『思いがけず利他』(中島岳志)を読んだ。
それに先立つこと約20日ほど前、ある知人に「利他の心がない」と言われた。
「それをオレに言うか?」
怒りと笑いがないまぜになった感情が押し寄せてきて、しばらくのあいだ消えなかった。
他人さまからはどう見えているのかわからないが、わたしは利他を標榜して生きている。自らを利他的であろうと努めている。そんなわたしでも、本書のなかで著者が書いているように、「将来の利益を期待した行為は、贈与や利他ではなく、時間を隔てた交換」であり、「”今、損をしても、いずれ間接的な互酬関係によって、利益がもたらされる”という考えは、とても打算的です。」という理由で、「てめえのやってることなんざ利他でもなんでもねえよ」と指摘されれば、それはたしかに仰るとおりと、甘んじて受け入れるしかない。しかし、「利他心がない」という言葉は、百歩ゆずって謙虚に受けようとしても到底受け入れ難いものだった。
「しこりが残らなければいいのですが」
一部始終を見聞きした友人がそう言ってくれたが、
「残らないはずはないですね」
そう答えるしかなかった。
それほど心に深く突き刺さった一件だったが、3週間ほどが経った今、心の内で一応の折り合いはつけている。
わたしの心中や内面というものは、どう逆立ちしても他人にはわからないものである。わたしが何を考えどう思おうと、わたしとは異なる物語を生きている他者が、その枠組みでわたしを見て、わたしの言葉を聞き、その上で判断することは、わたしという人間の思いとはまったく別のところにある。
そうしたとき、「思い」が他者に伝わっている(はずだ)と考えるのは、「思いあがり」というものだろう。
「それをオレに言うか?」という怒りと笑いがないまぜになった感情も、冷静になって考えれば、「思い」が「あがっている」と言えなくもない。そう見えている、あるいはそう伝わっているのならば、それはそれで仕方がないことなのである。
そんなわたしが『思いがけず利他』を読んだ。
だから読んだ、というわけではない。これまでも今もこれからも、利他はわたしにとって最重要位置を占めるキーワードだ。いや、あの一件があって、なおさら重要になったとも言える。であれば、わたしに対して「利他心がない」と言った御仁にも感謝しなければいけないのかもしれない。いやマジで。正直なところを言うと、まだまだ若干の嫌味と皮肉が込もってはいるが、本気でそう思う。
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利他的であろうとして、特別なことを行う必要はありません。毎日を精一杯生きることです。私に与えられた時間を丁寧に生き、自分が自分の場所で為すべきことを為す。能力の過信を諌め、自己を超えた力に謙虚になる。その静かな繰り返しが、自分という器を形成し、利他の種を呼び込むことになるのです。
(P.177)
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自らが利他たり得ているかどうか、あるいは、自らに利他心があるかどうか。それを判断するのは自分でも他人でもない。リアルタイムで判断できるものでもない。だとすれば、「あなたには利他の心がない」と言われれば、「あゝそう見えるとしたらそうかもしれんですね」と返答するぐらいがちょうどいい。実際のところ、いくら利他を標榜して生きてはいても、「オレは利他的だ」と断言できるほどの自信もないのだから。