ナチスドイツはなぜ「ユダヤ人」を憎悪した?その複雑な関係を元大学教員が5分で解説
>ドイツは、ロシアに侵攻することで東方の領土を拡大させ、そこにユダヤ人を送ろうと考えてしました。しかしながら戦況が悪化して領土の拡大に失敗。ユダヤ人を追放するエリアが確保できなくなります。そこでナチス政権はユダヤ人政策の方針を転換。国外に追放するのではなく処分、つまり殺すことに決めました。
9/12/2022
よぉ、桜木建二だ。第一次世界大戦の敗北後のドイツでは反ユダヤ主義が急増。ナチスドイツのホロコースト政策により暴力行為や虐殺の対象となってきた。今でもユダヤ人は偏見の目で見られる対象で、排除を要求する暴力的な行動にさらされている。最近のドイツでも、とくに極右団体にとっては未だにユダヤ人は憎悪の対象だ。
同党はどうしてユダヤ人の存在に反発を感じてきたのだろうか。ナチスドイツが表明したアーリア人至上主義の主張などを踏まえながら、ヘイト行動の背景を世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していくぞ。
- この記事の目次
- そもそもユダヤ人とは何?
- ユダヤ人とは宗教的民族集団のこと
- ナチスはユダヤ人を「人種」と捉えた
- ユダヤ人迫害はキリストの死後から始まる
- もともとユダヤ教とキリスト教はルーツが同じ
- キリスト教のなかでユダヤ人は冒涜する存在
- ナチスドイツがユダヤ人を敵とした理由
- 第一次世界大戦後のドイツをひとつにまとめるため
- アーリア人を優れた人種と位置づけるため
- ドイツでユダヤバッシングが増加
- ドイツ大使館でユダヤ青年が書記官を射殺
- 水晶の夜事件にてユダヤ人が殺害
- ポーランド侵攻後、ユダヤ人を迫害する政策が加速
- ナチスはユダヤ人を「ゲットー」に隔離
- アウシュヴィッツなどの「絶滅収容所」が登場
- ドイツにおけるユダヤ人憎悪は今でも続く
解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。
ライター/ひこすけ
アメリカ文化を専門とする元大学教員。反ユダヤ主義の高まりをうけてドイツの政府高官が、ユダヤ教徒は伝統的な帽子キッパを着用しないように発言したというニュースが流れた。このときナチスの過去が終わっていないことにショックを受けたのを覚えている。ユダヤ人に対する反発や憎悪はどこから来ているのか、関連する内容をまとめてみた。
そもそもユダヤ人とは何?
世界には、日本人、アメリカ人、中国人、フランス人など、いろいろな国民が存在します。ユダヤ人は、それらと同じように思えますが、実は必ずしもそうではありません。ユダヤ教を信仰する宗教集団と、その血統を引く子孫のことを、ユダヤ人と総称します。
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ユダヤ人とは宗教的民族集団のこと
ユダヤ人を英語にするとJew。ユダヤ教を信仰している宗教集団のことを指します。ユダヤ教の経典となるのが、タナハとミクラーと呼ばれる書物。キリスト教徒にとって「旧約聖書」にあたる書物です。ただし、成立するプロセスが異なるため、内容の順番などは「旧約聖書」とは異なるかたちになりました。
ユダヤ人は、聖典よりも行動や実践を重視している点がキリスト教徒と異なります。聖典を読んだり研究したりする、食事とトイレのあとに祈る、食物を清浄する、安息日をもうけるなどが該当。ユダヤ教に改宗する意志があっても、手続きに時間がかかることも特徴です。
ナチスはユダヤ人を「人種」と捉えた
歴史的にユダヤ人は宗教集団のことを意味しますが、ヒトラーが率いるナチスドイツはユダヤ人を人種と捉えて迫害しました。ヒトラーが関心を持っていたのが優生学。よい遺伝子を残すための研究をする学問のひとつです。それを根拠に、優性な民族はインド・ヨーロッパ語族を包括するアーリア人であり、ドイツはアーリア人により支配されるべきだと考えました。
そこでヒトラーは、アーリア人が支配する国をつくるために、劣性民族であるユダヤ人を排除する政策を打ち出します。ナチスが考えるユダヤ人の基準はあいまい。欧州に純粋なユダヤ人はそれほど多くなく、ユダヤの血が半分、3分の1、4分の1というように、時期により変化しました。
桜木建二
イスラエルの国民をユダヤ人とすると、宗教上のユダヤ人と一致しなくなる。ユダヤ人とされる人々は欧州を中心にいろいろなところに点在。なんとなくユダヤ人と言ってしまうが、実際は定義することが難しい曖昧な民族の区分というわけだ。
ユダヤ人迫害はキリストの死後から始まる
ユダヤ人というとナチスドイツにより迫害されたというイメージを持つ人が多いでしょう。しかし実際は、ユダヤ人の迫害そのものは、もっと前から始まっていました。イエス・キリストはユダヤ教の厳格な教えに意義を申し立てて最終的に処刑されます。そのためイエスの死後に、ユダヤ人が迫害されるようになりました。
もともとユダヤ教とキリスト教はルーツが同じ
ユダヤ人迫害の歴史は、政治ではなく宗教の問題によるもの。キリスト教のルーツは旧約聖書を聖典とするユダヤ教。つまり初期のキリスト教はユダヤ教に近かったと考えることもできます。しかしながらユダヤ人はイエス・キリストを救世主と認めませんでした。そこで両者は分裂するに至ります。
さらにキリスト教徒は、イエスを認めなかったユダヤ人をさげすむように。イエスが十字架にはりつけられて亡くなったのは、イエスの主張に反発したユダヤ人のせいであると考えるようになります。そこで両者のあいだに距離が生まれ、迫害の土壌ができあがっていきました。
キリスト教のなかでユダヤ人は冒涜する存在
ユダヤ教は狭い範囲にとどまったのに対して、キリスト教は欧州中に広がり、信者の数も一気に追い抜いていきます。ユダヤ教は、いくつもの厳しい戒律を守ることが重視されましたが、キリスト教が期待するのは信じる気持ち。そのため世界中の人々に受け入れられるようになりました。
キリスト教が広がると同時に、ユダヤ人のネガティブなイメージも浸透。キリスト教を冒涜する立ち位置となりました。そのため仕事上でも差別されるように。そこでユダヤ人は、キリスト教徒が敬遠する金融業に携わるようになり、そこで頭角をあらわしていきます。
キリスト教では利子をとって同胞にお金を貸すことを禁止していたので金融業に関わることはだめ。さらに金融業で財をなす有力ユダヤ人が増えてきたことから、宗教的な嫌悪感、経済的成功に対する妬み、影響力に対する恐怖など、いろいろな感情が入り混じったのだろう。
ナチスドイツがユダヤ人を敵とした理由
さきほども少し触れましたが、ユダヤ人を敵視する感覚は、ヒトラーが登場する前からヨーロッパにありました。そのうえで、ヒトラーが徹底的にユダヤ人を迫害しことには、その時代ならではの明確な理由があります。第一世界大戦におけるドイツの敗北、世界大恐慌の襲来、慢性的な不況などが、ユダヤ人に対する憎悪をさらに増幅されたと言えるでしょう。
第一次世界大戦後のドイツをひとつにまとめるため
第一次世界大戦後のドイツは、多額の賠償金と世界的な不況の影響もあって経済的に困窮します。フランスやイギリスと異なり、植民地を持っていなかったことも、ドイツの低迷の理由。そのため、ドイツ国民の不満がたまり、政権は不安定な状態が続きました。
そのためヒトラー率いるナチ党が政権をとったあと、どのようにしてドイツ国民をひとつにまとめるのかが課題に。そこで、共通の敵を作り出す必要があると考えました。そこで標的となったのがユダヤ人。もともとキリスト教世界で迫害されてきた経緯があり、敵として設定しやすかったと思われます。
アーリア人を優れた人種と位置づけるため
ドイツ国民をひとつにまとめるため、共通の敵を作り出すことに加えて、ドイツさらには世界のトップに立つべき人種を作り出します。それがアーリア人。アーリア人とは、ドイツ国民とイコールではありません。インド・ヨーロッパ語族を包括する民族とされていますが、生物学上は存在しない、空想の人種とも言えます。
ヒトラーが興味を持っていたのが優生学。特定の人種を優れていると見なす差別的な思想で、ドイツのみならずアメリカやイギリスでも流行していました。優生学は優れている人種を守るために、劣った人種は排除することを正当化。ヒトラーは、アーリア人を優性人種、ユダヤ人を劣性人種と位置づけました。
桜木建二
ヒトラーのユダヤ人の迫害が加速したのは、それを容認する土壌が歴史的につくられていたから。ヨーロッパでユダヤ人は決して少数派ではない。多数のユダヤ人が生活していたからこそ脅威の対象となったのだと思う。
ドイツでユダヤバッシングが増加
ユダヤ人を国外に追放することが政策化された時期、ドイツ人のユダヤバッシングを過熱させる事件が起こります。それがドイツ大使館書記官殺害事件。この事件をきっかけに、ユダヤ人を嫌悪する国民感情が一気に高まりました。そして、ドイツ国内のあちらこちらで、ユダヤ人を集団リンチするような暴動が起こります。
ドイツ大使館でユダヤ青年が書記官を射殺
1938年11月、ポーランド系ユダヤ人青年のヘルシェルが、パリのドイツ大使館に勤める書記官を射殺するという事件が発生。殺害の動機は、世界にユダヤ人が置かれている状況を伝えること。そして、そして家族がナチスにより受けた仕打ちの恨みを晴らすことでした。
ヘルシェルは、大使館員によって捕えられてフランス警察に引き渡されます。取り調べのなかで彼は、ナチスに抗議するために殺害したと発言。熱狂的なナチス支持者はこの発言に反応します。そこでユダヤ人を排斥するための暴動がドイツ各所で起こるようになりました。
水晶の夜事件にてユダヤ人が殺害
反ユダヤの暴動がクライマックスに達したのが1938年の11月9日から10日にかけて起こった水晶の夜事件。この事件名は、路上に散らばったショーウィンドウの破片が月明かりに照らされて水晶のようにきらめいたことから、ヒトラーの右腕であるゲッペルスにより名付けられたと言われています。
水晶の夜事件を通じて177のユダヤ人の会堂と7500のユダヤ人の商店や会社が破壊されることに。ユダヤ人は、暴行されたり、辱められたり、殺されたりしました。ドイツ政府の指示により、暴動が鎮圧されることはなく、警察も消防も出動することはありませんでした。
桜木建二
ヒトラーはこれらの暴動は正当な行為であると見なした。水晶の夜と美化するような表現がなされたが、実際の現場はユダヤ人の遺体がころがる悲惨なものだっだらしい。暴動者のほとんどは不起訴とされ、罰せられることはなかったが、強姦した者については、ドイツ人の血を汚す行為であると罰せされたそうだ。
ポーランド侵攻後、ユダヤ人を迫害する政策が加速
水晶の夜事件は、ナチス政権が反ユダヤ政策をすすめることを正当化させる結果に。さらに1938年にドイツはポーランドに侵攻。第二次世界大戦の口火を切ります。ポーランドには多数のユダヤ人が暮らしていたことから、ドイツはさらに多くのユダヤ人を抱えることになりました。
ナチスはユダヤ人を「ゲットー」に隔離
ポーランドに住んでいるユダヤ人を国外に追放することは現実的に不可能。そこでナチス政権は、強制居住区であるゲットーにユダヤ人を隔離することにします。そこでのユダヤ人の生活は、外部との遮断、最小限の食糧、過酷な肉体労働と、ひどいものでした。そこでたくさんのユダヤ人が命を落とすことになります。
その後のドイツは、ロシアに侵攻することで東方の領土を拡大させ、そこにユダヤ人を送ろうと考えてしました。しかしながら戦況が悪化して領土の拡大に失敗。ユダヤ人を追放するエリアが確保できなくなります。そこでナチス政権はユダヤ人政策の方針を転換。国外に追放するのではなく処分、つまり殺すことに決めました。
アウシュヴィッツなどの「絶滅収容所」が登場
そこで登場したのがアウシュヴィッツを含めた絶滅収容所。強制居住区は隔離するためのエリアでしたが、強制収容所は強制労働の末に殺戮することを目的としていました。ここで行われた大虐殺はホロコーストと呼ばれています。身を隠している人を探すユダヤ人狩りが徹底的に行われ、見つけ出されると拘束のすえに強制収容所に送り込まれました。
なかには、強制収容所に移送される途中で奇跡的に逃げ出すことに成功したユダヤ人もいました。しかし、多くのユダヤ人はガス室に送り込まれ、毒ガスが充満した部屋で命を奪われていきます。さらに、銃殺や絞首により殺されるユダヤ人も。食事をほとんど与えられず、餓死することも珍しいことではありませんでした。
桜木建二
ユダヤ人の逃亡先は複数あったが、リトアニアの日本領事館もそのひとつだった。当時の外交官だった杉原千畝が、逃げてきたユダヤ人の女性や子どものためにビザを発給していたからだ。逃亡に成功するユダヤ人もいたものの、ナチスドイツの目標はユダヤ人の絶滅。最終的に1000万人以上のユダヤ人が命を落としたと言われている。
ドイツにおけるユダヤ人憎悪は今でも続く
ホロコーストの実態が世界的に知られたことから、敗戦後に虐殺に関与した幹部などは処刑されることに。ドイツ政府もナチスの政策を過ちとして公式に認め、賠償金などの対応をしました。しかしながらドイツにおける反ユダヤ感情は、すべての国民ではないものの一部で根強く残っています。ユダヤ人に対する暴行が目立っていることを受けて、ドイツ・ユダヤ人中央評議会のヨーゼフ・シュースター会長は、ユダヤの伝統的な帽子であるキッパをかぶらないように訴えました。第二次世界大戦の終戦とヒトラーおよびナチス関係者の処罰・処刑により、ユダヤ人の迫害は終わりを告げたかのように感じられます。しかしその歴史はまだ続いていると考えたほうがいいでしょう。