「許す」というテーマである人と話をした。最初からそんなテーマだったわけではない。自然の流れでそうなっただけだ。そしてひょっとしたら、テーマが「許す」だなと感じていたのはわたしだけなのかもしれない。
ダメな他人が許せるか。
もちろんこの場合の他人とは、おのれと利害関係を共にする人のことである。まったく関係のない赤の他人が無能であろうと有能であろうと、それは基本的にどうでもいいことだ。
「ある人」は、複数の人のダメさをわたしに列挙して、「それでも許せますか?」と訊く。
「う~ん」と言葉に詰まるわたし。
列挙されたダメさ加減は、わたしを「なるほどね~」と納得させるに十分なエピソードばかりだったからである。
「許すのだよ」
「そしてそっからがスタートなんだよ」
と、キレイ事はいくらでも言える。だが、眼前で現実と闘い思い悩む人に対して、同じ悩みを繰り返してきたわたしが、そんなことを言えるわけがないではないか。
「じゃあ自分の無能は許せるか?」
そんな問いかけを発してみたくなったが、口には出さなかった。頭のなかでうまくまとめることができなかったからである。
手始めに、「自分の無能を認めて許す」(橋本治)。
「自分の無能」を認めることは、「他人の無能」を断定するよりはるかに困難だ。そして、認めたうえで「許す」。「認めて許す」というのは「正しく向き合う」ことによって初めて可能となる。
いっとくが、この場合の「許す」は「あきらめる」ではないし、許して何もかにもが終わりではない。「自分の無能を認めて許す」はスタートだ。そしてそのスタートは、何度でも繰り返しつづけるものである。「わからない」からスタートして、「わかった」あと、また「わからない」から始める。という繰り返しと同じなのだ。
「認め」て「許し」たあとどうするか。それは人それぞれだろう。わたしがああだこうだと断定するべきものではないし、披瀝する知見もない。だが、「(無能を)認める」と「許す」の先に未来はあると、わたしは思う。
と、そんなようなことをモヤモヤっと考えたのだが、言えなかった。現実はキビシイ。思索のなかでは、悟ったようなことをいくらでも考えられる。だがひとたび現実に立ち戻れば、わたしたちは常に一筋縄ではいかない「場」と向き合わなければならないのだ。
倦むことなく飽くことなく、いや、たとえ倦んでもたとえ飽きても、繰り返しつづける。
そっからしか、突破口は開けんのだわネ (^_-)-☆。
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