郷土出版社『長生・夷隅の歴史』を購入しました。
いすみ鉄道沿線の歴史も掲載されています。
いすみ鉄道のホームページに「いすみ鉄道までの歴史」が掲載されています。http://www.isumirail.co.jp/company/history.html その中に、
大正元年 県営人車軌道線 大原・大多喜間に開通
停車場4 停留所3 待避所2
県営人車軌道線って何?
下の右ページの写真が県営人車軌道・刈谷停車場(いすみ市・大正初期)
大原-大多喜間は所要時間2時間半。軌道の上で数人乗りの車両を2~3人の人夫さんが押して運行しました。時には上り坂でお客さんが手伝うこともあったそうです
ひぃ~
人が押した鉄道 (写真は茂原ですが、こんな感じ)
紆余曲折を経て、木原線(現いすみ鉄道)が開通して夷隅地域の人々の生活が大きく変わりました。 ありがたいね~
この本には、「特に、大多喜中学校(現大多喜高校)生徒はそれまで下宿屋、寄宿舎などから通学する者が多かったですが、遠距離通学が可能になったわけです。」と、書かれています。
写真は私の祖父です。大多喜に下宿してたんですよ。今では考えられないですよね。「今、かわいいムーミン列車が走っているのよ~。小さかった奥村さんの坊ちゃんが、ムーミン人形をたくさん作ってくれたのよ~っ。」って教えてあげたい
私の祖父となんだか縁のある奥村さんから報告がありました。応援団の皆さんはいろいろ考えているんですよ。フムフム 楽しみながら地域に貢献していますな。
「初代スナフキンは東へ… 国吉駅より大原方面に行きます…(@_@)/
大原まで行かせる為に国吉と大原の間に人形を…それも列車に乗らないと分からない場所へ…』その大役は初代スナフキンにやってもらう事になりました…(@_@)/♪土地の持ち主の確認と許可が取れたら旅立ちます…場所はとりあえず決まってますが公表する前に忍者が気付くと思いますょ…(@_@)/」 (by 奥村)
ムーミン列車応援団のホームページでは、
横に大きな
楽しもう、いすみ鉄道
私達それぞれが、それぞれの時代での「いすみ鉄道」が語れますように、永遠に走り続けて欲しい。
走らせなくてはなりませんよ。
思い出も大事ですけど、病院に行ったり、学校に通ったり、命や文化を乗せて走っているのですから。
一度なくしたら
レールは二度と敷けないから。
(あれっ、い鉄、麻生運転士さんの台詞だ)
明治41年頃…大多喜~大原間の乗り合い馬車の開業が乗り物としては初めて…その後、大正元年に人車軌道が運行…客車を押す「押し夫」の賃金は日給四十銭、年間三銭の昇給で月に二日の休暇がありました。
それからエンジン付きの軌道車…木原線…
そして今…いすみ鉄道…小学生の頃友達と大多喜から国吉まで線路を歩いて帰り…途中鉄橋を歩いてて木原線の運転手に超怒鳴られた俺が30年後鳥塚社長と知り合い…まさか国吉駅にムーミン人形を作るようになるとは…(@_@)/
ジャンヌさんとも凄く不思議な縁だね…
ジャンヌさんと忍者tassさんのお陰で最近国吉駅にいると「あの…もしかして奥村さんですか?」って声をかけられます…(ブログの写真で坊主頭のチンピラ風の人って覚えてたらしい)(=_=;)
皆さん…初代スナフキンの引っ越し先はとてもステキな場所ですよ…('-^*)o
>客車を押す「押し夫」の賃金は日給四十銭、年間三銭の昇給で月に二日の休暇がありました。
待遇的にはどうなんでしょう? いいのか、悪いのかもわかりません。 月に二日の休暇とは、疲れがとれませんね。
奥村さんとは、縁がわるのね~。私フランス人だから金髪は慣れているし(笑)
記事にいた一部は、やっぱり恥ずかしいからコメントの方に移動しちゃった。
>写真の昔の学生は、今は亡き私の祖父です。養老渓谷しか知らなくて遠い大多喜に行って、最初のショックが、同級生のほとんどが英語を話せたことだったそうです。お陰で、最初の学年では英語が、甲乙丙の丙。泣くに泣けず、一人ねじり鉢巻で勉強したそうです。優しい母さんそばにいないよ 「夜食作って~」なんて言えないのよ。
自分より走るのが速い人はいないだろうと思ってたのに、それもあっさり違った。上には上がいるもんだって感じたのも成長過程での収穫ね。みんなで土を掘ってプールを作ったり、寂しいけど、学校の楽しさは、今まで味わったことのないもの。
この頃、自由教育問題で大中ストライキもありました。この暴動で手塚校長先生を辞職に追い込んでしまったことを、長い間悔やんでいました。 『窓際のトットちゃん』という本が爆発的に売れ、読んでみると、トットちゃん=黒柳徹子さん(ユニセフ親善大使)を育てた学園・自由が丘学園を創設したのが、手塚先生で、それはそれは喜んでいましたよ。
昔、こんな少年がいたわけです。(本人から聞いた話で、私にも記憶違いがあるかもしれませんが、そこのところはご勘弁くださいね。)
養老渓谷の方では、学校に行けたのは幸せな方で、遠くて行けない人はたくさんいました。勉強したかった人もたくさんいたはずです。 列車が走ったことは、どんなに素晴らしいことだったか考えてみてください。
祖父は「頑張るな~頑張るな~、楽しめ~楽しめ~」が口癖でした。「楽しいところに人は自然に集まる」ってね。
今、このブログにコメントをくださる方は皆楽しんでいます。
いすみ鉄道に関わることが楽しくてしょうがない!!って感じます。
だったら、これから人は集まります!!
祖父は刈谷の奥村さんファミリーが大好きだったんですよ。よく話して聞かせてくれました。いすみ鉄道を通じて、私、出会えちゃったのですよ。おじいちゃん、ありがとう。
人車の車両の重さは約450㎏あった…そこにお客が乗るのだから700㎏以上はあっただろう。
最新情報…
今日スナフキンは引っ越し完了しました(@_@)/♪
皆さん列車に乗って見つけてね('-^*)
50年前に学校に通えたのは、木原線のお陰です。老川から自転車で中野駅まで行って、そこから木原線に乗りました。人がたくさん乗っていました。
高校に行けたことは幸せでしたけど、私の母は「もったいない」ばかりで、友達が革靴でも、とうとうビニール靴しか履けませんでした。この年になっても恨んでいて子供にも孫にも話しています。笑い話しですよ。
お風呂も今はガスでポンですが、薪をくべて沸かします。洗濯機もありません。ポットもありません。多くの高校生は、家の仕事をしてから学校に行きました。同級生でも奉公に出た子も多かったですよ。
昔のことで、忘れてしまいましたが、いい時代になりました。列車がムーミンを連れて走るのですから、長生きして楽しまないといけません。国吉駅など、本当にいい風景です。
私もジャンヌさんのお爺様から、奥村さんのことはよく聞かせていただきました。
お爺様は、すごく厳しい方でしたが、人が好きで好きでたまらない性格でしたね。ジャンヌさんの性格はお爺様似ですね。
奥村さんとのご対面もお爺様のお導きだと思います。
この写真が乗ってお爺さんも喜んでいることでしょう。
昔はプールも生徒の手造りだったなんて驚きですね…
そのプールからベルリンオリンピックに派遣された選手も生まれそうです
やっぱりプールは本当だったのですね。
皆で作ったのね~。
おじいちゃん、奥村さんの坊ちゃんを褒めてよ!!
おじいちゃんの言ってたとおりだね~。
それにしても・・・
>そのプールからベルリンオリンピックに派遣された選手も生まれそうです
>たんぽぽさん
「おじいさんによく似ている」ってよく言われます。熱いんです。嬉しいような、悲しいような。有名な頑固爺さんだったし。 笑
ジャンヌさん‥!!??
「頑張るな。楽しめ。」
おじいさまは素晴らしい方ですね。
このお話しの他にも、以前ジャンヌさんにおじい様の生きてきた功績を伺った事があります。
人を惹き付ける魅力はお孫様であるジャンヌさんに引き継がれたのですね。
今こうしていすみ鉄道ファンに多くの人が集まっているのもいすみ鉄道への魅力だけではなく、ジャンヌさんの人を惹き付ける力が大きいと感じています。
「楽しいところに人は自然に集まる」
まさにその場所がいすみ鉄道ファン。
そして、いすみ鉄道!!
今いすみ鉄道を取り巻く環境は、人であったり、お土産であったり、ムーミン達のお人形であったり‥
すべてが【楽しい】で溢れています。
走らせなければいけません!!
今日を明日へ運んでいく♪いすみ鉄道♪
そうそう、今日を明日に運んでいく~♪(黄色い列車より)
そのとおりですね~。
奥村さんが、生徒たちでプールを作っている写真を探し出してくださって、びっくりしました。
何かを作るって気持ちを、忘れていました。
さすが、奥村さんよね。
「はじめて物語」のスタートです。
「初めて」は自分になろうよ!!!!
maruちゃんは「黄色い列車」とイメージ付ける音楽で散らばっていたファンを集合させてくれました。
いすみ鉄道の模型を作ってくださったISOさんも、「はじめての人」になっちゃった。
久我原さんも小説、鍋之助さんは世界初の本多忠勝公の奥さんの絵を・・・
世界でたったひとつのムーミン列車ですもの!!
「はじめて」を
両手広げてお待ちしているのは、
いすみ鉄道です !(^^)!
いすみ鉄道に カモ~ン!!