅するだろうと考えられる。ただ、やはり生理的・倫理的に受け入れられないという人は
まだ多いかもしれない。
<参考文献>
Guoliang Fu, Rosemary S. Lees, Derric Nimmo, Diane Aw, Li Jin, Pam Gray, Thomas U. Berendonk, Helen White-Cooper, Sarah Scaife, Hoang Kim Phuc, Osvaldo Marinotti, Nijole Jasinskiene, Anthony A. James, and Luke Alphey
Female-specific flightless phenotype for mosquito control
PNAS 2010 : 1000251107v1-5.