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答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

『思いがけず利他』(中島岳志)を読む

2021年11月24日 | 読む・聴く・観る

 

『思いがけず利他』(中島岳志)を読んだ。

それに先立つこと約20日ほど前、ある知人に「利他の心がない」と言われた。

「それをオレに言うか?」

怒りと笑いがないまぜになった感情が押し寄せてきて、しばらくのあいだ消えなかった。

他人さまからはどう見えているのかわからないが、わたしは利他を標榜して生きている。自らを利他的であろうと努めている。そんなわたしでも、本書のなかで著者が書いているように、「将来の利益を期待した行為は、贈与や利他ではなく、時間を隔てた交換」であり、「”今、損をしても、いずれ間接的な互酬関係によって、利益がもたらされる”という考えは、とても打算的です。」という理由で、「てめえのやってることなんざ利他でもなんでもねえよ」と指摘されれば、それはたしかに仰るとおりと、甘んじて受け入れるしかない。しかし、「利他心がない」という言葉は、百歩ゆずって謙虚に受けようとしても到底受け入れ難いものだった。

「しこりが残らなければいいのですが」

一部始終を見聞きした友人がそう言ってくれたが、

「残らないはずはないですね」

そう答えるしかなかった。

それほど心に深く突き刺さった一件だったが、3週間ほどが経った今、心の内で一応の折り合いはつけている。

わたしの心中や内面というものは、どう逆立ちしても他人にはわからないものである。わたしが何を考えどう思おうと、わたしとは異なる物語を生きている他者が、その枠組みでわたしを見て、わたしの言葉を聞き、その上で判断することは、わたしという人間の思いとはまったく別のところにある。

そうしたとき、「思い」が他者に伝わっている(はずだ)と考えるのは、「思いあがり」というものだろう。

「それをオレに言うか?」という怒りと笑いがないまぜになった感情も、冷静になって考えれば、「思い」が「あがっている」と言えなくもない。そう見えている、あるいはそう伝わっているのならば、それはそれで仕方がないことなのである。

そんなわたしが『思いがけず利他』を読んだ。

だから読んだ、というわけではない。これまでも今もこれからも、利他はわたしにとって最重要位置を占めるキーワードだ。いや、あの一件があって、なおさら重要になったとも言える。であれば、わたしに対して「利他心がない」と言った御仁にも感謝しなければいけないのかもしれない。いやマジで。正直なところを言うと、まだまだ若干の嫌味と皮肉が込もってはいるが、本気でそう思う。

******

利他的であろうとして、特別なことを行う必要はありません。毎日を精一杯生きることです。私に与えられた時間を丁寧に生き、自分が自分の場所で為すべきことを為す。能力の過信を諌め、自己を超えた力に謙虚になる。その静かな繰り返しが、自分という器を形成し、利他の種を呼び込むことになるのです。

(P.177)

******

自らが利他たり得ているかどうか、あるいは、自らに利他心があるかどうか。それを判断するのは自分でも他人でもない。リアルタイムで判断できるものでもない。だとすれば、「あなたには利他の心がない」と言われれば、「あゝそう見えるとしたらそうかもしれんですね」と返答するぐらいがちょうどいい。実際のところ、いくら利他を標榜して生きてはいても、「オレは利他的だ」と断言できるほどの自信もないのだから。

 


『AI支配でヒトは死ぬ』(語り手:養老孟司、聞き手:浜崎洋介)を読む

2021年11月14日 | 読む・聴く・観る

 

養老孟司『AI支配でヒトは死ぬ』を読む。「聞き手・浜崎洋介」とあるが、実際には養老先生と浜崎氏の対談(のようなもの)だ。

読後の感想をひと言で述べよ、と問われれれば、「やっぱり養老孟司はおもしろい」という子どものような感想しか出てこないわたしの稚拙さには我ながら呆れてしまうが、縦横無尽に展開されるその言説には、「おもしろい」という言葉がぴたりと当てはまるのだから仕方ない。

******

つまり、虫とか人体(みやうち註:「虫」は養老先生の趣味で「人体」は解剖医という仕事)っていうのは、むきだしの「自然」ですから。「自然」っていうのは、要するに人が意識的に作っていないもの。それを相手にしてると、やっぱり、いつも何か気づかされるものがある。

たとえば、人間が造った人工物だけを相手にしていると、「それは、あってはならないのだ」とか勝手なことが言えるようになってくるんだけど、虫とか人体を相手にしていると、「あるものはあるんだから、しょうがねえだろう」って、最後は開き直るしかない(笑)。

(KindleのNo.1386)

******

わたしたちが営む仕事としての「土木」は、「人工物」と「むきだしの自然」とを同時に相手にしている。にもかかわらず、「土木という仕事」の行為者であるわたしたちは、ややもすれば、「人工物をつくる」という行為にのみ意識が偏りすぎて、「自然」の方への意識がおざなりになりがちではないだろうか。そしてその傾向は、テクノロジーが進歩すればするほど、つまり近ごろとみに強くなっているようにわたしには感じられる。

「それは、あってはならないのだ」

という不遜な態度(=勝手な物言い)に固執してしまうと

「あるものはあるんだから、しょうがねえだろう」

という、よい意味での開き直りができない。

結果、どうなるかというと、自然のしっぺ返しをくらい手痛い目に会う。

それで学べばよいのだが、「あってはならないのだ」というスタンスでいるかぎり、学びとろうとするのは「さてどうすればより効率的に人工物がつくれるか」とでも言うようなことばかりで、結局は、どんどん「自然」との乖離が進行するばかりで、「自然」から学びとることが増すます少なくなっていく。テクノロジーの進歩はその傾向を助長しこそすれ、それに歯止めをかける方向には作用しない。それが「土木という仕事」に従事するわたしたちの現状ではないだろうか。

わたしは少なくとも、それを良しとはしない。それだけではよろしくないという意味で、良しとはしない。

「人工物」と「むきだしの自然」を同時に相手するというその性質がゆえに、そうではあってはならないと思うからだ。

そんなわたしにとって、養老先生のような「おもしろい」言説に触れることは、これまでも、今も、これからも、必須だろう。

そうやって平衡を保たなければ、わが身から大切な何かがどんどんと失われてしまいそうな、そんな気がするからだ。

 

なんてことを書いてしまったあとで、養老先生の書いたものをそれほど読んでいるわけではないことに気づいた。いやはやまったくこりゃどうも・・・な話ではあるが、ま、いい。とりあえず、そういうことなのだもの。


『あとから来る者のために』(坂村真民)を読む

2021年11月02日 | 読む・聴く・観る

 

昨夜、あるSNSで目にした一遍の詩がとても素敵だったのでスクリーンショットを保存した。

『あとから来る者のために』という名のその詩は、仏教詩人坂村真民の作である。

 

******

あとから来る者のために

田端を耕し

種を用意しておくのだ

山を

川を

海を

きれいにしておくのだ

ああ

あとから来る者のために

苦労をし

我慢をし

みなそれぞれの力を傾けるのだ

あとからあとから続いてくる

あの可愛い者たちのために

みなそれぞれ自分にできる

なにかをしてゆくのだ

******

 

一夜明け、調べてみた。

すると、坂村真民92歳の作であるこの詩には、別のものがもう一編あることを知った。65歳のときにそれは書かれたという。

 

******

あとからくる者のために

苦労をするのだ

我慢をするのだ

田を耕し

種を用意しておくのだ

あとからくる者のために

しんみんよお前は

詩を書いておくのだ

あとからくる者のために

山を川を海を

きれいにしておくのだ

あああとからくる者のために

みなそれぞれの力を傾けるのだ

あとからあとから続いてくる

あの可愛い者たちのために

未来を受け継ぐ者たちのために

みな夫々自分で出来る何かをしてゆくのだ

******

 

坂村真民記念館の西澤孝一館長によれば、65歳のときの詩が自分に向かって書かれているのに対し、92歳のそれは人々に向かって書かれているところが大きな違いだということだ。

→ 参考サイト『臨済宗円覚寺派大本山「円覚寺ENGAKUJI」

 

なるほど。

どちらもよいけれど、そう思って読むと、92歳の「決定詩」の方が淡々として深い。

なかでもわたしは最終盤が好きだ。

******

あとからあとから続いてくる

あの可愛い者たちのために

みなそれぞれ自分にできる

なにかをしてゆくのだ

******

前段で不特定だった「あとからくる者」が、「あとからあとから続いてくるあの可愛い者たちのために」というくだりで、わが孫をはじめ、実在するひとたちの顔となり、「だから」という順接の接続詞が心の内でわきあがったあと、「自分にできるなにかをしてゆく」という結論に至るからだ。

もちろん、坂村真民が言うところの「あとから来る者たち」は、どこかの誰かを特定したものではなく、もっと広汎で普遍的なもののことをあらわしているのだろうが、残念なことにこの辺境の土木屋の心とアタマはそれほど上等にはできていない。実際の「顔」を思い浮かべることによってはじめて「あとから来る者たち」を実感し、だからそのために「自分にできるなにかをしてゆく」という確信が生まれる。

それでよいのだと思う。そこから、対象をさらに広範囲へと拡大でき得ればそれはそれで素敵なことだが、たとえそうならなくてもそれでよいではないか。業界の未来、国の未来、世界の未来、、、対象をどんどんと広げていったとしても、それらはすべて、つまるところ一人ひとりの「顔が見えるひと」たちの集合体なのだもの。自分の周りにいる「あとから来る者たち」の未来のために「なにかをしてゆく」ことが出来ずして、それ以上のことなど、でき得るはずもない。

余人は知らず。わたしはそうだ。

******

あとからあとから続いてくる

あの可愛い者たちのために

みなそれぞれ自分にできる

なにかをしてゆくのだ

******

そうありたい。

 

 

 

 


ジャケ買い

2021年10月26日 | 読む・聴く・観る

旅のお供に本は必須だ。

だが、紙の本は持っていかない。

わたしにとってもっぱらそれは、電子書籍である。

久々の旅となった今回の東北行、さて、何を指名しようかな、Kindleのライブラリから未読のものをいくつかピックアップしてみたが、どれも帯に短したすきに長しだ。

う~ん、やはりこれかな?

読みかけの『建設DX』という本をタップしようとして、思いとどまる。

どのようなものを読む読まない、あるいは読みたい読みたくないは、その時々の心境しだい。ひと言であらわすと、そういった類のものを読む心境ではなかった。

だとしたら、なにかよいのはないか・・と、わたしの購入履歴から Amazon が勧めてくるものをながめていたら・・・

あった。

 

 

不要不急 苦境と向き合う仏教の智慧

(横田南嶺、細川晋輔、藤田一照、阿純章、ネルケ無方、露の団姫、松島靖朗、白川密成、松本紹圭、南直哉)

 

こういうのを「ジャケ買い」というんだろうな。

自分自身の行いを、独り悦に入って読みはじめた。

「コロナ禍の日常」を象徴する言葉として、ありとあらゆる場所で耳にするようになった「不要不急」という四文字を軸に、10人の僧侶が「これからの生活や世界の在り方」について、それぞれの思うところを綴った本である。

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効率のいいもの、生産性の高いものばかりを追い求めていては、心が窮屈になってしまいます。「有の利を為すは無の用を為す為」だということがあるのです。

夜眠ることなどもそうでしょう。ずっと昼間ばかりで、働き通しで働いて考え通しで考えていたら、人間はおかしくなってしまいます。

無用というとお花などもそうかもしれません。別段花があろうが無かろうが、食べられるわけではありません。しかし、花が咲いていると心が和みます。

(P.20『人生に夜があるように』横田南嶺)

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「無用の用」。老子である。

メンターとしての中国古典』というサイトより、その意味を引いてみる。

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その意味は、役にたたない実用性のないようにみえるものに、実は真の有益な働きがある。あるいは、役に立たないとされているものが、かえって非常に大切な役をするということです。

老子の本文は以下の通りです。

――三十の輻(ふく)、一つの轂(こく)を共にす。その無に当たりて、車の用あり。埴(つち)を埏(こ)ねて以(も)って器を為(つく)る。その無に当たりて、器の用あり。戸牖(こゆう)を鑿(うが)ちて以って室(しつ)を為る。その無に当たりて、室の用あり。故(ゆえ)に有の以って利を為すは、無の以って用を為せばなり。

その意味は、

車輪というものは三十本の輻(や:スポーク部)が真ん中の轂(こしき:軸部)に集まってできている。その轂に車軸を通す穴があいているからこそ車輪としての用をなすのだ。器を作るときには粘土をこねて作る。その器に何もない空間があってこそ器としての用をなすのだ。戸や窓をくりぬいて家はできている。その家の何もない空間こそが家としての用をなしているのだ。何かが「有る」ということで利益が得られるのは、「無い」ということが影でその効用を発揮しているからなのだ。

******

 

火曜日に高知県土木施工管理技士会主催のセミナーで『建設技術者のためのPDCA再考』というお題でしゃべり、その翌日水曜日には、高知県が主催する『高知県ICTトップランナー研修会』に「トップランナーのひとり(笑)」として参加、軽く事例発表などをして、金曜日には『公共事業の「伝え方」を考える。』と題した『三方良しの公共事業フォーラム2021福島』でフリートークメンバーの一員として登壇するというスケジュールのさなか。坊さんが十人も並んだ表紙の本をジャケ買いし、独り悦に入って読み進めるなど、それこそ「不要不急」もよいところだが、だからよいのじゃないか。

効率のいいもの、生産性の高いものばかりを追い求めていては、心が窮屈になってしまいます。

深くうなずいたのは言うまでもない。

 

 

 

 


「あなたはいつも勝とうとして間違えてばかりいる」(橋本治)

2021年10月12日 | 読む・聴く・観る

「近ごろ読む気が起こらない」といっておきながら3冊併読中という事実には、いかにも活字依存症ならではと笑うしかない。そのなかのひとつが橋本治『負けない力』だ。

 

 

いわゆるジャケ買いである。

ひと目見て気に入った、しかも橋本治だ、「買い」だな、ポチ、というプロセスだ。

(と云いつつ、買ったなり長らく「積ん読」だったことは棚にあげている)

どこが気に入ったかというと、帯である。

何度も書いているように、わたしは帯を捨てるひとである。邪魔なのだ。だから、買ったら即、くしゃくしゃと丸めてゴミ箱行きだ。

なのになぜ「帯」なのか。表のど真ん中にあることばに、ぐっときたからだ。

 

「あなたはいつも勝とうとして間違えてばかりいる」

 

これが、帯にしか書かれていない。つまり、帯を捨てたが最後、このことばはわたしの目に入ることがない。だから捨てることができなかったのである。

(と云いつつ、買ったなり長らく「積ん読」だったことは棚に上げている)

では肝心の本文はどうか。わが橋本治に対してこんなことを言うのは少々辛いが、これがつまらない。だが、橋本治の著作にはよくあることだ。そのつまらなさを辛抱して読み進めると、アタリに出会う。こういうことがしょっちゅうある。そのつまらなさとアタリとのあいだを行ったり来たりしながら、結局は「いいじゃない」となるのが、「(私的)橋本治の読み方」であり、今回もまた、その例外ではなかった。

******

つまり、人間にとっての正しいあり方は、「勝とう」と考えるよりも、「負けない」と考えることだということです。

(略)

「負けない」だけでいいのに、どうして人間はその上の余分な「勝とう」という考え方をしてしまうのでしょう。

(P.216)

(略)

「負けない!」だけですむところを、一歩進んで「勝ちに行く、敵を殲滅する!」というところまで行ってしまうのは、「負けないだけでは安心出来ない」という不安があるからでしょう。

(略)

「勝つ」という行為に取り憑かれてしまって、「勝ち続けなければ気がすまない」という依存状態になってしまう人もいます。

それで、あまりにもあっさりした結論ですが、「なんらかの不安状態」を抱えた人間は、「勝つ」という過剰がなければ収まらないということではないのかと、私は勝手に考えます。

(P.217)

「不安」という正体のよく分からない漠然としたものにつきまとわれるから、人間は「負けない」の限度を超えて、「勝ってやる!」という方向へ進んでしまうのでしょう。

(P.221)

人類の知能は、不安によって生まれましたーー私はそう思います。だから、うっかり考えてしまうと、人は悲観的な方向に進むのです。

「考える」ということは、ある意味で「地獄の底まで降りて行く覚悟をする」ということです。でも、降りて行って「そのまま」だったらどうにもなりません。それはただ「地獄に落ちた」だけなので、そんなことをするのなら、そこへ降りて行く前に「戻って来る」を考えなければなりません。

つまり、「ものを考える」ということは、「悲観的であるような方向に落ちて行きながら、最後の最後に方向を“楽観的“の方向にグイッと変えるのが必要だ」ということです。

(P.224)

******

「負けない」ためには「勝ちにいく」。これはこれで方法論としてはまちがっていないとわたしは思う。ただ、いつも「勝とう」としているとしたら、それはまちがいだろう。もしそれを当然のことであるかのように思う人がいたら、「他人の眼ざし」で自分のアタマの中身とココロの内側をのぞいてみるとよい。そこに「不安」があったとすれば、それは「(誰かに)勝とう」という心持ちで消せるものではない。「勝った」という結果は、いっときそれを解消させてくれるが、「(いつも)勝つのだ」「(いつも)勝たなければいけない」と言いながら螺旋階段を登って行ったとしても、そのスパイラルに終わりはない。であれば、「おいらイチ抜けた」とばかりにその階段から降りるのもひとつの手。

てなことを考えつつ、

♪勝つと思うな思えば負けよ

負けてもともとこの胸の♪

美空ひばりの歌声を脳内に響かせながら、『負けない力』(橋本治)読了。

I'll be back だ。

でき得れば、あなたもね。

 


ある日の「本読み」

2021年10月07日 | 読む・聴く・観る

 

近ごろ、本を読む気が起こらない。

かといっても、活字依存症のわたしのことだ。まったく読まないわけもなく、あちらにこちらにと拾い読みをしながら数冊を併読している。

 

そんななかの一冊が、中江兆民『一年有半』(鶴ケ谷真一訳)だ。

なかに、次のような一節から始まる小文がある。

******

 権謀とはけっして悪いものではない。聖人賢者といえども何かを成しとげようと思えば、権謀を捨て去るわけにはいかない。権謀とは手段であり、目的達成のための手立てなのだ。ただし権謀は事に施すべきで、人に施してはならない。

(Kindleの位置No.1169)

******

「権謀は事に施すべきで、人に施してはならない。」

当然ながら、これだけではなんのことやらわからない。

兆民先生の説明を要約してみる。

まず「事に施す」。例として挙げているのが、赤穂四十七士の首領大石内蔵助だ。事件が起こった当初、仇討ちの真意を胸に秘め、籠城戦を主張し城を枕に討ち死にしようと味方をあざむき、味方をふるいにかけたことがそれであると言う。

それに対して、「人に施す」とは、たとえば戦国時代、偽りの講和を結び、敵の大将をおびき寄せておいて、ひそませておいた兵で不意打ちをするというようなこと。その策を用いた人として、織田信長や明智光秀の名を挙げている。

なるほど。と天井をあおぎ、我とわが身をふりかえるわたしは、三方良しの公共事業の旗振り役として、その理念を説く人である一方、ビジネスという世界では、会社の番頭という立場の現実主義者でもある。そこにおいては、臨機応変に権謀を用いることもなければならない。他の人はいざ知らず、少なくともわたしはそう思っている。ただ・・・いやだからこそ、というべきか、権謀に溺れることがあってはならないし、その使い方にはじゅうぶんすぎるほど注意を払うことが必要だ。そして、その危険性にはじゅうぶん自覚的であるべきだ。

そんなわたしだもの。

「権謀は事に施すべきで、人に施してはならない。」

兆民先生の言葉に深くうなずいたのは言うまでもない。

 

近ごろ、本を読む気が起こらない。

だが、それでも読むのをつづけている。

つづけていれば、たぶんよいことがある。

いや、きっとある。

わたしのこれまでがそう教えるから今日も読む。

あしたも読む。あさっても。その次の日も。

 

 

 

 

 


『リフレクティング 会話についての会話という方法』(矢原隆行)を読む

2021年09月22日 | 読む・聴く・観る

 

『リフレクティング 会話についての会話という方法』(矢原隆行)を読む。

「オープンダイアローグつながり」で買ったまま「積ん読」していたものだ。

それから数年が経過した今、その本を「オープンダイアローグつながり」で読む。

いつもそうなのだけれど、基本的にわたしにとっての「積ん読」は、常に本に対して申しわけないという気持ちと一体にある。

そんななか、ずっと読まずに置かれる本と、いつか必ず読まれる本と、どこにその分岐があるのか。

それはもう、わたしの気分次第としかいいようがないが、「いつかきっと」の方は、本棚にある存在感からしてちがう。

「必ず読めよ」というオーラがわたしを射しているのである。

『リフレクティング』もまた、そのなかのひとつ。

読まない本への贖罪は、それを読むことでしか果たされない。

あしたからは背表紙から発せられるオーラが消えると思うと、なんだかとても晴れがましい。

なんてことを思いつつ、『リフレクティング』読了。

 

「会話についての会話という方法」という、一読してもよくわからない言葉について、著者の説明はこうだ。

******

リフレクティングにおいて、「はなす」ことを外的会話(他者との会話)、「きく」ことを内的会話(自分との会話、あるいは、自分の内なる他者との会話)と呼びます。この二つの会話の区別はとても大切なことなので、ぜひ心に留めておいてください。リフレクティングは、この二種の会話を丁寧に重ね合わせ、うつし込み合わせながら展開していく(すなわち、会話について会話する)ための工夫に満ちた方法なのです。(P.24)

******

これを読んだだけでは、わかったようなわからないような気持ちになり、結局よくわからないのかもしれないが、ここはとても大切だ。

一般的に言って、「(他者と)はなす」ことはもちろん会話である。どこのどなたも異存がないところだろう。ポイントは、「(自分の声を)きく」ことを、「自分の内なる他者との会話」という意味で、「内的会話」だとした定義づけにある。「内的会話」が自分に対してのものであるから、一般的な会話を「外的会話」とした。この意味づけからすべてがスタートする。

という前置きをしておいて、そこから展開するリフレクティングワールドをすべて無視し、唐突に「おわり」にまで飛んでみる。

著者はこう書いている。

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社会とはコミュニケーションの総体にほかならない、という社会システム論の視座を踏まえるなら、「会話についての会話」という画期的なコミュニケーションのかたちを体現したリフレクティングのアイデアは、新たなコミュニケーションのあり方、新たな社会のあり方を、そこから展望しえるものであると、最初の出会いの時も、今も筆者は考え続けている。(P.143)

******

 

こんな雑な紹介で興味をもたれた奇特な御仁がいらっしゃったら、ぜひ一読あれ。

『リフレクティング 会話についての会話という方法』(谷原隆行)である。

 

 

 

 

 

 


初読と再読

2021年09月21日 | 読む・聴く・観る

 

『対話のことば オープンダイアローグに学ぶ問題解消のための対話の心得』(井庭崇、長井雅史)に収められた全30の「ことば」のなかに、「ゆったりとしたペース」というものがある。

まず、冒頭に引用されているヤーコ・セイックラの文章はこうだ。

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ミーティングのプロセスをゆっくりと進めることは、ことのほか重要です。そうすることで、参加者の発言にリズムやスタイルがもたらされ、メンバー一人ひとりが「自分の発言が必要とされ支持されている」と感じられるような”居場所”となっていくでしょう。(P.42)

******

著者の言葉に置換えたものはこうだ。

******

誰でも話し始めることができるくらいの、ゆったりとした流れで会話を進めます。そのためにはまず、自分の意見で相手を説得しようとしたり、答えを早急に求めたりしようとしないことです。そして、相手が《言葉にする時間》がもてるように待ち、一つひとつの発言を《じっくりと聴く》ようにし、丁寧にその《語りへの応答》をしていくことで、会話を自然とゆったりと進めることができるようになります。(P.43)

******

これらを読んでいて、脳裏にはある本の内容が思い浮かんでいた。

『忘れられた日本人』(宮本常一)である。

冒頭に収められている『対馬にて』という著作がそれだ。

そこには、対馬の北端近くにある「伊奈の村」で、著者が遭遇した寄り合い風景が描かれている。

******

村でとりきめをおこなう場合には、みんなの納得のいくまで何日でもはなしあう。はじめには一同があつまって区長からの話をきくと、それぞれの地域組でいろいろに話しあって区長のところへその結論をもっていく。もし折り合いがつかねばまた自分のグループへもどってはなしあう。用事のある者は家へかえることもある。ただ区長・総代はきき役・まとめ役としてそこにいなければならない。とにかくこうして二日も協議がつづけられている。

(略)

私にはこの寄りあいの情景が眼の底にしみついた。この寄りあい方式は近頃はじまったものではない。村の申し合せ記録の古いものは二百年近いまえのものもある。

(P.13~16)

******

これを読んだのがいつだったか。たしかな記憶はないのだが、まだ読んでから十年は経ってないはずだ。

少なからず衝撃を受けた。「今」ではないにしても、おなじ日本でそのような会議スタイルが存在していたことにである。

とても真似はできないなと感じた。「私と私の環境」に取り入れようという気持ちも芽生えることはなかった。

「いくらなんでもそんな悠長な」

てな感じだったろうか。

時が経った今、わたしという人間が根本的に変わったのかどうかは別として、わたしの考えは、多くの部分であきらかに変わった。

そこにおいては、

「自分の意見で相手を説得しようとしたり、答えを早急に求めたりしようとしないことです」

という提言もまた、すなおに受け入れることができるわたしがいる。

もちろん、効率や生産性が重視されるビジネスの世界では、「そんな悠長な」という場面はいくらでもあるし、むしろ、そちらの方が基本的スタンスではあろう。

しかし、そればかりではうまくいかないこともまた、もう一方の基本として忘れてはならない。

そのバランスのなかで、折り合いをつけながら、落としどころを探りつつ、よりよい方向をめざす。

でき得ればそうありたい。

なんてことを考えながら、宮本常一『対馬にて』を再読。

初読のときとは、まったくちがう受け取り方をした自分が、少しおかしかった。

 


『対話のことば オープンダイアローグに学ぶ問題解消のための対話の心得』(井庭崇・長井雅史著)を読む

2021年09月02日 | 読む・聴く・観る

『対話のことば オープンダイアローグに学ぶ問題解消のための対話の心得』(井庭崇・長井雅史著、丸善出版)を読む。オープンダイアローグをパターンランゲージ形式でまとめ、体系化した本だ。

30のパターンは、どれもおなじ形式で書かれている。ある状況において生じる問題(=【その状況において】)と、その解決方法(=【そこで】)、そして【その結果】。これがワンセットで、それぞれに名前がつけられている。

ふたつほど紹介しよう。

まず、「そのままの言葉」という項だ。

******

相手が語ったことを受けて、自分も何かを話そうとしています。

▼その状況において

相手が発した言葉を、専門的な言葉や自分の慣れている言葉に言い換えてしまうと、違う意味が加わり、相手が語ろうとしていることから話がずれていってしまいます。

(略)

▼そこで

相手が使った言葉を、その言い回しのまま、自分の発言に取り入れます。相手が用いている表現には、その人なりの意味合いが込められています。

(略)

印象的だった言葉をそのまま繰り返して口に出したり、自分の発言のなかでその言葉を使ったりして、相手の言い方を大切にするのです。

▼その結果

自分の語りがきちんと受け入れられているとわかると、安心感が生まれ、さらなる語りが生まれやすくなります。

(略)

(P.17)

******

次は「意味の変容」という項だ。

******

《混沌とした状態》のなかで、対話を続けています。

▼その状況において

それぞれの人が語ったことについて、発言されたときの意味で固定的に捉えていると、対話のなかでゆらぎや変化を見逃してしまいます。

(略)

▼そこで

(略)

対話においては、何かが語られるたびに、以前語られたことも新しい意味を帯び、変化します。また、前提としていたことや出来事の認識も変わっていくため、同じ人が同じことを言っていても、それの意味するところはどんどん変化していきます。そのため、そういった生まれつつある新しい意味を繊細に感じ取り、丁寧に見守っていく必要があるのです。

▼その結果

用いられている言葉や、当初の意味合いに囚われずに、生まれつつある新しい意味を捉えられ、《新たな理解》への道が開けます。

(P.67)

******

オープンダイアローグから学ぶ対話の心得。

どこから読んでも、どこで止めても、それなりの発見と気づきがあり、自分の「今」を考えさせられる。少なくとも、今のわたしにとってはそうであり、しばらくは手元に置き、「そうそうそういえば」というときには開いてみたい本。

御用とお急ぎのない方は一読あれ。

 

「オープンダイアローグは、精神病の治療法というものではありません。治療というものに限定されるものではなくて、あらゆる事柄に関わることです」

(ヤーコ・セイックラ)

 


『オープンダイアローグとは何か?』(斎藤環)を読む

2021年08月30日 | 読む・聴く・観る

 

『オープンダイアローグとは何か?』(斎藤環)を読む。

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聴く。問う。声を響かせる。

対話は手段ではない。

それ自体が目的である。

******

 

「対話自体が目的」

『その島のひとたちは、ひとの話を聴かないーー精神科医「自殺希少地域」を行く』を読んだあとなので、なんとなくわかるような気はするが、それ以前に出会ったとしたら、なんのことやらチンプンカンプン、どれだけ思考をめぐらせても理解できなかったにちがいない。

といってもこの本、じつは何年も前に購入し、積ん読していたものである。気にはなっていたので、本棚のなかでもいつでも目に入るところに置いてはあったが、読み始めて十数ページで中断。そのまま積ん読していたものを一気に読んだのは、『その島のひとたちは・・・』からの流れ。「対話」つながりである。

本の構成は、著者であり訳者である斎藤環さんが、オープンダイアローグの概略、理論、臨床事例などなどについて書いた『オープンダイアローグとは何か?』という第一部と、第一人者であるヤーコ・セイックラ教授他実践者たちによる論文集である第二部とにわかれている。

どれもこれもに興味を惹かれるところが多くあったが、そのうち、もっとも印象深かったひとつを紹介したい。

3つの論文からなる第二部のうち、『精神病的な危機においてオープンダイアローグの成否を分けるもの 家庭内暴力の事例から』というセイックラ教授の論文のなかにそれはあり、ふたりの別々の患者のそれぞれの治療ミーティングを比較し、「予後良好だった事例」と「予後不良の事例」として挙げられている。

ひとつめの事例では、父と息子がつかみ合いの大げんかになったあとの治療チームを交えた対話が紹介されている。

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M(息子) レスリングをしてたんです。

TF(女性のセラピスト) 本気のけんかだったんじゃないの?

M 誰かを戦わせるみたいな・・・

TM(男性のセラピスト) どっちからつかみかかったの?

M 父がキレてきたんですよ

TM どっちから始めたのかな?

TF どっちが押さえ込んだの?

M えーと、僕が父の首根っこを押さえました。

(P.136)

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もう一方の例は、病院に到着した患者Pに対する最初のミーティングで、Pが母親に対して暴力をふるってきたことが明らかになったときのセラピスト(T1、T2)と患者の会話である。

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P ええと、先週末のことです。(略)だから私は母親をひっぱたきました。(略)その時点でもう例の感覚があって・・・警察と救急車がやってきました。もちろん叩くのはいけないことですが、あの感覚がやってくると、どうしようもないんです・・・

T1 そこで病院に行ったのね?

P はい、その直後に。

T2 なんでお母さんは警察が来たことを言わなかったのかな?

(中略)

P (略)でもそのことについて少しでも考え始めると、そういうことが本当に起こりそうな感じになるんです。それはあまりにも・・・ありとあらゆるくだらないことを考えてしまうんです。

T2 そういう状況が先週末に起こったと。

T1 そうね。

(P.139)

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このふたつのどこがどう異なっているのだろうか。セラピストの反応のちがいがそれだ。

まず、「予後良好だった」最初の事例では、治療チームのメンバーは、患者の言葉に真剣に耳をかたむけ、相手の発言に対して答えている。それに対し、「予後不良だった」あとの方の事例では、患者が語っている言葉には反応しないかわりに、「彼がどんなふうに病院を受診したか」についてばかり聞いている。

この差は大きい。

なんとか言葉にしようとする試みを見逃すことなく、それに応答する。それをするかしないかで、「対話」が成立するかしないかが決まってしまうといっても大げさではない。

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チームがクライアントの話に耳を傾け、ダイアローグ的に応じていくことで、クライアント、すなわち患者とその関係者は、自分たち自身の発言から学ぶことができます。

 予後良好な事例の対話をみればわかるように、患者の内的な対話は、治療チームのリフレクティブな会話に積極的に参加しようとしています。彼は彼の考えを表現するための言葉を生み出すべく、ずっと(声に出さずに)発言を続けているのです。

(中略)

 予後不良の事例での対話は、状況は真逆となります。母に振るった暴力や精神病的な妄想についてなんとか言葉にしようという患者の試みを、治療チームはまるで相手にしませんでした。

(中略)

それは結果的に、彼の経験したことが重要でもなく話すに値することでもないのではないかという不安をかきたててしまいました。

(P.143)

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この姿勢のちがいのもととなるのは、自分(治療チーム)を優先とするか、相手(患者)を優先するかという拠って立つところのちがいである。

セイックラ教授は、この稿をこう締めくくっている。

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つまり、クライアントの言葉に注意深く耳を傾け、治療者自身の心配事よりもクライアントたちの不安にしっかりと応えなければならない、ということなのです。(P.144)

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もとより、精神医学を学ぼうとも統合失調症についての治療方法を学ぼうとも思ってはいない。

だが、「対話」というものを考えるとき、あるいは実行しようとするとき、そこからよりよいコミュニケーションを築こうとするとき、つまり「対話を志向する」とき、ここから学ぶところは大きい。

ということで、わたしの「オープンダイアローグつながり」、まだまだつづく気配である。