例の前復興大臣の言葉に日本中が唖然とした(と信じている)その日、わたしもまた、「それをいっちゃあオシマイよ」的言葉を吐いてしまっていた。
家での夕餉、そのことを女房殿に打ち明けると、
「アレと比べたらダメ」
「あなたは絶対にあんなことは言わない」
と励まされたのだが、
「もちろんそりゃ喩え。けどオレにもそんなふうなことをしでかす可能性はあるのだ」
と、妙なところで言い張ったわたし。
思うに、このごろ少し、「吐く言葉」が軽い。
もともと重くはなかったが、いつもに増して軽い(ような気がする)。
「書く言葉」ではない。口をついて出る言葉がだ。
「書く言葉」は消しゴムで消せる。どころか、PCにキーボードで入力する形の「書く」では、消しゴムでエッチラオッチラ消す必要もなく、Deleteキー一発ですべてを帳消しにできる。ところが、「吐く言葉」はそうはいかない。自らが発音することで世間にリリースされた言葉は、その刹那から、消そうとしても消すことができない。まだそこらへんに漂っているかもしれない自分自身の言葉をひっつかまえて、くしゃくしゃっと丸めてゴミ箱に捨てる、なんて芸当はどこのどなたであろうとでき得ない。
もちろん、「東北でよかった」などという言葉をわたしが吐くとはゆめ思わない。あの人の場合は、常々そう考えていたのだろう。「アッチの方だからよかった」という言いぶりにそれは表れている。そして、思っていることや考えていることはついつい口をついて出てしまうものだ。そういう意味では、わたしもまた、心のなかに潜めたつもりの棘や闇をいついかなるときにさらけ出してしまうやもしれない。他山の石以て玉を攻むべし。あらためて言葉のこわさ、大切さを実感した。
そうそう、「東北でよかった」といえば、宮城県南三陸町の佐藤仁町長がこう言ったそうだ。
前大臣の発言は残念だったが、震災から6年がすぎ、震災の風化が進む中で、被災地を思い出し、応援するメッセージが広がることは本当にありがたく心強い。
前大臣の発言に関連して、ツイッターなどで「東北でよかった」というハッシュタグをつけ、東北出身であることを誇りに感じたり、東北の魅力を伝えようとする投稿が相次いでいることを受けての発言だという。
あのどうしようもない発言については、「残念だった」という程度に抑え、ポジティブで未来志向のコメントとなっている。
正しいオジさんとは、すべからくかくありたいものだ。
そう思った。
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