本日も『他者と働く――「わかりあえなさ」から始める組織論』(宇田川元一)から。
これでいちおうの終わりとしたい。
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対話に挑むことを別な言い方をするならば、それは組織の中で「誇り高く生きること」です。
つまり、成し遂げられていない理想を失わずに生きること、もっと言うならば、常に自らの理想に対して現実が未完であることを受け入れる生き方を選択することです。
当然、そのときには、その理想に反する現実があることに向き合わなければならないですし、時に、自分の理想が狭い範囲しか見ていなかったことに気づかされることもあるでしょう。我が身を切られるような痛みの中にあって、私たちはどうやってそのことを誇れるでしょうか。
それは、私たちが何を守るために、何を大切にしていくために、対話に挑んでいるのかを問い直すことによって可能になると私は確信しています。私たちは、何者なのでしょうか。何のために頑張っているのでしょうか。そのことを見定めることによって、私たちは、困難の前にあって、常に挫かれ、改められることが必然である暫定的な理想を掲げ続け、歩むことができるはずです。
(中略)
自分には誇りなどないし、大した理想も持ち合わせてないと思う方もいるかもしれません。しかし、もしそうであるのだとしたら、なぜ私たちは悩むのでしょうか。
それは明確な形をしてはいないけれど、理想の断片が私たちの手の内にあるからではないでしょうか。しかし、それを日々の仕事の中で、諦めさせられているから、誇りも理想も持てないと思うのではないでしょうか。
それは特定の誰かによって「諦めさせられている」と言うよりも、むしろ、今置かれている状況自体が、「諦めるのが当たり前だ」ということを、私たちに日々刷り込んでいるのかもしれません。だとすれば確かに、困難な状況の中に私たちはあります。
しかし、そのただ中にあっても、私たちは誇りを持って生きる自由があります。そして、私たちの人生は、そのことを葛藤するに値するものではないかと私は思うのです。あなたが誇りや理想という言葉を聞いたときに感じるしんどさや痛みは、あなたの葛藤には大いに意味があるということをはっきりと指し示しているのだと思います。
(Kindleの位置No.1430付近)
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読んでいて、じ~んとくるものあり。
時をおいて再読し、つづいて読みながらメモし、さらにここへ書き写すためにまた読み返したが、そのたびに胸をつくものがあった。
ブログでございと看板をかかげている身であれば、ここからその感想と私見を書き連ねるのが筋だろう。しかし、このしょぼくれた脳の内には、気の利いた言葉のひとつも沸きあがってこない。
その代わりといってはなんだが、先ほどから浮かんでは消え消えては浮かぶ言葉がひとつ。
それぞれが自分の持ち場で、笑顔でたたかえエブリバディ。
「あなたの葛藤には大いに意味がある」から。