さいえんす徒然草

つれづれなるまゝに、日ぐらしキーボードに向かひて

標的レセプターの阻害剤で炭疽症に対抗する

2006-08-30 22:46:15 | 医療・衛生
 炭疽症は皮膚、消化器系、肺などから感染する致死性の感染症で、細菌学の父ロベルト・コッホによってグラム陰性棍菌の炭疽菌(Bacillus anthracis)によって引き起こされることが証明されました。この B. anthracis は生物兵器として研究されてきた歴史があり、国際法上生物兵器の使用が禁止された現在でもテロに使用される懸念があります。2001年のアメリカ同時多発テロの直後に何者かによってこの細菌の粉末(芽胞)が郵便で多数の人間に送付され、5人の死者を出した事件は記憶に新しいところです。

 現在有効な治療法は抗生物質によるものですが、この方法では細菌が何らかの方法で抵抗性を獲得したり、また“悪意ある者”が遺伝子組み換え技術により人為的に抵抗性を付与するような可能性が考えられます。また吸入による感染では抗生物質による治療・予防だけでは依然75%の致死率があるそうです。

 アメリカのRensselaer Polytechnic InstituteのRavi Kaneらは細菌自体やその毒素を攻撃する代わりに、炭疽菌毒素の標的となる部位(ANTXR1,2)に結合する阻害剤となるペプチドをスクリーニングしました。得られた阻害剤を抗生物質に加えてマウスに与えたところ、与えた動物全てで B. anthracis の感染が防がれました。
 この毒素の標的部位に結合するタイプの治療薬は細菌側が抵抗性を獲得する可能性が低く(細菌が抵抗性を獲得するためにはターゲットそのものを変えなければならないため)、同じアプローチによってSARSやインフルエンザ、AIDSなどの感染症に対する有効な治療薬が見つかるのではないと期待されます。

参考:
Scientists find 'anthrax blocker'(BBC)

植物種内の遺伝的多様性が節足動物の多様性に与える影響

2006-08-18 21:39:31 | 生態学・環境
 植物において、種レベルでの多様性が同じ環境下に住む昆虫を初めとした節足動物類の多様性に大きく貢献することは知られています。植物の種数が増えることによってそれらを餌や隠れ家として利用する昆虫が増え、さらにれらを捕食する天敵も増えるからです。しかしながら生物は同じ種内においても個体と個体の間で遺伝的な多様性が存在します。たとえば私とあなたでは同じHomo sapienceという種でありながら全く同じではないように、種とは決して均一なものでありません。このような植物の個体レベルでの多様性がそこの生態系においてどの程度重要かという問題は、環境保全において非常に重要です。例えばある地域の生態系を回復しようとするときに、単に種数を増やすだけでは十分ではないかもしれないからです。

 テネシー大学の院生Gregory Crutsingerらは、野外から集めた遺伝的に異なるアキノキリンソウの系統を1系統しか植えなかったプロットと3系統、6系統、12系統植えたプロットにおいて節足動物類の多様性を比較しました。するとプロットあたりのアキノキリンソウの多様性とそこに住む節足動物類の多様性には優位な相関が見られました。このことは、植物の種内での個体レベルの遺伝的多様性もまた生態系において重要な役割を担っていることを示唆しています。一体どのような形質の”多様性”がこのような結果を生み出しているかは、この研究からはまだ分からないようですが。

参考:
Inbreeding is bad for plants too (News@Nature)

RNAポリメレースを用いた新しいDNA塩基配列決定法

2006-08-12 00:28:01 | 分子生物学・生理学
 DNA塩基配列の決定は今日では非常に一般的な技術であり、高価なシーケンサーさえ一台あれば誰でも簡単に行うことが出来ます。用いられるジデオキシ・ターミネーション法の原理はイギリスの化学者フレデリック・サンガーによって考案され、後にロイド・スミスとマイク・ハンカピラーらにより自動解析装置が開発されました。サンガーはこの功績により二度目のノーベル賞を受賞しています。

 サンガー法の発明からおよそ30年が経ちましたが、現在でもこの方法は最も一般的で強力なDNA塩基配列の決定法であり、以後の進展は主にこの方法の自動化・高効率化に焦点を当てたものでした。これらの改良はヒトゲノムプロジェクトに多大な貢献をし、数年前よりも各段に安価になってきましたがそれでもなおなゲノムサイズの塩基配列解読には国家プロジェクト並みの巨額なコストと人員が必要となります。しかし近年、個人のゲノムをそれぞれ解読しオーダーメード医療に役立てるということの実現を目標に安価で迅速な革新的DNA塩基配列決定法の開発が様々なアプローチから試みられています。

 スタンフォード大のグリーンリーフとブロックは今週のScience誌に、RNAポリメレースがDNAからRNAを伸張する際の速度をモニタリングすることによりわずか1分子(事実上4分子だけど)のテンプレートから塩基配列を決定する方法を提唱しています。この方法ではジデオキシヌクレオチドは用いずにdNTPのうちひとつを低濃度にしてその塩基が取り込まれるさいに伸張速度が”一時停止”するようにしています。DNAの末端部分とRNAポリメレースは蛍光で標識されており、ポリメレースの移動速度はリアルタイムでモニタリングできるようになっています。4種類の塩基についてそれぞれ解析を行い最終的にそれらの結果を統合して塩基配列を決定するようです。

 今回彼らはこの方法で32塩基対の標的配列のうち30塩基を正確に、3分間を要して解析することができました。まだ解決すべき問題は沢山あるようですが、原理的には2000塩基対まで読めるのではないかということです。

 テンプレート1分子からの塩基配列決定法は他にもいくつか考案されているようですが、これらの方法がはたしてサンガー法という完成された手法に打ち勝ち、十年後も生き残っているかどうかは分かりません。それでも分子生物学という分野で、想像していたよりも遥かに挑戦的な試みがなされていることを知って感動しました。個人ゲノム解読の時代、そう遠くない未来に来るのかもしれません。

参考;
Single-Molecule, Motion-Based DNA Sequencing Using RNA Polymerase (Science 11 August 2006:Vol. 313. no. 5788, p. 801)
「あなたのゲノム解読します」(日系サイエンス2006年4月号)



DDTの価値

2006-08-03 21:14:51 | 医療・衛生
 DDT(Dichloro-diphenyl-trichloroethane)はスイス人科学者のミュラー(後にノーベル賞)によってその殺虫活性が発見され、安価に合成出来ることなどから当時非常に爆発的に普及した農薬です。しかしながら、その難分解性や生物濃縮性などの問題から人間や生態系に対する有害性が疑われ、現在各国でDDTの使用が禁止されています。
 公害問題の一般論を学ぶさいによく引き合いに出されるDDTですが、少なくともマラリアの防除という面おいてはいまだ有効な資材であるようです。マラリアはハマダラカ属の蚊によって媒介される感染症で、全世界で毎年およそ200万人の死者を出していると推定されています。また死者数のうち90%がアフリカ地域の貧困層に集中しており、特に5歳以下の児童において最も死亡率が高く、生存した後も重い後遺症を残します。マラリアに対する有効なワクチンは今のところ開発されておらず、最も有効な予防手段はこの病気の媒介者である蚊を防除することです。DDTは過去にもマラリア媒介蚊の駆除として用いられていましたが、次第にその様な感染症予防から農業害虫駆除のほうに使用目的が移行していくにつれ、環境に対するリスクや人体に対する影響への不安が大きくなり、多くの国でその使用が禁止されるようになりました。
 農業における害虫防除資材として使用する場合、確かに環境に対する懸念や直接人間の口に入るため健康への懸念がありますが、ハマダラカの防除・忌避のために壁に塗布するなどの限定された使用であれば、非常に有効な資材だとマラリアの専門家の多くはその使用を支持しています。DDTの使用中止以降、様々な人体に優しく有効な殺虫剤が開発されてきましたが、コストや残効性などの面でDDTほど理想的な殺虫剤はないようです。とくにマラリアの被害と貧困は密接な関係があるため、低コストというのは非常に重要な要素になります。世界保健機構(WHO)も近年感染地帯でのこの殺虫剤を推奨するスタンスを取っています。
 DDT自体には発がん性や胎児に対する毒性などが疑われていますが、実際のところよく分かっていません。その辺のリスクをもっとはっきりさせるべきだという意見もありますが、なんにせよその使用によってマラリアで死亡せずにすむ人の数と、その使用によって健康被害を被るリスクは比較され、その上で科学的に合理的な決定がなされるべきです。

参考:
DDT to Return as Weapon Against Malaria, Experts Say (National Geographic)
Malaria (Wikipedia)