さてどうしたものかと考えていた。
このまま何もせずにフェードアウトするか、それとも、はっきりと宣することでケジメをつけるか。まったく書かなくなって約ふた月が経った近ごろ、どちらがよいのだろうと考えていた。
萌芽はあった。例えば今年1月22日、『勝負の相手』という稿をあらわしたぼくは、こんなふうに記している。
積み上げてきたもので勝負しても勝てねえよ。
積み上げてきたものと勝負しなきゃ勝てねえよ。
竹原ピストル『オールドルーキー』の一節です。
とはいえそれを思い浮かべるのは、今に始まったことではありません。
これまでも折に触れてはそうだったし、また、このブログをはじめとして様々な講話でも、主に仕事を遂行する上での心がまえとして紹介してもきた、ぼくにとってはお気に入り中のお気に入り、まちがいなくトップランクに位置する言葉です。
自分が積み上げてきたもので他人と勝負する。そこには勝ちもあれば負けもあるでしょう。しかし、積み上げてきたもので勝負しようという心の持ちようでいるかぎり、その勝ち負けの割合は負けの方が多くなるでしょうし、やがてはまったく勝てなくなってしまうにちがいありません。
だから変わりつづけなければならない。変わったもので勝負するということは、自分が積み上げてきたものとの勝負に他ならないのです。
もっと平易に言えば、過去の成果や成功体験の上に胡座をかいていては、未来の成功はないし成果もあがらない。だから変わりつづける必要がある。これがぼくの解釈でした。
では誰がその勝負の相手なのか。
これについては曖昧模糊なまま、深く考えたことはありませんでした。
なんとなれば、勝負の相手はひとりではないし、その場その時で変わるものです。であれば、誰かを特定する必要などありはしません。そこでは、いったい誰と勝負するのか、誰に勝てないのか、そこのところを突き詰めて考える必要はなかったのです。
当然のようにそう考えていたぼくの脳内に、突然その答えが舞い降りたのは今年のはじめでした。
そうか、勝負の相手は他ならぬ自分自身だったのだ。
「積み上げてきたもの」を過去の成果と捉えるのは、たぶんまちがいではないでしょう。しかし、「積み上げてきたものと勝負」するときそれは、「自分が積み上げてきたもの=自分」、すなわち「これまでの自分と今の自分の勝負」となるはずです。そして、その勝負に勝たなければ他の何者にも勝てはしない。そう捉え、自分自身への戒めと同時にエールとしなければならないのではないかと考えた。竹原ピストルが詩に乗せた想いはどうあれ、そう解釈することがこれからのぼくにとっての最適解のような気がしたからです。
では、具体的な行動としてあらわすにはどうすればよいのでしょうか。
真っ先に思いついたのは「捨てる」ことでした。
変わりつづけようとするのは正しい。しかし、それまでに積み上げてきたものを捨てなければ、本当の意味で「変わった」とは言えないのではないか。そう考えたのです。
では、何を捨てるのか。
そう考え始めたとき、いくつかの候補として浮かび上がってきたのは、ぼくが寄す処としてきた、あるいは骨格としてきたいくつかの事柄でした。
ですが、ここでは明かさないでおこうと思います。
そのような大胆なことが、はたして己にできるだろうかと思ったとき、身ぶるいをするような感覚に襲われたからです。有言をすることで自らの逃げ場をなくして実行せざるを得なくする、という手法を採用することが多いぼくですが、今回ばかりはさすがにビビってしまったからです。
冒頭の言葉と、このテキストを並べれば、捨てようとしたその「骨格」がこのブログだったことがわかるはずだ。考えてみれば、その時点でこうなることはわかりきっていたことではある。さらに言えば、昨夏、やめるか否かの逡巡を休止という形であらわしたとき、すでに行く末は決まっていたことでもある。にもかかわらず、すぐに決断することなく未練たらしく細々とつづけたのは、ぼくのぼくたる所以の優柔不断な性分ゆえだが、今さらそれを論い、自らを虐するのはよしにしよう。
とりあえずぼくはこの春、さてどうしたものかと考えていた。
このまま何もせずにフェードアウトするか、それとも、はっきりと宣することでケジメをつけるか。まったく書かなくなって約ふた月が経った近ごろ、どちらがよいのだろうと考えていた。
そんなところへもってきて、『土木のしごと~(有)礒部組現場情報』を更新しようと編集画面をあけたぼくの目に、こんな画面が飛びこんできた。

goo blog が2025年11月18日をもってサービスを終了するという告知だ。
ドンと背中を押されたような気がした。これ以上のキリはないのではないだろうか。そう思った。
ということで、その翌日である今日、自らの手で引導を渡すこととした。
本日2025年4月15日をもって、『答えは現場にあり!技術屋日記』は終結し、これ以降、更新されることはない。
のみならず、今秋、わが家の畑の柚子の実が黄色く熟れるころには、これまで17年間にわたって書き連ねてきたすべてのテキストがインターネットという世界から消える。
拙稿を読んでくれたみなさん、とりわけ、一部の熱心な愛読者さんたちには感謝しかない。
「読んでいるよ」と表明してくれる人たちの存在が励みだった。ここ数年は、ほとんどそれによってのみ支えられていたといっても大げさではない。
ありがとうございました。
さようなら。
これまでありがとうございました。
これからのご活躍も期待しております。これからも応援しています。