1月10日読売新聞いすみの元教諭、出版
テレビや本で今、注目される明治の俳人・正岡子規と同級生でもある文豪・夏目漱石の友情や交流を、いすみ市大原の元高校教諭関宏夫さん(69)が「房総紀行『木屑録(ぼくせつろく)』 漱石の夏休み帳」 (崙書房出版)にまとめた。2人の文学者が相次いで房総を訪れた経緯や当時の千葉県の様子が知れるなど、興味深い本に仕上がった。
子規(1867~1902)と漱石(1867~1916)は東大予備門時代の同級生。俳句や漢詩を通して生涯深い交流を続けたことで知られる。しかし、2人が房総を旅したことを知る人は少ない。漱石は1889年夏、友人と房総を訪れ、保田(現鋸南町)で海水浴をしたり鋸山に登ったりした。館山や勝浦を経由し銚子にまで足を伸ばした旅の様子を、漢文の「木屑録」として残した。これに触発された子規は2年後の春、市川から佐倉、成田を通り大多喜、小湊(現鴨川市)を経て鋸山に至る房総を行脚、紀行文「かくれみの」を著した。
関さんは県立大多喜高校に勤務していた25年ほど前、子規が大多喜を訪れていたことを知り、「なぜ、どうやってここに来たのか」と興味を持ち研究を始めた。2002年に「正岡子規の房総旅行 かくれみの街道をゆく」(崙書房出版)を刊行した際、「関連の深い漱石も調べることで、2人の房総紀行の実態が分かる」と「木屑録」を読み込み、今回の出版にこぎ着けた。
「漱石の夏休み帳」では、序盤で2人が一緒に寄席に通うなど青春時代を送った明治20年代の様子を説明。子規の詩文集「七草集」が漱石に文芸への関心を呼び戻したことに触れた上で、後半は「木屑録」の漢文を現代語訳し解説を加えている。鋸山を訪れた漱石は「数年前に岩盤が切り開かれ、トンネルが掘られて上総と安房の往来の便宜が図られた」ことを書き留め、鯛ノ浦(鴨川市)では「イワシに群がる美しい模様が海面に広がり、それがマダイだと分かった」などと記している。
関さんは「房総が漱石と子規にとって青春まっただ中にある思い出の地だったということを、多くの県民に知ってもらいたくて筆を執った」と話す。
「漱石の夏休み帳」はB6判269ページ。2000円(税別)。問い合わせは崙書房出版(04・7158・0035)へ。
(2010年1月10日 読売新聞)http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/chiba/news/20100109-OYT8T00996.htm
大多喜高校があるのは、いすみ鉄道のお陰です。大多喜のことを教えてくださる先生がいらっしゃることは宝です。
微妙なお年頃の私。
たんぽぽさん、私も同じことを考えました!
大多喜高校の先生という存在が未来永劫ありますことを祈っています。
これは、未来にとって大切なことですよね!
同様の記事が本日の千葉日報にも掲載されていたようです。
http://www.chibanippo.co.jp/news/chiba/local_kiji.php?i=nesp1263276733
明治の文豪、夏目漱石が若き日に南房総を旅した際に書き上げた漢文による紀行文「木屑録(ぼくせつろく)」。この難解な原書を分かりやすく解説した書籍「房総紀行『木屑録』漱石の夏休み帳」(崙書房出版刊、269ページ、2千円)が発刊された。情景描写が将来の才能を予感させる秀逸さであることや、旅行の背景に俳人の正岡子規との関係があったことなどを紹介している。
著者はいすみ市の元高校教諭、関宏夫さん(59)。子規と漱石の足跡が房総半島にあることを知り、20年来のライフワークとして研究してきた。書籍は子規の房総縦断の旅を題材にした「かくれみの街道をゆく」(崙書房出版刊)に続き4冊目。
漱石の夏休み帳の執筆では、漢文のニュアンスを正確に表現するのに苦労しながらも、漱石による臨場感あふれる情景描写に驚かされたという。 (千葉日報 記事)
足跡とか調べて、もっとアピールしたらいいと思います。
宿はどこだったんでしょう?まさか、寿恵比楼じゃないですよね。
夏に正岡子規の東京根岸のお家を見学に・・・と思ったら、休館日でした。
ウナギを食べて帰って来ました。
相棒は、みむら姉さんです\(^o^)/
『坂の上の雲』で、人気急上昇ですものね。
>寿恵比楼
先日みむら姉さんと行ってきました!
お隣の小湊バスの事務所の方達に不審そうな顔で見られてしまいました。が・・・私達は。ニコッと笑顔で手を振らせていただきました。
白土三平さんと、つげ義春さんの描写のとおりでした。
しかし、あんなところにあるとは!!
大多喜には隠れた文学が潜んでいますね。
マニアにはたまりませんでしょう.。o○