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ボルバキアは人を救うか?

2011-09-04 22:29:52 | 医療・衛生

 蚊などの昆虫・節足動物によって媒介される感染症のうち、デング熱やマラリアなど今だに予防ワクチンが存在しないものが多い。このような感染症を防ぐためには媒介者となる昆虫の発生を抑えることが最も重要だが、これまでは主に殺虫剤がこの目的に用いられてきた。しかし近年、遺伝子組換え技術等を利用して旧来の技術とは異なるアプローチから感染症を媒介する有害な蚊を防除するという試みがなされようとしている。以前にも何度か紹介したRIDL(Release of Insects carrying a Dominant Lethal)と呼ばれる方法では、優性致死遺伝子を持つオスの蚊を放飼してその遺伝子が遺伝した次世代の個体を死滅させる。基本的な原理は不妊虫放飼法と同じだが、この方法では理論的には野外の個体数が減少すればしていくほど加速度的にその効果を増して行く。

個体群置き換え法
 RIDL法は有害生物の個体数を直接削減することを目指すが、これらとはまた違った発想で蚊による病気の媒介を防ごうとするアイデアもある。“個体群置き換え法(population replacement)”と呼ばれているが(この日本語への訳は筆者によるもので正確なものかどうかは保証しない)、これは蚊の個体群の中に病原体の媒介を妨げるような遺伝因子を広げることで病気の蔓延を防ぐというものだ。“個体群置き換え”といっても野外の個体群そのものをそっくり別のものに置き換えてしまうというイメージは誤りで、実際には染色体の一部の領域や細胞質など特定の遺伝因子が集団中で置き換わるという理解が正しい。不妊虫放飼法との大きな違いは、不妊虫放飼法は蚊の個体群のサイズを減らすことが目的であるのに対し、個体群置き換え法では個体群のサイズは変わらないか著しく減少することが無い。その代わりに特定の(人間にとって)望ましい遺伝因子の頻度を上昇させ、究極的にはそれを個体群中に固定させる。この方法がうまく行けば、蚊は相変わらず不愉快な存在として残り続けるがもはや病気を媒介する恐ろしい存在ではなくなるので、公衆衛生上の目標は達成できることになる。


(from Alphey 2009)

 RIDL法と比べ個体群置き換え法には以下に述べるような利点がある。RIDL法は野外の個体群を縮小させるが、放飼する雄は同じ種のメスとしか交尾しないため原理的にその効果は単一の種の単一の生殖集団に限定される。しかし、病原体は宿主として幾つかの異なる種や亜種を利用している場合がある。この主たる例はマラリアだろう。アフリカでやマラリアは主にガンビエハマダラカという種が媒介するが、この種には形態的に区別できない複数の亜種が存在する。また、その亜種と認識されている集団自体もさらに同所的に存在する異なる分集団に分かれていることが分かっている。このように媒介者となる種(あるいは生殖集団)が複数存在する場合、一つのターゲットを不妊虫放飼法で駆逐しても、その空いたニッチを埋めるように別の種の個体群が拡大してしまう恐れがある。そうなると病気は一時的には減るかもしれないが、拡大した別の媒介者によってまたぶり返し、場合によってはもっと状況は悪くなるかもしれない。実際、遺伝子組換えによるネッタイシマカの不妊化技術を開発しているオキシテック社も、彼らの方法ではマラリアの抑制は難しいと認めている。一方で、個体群置き換え法では、蚊の種構成自体にはあまり影響を与えないと考えられるので、主要な媒介種か集団をターゲットにして行えばそのような問題は起きにくいと考えられる。

 病原体の媒介を防ぐ目的で蚊の個体群に広める遺伝因子(エフェクター)には例えば次のようなものが考えられる。

1.蚊の体内で病原体の増殖を抑える遺伝子
 実際に自然にいるの蚊の中から彼らが媒介する病原体に対して“抵抗性”になる遺伝子が見つかっている。また本来自然界に無い遺伝子でも人間が“デザイン”して新たに作り出すことも考えられている。

2.媒介者である蚊の成虫寿命を縮めるような遺伝子因子
 蚊は吸血という行動によって我々の病原体を媒介するが、一匹の蚊がある病気に関して一人の新たな感染者を出すためには最低でも2回の吸血を必要とする。なぜならば最初に吸血で感染した人間の血液から病原体を獲得して、それ以降の吸血ではじめて別の人間に病原体の入った唾液を注入することができるからだ。また、病原体にも蚊の体内に入ってから感染できる状態になるまでに要する一定の期間が存在する(外部潜伏期間:extrinsic incubation period)。例えばデングウィルスでは、温度にも依存するが蚊に吸血されてから次に人間に感染できるようになるまでには7~14日の期間が必要で、宿主である蚊のメスには最低でもこの期間を生き抜いてもらえなければ感染を広めることができない。
 あくまで感染を広めない程度に成虫寿命を縮めるという性質は、次の理由で個体群置き換え法で用いるエフェクターの性質として望ましい。もし、エフェクターが最初の吸血と産卵も許さないぐらいに苛烈なものであれば、その遺伝因子を持った個体の適応度はゼロになってしまうだろう。これでは個体群に広まるどころか速やかに消失してしまうので致死遺伝子と実質的には変わらない。一方で最初の産卵は行える程度に穏やかなものであれば、とりあえずは次世代に伝わることができる。もちろん成虫寿命を縮めるという性質も著しく適応度を奪うはずだが、そのエフェクター遺伝因子が後に述べるような“利己的性”を兼ね備えていれば個体群中で頻度を増して消失せず維持される可能性がある。


エフェクターを広める手段
 個体群置き換え法の最大の難関は、エフェクターとなる遺伝因子をどのようにして個体群中に広めるかという問題だ。理論的にはそのような遺伝因子を持った個体を放飼し続ければ次第に個体群中に頻度が上がっていくかもしれないが、仮にその遺伝因子が蚊の適応度にとって中立であったとしても、野外の巨大な個体群を置き換えるには途方も無い数の蚊を飼育し放飼しなければならないだろう。また、往々にしてエフェクターとなるような遺伝子因子は蚊にとっても有害である可能性が高く個体群中に安定に維持されないかもしれない。
 この問題を解決するために、“利己的な遺伝因子”をエフェクター遺伝子を広める“ドライバー”として利用することが考えられている(Sinkins and Gould 2006)。利己的な遺伝子因子と呼ぶと、リチャード・ドーキンスのかのベストセラーのタイトルを思い出す人も多いかもしれないが、ここで言う“利己的”であるということは若干意味が異なる。ドーキンスが彼の本で用いた“利己的性”とは、あらゆる遺伝子は自身のコピーを広めるという自己利益のために進化するという意味だろう。個体の適応度を上げるという一般的な遺伝子の作用もその利己的性の現れである。しかし、一般的に生物学の論文などで“利己的な”という言葉が改まって使用される場合はもう少し限定された性質を指すようだ。この場合、利己的遺伝因子は、個体の適応度に全く寄与しないかあるいは減少させもするが、それでも自身の存在を個体群中に広めていく性質を持っている遺伝因子のことである。利己的因子は自律的に自身の頻度を個体群中に広める性質があるので、エフェクターとなる遺伝因子をこのような因子と連鎖させて導入すれば、ヒッチハイキングによって個体群中に広めることができると期待される。利己的因子のよく知られている例としては、次のようなものがある。

1.ドライブを引き起こす遺伝因子
 転移因子、ホーミングエンドヌクレアーゼ遺伝子(Homing Endonuclease Genes:HEGs)、分離歪曲因子(Segregation Distorter:SD)のような遺伝子因子は、自身の次世代への伝達率をメンデルの遺伝法則から期待される分離比よりも高くする性質がある。このような現象はドライブと呼ばれている。これらの因子を行様な遺伝子を広げるドライバーとして用いる利点はそれ自身が自律的に個体群中に広まっていくため、放飼する数が少数で済むこと、また多少個体の適応度に負の影響があっても安定的に維持されうることだ。しかし、途中でドライバーとエフェクター遺伝子の間で組み換えが起こった場合、ドライブバーだけが単独で広まっていくという恐れがある。この問題は、エフェクター遺伝子に強い負の適応度への効果がる場合は特に懸念されるだろう。またドライバーそれ自体にも適応度へ強い負の影響があった場合、ドライブバーが淘汰されるか標的とする個体群中でドライバーのドライブ効果に対する抵抗性が発達する可能性も考えられる。
 
2.Underdominance
 ある二つの対立遺伝子のペアにおいて、そのヘテロ接合体の適応度がそれぞれのホモ接合体の適応度と比べて高い場合、それらの対立遺伝子は超優勢(Overdomminance)の関係にあると呼ばれる。超優勢の関係にある二つの対立遺伝子は機会的浮動による消失をお互いに免れながら長期間個体群中に維持されることで知られる。それに対して、ヘテロ接合体の適応度がそれぞれのホモ接合体の適応度と比べて低い場合、それらの対立遺伝子はUnerdomminance(正確な日本語訳は見つからなかった。)の関係にあるという。Undedominanceの関係にある二つの対立遺伝子は、超優勢とは逆に最終的にはどちらか一方の対立遺伝が個体群中から消失する運命にある。どちらの対立遺伝子が消失するかはそれぞれのホモ接合体での適応度と存在比によるが、一般的に初期頻度が低い対立遺伝子が消失に向かって推移することになる。なぜならば、頻度の低い方の対立遺伝子はヘテロ接合体として存在する割合がより高いからだ。
 Underdominanceのような関係は進化的に不安定なので、そのような関係にある遺伝子が自然界に見つかることは殆ど無いだろう。ただ、人間が野生型の対立遺伝子とUnderdominanceとなるような遺伝因子をデザインすることは可能だ。厳密に言えば、underdominance因子は利己的遺伝因子とは言えないかもしれない。なぜならば初期頻度が低い状態では自身を滅ぼす方向に働く自殺遺伝子でしか無いからだ。しかし、一旦この因子が野生型の対立遺伝子の頻度にたいして一定の比率を超えると、一転して相手を消滅させように作用する。
 Underdominanceを利用した戦略は、野生型の対立遺伝子を上回るまでかなり多くの個体数を放飼しなければならないため、大きな集団に大しては用いることはできないだろう。しかし、この方法には次のような利点がある。ドライブ効果をもつ遺伝因子のような存在比に関わらず自律的に広まっていく因子の場合、標的としている個体群の外部の集団にも漏れ出して、最終的に人間がその蔓延をコントロールすることが出来なくなる恐れがある。一方で、underdominance因子は標的としていない別の集団に移入しても、その集団中での頻度は低いため、そこではすぐに消失する。一方で一旦固定した集団中では外部から移入する野生型の対立遺伝子を排除するように働くため安定的に維持される。

3.ボルバキア
 ボルバキア(Wolbachia)は節足動物と線虫類に広く見られる細胞内共生細菌である。この細菌の興味深い点はその自身の感染を宿主の個体群中に広めていく生存戦略にある。ボルバキアは基本的にはミトコンドリアと同様、細胞質を通じた母系遺伝のみで次世代に伝わっていく(ただしボルバキアが系統的に全く異なる生物種に存在していることは、進化的な時間スケールではごくたまに生物種間の水平伝搬が起こっていることを意味している)。したがって雄に遺伝してしまったボルバキアは次世代に伝わる事ができないのだが、細胞質不和合性という次に述べる性質で間接的に自身の蔓延に寄与することができる。あるボルバキアを持ったオスが、ボルバキアを持たいない(あるいは自分より劣位にある異なるタイプのボルバキアを持った)メスと交尾した場合、その子孫は正常に発育せずに死んでしまう。一方で、このようなオスが自身と同じタイプのボルバキアを持つメスと交尾した場合には、その子孫は通常通り孵化し生存する。このようなオス個体に感染したボルバキアの振る舞いは、自分と同じボルバキアが存在しない細胞質を集団中からひとつひとつ排除しているようなもので、長期的にはそのボルバキアの感染が個体群中に広まっていくことになる。ボルバキア は系統や宿主によっては細胞質不和合性の他にも、オス殺し、宿主のメス化、単為生殖の誘導などといった多様な性質が見られ、それらは全てボルバキア自身の感染を広めていくために理にかなった戦略である。
 ボルバキアが最初に発見された生物はアカイエカという種類の蚊であるが、感染症媒介者として重要な蚊種でデング熱・黄熱病を媒介するネッタイシマカとマラリアを媒介するハマダラカ類からはいずれもボルバキア は見つかっていない。標的とする集団にボルバキアが存在しないことは、個体群置き換え法においては好都合であるだろう。なぜならば、既に野生のボルバキアが感染している集団に新たな我々にとって望ましいボルバキアを広げることは容易ではなく、場合によってその蔓延を阻止する要因になりかねないからだ。


ボルバキアを利用したデング熱の抑圧
 蚊に対する個体群置き換え法では、ボルバキアを用いた方法が現段階で最も実用に近付いている方法かもしれない。

 豪クィーンズランド大学のScott L. O’Neillらのグループは2009年に、ネッタイシマカにポップコーン(wMelPop)と呼ばれるボルバキアの系統を感染させることに成功したとSience誌に報告した(McMeniman et al. 2009)。wMelPopは遺伝的に脳細胞が変性して成虫寿命が短くなる性質を示すあるショウジョウバエの系統から見つかったボルバキアだが(脳細胞の中で増殖したボルバキアの電顕像がまるで袋に詰まったポップコーンのようだからこのような名前が付いた)、この系統の短い成虫寿命の原因がwMelPopの感染であることが分かっていた(Min and Benzer 1997)。前述したように蚊の成虫寿命を短縮することはデングウィルスのような病原体の感染効率を大きく損なう。彼らはこのwMelPopの成虫寿命に対する効果がヒトスジシマカでも得られると期待したのだが、実際にヒトスジシマカでも同じように宿主の成虫寿命を著しく短縮することが分かった。

 wMelPopを個体群置き換え法に用いるアイデアで興味深い点は、それ自身がドライバーでありエフェクターでも有るということだ。これはわざわざ遺伝子組換え技術を使って新たなエフェクター遺伝子を導入する必要が無いという点で、社会的にも受け入れられやすいという利点があるかもしれない(ただし、それを以てして環境に優しいと言えるかというと個人的には疑問だけど)。

 同じ年に、wMelPopの持つもう一つの意義深い作用が同じグループから報告された。wMelPopに感染したヒトスジシマカでは、デングウィルスの蚊の体内での増殖が抑制されるということが明らかとなった(Moreira et al. 2009)。このボルバキアのウィルスの増殖を阻止するメカニズは今のところ分かっていないが、本来の宿主のショウジョウバエにおいても同様にRNAウィルスの増殖が阻止されるらしく、いくつかの致死的なウィルスの作用から宿主を保護していることが分かっている。
 前述したように、ボルバキアは宿主の繁殖機会をときに奪いながらも自身を個体群中に広めていくという意味で利己的な存在である。しかし、基本的に垂直伝搬のみでしか次代に受け継がれるチャンスがないことを考えると、宿主の生存力を奪う事は自体は彼らにとってなんの利益にもならないだろう。実際、線虫のフィラリアや昆虫のトコジラミ(Hosokawa et al. 2010)など、一部の生物ではボルバキアが宿主相利共生となっている例もある。wMelPopに見られたウィルスの増殖を阻む作用も、宿主の生存力を上げることにより自身の蔓延をさらに広げるという“利己的でない”生存戦略の一つなのかもしれない。

 wMelPop の持つ成虫寿命の短縮作用はデングウィルスの流行を阻止する上では望ましいが、同時に蚊個体の適応度に直接影響するようなこのボルバキアの性質は、蔓延速度を遅らせるか場合によってはそれ自体を実現不可能にするという意味で諸刃の刃でもある。厄介なことに、wMelPop のヒトスジシマカの適応度への作用は成虫寿命の短縮にとどまら無いらしい。ヒトスジシマカを含むシマカ類の卵は、乾燥した状態で孵化せずに長期間耐得ることができる。降雨等によってたまった水にふれるとその刺激で孵化が誘導される。幼虫の好適な生育環境が整うまで孵化を遅らせるという一種の休眠だ。wMelPopに感染したヒトスジシマカではこの耐久卵の孵化率が著しく下がることが分かった(McMeniman and O'Neill 2010)。

 ボルバキア自体がデングウィルスの増殖を抑えて実質的に媒介能力を奪うとわかった以上、当初注目されていた成虫寿命の短縮効果は不要で、むしろお荷物ということになる。そこでO’NeillらはwMelPopとは別のボルバキアでウィルスの増殖阻止効果だけを持つより理想的な系統を探すことにした。彼らが注目したのは、同じくショウジョウバエのボルバキアでwMelという系統だ。このボルバキアは現在自然界に生息しているショウジョウバエで最も頻繁に見つかるタイプのボルバキアだが、このボルバキアはほんのここ100年間の間にその勢力を拡大したと考えられている(Riegler et al. 2005)。
 wMelはwMelPopと異なり感染した宿主のネッタイシマカ成虫寿命を短くすることはなく、耐久卵の孵化率も減少していなかった。wMelの宿主への影響がwMelPopと比べて穏やかなのは、蚊体内での増殖能力の違いにあると考えれられる。wMelPopは全身の様々な組織の細胞で増殖が見られたが、wMelは卵巣以外の組織の細胞ではそれほど増えていなかった。wMelPopの宿主への有害作用にはどのような意味があるのかわからないが、全てのボルバキアに共通する性質というわけでは無いようだ。一方で、wMelの感染したネッタイシマカでは、wMelPopの時と同様にデングウィルスの増殖が1500分の一に抑え抑えられていた。(デングウィルス4つの血清型が存在するが、この実験で用いられたのは2型だった。他の型のデングウィルスに関してはどうなのだろう?)。また、wMelの感染した蚊の唾液からはデングウィスルスは検出されなかった。デングウィルスは蚊の唾液と共に人間の血液に注入されるため、このウィルスが蚊の唾液まで移行できていないということは、その感染能力が完全に奪われていることを意味する(しかし、残念ながら媒介能力に関する直接的な検証はされていないみたい)。

 上記の研究が報告されたNatureの同じ号の論文で、O’NeillらはwMelが実際にネッタイシマカの野外集団に浸潤して固定することができるかどうかを野外集団について確かめる実験を行ったことを報告している。この実験が行われた場所は豪ケアンズにほど近いヨーキーズとゴードンベールという場所だが、どちらも600世帯余りの小さな集落のようだ。デング熱を媒介しないといっても血を吸うメス成虫(しかもわけの分からない細菌が感染した)を放飼しなければならない実験なので、よくこれが実現したなと思うが、"長期に渡る地元住人との交流の末、強い支持を得た(an extensive period of community engagement and subsequent strong community support)"らしい。
 実験では10週間で合計30万匹のwMelに感染した蚊が放飼された。どちらの地区でも放飼開始から感染蚊の割合が上昇し、終了の時点ではその地区で捕獲される蚊の約7割以上が感染している状態になっていたが、放飼をやめてからも徐々にその感染率は伸び続け、放飼終了から5週目あたりで感染率9割に達した。

 10週間で約30万匹という数字がどれだけの労力を必要とするのか全く想像もできないが、今回実験が行われた集落の規模から考えると意外に多いんだなという感じがした。やはりボルバキアと云えども短期間で広めるためにはかなりの初期頻度を必要とするのだろう。RIDL法ではオスだけを放飼すれば良いが、今回の場合はボルバキアを次代に遺伝させるメスも放飼する必要がある。病気は媒介しないといえ、血を吸う不愉快なメスの蚊をわざわざ大量に撒くということに地元の理解を得るのはそう簡単なことではなさそうだ。実際に広い地域に応用するためには、あらかじめ殺虫剤やRIDL法で個体群のサイズを下げておくといったように、他の方法と組み合わせて行う必要があるかもしれない。

 ボルバキアを利用した蚊媒介性感染症の抑制は、デングウィルスだけではなくマラリアにも応用できるかもしれない。今年発表されたHughesら(2011)の研究によると、ボルバキアを感染させたガンビエハマダラカでは、マラリア原虫のオーシスト形成が阻害されることが分かった。残念ながら安定的にボルバキアが継承される感染系統を作り出すことにはまだ今のところ成功していないようだが、今後の発展が期待される。

ボルバキアを用いることの懸念
  個体群置き換え法は前述したように、媒介宿主の個体群のサイズに影響を与えないという点でRIDL法よりも優れているかもしれない。また、一度置き換えが成功してしまえば、その後人間が特に手を加えなくとも安定的にその状態が維持されるということも魅力的である。
 しかし、この方法がRIDLと比べて環境に優しくより倫理的であるかというと必ずしもそうは言えないだろう。個体群置き換え法は、本来自然界に存在しない遺伝因子(ボルバキアも広義には一種の遺伝因子とみなすことができる)を野外個体群に導入するが、RIDL法と根本的に異なるのは、この遺伝因子が長期間あるいは永久的に自然界に維持されることである。そして、一度広めてしまったそのような遺伝因子を再び消滅させてもとの状態に戻すことは非常に困難であると思われる。一方で、RIDL法で用いる致死遺伝子は放飼を止めれば原理的には速やかに個体群から消滅するだろう。だから何か予期しない問題が生じてもまた後戻りできるという可能性は高い。この意味において、たとえボルバキアという遺伝子組み換え技術を用いていない場合でも個体群置き換え法の倫理的なハードルはRIDLと変わらないか、むしろそれ以上に高いと私は考える。
 もちろん、たとえ倫理的な問題を孕んでいたとしてもそれによってデング熱で苦しむ人々が減ることの意義を忘れてはならない。しかし、個体群置き換え法が本当に永久的な解決になるのかどうかということも今のところまだ不透明だ。デングウィルスにとって人間に感染することができないという状態は非常に強い選択圧になるだろうが、このウィルスがwMelの作用を乗り越えるような進化をすることができないという保証はどこにもない。もしそのようなウィルスが新たに生じるか、もしくは既に少頻度で存在していると、デング熱は一時的に抑制されるた後にまた振り返すことになるだろう。もしそうなってしまっても、もう一旦広めてしまったボルバキアを個体群から除去することは難しい。デングウィルスがボルバキアの効果に打ち勝つことができるかどうかは今のところまだ分からないが、少なくともなぜこの細菌がウィルスの増殖を抑えることができるのかというメカニズムを解明しておく必要はあると思う。



Alphey, L. (2009). "Natural and engineered mosquito immunity." J Biol 8(4): 40.
Hosokawa, T., R. Koga, et al. (2010). "Wolbachia as a bacteriocyte-associated nutritional mutualist." Proc Natl Acad Sci U S A 107(2): 769-774.
Hoffmann, A. A., B. L. Montgomery, et al. (2011). "Successful establishment of Wolbachia in Aedes populations to suppress dengue transmission." Nature 476(7361): 454-457.
Hughes, G. L., R. Koga, et al. (2011). "Wolbachia infections are virulent and inhibit the human malaria parasite Plasmodium falciparum in anopheles gambiae." PLoS pathogens 7(5): e1002043.
McMeniman, C. J., R. V. Lane, et al. (2009). "Stable introduction of a life-shortening Wolbachia infection into the mosquito Aedes aegypti." Science 323(5910): 141-144.
McMeniman, C. J. and S. L. O'Neill (2010). "A virulent Wolbachia infection decreases the viability of the dengue vector Aedes aegypti during periods of embryonic quiescence." PLoS neglected tropical diseases 4(7): e748.
Min KT, Benzer S (1997) Wolbachia, normally a symbiont of Drosophila, can be virulent, causing degeneration and early death. Proc Natl Acad Sci USA 94: 10792?10796.
Moreira, L. A., I. Iturbe-Ormaetxe, et al. (2009). "A Wolbachia symbiont in Aedes aegypti limits infection with dengue, Chikungunya, and Plasmodium." Cell 139(7): 1268-1278.
Riegler, M., Sidhu, M., Miller, W. J. & O’Neill, S. L. Evidence for a global Wolbachia replacement in Drosophila melanogaster. Curr. Biol. 15, 1428?1433 (2005).
Sinkins, S. P. and F. Gould (2006). "Gene drive systems for insect disease vectors." Nat Rev Genet 7(6): 427-435.
Walker, T., P. H. Johnson, et al. (2011). "The wMel Wolbachia strain blocks dengue and invades caged Aedes aegypti populations." Nature 476(7361): 450-453.


 

性交で感染するアルボウイルス?

2011-07-09 02:35:23 | 医療・衛生
2008年の8月、生物学者とその学生である患者1と2はマラリアの研究でセネガルのとある村に滞在していた。調査を終えた彼らは8月24日に自宅のあるコロラドに帰国するが、帰国から6-9日後、二人の患者はいずれも理由の分からない体調不良を感じる。症状としては足のむくみ、胴に斑点状丘疹、極度の虚脱感と頭痛、手足首の関節痛、排尿困難を伴う前立腺炎、血精液症(池の混じった精液)等。

 そして患者1の発症から数日後の9月3日、なんと今度は彼の妻にも同じ症状が出始める。

3人の患者(1,2と1の妻)は免疫血清検査を受けたが、病気の原因を明らかにすることはできなかった。患者1と2の血清からはデングウイルスへの陽性反応が出て当初これが疑われたが、彼らはもともとアフリカに行く前に黄熱ワクチンを接種されていた。デングウイルスは黄熱ウイルスと同じフラビウイルスの仲間で、黄熱ワクチンによって増えた抗体が交差反応を起こしたのだろう。本当の病原体の正体を突き止めることができたのはそれから1年後、回復期に採取された3人の血清はいずれもZIKAウイルスに対する抗体価が高くなっていたことが確かめられた。

ZIKAウイルスは蚊によって媒介される病原性ウイルスで、アフリカと東南アジアに広く分布する。あまり臨床例は多く知られてはいないらしいが、2007年にミクロネシアのある島でこのウィルスの大流行が起こり、島民の約七割が感染したということで最近「新興感染症」として注目されていたようだ。

患者3はどこで感染?

患者1と2はアフリカでウイルスを持った蚊に刺されて感染したのだろう。しかし、患者1の妻である患者3は一体どこで感染したのだろうか?彼女は一度もアフリカに行っていないのにもかかわらず。考えられる可能性としては、患者1を吸血した蚊が妻に媒介したというものだろう。しかし、患者3は患者1の帰国からわずか9日で発症している。蚊がZIKAウイルスに感染した人間の血液を吸って、次に別の人間に感染できる状態になるまでには通常2週間以上の期間がかかる。また、ZIKAウイルスを媒介するStegomyia属の蚊は、患者1の自宅周辺には生息していなかった。これらの事から蚊を介してZIKAウィルスが伝搬した可能性はあまり高くない。次に、唾液などを介して直接感染した可能性が考えられる。しかし、同じ程度に濃厚接触していると思われる彼らの4人の子供には感染していなかった

 最近Emerging Infectious Diseases誌に掲載されたBrian D. Foy(コロラド州立大学)らの出した報告では、患者1のZIKAウイルスは性交渉を介して患者3に伝搬された可能性を主張している。実際二人は1の帰国後、膣性交を行っている。患者1の精液に血液が混じる症状が出ていたのも何か関係ありそうだ。

 節足動物が媒介するウイルスをアルボウイルス(arbovirus: arthropod-borne disease)と呼ぶが、アルボウイルスが性交渉を通じて直接人から人に感染した例はこれまでに報告されていない。もし、彼らの主張が正しければ世界で初めての例となるだろう。しかし、今のところこの一例だけで、状況証拠しか無いという点で結論を出すにはまだ早いのかも知れない。ただ、同じくアルボウイルスである日本脳炎ウイルスで、感染した牡豚から人工授精されたメス豚が感染したという例はあるので、ありえないという訳ではなさそうだ。

こちらの記事で種明かしがされているが、患者1は上記の論文の筆頭著者であるFoy自身であり、患者3である彼の妻のJoy L. Chilson Foyも堂々共著者に名を連ねている。)

見過ごされたガンビエハマダラカの亜種

2011-02-07 00:04:57 | 医療・衛生

Anopheles gambiae mosquito (from Wikipedia)


 マラリアPlasmodium属の原虫(単細胞性の真核生物)が引き起こす寄生虫症だ。人間のマラリアを引き起こすマラリア原虫は現在5種類が知られ、それぞれ症状が異なる。この中でもアフリカで最も一般的な P. falciparum が引き起こす熱帯熱マラリアは最も症状が重く、死亡率が高い。

 人間のマラリア原虫はハマダラカAnopheles)属の蚊により媒介されるが、アフリカにおいて P. falciparum の主要な媒介者となっているのガンビエハマダラカA. gabiae sensu stricto) だ。A. gabiae という名称は広義には種群を指し実際にはいくつかの形態的に区別できない亜種に分かれているが、 A. gabiae s.str. はその中でも特に人間の血を好んで吸う最も危険なマラリア媒介蚊として知られている。A. gabiae s.str.にはさらにMとSと区別される二つの亜種あるいは生殖集団が存在していることが現在知られている。両者間での交配はほとんど起きていないらしく、特定のSNPs(Molecular Form Diagnostic SNPs;MFDS)で識別できるとされていた。MFDSはそれぞれの集団で固定されているらしく、M型とS型のヘテロ接合体が見つかるのは非常に稀だ。

 最近、西アフリカのブルキナファソで採集されたA. gabiae s.str.についてマイクロサテライト座を使った集団構造解析が行われたが、その結果によるとA. gabiae s.str.はこれまでに知られていたMとSだけでは無く、これらとは遺伝的に独立した第3番目の生殖集団が存在することが分かった。この新しい集団は、調査が行われた地名にちなんでGOUNDRYと名づけられた。興味深いことに、GOUNDRY 集団内にはM型とS型を区別するMFDSが混在しているらしく、両者のヘテロ接合体が高頻度で見つかった。それならばこれまでにも見つかっていて良さそうなものであるが、どうやらA. gabiae s.str.のサンプリングバイアスがGOUNDRY集団の発見を阻んできたらしい。

 これまでのA. gabia s.str. の採集の多くは、家の中に侵入してきた成虫個体を捕まえることで行われている。これはA. gabiae s.str.が吸血後に屋内で休息する性質があることから、基本的に本種は居住空間を好むと解釈されてきたからだ。また、屋内で採集を行うことが屋外よりも効率が良いため研究者にもその採集方針が好まれていた。しかし今回の調査で見つかったGOUNDRY集団に帰属する個体は全て屋外の水溜りから採集した幼虫であった。一方で屋内で採集したサンプルは全てこれまでM型・S型と認識されていたGOUNDRY以外の集団(これらをまとめてENDOと呼ぶことが提案されている)に属することが分かった。つまりGOUNDRY集団はENDO集団と生態が異なり、基本的に屋内には侵入して来ないのだ。

 GOUNDRY集団内の対立遺伝子の多様性は、ENDO集団内よりも低い。恐らく進化的にはGOUNDRY集団の方が新しいのだろう。また、GOUNDRY集団の個体を実験室で成虫まで育て P. falciparum に対する感受性を調べたところ、ENDO集団の個体よりも有意に感受性が高かった。これはGOUNDRY集団の個体は潜在的な媒介能力がENDOよりも高いことを暗示している。ただ、今のところGOUNDRY集団に属する野外の個体がまだ成虫では発見されていないこともあり、この集団がどれだけマラリアの蔓延に寄与しているかはまだ調査が必要なようだ。

<原著論文>
A Cryptic Subgroup of Anopheles gambiae Is Highly Susceptible to Human Malaria Parasites. Michelle M. Riehle,Wamdaogo M. Guelbeogo, Awa Gneme, Karin Eiglmeier,Inge Holm, Emmanuel Bischoff, Thierry Garnier, Gregory M. Snyder, Xuanzhong Li, Kyriacos Markianos, N’Fale Sagnon and Kenneth D. Vernick, Science 4 February 2011: 331 (6017), 596-598. [DOI:10.1126/science.1196759] [DOI:10.1126/science.1196759]

HIVワクチンの効果

2009-09-24 22:53:06 | 医療・衛生
 タイとアメリカの研究者が共同でタイで行ったエイズ予防ワクチンの大規模臨床試験で、これまで開発が試みられたエイズワクチンとしては初めて一定の治療効果(感染リスクを3年間で3割減)を示したと先月24日に発表された。この治験結果は今月20日にパリで開かれたエイズワクチン会議でも発表され、日本の各メディアにも取り上げられている。

毎日新聞
時事通信
Asahi.com

 いずれも「3割防ぐ効果があった」と伝えている。

 治験ではALVAC-HIVとAIDSVAXという二種類のワクチンがprime-boost法という方法に従って用いられた。研究グループが23日にNew England Journal of Medicine 誌に発表した論文では「予防効果については低いが、今後のワクチン研究にとって良い知見となるだろう」と結論付けている。

 今回のワクチンが実用化レベルでは無いということは、関係者の間でもほぼ一致している見解のようだが、「弱いながら一定の効果を示した」という事実はしばらく明るいニュースの無かったエイズワクチン研究の分野にとっては福音であるようだ。
 しかしながら、研究者の中からはその効果の存在自体を疑問視する声も出ている。

 治験の結果を詳しく見ると以下のようなものらしい。約16000人のボランティアを二つのグループに分け、それぞれにワクチンと偽薬(プラセボ)を与えたところ、3年後のワクチン・グループのHIV感染者が56人であったのに対し偽薬グループでは76人が感染していた。これは予防効果が26.4%ということになるが、統計的には有意な差とは言えない(P=0.08)。また、被治験者のうちワクチン接種プログラムに正しく従わなかった者を除いたところ、対象者数は約12000人に減り、感染者数はワクチン・グループで36人、偽薬グループで50人となる。これも統計的には有意ではない(P=0.16)。そこで、ワクチンの接種前にHIVに感染していた者を調べたところ7人見つかり、それらを除いて計算したら感染者がワクチングループで51人、偽薬グループので74人となり統計的には有意になった(P=0.04)。感染者が3割減という数字はこの3番目の計算から出てきた数字だ。

 有意確率が4%という数字は、確かに一般的に用いられる有意水準の5%を下回っているので、有意であるという主張はできる。が、逆の言い方をするならば、たとえワクチンに全く効果が無くとも、今回のような結果は25回中に平均一回は偶然だけで得られるということでもある。
 単に統計的に有意であるということは、その効果を直接立証するものではないし、単に有意ではないということはその効果を完全に否定するものでもない。また効果の3割という数字も幅があり95%信頼限界は1.7%から51.8%である。

 ちなみに、ワクチン・グループで感染した被治験者と偽薬グループで感染した患者でウィルスの血中濃度に差が見られなかったという結果も、ワクチンの効果に疑問を抱かせる要因の一つとなっている。

 いずれにしても、「今回のワクチンはHIVの感染予防に関して多分何らかの効果を持っていそうだが、全く無いという可能性も無視できない。また、効果があったとしても残念ながら低い。」が今のところ我々にとっての正しい理解であるようだ。

<参考>
AIDS Vaccine Study Reassures Skeptics(ScienceInsider)

HIV vaccine trial under fire(nature news)

エボラウィルスの暴露事故 未承認ワクチンの使用へ

2009-03-20 02:08:44 | 医療・衛生
 ドイツハンブグにあるBernard Nocht研究所で、女性研究者が実験中に誤ってエボラウィルスを扱った注射針で自分の手を刺してしまうという事故があった。研究者の氏名などは公表されていないが、現在隔離施設に収容されているという。

 この事故を受け、米・カナダ・ヨーロッパのエボラ研究者たちの間で緊急のテレビ会議が開かれた。あらゆる治療方法の可能性を検討した結果、まだ未承認で一度も人を対象に使われたことはないがサルに対して有効性が既に証明されているというエボラウィルス用生ワクチンを用いることになった。この治療方法に対し隔離中の研究者の合意が取れたため、事故から48時間でカナダからワクチンが届けられ、すでに接種されたという。

 この研究者が接種された抗エボラ生ワクチンは、主に牛や豚などに感染する水疱性口内炎ウイルス(VSV)のタンパクの一部を、エボラウィルスの持つタンパクに組み替えたものである。このウィルス自体が体内で増えるので、それが何らかのリスクを引き起こす恐れがある。しかし、このワクチンはサルに対象にした実験で、感染した後に用いても致死率を大幅に下げるという有望な結果を出していた。


 エボラウィルスが体内に入っても、必ずしも病気を発症するというわけではない。体内に侵入したウィルスが少量であれば、発症せずに済む可能性が高い。実際、2004年に同様の事故がアメリカで起きたが、このケースではエボラウィルスに暴露された研究者は発症せずに無事生還したらしい。

 しかし、運悪く発症した場合、エボラ出血熱の致死率は 90% である。エボラウィルスの潜伏期間は4日から21日と考えられている。今のところ隔離された研究者に症状は出ていないらしい。3/18 の時点で事故から6日目になる。

参考:
Researchers Worldwide Rally to Help Scientist Exposed to Ebola(Science Insider)




 

何故インフルエンザは冬に流行するのか?

2009-02-10 22:43:34 | 医療・衛生
 インフルエンザはウィルスが引き起こす流行性の急性疾患だ。ウィルスの種類によりA型・B型・C型と区別されるが、このうち変異を繰り返し毎年流行するのはA型のインフルエンザである。

 インフルエンザに罹ったり、もしくは学校が学級閉鎖になったという経験は大抵の人にはあるだろう。この感染症が流行するのは、ほとんど例外なく冬季である。
 なぜ、インフルエンザは冬に流行するのか。実は非常に身近な問題であるようで、その理由はまだよく分かっていないらしい。

 インフルエンザの病原体はウィルスである。このウィルスは人から人に空気感染する際、咳やくしゃみによって一度人間の体の外に排出される。冬の気候条件が体外に出た時のウィルスの感染力を向上させるとする考えが、現在では一般的なようだ。

 では、冬のどのような気候条件が重要なのだろうか?一般的に冬の湿度は室内では夏に比べてかなり低い。これまでの研究から、湿度とインフルエンザウィルスの感染力はある程度有意な相関があることが分かっている。湿度が低いとウィルスの感染力がより強くなる。その理由として以下の二つの仮説が提唱されていた。
 
    1.低湿度下では、ウィルスを含んだ唾液などの飛沫が素早く乾燥する。このような乾燥した飛沫は飛沫核と呼ばれ、埃の様に長時間宙に漂よう。このため、より空気感染により伝播しやすくなる。

    2.低湿度下ではウィルスが体外でより安定に存在できる。インフルエンザウィルスは体外では非常に不安定なウィルスで、次に別の誰かに取り込まれない限り急速にその感染力は衰えていく。体外でより安定に存在できれば、人から人に感染するチャンスも当然高くなる。


 「湿度」という概念には、大雑把に言って二つの指標がある。相対湿度(relative humidity)と絶対湿度(absolute humidity)だ。相対湿度はその気温における飽和水蒸気量(水蒸気として存在できる最大の水の量)に対して、どのくらいの割合で水蒸気が存在しているかで表す。例えば、一気圧27℃では飽和水蒸気量は約 26 g / m3であるが、実際の水蒸気量が 13 g / m3 しかない場合、湿度は 50%である。飽和水蒸気量は温度が高くなるほど多くなるため、空気中に同じ量の水蒸気が存在していたとしても温度依存的に相対湿度は変わりえる。一方、絶対湿度は単純に空気中に含まれる水蒸気量(水蒸気分圧)で表す。

 一般的に湿度として用いられるのは相対湿度の方である。何故なら、乾燥しやすさの指標には相対湿度が適しているからだ。例えば、同じ絶対湿度 13 g / m3 でも気温27℃なら相対湿度50%で洗濯物も干せるが、気温15℃ ならもうそれ以上の量の水が水蒸気として存在できない(相対湿度100%)ため洗濯物は乾かない。

 これまでのインフルエンザウィルスの伝播性/安定性と湿度との関係にを調べた有力な研究でも、相対湿度が用いられていた。しかしながら、オレゴン州立大学のJeffry Shaman らがそれらの論文からデータを集め、彼らの手で改めて計算し直してみたところ、相対湿度‐伝播性・安定性の関係よりもむしろ絶対湿度‐伝播性・安定性の関係の方がより相関関係がはっきりすることがわかった。彼らの出した結論によると、統計的には絶対湿度によってインフルエンザウィルスの伝播性の50%、安定性の90%が説明できるが、相対湿度ではそれぞれ12%と36%しか説明できないという。

 何故、相対湿度ではなく絶対湿度なのか? 彼らもまだわからないというが、どうやら乾燥しやすいかどうかということはあまり問題ではないようだ。彼らによると、飛沫の乾燥する速度とウィルスの感染力が相関するとするモデルを作ってみたが、このモデルでは実験によって得られたデータを全く説明できないらしい。

 彼らの研究よって導かれるより良いインフルエンザ対策としては、なるべく感染が起こりやすい場所(学校や電車)では絶対湿度を上げる努力をするということだろう。そのためには加湿を行うだけでは不十分で、室温も同時に上げなければならないということになる。何故なら気温が低い場合、飽和水蒸気量が少ないのでいくら加湿を行ってもそれ以上絶対湿度は高くならないからだ。

参考:
Absolute humidity modulates influenza survival, transmission, and seasonality,Jeffrey Shaman and Melvin Kohn, PNAS (Epub)


住宅危機と西ナイルウィルス熱

2009-01-18 03:09:20 | 医療・衛生
 米国カリフォルニア州カーン群ベーカーズフィールド地区では、2007年に西ナイル熱の発症数が2004年と比べ2.1-2.8倍と急上昇した。不思議なことにこの年の雨量や気温など、蚊の発生数に影響を及ぼす因子で特に予兆を示すようなデータはなかったらしい。

 航空調査の結果、同地区では差し押さえにより所有者が不在となった住宅の備え付けプールやジャグジーが、放置され水が溜まり蚊にとって好適な環境になっていることがわかった。変動金利型住宅ローンの金利上昇とそれに伴う住宅危機による影響で、カリフォルニア州全体でこのような住居者不在物件の数が同時期に急増している。特にベーカーズフィールド地区では、自己破産の申告数が2006年第一期から2007年第一期までの間で約3倍になったらしい。

 向こうの法律では、「プール付きの物件は家主不在の間2m以上のフェンスで囲った上、門を施錠する」という決まりがあるようだ。この決まりがかえって調査員による調査や蚊の駆除を阻む要因となっているみたいだ。

 
Reisen WK, Takahashi RM, Carroll BD, Quiring R. Delinquent mortgages, neglected swimming pools, and West Nile virus, California. Emerg Infect Dis [serial on the Internet]. 2008 Nov [date cited].


西ナイル熱




むずむず脚症候群の関連遺伝子

2007-07-22 22:32:25 | 医療・衛生
むずむず脚症候群(Restless legs syndrome:RLS)という恐ろしい神経疾患があるそうです。症状としては、じっとしたり横になって寝ている最中に主に下肢の部分にピンで刺された様な痛みやムズムズする異様な感覚を感じるそうです。患者はこれを抑えるために絶えず体を動かし続けなければならず、睡眠障害や過度のストレスによる様々な問題を引き起こします。

 この病気は欧米で1200万人、日本でも200万人程患者が存在していると推定されていますが社会的な認知度はまだ低く、医師による適切な診断が受けられない場合が多いようです。原因は不明で、一部では正式な病気とは認めるべきではないという懐疑論もあるそうです。

 独ヒト遺伝学研究所とマックス・プランク研究所の研究チームは、ドイツ系およびフレンチカナディアンの家系性RLS患者のSNP解析から、この疾患に関与している可能性の高い3遺伝子を突き止めました。また、アイスランドの製薬会社もアイスランド人を対象にした調査から、独のチーム特定した同じ遺伝子を関連遺伝子の候補として発表したそうです。

 これらの遺伝子が病気に対してどのような関与をしているのかは今のところ分からないようですが、RLSがある程度遺伝的に支配されている病気であることを示唆する意味で興味深いようです。

<参考>
A Big Step for Restless Legs Syndrome
むずむず脚症候群

アメリカで南京虫大発生のわけ

2007-04-15 21:29:13 | 医療・衛生
 更新を2ヶ月もサボってしまいました。一応あくまで個人的なメモのつもりなので誰に言い訳するでもないですが、一度滞ってしまうと「次」が非常に億劫になるもんです。

 トコジラミ(bed bug)は寝床などに潜み、人間をはじめとする様々な温血動物の血液を吸血する厄介な昆虫です。「南京虫」という方が馴染みがあるのでしょうか。ちなみこの虫はアタマジラミやケジラミなどの本家のシラミ(シラミ目)とは実は関係なく、半翅目異翅亜目に属する、カメムシなんかと近い仲間です。媒介する病気などは特に無いようですが、噛まれた跡に強い痒みを残すし、不眠症の原因にもなるということで、立派な衛生・不快害虫です。

 アメリカ国内においてここ十年の間、トコジラミの発生件数が急増しているようです。この虫自体はずっと昔からいたのですが、DDTなどの合成殺虫剤が開発されてからは、約50年間この虫の発生はほぼ鎮圧されていたようです。何故、今になって大発生するのか、様々な仮説が提唱されていますがはっきりとした原因は不明なようで、一部では「昆虫学最大のミステリー」(いくらなんでも言いすぎだと思うけど)とまで言われています。

 ケンタッキー大学らの研究者らが最近提出した報告によると、野外で採集した現代のトコジラミのピレスロイド感受性(デルタメスリン、λ-シハロトリン)を、30年以上前に採集されたまま一度も殺虫剤淘汰を受けいていない感受性のものと比較したところ、抵抗性比(半数致死量の比)で6000倍以上という恐ろしく強い抵抗性を持っていることが分かったそうです。抵抗性があまりにも高すぎて、これらの薬剤の溶解度限界まで試しても、半数致死までいたらなかっということです。またこの抵抗性トコジラミと感受性トコジラミを交配させたF1世代では両者の中間の感受性を示し、優勢遺伝子単体が支配する単純な抵抗性機構ではなさそうです。

 ピレスロイドと交差抵抗性が良く知られるDDTの抵抗性の報告は数十年前からあったようで(恐らくその時にはあまり深刻ではなかったのでしょうが)、その時代からある程度の頻度で個体群内に抵抗性遺伝子が存在していたのだろうと著者らは推察しています。また、中古家具のリサイクルなどが、抵抗性トコジラミをアメリカ中に広めるのに一役買ったのではないかということです。

 有機リン系やカーバメート系などの殺虫剤の規制が厳しくなったこともあり、ピレスロイドによる防除以外の選択肢があまり無い状況のようで、それらに変わる、安全で有効な防除手段を見つけなければトコジラミの蔓延はさらに広がるだろうと著者らは警告しています。

 <参考>
Insecticide Resistance in the Bed Bug: A Factor in the Pest’s Sudden Resurgence?,Alvaro Romero, Michael F. Potter, Daniel A. Potter, Kenneth F. Haynes, Journal of Medical Entomology, Volume 44, Issue 2 (March 2007),pp. 175–178
Bedbugs bounce back: Outbreaks in all 50 states(San Francisco Chronicle)

 

クロロキン感受性の復活

2006-11-11 20:11:50 | 医療・衛生
 クロロキンは安価で比較的副作用が少ないことなどから、60年ほど前から世界中で広く使われている抗マラリア薬です。しかし1980年代頃からクロロキン抵抗性のマラリア原虫が各地で報告されるようになり、サブサハラアフリカでは最初にマラウィという国が1993年にその使用を中止し、サルファドキシン・ピリメタンという混合薬治療に切り替えました。

 このクロロキンの使用を中断して以降、マラウィにおけるマラリア原虫のクロロキン感受性遺伝子の割合が徐々に増えてきて2001年には抵抗性遺伝が消失してしまったという報告があったようですが、今回米の科学者が実際にクロロキンによって80人の患者のうち99%がこの地域では治療できたと報告しました。一方現在第一選択薬として使用されているサルファドキシン・ピリメタンでは87人中71人の治療が失敗したそうです。

 マラウィの周辺地域においては依然クロロキン抵抗性のマラリア原虫が存在しているため、すぐに治療薬をクロロキンに切り替えるということはあまり意味が無い(すぐに抵抗性に置き換わってしまう)ようですが、他の地域においても一定期間クロロキンの使用を中止すれば感受性が復活する可能性があるということです。

<参考>
Chloroquine Makes a Comeback(Science)

<関連>
DDTの価値