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大河ドラマ化が切望される、「東京」の地盤を作った武将とは?

2024年05月11日 06時05分09秒 | 歴史的なできごと
東京の町は、徳川家康がこの地に都を開いた際、参謀であった僧・天海の助言もあって守りに風水の理念が取り入れられた。



江戸城の鬼門・裏鬼門・北辰を神社やお寺で守護するように、建設や移転を命じたのである。もちろん神頼みだけでなく、道路や堀・川などを整備し、住みやすい内側と攻撃しにくい外側を物理的にも完成させていたのではあるが。 

 これを考えついたのは家康が最初ではない。江戸城はもともとあった城を拡張したものであるし、今も残る江戸城守護の寺社のいくつかは家康入府の前から鎮座するものだ。これら地盤を作ったのが、戦国時代の武将・太田道灌である。 


●東京の基礎を作った道灌とは  

東京の神社仏閣をめぐっていると、この道灌の名前をよく耳にする。創建者や開基であったり、伽藍や社殿の修復をしていたり、別の神さまを他所から勧請していたりとかなりの数の寺社の歴史にかかわっている人である。

東京の基礎を作った人としてもっと有名になってもいいのではないかと思っているが、実際は都民にさえもほとんど知られていないのが実情だ。歴史は強者によって作られるとはよく言ったもので、太田道灌があまり知られていない理由は、最期があまりに悲惨だったからかもしれない。 

●関東における戦国時代の幕開けとは  

太田道灌は室町時代の中期、鎌倉公方(室町朝廷が関東支配の長として任じた職)の補佐役一族の子として生まれた。戦国時代の幕開けとなった応仁の乱が1467年に起こるが、関東ではすでに1438年に永享の乱が発生、鎌倉公方と補佐役との間で争いが起こっており、各地の勢力が戦さを重ねていた。

やがて、利根川を挟んだ2つの勢力が、約30年弱にも及ぶ戦いを続けるのだが、そんな中、道灌は室町幕府の後ろ盾を得ていた扇谷上杉家の筆頭家臣・太田家の家督を24歳の若さで継ぐのである。 

●江戸城のはじまり  この頃は品川付近に居宅があったようだが、対立勢力が拡大していく中で、河越城、岩槻城などとともに江戸城も築城する。

もともと江戸城は、すでに衰退気味であった江戸氏のものだったが、房総の勢力へ対抗するためにどうしてもこの地へ拠点がほしかった道灌は、江戸氏を口説くためいくつかの奇跡話を用いたとの逸話が残っている。

江戸城を手に入れた道灌は、堅固な城として作り直すのだが、この時鬼門側(北東)に柳森神社、湯島天神などを、裏鬼門側(南西)に日枝神社、平河天満宮、品川神社などを創建・整備・社殿の寄進などをした。

 ●全戦全勝で主家を助ける  

お寺についても鬼門側に、江戸城から出た金印を本尊にした吉祥寺、南西側に道灌が禅の師と仰いでいた雲岡舜徳を招き青松寺を開基している。道灌が成人した時、すでに関東は戦国時代に入っていたわけだが、彼は30年間に戦った30数戦ものいくさを独力で全勝したと言われている。

道灌が参戦するまでの主家(扇谷上杉家)はかなり不利な状況だったらしいのだが、戦況は一転した。戦さ上手だった道灌が戦いの前に必ず戦勝祈願をしたと言われているのが、江戸城の北辰に位置する妙義神社で、創建者である日本武尊とともに社に名前を残している。

また、道灌が唯一負けかけたと言われる文明3(1471)年の戦いの際、一時退避したお寺・自性院(新宿区)には、彼を助けた猫が、「招き猫」の発祥の地として道灌伝説とともに伝わる。この逸話にちなんだ猫像は新宿住友ビル前にも飾られてもいる。


●道灌、54歳の最期  このほかにも関東には道灌についての逸話が各地に残っているが、皇居内の道灌掘、江戸城の出城跡とも言われる道灌山、山吹伝説など挙げればきりがない。日暮里駅前や東京国際フォーラム内、日枝神社内などに太田道灌の銅像が建てられているが、どれほどの人が認知しているだろうか。  

結局、道灌は54歳で主君・扇谷定正の自宅に呼ばれ、風呂から出たところで暗殺されてその一生を終える。

扇谷定正とは、戦さで命を落とした主君の代わりに道灌らが急遽仕立てた後継だった人物だ。この時、道灌の活躍もあって扇谷家は関東一の勢力になっていた。

定正にとって唯一の恐れは道灌だけだったのかもしれない。だまし討ちの末に絶命直前に道灌が放った言葉は「当方滅亡(これで扇谷家は終わりだ)」だったという。 

●道灌の墓は遠く伊勢原の地に  

道灌暗殺の話が伝わると扇谷家に付いていたものたちの多くが対立勢力へと寝返った。収まりかけていた関東の戦国時代は一層泥沼化し、結局、扇谷家だけでなく関東は後北条氏によって駆逐されるという歴史を待つことになる。気の毒な道灌の墓所はなじみのある江戸城や河越城付近でなく、暗殺された伊勢原の地にある。

しかも、大慈寺には首塚が、洞昌院には胴塚と首と胴体が別々に葬られているのである。道灌の死に方を考えれば、しっかりとしたお墓があることだけでも貴重なことなのかもしれない。むしろ、怨霊となって暴れてもよかったくらいの仕打ちなのなだから。  

こんな道灌の一生をNHKの大河ドラマとして取り上げて欲しいという嘆願が出されている。実は、私も、とあるお寺で何度目かの嘆願の折の署名をしたことがある。戦国時代は関西付近の話だけでないし、東京の神社仏閣には道灌に関する資料が多く残されているので面白いドラマになる気がするのだが。  

さて明日、7月26日(旧暦/新暦では8月25日)は、そんな道灌が暗殺された日である。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)

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卑弥呼のリアル

2024年05月09日 03時05分22秒 | 歴史的なできごと

卑弥呼 日本史年表/ホームメイト (meihaku.jp) 




卑弥呼 -


卑弥呼(ひみこ)は、日本人なら知らない者がいないほど有名な古代の女王です。しかし卑弥呼が活躍した時代の記録が日本国内に残っていないため、その頃のことを知るには中国の「魏志倭人伝」(ぎしわじんでん:中国の魏(ぎ)王朝のできごとを記した歴史書)などの文献に頼らざるを得ません。魏志倭人伝の記述を参照しながら、卑弥呼はどんな人物であったのか、また卑弥呼がいた邪馬台国(やまたいこく:後述)がどこにあったのかについて考察します。


卑弥呼

卑弥呼の生涯についてご紹介します。
目次

邪馬台国か、邪馬壱国か

魏志倭人伝の卑弥呼

卑弥呼の最期



邪馬台国か、邪馬壱国か

日本は東方の野蛮人

魏志倭人伝は、正式には「魏志東夷伝倭人条」(ぎしとういでんわじんじょう:魏の歴史書で、中国の東方に住む野蛮な民族である倭人について書かれた文章)と言います。


これは中華思想(ちゅうかしそう:高度な文化を持つ中国が世界の中心で、その周囲には中国の文化が及ばない野蛮な民族が住んでいるとする考え方)の影響で、中国の東の方に住む民族は「東夷」(とうい)と呼ばれたためにこの名が付けられました。


邪馬台国はどこにあったか
魏志倭人伝における日本に関する記載はわずか2,000文字程度に過ぎません。しかしその解釈をめぐって、多くの学者が独自の説を主張してきました。


なかでも、今も盛んに議論が行われているのが、「魏志倭人伝に登場する邪馬台国はどこにあったか」という問題です。現在、大きく分けると「九州説」と「畿内(奈良周辺)説」、そして九州から畿内に移ったという「東遷(とうせん)」説などがあり、いまだに答えは出ていません。


そんな中、この問題に対して独自の考察を行ったのが、古代史研究家の古田武彦(ふるたたけひこ:1926年[大正15年]~2015年[平成27年])氏です。


邪馬台国は書き間違い?

今日、私達は当たり前のように邪馬「台」国と表記します。しかし魏志倭人伝には邪馬「壱」国と書かれており、邪馬台国という表記はどこにもありません。なぜ邪馬壱国が邪馬台国になったかというと、江戸時代の学者、松下見林(まつしたけんりん)が、台の古字「臺(たい)」と、壱の古字「壹(いち)」が似ていることから「壱は台の書き間違いである」と主張し、それが今日まで定説となったからでした。


そこには、邪馬壱国と「ヤマト朝廷」(現在の奈良県にあった古代政権)は連続した政権なのだから、「ヤマイチ」よりも呼び名が似ている「ヤマタイ」の方が正しいに違いない、という思い込みがあったからだと言われています。


しかし、古田武彦氏はこれに反論しました。魏志倭人伝の著者は3世紀末の中国の陳寿(ちんじゅ)とされますが、同じ陳寿が書いた「三国志」(さんごくし:中国の三国時代について書かれた歴史書)には「臺」と「壹」との書き間違いがないこと、「臺」は宮廷などを表す言葉であるため、中華思想に従えば、倭(小さい・従順などの意味を持つ)国にそんな高貴な文字を使うとは考えにくいということから、やはり邪馬台国ではなく邪馬壱国に違いないと主張。その場所は九州・博多湾付近だと結論付けています。


魏志倭人伝の卑弥呼

孤独な女王
魏志倭人伝で卑弥呼について述べているのは以下の部分です。


「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食、傳辭出入。居處宮室、樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞。」


意味:その国、もとは男子を王としていたが、70~80年たつと倭国は乱れ、何年もお互いに攻めあった。そこで共にひとりの女子を王に立てた。名を卑弥呼と言う。鬼道(きどう)につかえ、人々の心をよく惑わせた。高齢で夫はなく、弟が国を治めるのを助けている。王になってから人とは会わず、1,000人の女官が仕えているが、ただひとりの男子が食事の世話をし、話を伝えるために出入りする。住んでいる場所には宮殿と高い楼閣、そして城柵が厳かに設けられ、常に人がいて守っている。


シャーマン・卑弥呼



文中に登場する「鬼道」とは、原始的な宗教のひとつ、シャーマニズムのようなものだと考えられています。シャーマニズムとは、シャーマンと呼ばれる人物がトランス状態(通常とは違う精神状態になって意識を失った状態)に入ることで、霊や神などの超自然的な存在と交信を行ってお告げを受けるという宗教。


卑弥呼はシャーマンとして人間界と霊界とをつなげられる特殊能力を持っていたため、これまで男王だけでは解決できなかった問題を解決する女王に祀り上げられたのでは、と考えられます。


日本の神道では神に仕える女性を「巫女」(みこ)と呼びますが、古来より巫女は「口寄せ」(くちよせ:霊を自分に乗り移らせ、霊の言葉を代わりに話すこと)を行ったとされることから、巫女はシャーマンの一種と考えられます。このことから、巫女の語源は卑弥呼であるという説を唱える人もいます。


男王とペアで統治する
さらに、魏志倭人伝の記載で注目されるのが、誰とも話さなかった卑弥呼とただひとりだけ話すことを許され、外部との連絡役を担った弟の存在です。このように女性とその一族の男性がペアで国を統治するという方法は、のちの日本でも見ることができます。


例えば13~17世紀の琉球には、男性の国王が王族の女性の中から任命する「聞得大君」(きこえのおおきみ)という役職があり、聞得大君は琉球国王と琉球全土を霊的に守る役割を担っているとされました。


またユネスコ世界文化遺産に指定された上賀茂神社(かみがもじんじゃ:京都で最も古いとされる、京都市北区の神社)でも、巫女である「斎祝子」(いつきのはふりこ)と、その兄弟の神官である「鴨県主」(かものあがたぬし)がセットで祭祀(さいし)を行っていました。これらは、卑弥呼と弟がペアで国を統治した形態の名残りだと言われます。


呪術に支配される人々

卑弥呼が霊力によって国々の争いを鎮めたことからも分かるように、この時代の人々の生活は呪術(じゅじゅつ:超自然的・神秘的な力を借りて望むことがらを起こすまじないのこと)によって支配されていました。


魏志倭人伝には、呪術に基づくと思われる多くの生活習慣が紹介されています。それによれば、倭人が船で中国に行くとき、常に「持衰」(じさい)と呼ばれる男性を1人同行させたそうです。持衰はいつもボロボロの服を着て、頭はボサボサのまま、肉を食べたり女性に近づいたりすることも許されませんでした。渡航が成功すれば持衰には莫大な財宝が与えられましたが、もし航海中に病人が出たりトラブルが起きたりした場合、罰として持衰は殺されました。


他にも魏志倭人伝には、大切な決定をする場合には動物の骨を焼き、その割れ方を見て吉凶(きっきょう:ものごとの良しあし)を占う「卜」(ぼく)という方法が用いられていたことなども記されています。


卑弥呼の最期

卑弥呼、死す
乱れていた倭国をシャーマニズムによって鎮めた女王・卑弥呼も、やがて亡くなります。卑弥呼が死ぬ前後のことは、魏志倭人伝では以下のように書かれています。


「倭女王卑弥呼、与狗奴国男王卑弥弓呼素不和。遺倭載斯、烏越等詣郡、説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等、因齎詔書、黄幢、拝仮難升米、為檄告諭之。
卑弥呼以死、大作冢。徑百餘歩、殉葬者奴碑百餘人。」


意味:倭の女王の卑弥呼と、狗奴国の男王の卑弥弓呼(ひみくこ)は平素から仲が悪かった。倭は載斯と烏越(どちらも人名)を郡(3~4世紀にかけて現在の韓国・ソウル付近にあったとされる帯方郡)に遣わし、お互いの戦闘状態を説明した。


これに対して魏の朝廷は塞曹掾史(という役職名)の張政(人名)達を遣わし、詔書(しょうしょ:皇帝の命令)と黄幢(こうどう:黄色い旗)を難升米(なしめ:魏が遣わした役人の名)に与え、木札に書いて諭した。


卑弥呼は死に、大きな墓が造られた。大きさは100歩ほど、殉葬者は奴碑(ぬひ:奴隷のこと)100人ほどである。


「以死」の意味
上記の文章は、魏志倭人伝の中国歴の正始(せいし)8年(西暦247年)の項目に書かれていますが、この文章からは卑弥呼の死が何年であったかは分かりません。


また「卑弥呼以死」の読み方についても諸説があり、「死するを以て」(死んだので)とする説、「すでに死す」と読ませる説、さらには「だから死んだ」と読み、戦争で死んだとするなど様々な説があります。こちらも結論は出ておらず、ここに書かれた卑弥呼の墓についても、墓があったとされる候補地は全国にありますが、決定的な証拠は見つかっていません。


いつか古代史の発掘研究がさらに進み、卑弥呼と邪馬台国に関する数多くの論争に終止符が打たれる日は来るのでしょうか。






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男装の麗人>川島芳子

2024年05月03日 23時05分33秒 | 歴史的なできごと




川島芳子。明治四十年(一九〇七年)
清朝粛親王の王女として北京で生まれる。



<東洋のマタ・ハリ>川島芳子 | 文春写真館 - 本の話 (bunshun.jp) 





  • 2009.01.05
  • 文春写真館


<東洋のマタ・ハリ>川島芳子
文・写真:「文藝春秋」写真資料部

  • 「文藝春秋」写真資料部
  •  
  • 川島 芳子
 「東洋のマタ・ハリ」川島芳子。明治四十年(一九〇七年)清朝粛親王の王女として北京で生まれる。満蒙独立運動に奔走していた川島浪速の養子となり、後に上海で情報活動をしていた陸軍少佐田中隆吉と懇意になり、深く戦争と関わることになる。

 昭和六年(一九三一年)、満州事変勃発。北京から天津に逃れていた宣統廃帝溥儀は、甘粕正彦率いる関東軍の手引きで旅順に脱出した。このとき天津に残された皇后婉容を旅順に護送する大役を果たしたのが川島芳子である。満州国建国にともない、安国軍(定国軍)が創設され、芳子は総司令に就任する。

昭和八年二月二十二日付け朝日新聞は、軍服の写真とともに「男装の麗人川島芳子嬢 熱河自警団の総司令に推さる」と大々的に報じた。〈しかし、実際にはそのいでたちとは裏腹に、彼女は何ら功績を立てたわけでなく、第一線にすら出向いていないというのが真相らしい〉(「男装の麗人川島芳子伝」上坂冬子)。

 写真は昭和八年八月六日撮影。ラジオ番組出演で、余った時間に即興で歌を披露し、それがきっかけでレコードも発売されたほど人気だったという。芳子をモデルにした村松梢風の小説「男装の麗人」(「婦人公論」連載)も一世を風靡した。

 昭和二十年、日本の敗戦にともない国民党軍に逮捕され、漢奸(中国の売国奴)として訴追を受ける。二十三年に北京で銃殺刑となり、波乱の生涯を終えた。




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ヒトラーはユダヤ系少女と仲良しだった……サイン入り写真が競売に

2024年04月23日 21時03分55秒 | 歴史的なできごと

ヒトラーはユダヤ系少女と仲良しだった……写真競売に


にっこり楽しそうに笑う女の子を、男性が抱きかかえている。男性も嬉しそうに笑っている。一見すると、素晴らしく幸せな写真だ。


ヒトラー、1歳


写っている男性が、アドルフ・ヒトラーでさえなければ。そして、女の子がユダヤ系でなければ。




ヒトラー率いるナチスはユダヤ人を迫害し、後にユダヤ人600万人の大虐殺を遂行した。それにもかかわらずヒトラーは、ローザ・ベルニール・ニナウさんとの友情を大事にしていた。5年後にナチス高官が介入して、やめさせるまでは。

2人の関係を1933年に記録した珍しい署名入りの写真は、米国でオークションにかけられることになった
 
写真は、ヒトラー専属の写真家ハインリヒ・ホフマンが撮影したもの。米メリーランド州の競売業者アレクサンダー・ヒストリカル・オークションは、13日に始まった競売では1万ドル(約110万円)ほどの値がつくだろうと予測している。

「サイン入りのものが表に出てきたことはなかった」と、同社のビル・パナゴプロス氏は英紙デイリーメール電子版に話している。


「ヒトラーはプロパガンダ目的で、しょっちゅう子供と一緒に写真を撮った。しかし、この作品は衝撃的だ。ヒトラーは本心からこの女の子に、親近感を抱いていたようなので。愕然とした」


「ヒトラーの恋人」

ヒトラーと女の子は、誕生日が同じだった。それが出会いのきっかけだった。
競売サイトによると、ローザさんは1933年、母親のカロリーネさんと一緒に、アルプスにあったヒトラーの別荘ベルクホーフを訪れた。別荘の外には、ナチス総統の誕生日を祝う大勢が集まっていた。

ローザさんの誕生日が自分と同じだと知ったヒトラーは、ローザさんと母親を別荘に招き入れたとされている。写真はそのとき撮られたという。
それからまもなくして、カロリーネさんの母親がユダヤ人だったことが判明する。ナチスにとっては、ローザさんもユダヤ人ということになった。
 
ヒトラーは少女がユダヤ系と知りながら、友情を育んだ

 
しかしそれでも、ヒトラーは少女との友情を終わらせなかった。一緒に撮った写真は、サインをして送っている。

「親愛なる、そして(思いやりのある?)ローザ・ニナウへ、アドルフ・ヒトラー、ミュンヘン、1933年6月16日」と、ヒトラーは書いた。


ローザさんは後に、この白黒写真に自分で花を足しているようだ。
ローザさんは1935〜1938年の間に、少なくとも17回にわたりヒトラーと側近のヴィルヘルム・ブリュックナーに宛てて手紙を書いた。
 
ヒトラーの個人秘書マルティン・ボルマンが、ローザさんと母親(ローザさんの父親は死亡していた)に連絡を控えるよう命令するまで続いた。


この命令を、ヒトラーは気に入らなかったようだと写真家のホフマンは後に書いた。

ホフマンは1955年に発表した回顧録「Hitler Was My Friend(ヒトラーは友達だった)」で、「私のあらゆる楽しみを台無しにするのが本当にうまい連中がいる」とヒトラーが自分にぼやいたのだと書いている。
 
ホフマンはさらに同書に、「ヒトラーの恋人」とキャプションをつけて、2人の別の写真を掲載。「ベルクホーフで少女に会えるのをヒトラーは楽しみにしていた。しかしそれは、お節介な誰かが、少女が純粋なアーリア人の血統でないと発見したため、終わってしまった」のだという。


ボルマンが、ヒトラーと少女の接触をやめさせた翌年、第2次世界大戦が勃発した。6年後の終戦までに、ユダヤ人600万人が死んだ。

ローザさんも戦争を生き抜くことはなかった。ポリオにかかり、ヒトラーと初めて会った10年後の1943年、17歳でミュンヘンの病院で亡くなった
 
 4・7・2021

ヒトラー


Remarkable tale of Hitler's young Jewish friend
Published13 November 2018


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アドルフ・ヒトラーの遺骨>安らかな死は許されず、

2024年04月23日 20時03分18秒 | 歴史的なできごと
アドルフ・ヒトラーの死

>夫妻の死体はガソリンをかけて燃やされたが、その残骸は赤軍により発見、回収された。ソ連によりヒトラーの死体は秘密裏に埋められたが、1970年に掘り起こされ、完全に焼却されたあとにエルベ川に散骨された


アドルフ・ヒトラーの死の項目では、1945年4月30日、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーが総統地下壕の一室で、夫人のエーファ・ブラウンとともに自殺を遂げた経緯について記述する。
 
自殺の手段は、拳銃と劇薬であるシアン化物を複合的に用いたものとされている。ヒトラーの生前の意向に従い、夫妻の死体はガソリンをかけて燃やされたが、その残骸は赤軍により発見、回収された。ソ連によりヒトラーの死体は秘密裏に埋められたが、1970年に掘り起こされ、完全に焼却されたあとにエルベ川に散骨された。これらの情報は、冷戦終結後の1992年に旧ソ連のKGBと後継組織であるロシアのFSBに保管されていた記録が公開されたことによって明らかになった。 




遺骨[編集]


1970年には、スメルシの施設は KGBのコントロール下、東ドイツ政府に移譲される予定だった。ヒトラーの埋葬場所がネオナチの聖地になることを恐れ、KGB議長のユーリ・アンドロポフは部隊に遺骸を破壊する許可を与えた。ソビエトのKGBチームは詳細な埋葬場所を指示され、1970年4月4日秘かに10体の遺骸を掘り出し完全に焼却して灰をエルベ川に散骨した[71]。 

この1年前の1969年にソビエトのジャーナリスト、レヴ・ベジメンスキー(Lev Bezymensky)が、スメルシの検視レポートに基づき西側で本を出版した。しかし初期の情報攪乱のため、歴史家はその情報の信頼性に疑いを持つ場合がある[72]。 


しかしソビエト連邦の崩壊後の1993年に、KGB(FSB)が、KGBの元メンバーによる公的検死記録その他の報告書を公表した。これらにより歴史家は、ヒトラーとエヴァの死体のその後について見解の一致に達した[73]。また、これによりトレヴァー=ローパーの1947年の著書『The Last Days of Hitler』で示されたヒトラーの死についての見解が裏付けられた。 


1993年にロシア政府は、ヒトラーの下頤骨と銃弾の痕のある頭骨の一部を、モスクワにあるロシア連邦保安庁(FSB)の公文書館が保管していることを発表した。アメリカ・コネチカット大学のチームがロシア政府の許可を受けて頭骨のDNA鑑定を実施したところ、この頭骨は女性のものであるとの結果が出たという。 

2000年4月26日、モスクワ市内のロシア国立公文書館でヒトラーの頭骨の一部が報道陣に初公開された。遺骨の公開展示を企画した責任者であるFSBのニコライ・ミハンキン大佐はインターファックス通信とのインタビューで「ヒトラーの遺骨は二度とロシアから出ることはないだろう。我々は常にそれを監視している。」と語っている。[74] 

2018年、フランス人法医学者のフィリップ・シャルリエ(英語版)がロシアの連邦保安局と国立公文書館の許可を受け、保管されていたヒトラーの遺骨の調査を開始した(遺骨調査の許可は1946年以来とされている)。



公文書館にある頭蓋骨はケースに入っており触れることさえできなかったが、ロシアKSBに保管されていた義歯の断片については詳細な調査が許された。


ヒトラーの生前に撮影されていたレントゲン写真と照合したところ、義歯の形状が一致した。彼の骨格や歯の状態に合わせたオーダーメイドであり、別人のものとは考えがたい。また、表面の傷や付着した歯石は実際に使用されていたことを示しており、模造品とも考えがたい。

偶然落ちた破片を持ち帰って付着物の組成を分析したところ、レタスの繊維などが見つかり、これも菜食主義者であったヒトラーの食生活と合致する。以上のことから、この義歯は本物と断定された。そのうえで、頭蓋骨に残された弾痕、虫歯についた青みがかった付着物から、銃で頭を撃ち抜く行為も青酸カリを服用する行為も両方行われたのであろうと結論づけている[75]。 



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