アイ!サラマッポ in バギオ

フィリピン人介護者のケアを受けながらの、フィリピンでのインディペンデント・リヴィング…、心の赴くまま、ここに記します。

10th Anniversary…♪思えば遠くへ

2009-03-12 17:01:08 | フィリピン-障がい者の「自立生活」

 今日3月12日は、私の人生で大きな転機となった日。10年前に、成田から単身マニラに渡って、フィリピンでのいわゆる障害者の「自立生活」にチャレンジし始めた日です。あの日からちょうど10年!思い起こしても、感慨深いものがあります…。

 地図でマニラ、ダバオ(2003年2月~2007年4月)、バギオ(2008年10月~)を探してみてください。

「一九九九年三月一二日早朝、東京で行き場を失った私は、成田空港へ向かった。フィリピンへ行けば、この困難な状況を何とか打開できそうな気がした。『日本を一旦諦めよう・・・。』暁闇の中を成田空港へと向かう途中、空が次第に紅色に染まり出し、東京湾から朝日が昇ってきた。日本海に沈んでいく夕日は数え切れないほど見てきたが、太平洋の、海からから昇る日の出を見るのは生まれて初めてだった。その雄大な美しさに見とれながら『道はまだある!』と、自分自身を奮い立たせた。
 
切羽詰まった状態であったにせよ、首から下が動かない体で単身マニラへ渡ろうなどという考えに、誰が賛同しただろう?人には、狂気の沙汰としか思えなかったかもしれないが、自分ではよくよく考え抜いた上での結論だった。そして、そう決めてしまった後は、不思議と気持ちが落ち着き、その後の身の安危なども顧みることはなかった。離陸を待つ機内では、『どうしてこうなってしまったのか。』と、自分の数奇な運命を振り返りながら、ただひたすら祈っていた。『神様、仏様。どうかもう少しだけ生きるチャンスを下さい・・・。』離陸後しばらくして、ほおーっと眠りについた。ぐっすり眠れたのは、ずい分久しぶりのような気がした。
 
飛行機が下降を始め、マニラの国際空港に近づいた時、ふと『ひょっとしたら自分はマニラで命を落とすかもしれない・・・。』と思った。前年の暮れにできたお尻の床ずれの状態がよくなかったからだ。一月半ほど前、一人の重度身体障害者が、都内のあるカトリック教会で、車椅子に座ったままの状態で孤独死した。床ずれがひどく進行していたという。
 
金沢で、東京で、多くの人に支えてきてもらったにもかかわらず、未だに宙ぶらりんで、綱渡りのようなその日暮らしの毎日・・・。そのまま東京の街をさ迷い続けていたら、自分もその障害者と同じような運命をたどっていたかもしれない。東京でも、自分なりにできるところまでやってはみたが、もうそれ以上続けるのは無理だった。最後まで関わってくれていた、わずかな介護者の厚意に甘え続けることも、自分にはできなかった。『今はこうするしかないんだ・・・。』
 
マニラ国際空港に着き、バゲージクレーム(手荷物引渡し場)で、ポーターの男性二人に頼んで体を電動車椅子へと移してもらう。チェックアウトをすませた後、到着ロビー出口で車を探した。空港警備のガードマンに、バンのタイプの車(ワゴン車)を捕まえてもらい、運転手に事情を話した。『マニラ湾の近くのホテルまで。』と言って、料金の交渉をする。快く引き受けてくれたその運転手の表情を見て、彼ならおそらく問題ないだろう、と思った。日本人が、空港からマニラ市内へ向かう移動中に狙われる犯罪が後を絶たないことは承知していた。が、こちらとしても、たまたま出会ったその運転手に賭けるしかない。バンの後部座席を取り外してもらい、日本から持ち込んだ二枚のアルミ製のスロープで、電動車椅子のまま車の後部から乗り込み、ロープで固定してもらう。そして、マニラ湾岸の、大きめのホテルへと向かった。
 
今朝早く、成田空港に向かう途中で初めて目にした太平洋からの日の出・・・。その太陽が、今まさにマニラ湾に沈もうとしている。真っ赤な、美しい夕日だった。」

拙著『アイ!サラマッポ~フィリピン人介護者と生きて~』上巻第3章より抜粋)

 
(ジプニー・2000年撮影)

 マニラに来た当初、移動にはよく「ジプニー ・Jeepney」を使っていました。日本から持ち込んだスロープをかけて、後部からすんなりと乗り込めましたが、もちろんエアコンはありません。排気ガスがひどく、埃っぽい、しかも大渋滞のマニラをジプニーで移動するのはかなりきつかったです。
 真夏の酷暑の中、新天地での介護者探しに家探し…。実際にメトロ・マニラのケソン市に家を借りて生活し始めたのは、それから約一か月後の4月半ばでした。
 が、実はそのマニラでの最初の家にもオバケが出たのです。
(続く。…続かないかも?)