goo blog サービス終了のお知らせ 

答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

新たなスタイル

2021年08月25日 | 読む・聴く・観る

近ごろ、少々長風呂を心がけている。

湯船のなかで時を過ごす方法を見つけたからだ。

胸の下までしかないぬるめの湯につかり、風呂のふたを机代わりにしてKindleで本を読むのである。

今読んでいるのは『独学大全』(読書猿)。「紙」版だと全788ページにおよぶ大著であるが、あせらず気長に読んでいる。そういうところも、この方法にぴたりと当てはまっているのかもしれないなどと思いつつ読んでいる。

慣れてくるとおもしろいもので、湯船のなかでついウトウトとしてしまうことが2回に1回はある。昨夜もまたそう。ふと気づくとオチていた。

あらあら、と苦笑しながら本へ戻る。

 

******

 読めない人の典型は、自分が知っている単語に条件反射的に動かされてしまい、その言葉がどのような文の中で、そしてどのような文脈の中で、使われているかを考慮せず、注意も払わない人だ。

 こうした人は、単語にはいつも決まった固定された意味があるものとして考え、疑わず読んでいく。しかし文章で鍵となる言葉や概念は、辞書にある意味からいくらか離れ、独特のニュアンスを帯びたり、独特の意味を担うことが少なくない。一語一義に無自覚であれこだわりが強い読み手は、ここでつまずく。

(Kindleの位置No.7307)

******

 

得たりとうなずき眠けが醒めたのにはわけがあった。

その朝、あることを考えていた最中に思いついたこんな文章を書きとめ、「下書き」として保存しておいたからだ。

 

******

言葉にこだわらないひとほど、言葉(単体)を問題にし、言葉(単体)を糾弾する。

一方、言葉にこだわるひとは、言葉というものを文脈のなかでとらえるので、一つひとつの言葉をそれほど問題にすることはない。たとえその使用法が意味的に適切ではなかったにせよ(それ自体を指摘することはあるとしても)、全体として意味を成していればよしとする。

******

 

おもしろいものだ。

ひとり微笑んで『独学大全』に戻った。

すると、くだんの位置ナンバー(ページ数)に目が止まる。

7307?

10726分の7307?

???

おかしい。

たしか10%も読み進めてはいなかったはずだが・・

と、そこで気づいた。

オチた瞬間、どこをどうしたかわからないが、ページを進めていたらしい。

ページを少し戻してみると、この項、「チャリティーの原理」について書かれていたものだった。

 

******

チャリティーの原理とは、ざっくり言えば、相手が言っていることをできる限り「正しい」「筋が通ったもの」として解釈しようという原則を言う。書き言葉であれば、その文章がうまく理解できなかった時には、相手の書き方が悪いのではなく自分の解釈がおかしいと考え直せ、という方針になる。(No.7292)

******

 

ナルホド。

大きくうなずいたのは言うまでもない。

 

 


『上手な支援者は困っている相手に対して、「どうしますか?」と相手のことばによる返事に答えをゆだねるようにはあまり聞かない。「こういうのがいいと思うんだけど、どう?」と聞く。』(森川すいめい)

2021年08月24日 | 読む・聴く・観る

 

 

人を助けることはむずかしい。その行為がむずかしいというよりもタイミングがむずかしい。

とはいえそれは多分に性格由来のものなのだろう。相手のことを考えれば考えるほどむずかしい。考えすぎるからむずかしい。ついつい躊躇してしまったその結果、タイミングを逃してしまうことがよくある。

そんなわたしに、少なくないヒントを与えてくれた文章が、『その島のひとたちは、ひとの話をきかない――精神科医、「自殺希少地域」を行く』(森川すいめい、青土社)のなかにある。

著者が旅し、ここで紹介している「自殺希少地域」は、徳島県(旧)海部町、青森県風間浦村、同(旧)平舘村、広島県(旧)下蒲刈町、東京都神津島村の5ヶ所だ。そのうち広島県下蒲刈島について書かれたなかにそれはあった。

******

 弱っているひとの意思を聞くことは時には間違うことがある。弱っているからこそ本当は助けてほしいと思っていても助けてと言えなくなる。意向を質問すればするほど拒否していく。弱っているときは、「入っていいですか?」と聞くのではなく、「助けに来たよ」と入っていく。それでも断られるのであれば、それは本人が本当に嫌だということである。

(Kindleの位置No.1345)

 普段の仕事でも、ひとの支援をするときに、上手な支援者ともう一歩工夫をしたほうがよいと感じる支援者とがいる。ひとを助けるにおいて、その結果、成果がずいぶん異なる。上手な支援者は困っている相手に対して、「どうしますか?」と相手のことばによる返事に答えをゆだねるようにはあまり聞かない。「こういうのがいいと思うんだけど、どう?」と聞く。

(No.1420)

どうしますか?と聞かれると、支援を受ける側は躊躇してしまう。現実的には助けが必要なのだが、相手に迷惑をかけてまで助かりたいとは思わない。迷惑なのかどうかをいつも考えてしまう。

(No.1426)

「困っているひとがいたら、今、即、助けなさい」

 私は島を一周する途中で会った老人の言葉を聞いて、そうだよなと思うようになった。ひとを助けるにおいて、少し、それまでは動き出す前に考えてしまうことがあった。ここで助けることが本当に本人にとっていいことなのか、ためになることなのかどうか、と。そのつど悩んだ。しかし、このことばを聞いてからそれを実践するようにした。

(No.1453)

******

なかでも、「どうしますか?とは聞かない」という方法が、わたしの腹にすっと入ってきた。相手の気持ちを慮るあまり、まず自らにある解決策を提示することはせずに、「どうする?」とたずねたときの、自分と相手の双方が別々にもつ違和感と、そこから事がうまく運ばない体験を思い浮かべたからだ。

とはいえわたしの場合のそれは、冒頭に記したように、多分に性格由来のものである。であるかぎり、「そうだそうだよそうなんだよな(たぶん)」と納得したとしても、上手にやれるかどうかはわからない。そしてもちろん、その場その時、ケース・バイ・ケースではあろう。だが、方法のひとつとして、しかも有力な選択肢のひとつとして、引き出しに入れておくべきではある。

事におよんだとき、そんなこんなを考えはじめて悩み躊躇し、結局のところ、機を逸してしまった、という冴えないオチにはならないように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『その島のひとたちは、ひとの話をきかない――精神科医、「自殺希少地域」を行く』(森川すいめい)を読む

2021年08月23日 | 読む・聴く・観る

 

 

その島のひとたちは、ひとの話をきかない――精神科医、「自殺希少地域」を行く』(森川すいめい、青土社)を読んだ。宇田川元一さんの著書からの流れだ。とても示唆に富んだ本だった。もちろん、「私と私の環境」で構成されるわたしにとってである。

そんななか、期せずして「変わる変わらない」あるいは「変える変えられない」について再考するキッカケとなったのが、『対話する力』と名づけられた終章だ。

一部を引いてみる。

 

******

 自殺希少地域にいたひとたちは、とてもコミュニケーションに慣れていると感じた。

 それを、もう少し違うことばで表現すると、よく対話をしていると感じた。

 相手のことばをよく聞き、それに対して自分はどう思うかを話し、そしてまた相手がそれに対して反応する。ことばが一方通行にならないように対話をよくしている。

 そして、自殺希少地域のひとたちは、相手の反応に合わせて自分がどう感じてどう動くかに慣れているように感じた。

 それは、相手を変えようとしない力かもしれない。

「相手は変えられない、変えられるのは自分」

(No.1918)

 それは、対話主義そのものであると思う。相手のことば、行動、変化を見て、自分はどう感じ、自分はどう反応するかが決まる。それによって相手をどうこうしようとはしない。自分がどう変わるかである。その変わった自分を、またその相手は見ることになる。その相手はまた、変化した自分を見て、それに反応するように変わっていく。

(中略)

 対話をしていくこと。ただ対話をしていくこと。相手を変えようとしない行動。しかし、結果として何かは変わるかもしれない。ただ対話をする。変えられるのは自分だけである。

(No.2025)

******

 

「他人と過去は変えられないが自分と未来は変えられる」(エリック・バーン)

あまりにも有名なこの言葉についてわたしは、「まったくおっしゃるとおりです」と同意する一方で、「他人も過去も自分も未来も」すべてを変えることができるという、いっぷう変わった意見の持ち主だ。(そのことについての過去ログはこちら → 『「他人と過去は変えられないが自分と未来は変えられる」・・・か?』2020.07.25。御用とお急ぎがない方はぜひ。)

しかし、だからといって、自分自身の手で「変えられる」という態度をもって眼前にいる他者と相対するのは、あまりにも不遜に過ぎるとも思っている。

森川さんが書くように、「結果として何かは変わる」。

わたしが言うところの「変えることができる」は、ニュアンスとしてはこれに近い。

「結果として何かは変わる」を実体験してきているからこそ、それに向けてのアプローチをつづけていくことがたいせつなのだと思っている。

肝心なのは、だからといって他人を「変えよう」とはしないことだろう。

ところが、心の内に「変えよう」という欲を抱えてしまうと、これが困難になる。

そうすると、それを実現するためには、「相手をどうこうしようとしない」態度でのぞむことが適切となる。

しかし、いったん抱いた欲はなかなか捨てきれるものではない。

それやこれやのすべてを自らが承知し、背負ったうえで、とるスタンスはこれだ。

「変えようとしている」だが「変えようというアプローチはとらない」。

いやいや、これではまだ「欲」が勝ちすぎており、すぐに正体が露見してしまう。

では、これではどうか。

「変わってほしい」だから「変えようとしない」。

 

そんなふうに、あれやこれやなんだかんだと思いを巡らせていくと、森川さんの言葉の秀逸さが、なおいっそう心に染みる。

対話をしていくこと。

ただ対話をしていくこと。

相手を変えようとしない行動。

しかし、結果として何かは変わるかもしれない。

ただ対話をする。

変えられるのは自分だけである。

 

よい本を読んだ。

 

 


『他者と働くーー「わかりあえなさ」から始める組織論』(宇田川元一)を読む

2021年08月17日 | 読む・聴く・観る

 

 

 

本日も『他者と働く――「わかりあえなさ」から始める組織論』(宇田川元一)から。

これでいちおうの終わりとしたい。

******

 対話に挑むことを別な言い方をするならば、それは組織の中で「誇り高く生きること」です。

 つまり、成し遂げられていない理想を失わずに生きること、もっと言うならば、常に自らの理想に対して現実が未完であることを受け入れる生き方を選択することです。

 当然、そのときには、その理想に反する現実があることに向き合わなければならないですし、時に、自分の理想が狭い範囲しか見ていなかったことに気づかされることもあるでしょう。我が身を切られるような痛みの中にあって、私たちはどうやってそのことを誇れるでしょうか。

 それは、私たちが何を守るために、何を大切にしていくために、対話に挑んでいるのかを問い直すことによって可能になると私は確信しています。私たちは、何者なのでしょうか。何のために頑張っているのでしょうか。そのことを見定めることによって、私たちは、困難の前にあって、常に挫かれ、改められることが必然である暫定的な理想を掲げ続け、歩むことができるはずです。

(中略)

 自分には誇りなどないし、大した理想も持ち合わせてないと思う方もいるかもしれません。しかし、もしそうであるのだとしたら、なぜ私たちは悩むのでしょうか。

 それは明確な形をしてはいないけれど、理想の断片が私たちの手の内にあるからではないでしょうか。しかし、それを日々の仕事の中で、諦めさせられているから、誇りも理想も持てないと思うのではないでしょうか。

 それは特定の誰かによって「諦めさせられている」と言うよりも、むしろ、今置かれている状況自体が、「諦めるのが当たり前だ」ということを、私たちに日々刷り込んでいるのかもしれません。だとすれば確かに、困難な状況の中に私たちはあります。

 しかし、そのただ中にあっても、私たちは誇りを持って生きる自由があります。そして、私たちの人生は、そのことを葛藤するに値するものではないかと私は思うのです。あなたが誇りや理想という言葉を聞いたときに感じるしんどさや痛みは、あなたの葛藤には大いに意味があるということをはっきりと指し示しているのだと思います。

(Kindleの位置No.1430付近)

******

読んでいて、じ~んとくるものあり。

時をおいて再読し、つづいて読みながらメモし、さらにここへ書き写すためにまた読み返したが、そのたびに胸をつくものがあった。

ブログでございと看板をかかげている身であれば、ここからその感想と私見を書き連ねるのが筋だろう。しかし、このしょぼくれた脳の内には、気の利いた言葉のひとつも沸きあがってこない。

その代わりといってはなんだが、先ほどから浮かんでは消え消えては浮かぶ言葉がひとつ。

 

それぞれが自分の持ち場で、笑顔でたたかえエブリバディ。

 

「あなたの葛藤には大いに意味がある」から。

 

 

 


援軍来たり

2021年08月16日 | 読む・聴く・観る

本を読んでいると、

たとえば「あーなるほどね」とか

たとえば「そうそうおっしゃる通り」とか

またたとえば「そうだそうだよそうなんだよなー」などと

膝を打って激しく同意することがたまにあり、だからこそ「本読み」という行為がおもしろいのだと自信をもって言えるわけなのだが、そのなかでも上位のリアクションは

「う〜ん」

とココロの内で唸って上目づかいで斜め前方の中空に目を泳がせるというのものだ(たぶん)。

最上級になると、そのあとココロがふるえたりする。

もっともあたらしいものでは、先日遭遇したこれなどがそういうものである。

******

部下を「正しい言葉」で平手打ちしたときの不快感、上に立つ人間なのだから、自分だけは特別扱いを受けて当然であるということへの違和感、そういったものは、いくら論理的に正しくても、私たち自身に常に語りかけてきています。

(『他者と働く――「わかりあえなさ」から始める組織論』宇田川元一、NEWSPICKSパブリッシング、Kindleの位置No.1334)

******

このような場面に、いったいこれまでどれぐらい遭遇し、このような感覚を何度味わったかは数え切れない。

わたしは正しい。そう信じるからこそ諭す。そして相手はその言説に屈服する。そのあとに残るのは説得したという充実感か。否。その逆だ。

「わかりました」という言葉とともに、あるいは無言でうなずく相手を前にして感じる、「そうじゃないんだよなぁ」とでもいうような、なんともイヤ~な感じ。それを宇田川氏がみごとに言語化してみせてくれた。

いわく

「正しい言葉」で平手打ちしたときの不快感

そしてそのあとにつづく文章は、その「なんともイヤ~な感じ」と向き合わいつづけてきたわたしに、お墨付きのようなものをくれた。

******

 この不快感、違和感に向き合い、新たな橋を架けていくことが、人を動かし、育て、自分も変わっていく道を切り開きます。だからこそ、上に立つ人には対話に挑んでいただきたいと思うのです。

 そのためには、私たちがわかっていないことに目を向けること、そして、そのことから目を背けないこと、恐れや不安を持っていることを認めること、そして、大胆に橋を架けていくことです。

(No.1344)

*****

よく読んでみれば、この文章には、わたしの違和感やモヤモヤを解決してくれる具体的な処方箋が記されているわけではない。ただ「向き合え」と書いているだけである。

それなのに、援軍来たり、なんて感じてしまったのはなぜだろう。

ま、よい。さしあたって、これ以上深くは考えないでおこう。

ほんの少しだけれど、勇気のようなものを与えてくれたのだもの。

とりあえずはそれでじゅうぶんである。


アタリの予感

2021年08月13日 | 読む・聴く・観る

 

最近、こんな本を読んだとか、あの本のここがよかったとかを書かないが、あいかわらずわたしの「本読み」という行為が止まることはない。

では、ここで紹介するようなものがない(から書かない)のかというとそういうこともない。ほんのこの前も、ズキュンと胸を撃ち抜かれるようなものに出会った。つまり、ここで取りあげるか否かは、そのときどきの気分しだいであり、そこに特段の計画や意図はないことがほとんどである。

ってそんなことはどうでもよいけれど・・

今朝からあらたに読みはじめようとした本がある。

『その島のひとたちは、ひとの話をきかないーー精神科医、「自殺希少地域」を行く』(森川すいめい、青土社)だ。

いつもは目次などには目もくれず、ダイレクトに本文へとすすむのだけれど、なぜだか今朝は目次に目をとおしてみようと思った。いや、確とした思いがあったわけではない。なぜだか目次を追いかけてみたというのが正しい。

そんななか、ある見出しに目がとまった。

「写真にはひとが写るもの」

ほぉ、おもしろそうではないか。

電子書籍である。見出しをクリックすればその位置にジャンプする。飛んでみた。前後の脈絡が不明なまま、そのくだりだけを読んでみた。

著者はカメラをもって旅をし、気になったものを撮って記録をとるのだという。あるお好み焼き屋さんでのこと(前を読んでいないのでそれがどこなのかはわからない)、そこの親切さが気に入り、暖簾を撮ってツイートしようと撮影の許可を請うと、店員さんが出てきて暖簾の前でピースをしたのだという。同様のことがそのあともあったらしい。別の場所でのこと、文化祭のポスターが秀逸だったので、これまた撮影の許しを請うと、保健師さんたちが全員集合してカメラの前に笑顔で立ったのだという。

以下、それについての著者の感想である。

******

 こんなエピソードなのだがなんだか心があたたかく感じて、帰ってからもいつもこれらのことを思い出していた。

 そんなある日、このことについて思った。

 ああ、ひとが、中心なのだ、と。

 ひとが、大事なのだ、と。

(中略)

 写真を撮るにおいて、ひとが入るのがこの地域ではおそらく常識なのである。

(中略)

 ちなみに、写真を撮ったあとで、あなたも撮ってあげようかとは言われなかった。この勢いだからそう言われるかもとも思ったのだが、それはなかった。

 相手の意向は関係ないのだと、このことを振り返るときも思う。自分がどうしたいのか。

 写真を撮らせてくださいと頼んだから写真を撮らせてくれたのである。そうしてあげたかったからそうしたのである。写真を撮られることがうれしいとかありがたいとかではない。写真を撮られることがうれしいことだとしたら、おそらく私たちを被写体にして撮ると言ったかもしれない。そのひとたちは私たちがうれしいと思うことをしてくれた。

 やはり、ひとが大事なのである。

(Kindleの位置No.1540)

******

 

読んでいくうちに、ついつい笑顔になった自分がいた。

この本、(たぶん)アタリ。

繰り返すが、前後の脈絡は不明である。

それ以上、目次を追うことはせず、「はじめに」へとページを進める。

 

私は生きやすさとは何かを知りたかった。

 

本は、このセンテンスから始まっていた。

さて・・・ぼちぼちと読んでみましょうかね。

 

 

 

その島のひとたちは、ひとの話をきかない――精神科医、「自殺希少地域」を行く』(森川すいめい著、青土社)

 

 

 


カメラ図式とリトマス図式 〜竹田青嗣『現象学入門』より〜

2021年07月15日 | 読む・聴く・観る

ドローンを落とした。

焦るわたしに、だいじょうぶ夢だ、目を覚ませば消える、と諭しかけてくれたのは、夢を見ているわたしと同じわたしだ。

ということで4時10分前に起床。

本日も読了した『現象学入門』(竹田青嗣)を紐解いてみる。

 

「月面探査船」のあと、竹田青嗣さんは、「人間の存在と事物世界の関係」すなわち「心とものの関係」を、「カメラ図式とリトマス図式」という説明で明らかにしている。

まず「カメラ図式」。

つまり、「人間の〈意識〉(=心)」は、現実をどのようにとらえているかというと、カメラのように「ありのまま」を写しとっているのだという発想。これが「近代認識論の〈主観ー客観〉図式の基本モデル」。

これに対して、「現象学ー存在論(フッサールーハイデガー)の人間とものとの関係」は、リトマス図式であるというのが竹田氏の主張だ。

 

******

つまり心は外界を、カメラのようにありのままに写しとるのではない。それはむしろ、たとえばある溶液(意識対象)が酸性かアルカリ性かを区別すべき要請としてリトマス試験紙(=〈気遣い〉)があり、これに応じてだけその対象の何であるかが知られる、というかたちに近い。この関係は、対象が関心にとっての意味としてのみ〈主観〉に現れる、ということだ。このことはまた、人間の〈知る〉がじつは〈感じられる〉を根本的に含んでいることをよく示している。

リトマス試験紙のような反応は、現実を写すのではなく、対象を験すことを意味するからだ。また、この験すことで確かめられうる対象世界のことを、わたしたちは現実と呼ぶのである。

 

(P.198)

******

 

人間にとって「知る」とは「感じる」ことである。

この説、わたしは大いに共感する。

「知る」の前段である、行為としての「見る」もまた同様に、「感じる」ことだと言えるだろう。

あるいはこのように言い換えてもよいのかもしれない。

カメラとして「見る」のではなく、リトマス試験紙として「知る」。

「見て」「感じる」から「知る」ことができる。「感じる」ことができなければ「知る」ことはできない。

 

土木技術者にとってもっとも大切なものをひとつ挙げるとすればなんだと考えてますか?

7年前、わたしにそう問うたOさんに、しばし考えたあと口にしたのは、

「感性ですかねえ」

カメラ図式とリトマス図式。それを補完するのに最適な考えである。

 

あらあら出ました、これぞ我田引水、これが牽強付会。

ちょうど時間となったようだ。自分の都合のよいところに落とし込んだところで、本日の稿をお終いにしたい。

 

 

※気遣い

人間の存在を規定しているのは「気遣い」である、とハイデガーは言う。もう少し丁寧に言うと、つねに自分および他なるもの(世界)を対象化しつつ生きるという人間の存在本性は、人間存在が「気遣い」として存るという存在本質からのみ規定される(=了解される)。(P.188)

ハイデガーの〈気遣い〉とは、簡単にいうと人間がいろんなレベルで世界に向けている関心・欲求のことだ。(P.199)

 


朝の体操

2021年07月14日 | 読む・聴く・観る

近ごろ、眠りにつくのが早い。

ところがそれで、睡眠時間がたっぷりととれるかというと、どうもそうではないようで、一時間早く寝るとすると、おおむね一時間早く起きてしまう。

やれやれどうにもしようがないな。

笑いながら目ざめ、時計をながめて、出社までに残された時間を確認。

ならば、と書くことにした。

 

ーーーーーー

 

「超越論的立場」とかけて「窓のない月面探査船」と解く。

と竹田青嗣さんは言う。

いや実際は、そのとおりに言ってもないし書いてもいない。喩えるならばそのようなものだということだ。

想像してほしい。

月面探査船には窓がない。そして、アンテナやレーダーやソナーなどの計器が装備されている。そこに乗りこんでいる「私」はけっして外には出られない。つまり、「外側」を直接確認することができない。したがって、「外」の様子は、レーダーやソナーを使い計器に表示されるデータを読みとって調べ、判断することになる。

「超越論的立場」とは、「人間の〈意識〉の状態は、あえて言えばそういう立場にあると想定するもの」だと竹田氏は書く。

この場合の「アンテナやレーダーやソナー」は、人間の感官に当たる。熟練した乗組員である「私」は、データを見れば「外」の様子を手にとるように感じとることができる。だが、その感じとった「外側の世界の像」とは、たとえば船が進む、危険を避ける、あるいは地質を分析するというような、その都度つどで設定された目的にのみ意味を持つものであって、けっして「客観」ではない。

そこでひとつ大切なことがある、と竹田氏はつづける。

******

それは月面探査船の場合はあらかじめ一定の目的(どこそこまで進んで地図を作ったり石ころを収集したりという)を与えられているが、人間という探査船では、この目的があらかじめは与えられていないという点だ。(『現象学入門』、P.196)

******

この探査船が単独で存在していれば、船と世界の関係は、「ただ自分のそのつどの目的(欲求のありよう)に応じて取捨されるデータ(対象世界)のありよう」でしかないが、「人間の存在の特質」が、それをそのままにはとどめておかない。ではその場合における「人間の存在の特質」とはどういうものか。

******

ところが人間の存在の特質は、この探査船が多く存在し、共同でなんらかの目的を持つという点にある。このときさまざまなデータの意味は交換され、共通了解として、つまりある〈客観〉像として思い描かれる必要が生じる。(P.197)

この〈客観像〉は、そもそも多くの探査船のデータから総合された、一般化された(共同化された)意味の体系であって、もともと客観的実在そのものではない。言い換えれば、〈客観像〉は〈主観〉の意味の共同性によって生じたものだから、原理として確定もできずまた変様していくものなのだ。(同)

******

「月面探査船」そのものは意味を有していない。付与された目的が「月面探査船」の意味を決めるのである。したがって、その意味はそのつどつどで変わっていく。意味を与えるのは人間である。であるにもかかわらず、わたしたちは「物」自体に意味があると勘違いしている。「物」そのものが意味を有して存在しているという勘違いだ。

 

うんうんうなってそこまで考えたとき、ふと、ある宗教者の一文が思い浮かんだ。

******

生というは、たとえば、人のふねにのれるときのごとし。このふねは、われ帆をつかい、われかじをとれり。われさおをさすといえども、ふねわれをのせて、ふねのほかにわれなし。われふねにのりて、このふねをもふねならしむ

******

道元である(『正法眼蔵全機』)。

もちろん、それをわたしが諳んじているはずもない。

「たしかここらへんに・・」

と見当をつけ、数年前に挫折し、途中で読むのを止めた『「正法眼蔵」を読む 存在するとはどういうことか』(南直哉)を開き、コピペしただけのことだ。

あとにつづく南師の解説を引いてみる。

******

「舟」は人が漕いだときに「舟」になる。人も漕いでいるときには、「舟」を漕ぐ者として「われ」になる。

我々の存在の実際(「生」)とは、行為としての関係システム(「機関」)なのだ。

******

 

いやはやどうも、たかだか辺境の土木屋風情の思いつきで、突如として結びつけられた竹田青嗣(現象学)と道元こそよい迷惑というものだろう。当のわたしはといえば、かくしてますます「わからなく」なり、アタマを掻く始末である。

だが、そもそもわたしにとっての「本読み」という行為が、なにかを「わかる」ために行っているものではない以上、このような連想ゲームはよくある話だ。そしてそこからは、「わかった」という瞬間は訪れないにせよ、「次の展開へ」のヒントが沸きあがってくるというのも、よくある話である。

なによりそれは、脳内の思考回路がぐるぐると回っている証でもある。

かくして「わからない」の深みにハマったとしても、それはそれでよいではないか。

 

ーーーーーー

 

そんなことを考えつつ、iPad のキーを打っていた夏の朝。

これをして「早起きは三文の徳」と呼べるのかどうか。

いずれにしても、「頭の体操」になったことだけはたしかだ。

「朝の体操」、わるかろうはずがない。

 


「論理とは、人を好きになったりする体験と同じで、それに向き合う人間の率直さだけがその体験をよく生かすのだ。」(竹田青嗣)

2021年07月13日 | 読む・聴く・観る

先日『現象学入門』(竹田青嗣)を読み終えたことを記したが、じつは、ちょっとフライングだった。

巻末の「用語解説」と「あとがき」を読んでいなかったのだ。

読んでみると、これがまた秀逸だった。

的確かつ簡潔、そして平易な「用語解説」もそうだが(かといって理解できたかどうかは別問題だが)、特に「あとがき」のこの文章がじつにいい。

 

******

 理論というと毛嫌いしたり、逆に、何でも論理の体裁をなさなければ信用できないという人もいる。しかし論理とは、人を好きになったりする体験と同じで、それに向き合う人間の率直さだけがその体験をよく生かすのだ。要するに、言葉を使って何とでも言えるという実感と、しかし論理上たしかにこう考えるほかないという実感の間を、言葉というものは生きて動いている。この振れ幅の中に、わたしたちが言葉というものに対して抱くさまざまな疑問の根があるのだ。(P.236)

******

 

論理とは、人を好きになったりする体験と同じで、それに向き合う人間の率直さだけがその体験をよく生かすのだ。

 

じつに的を射た表現である。

アタマがそう思うだけではない。

「そのとおり」だと、体感として理解できる、つまり、身体に染み入ってくるのである。

「そうだそうだよそうなんだよなー」

じわじわと湧いてくるものを受けとめながら、あやうく読み抜かるところだった自分の迂闊さは棚に上げ、いつでもどこでもいくつになっても「率直に向き合う」ことを忘れないようにいたいものだと、そう思った。

 


竹田青嗣『現象学入門』を読んだ

2021年07月09日 | 読む・聴く・観る

 

竹田青嗣『現象学入門』(NHKブックス)を読んだ。

竹田青嗣という名を教えてくれたのは、わたしの発掘者である夕部雅丈さんだ。

いつどこで、という記憶はまったくないのだが、「竹田青嗣」あるいは「フッサール」という名前が彼の口、あるいは文章にたびたび登場したことは覚えている。

「オレにはちょっとハードルが高そうだな」

まったく読もうともせず、そう決めつけていた。

ではなぜ今回チャレンジしてみようかと思ったかといえば、講談社のマンガ学術文庫『現象学の理念』(須賀原洋行)を読んだのがキッカケである。

現象学か・・

ちょいと噛じってみたくなった。

さてどれがいいのか・・・

物色しているとき、目に飛び込んできたのが「竹田青嗣」という文字である。

一も二もない。

ポチッと購入した。

電子書籍ではない。紙である。

ここはやはり紙だろう。という内なる声にしたがって、紙である。

とは言いつつも・・・・

はたして無事読み終えることができるのか?

おそるおそる読みはじめたのだが、案に相違して、次から次へとわきあがる知的興奮を感受しながら読んだ。

かといって、そこに書かれてある内容が判読できたかといえば、いつものように、ほとんど理解できてはおらず、「なんとなく」というアバウトな空気のなか、イメージと断片をアタマの片隅に留めたにすぎない。

もちろんそれは、竹田青嗣さんがわるいわけでもなんでもない。「哲学」には門外漢のわたしが言うのもなんだが、むしろこれは非常にすぐれた仕事なのではなかろうかと、「本読ミスト」としての直観がそう教えている。

その一例を紹介する。フッサール哲学の最重要キーワードである「還元」について述べている一文だ。

******

〈還元〉とは要するに、いま見たような「自然的世界像」のうちに暗々裡に含まれている素朴な確信をすべて「疑って」みることを意味する。〈主観/客観〉という図式を取り払うためだ。なぜそれを取り払うのか。繰り返し述べたように、「客観が存在する」ということを前提する限り、自分の認識のコードの「正当性」の根拠を検証できないからである。

(略)

要するに、〈還元〉とは、さまざまなドクサ(憶見)の衣装をまとって膨れあがったわたしたちの世界像という王様の権威を、その衣装を一枚一枚はぎとることによって裸にしてしまうことだ。

(略)

〈還元〉という概念はあたかも厳密な学問的方法のように受けとられるのだが、じつは〈還元〉とは、ただ「客観がまず存在する」という前提をやめて独我論的に考えをすすめる、という”発想の転換”、視線の変更を意味するにすぎないということだ。またしたがって、そのような発想の転換がなぜ必要なのかが腑に落ちれば、誰でもそのような仕方で〈世界〉を見直してみることができる。このことを了解することが〈還元〉という概念をつかむ唯一の道なのである。

(P.79~80)

******

繰り返すが、これによってわたしが「わかった」わけではない。ただ「なんとなくわかった」ような気になり、そのイメージと断片をアタマのなかに留めたにすぎない。

だが、ひねくれ者の外見に似合わず単純なところを多く持ち合わせているこのオヤジは、それを繰り返すうちにさらなる理解が深まるのではないかという希望を、竹田青嗣さんの解説の内に抱いてしまった。

となれば、次も「竹田青嗣のフッサール」世界に浸かってみよう。

さて・・

選んだのは『完全読解フッサール「現象学の理念」』(竹田青嗣、講談社選書メチエ)。

たのしみである。