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答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

桜木紫乃『おばんでございます』を読む

2021年07月01日 | 読む・聴く・観る

「ためにする読書」を数ヶ月にわたってつづけてきた。そんななか、就寝前のたのしみに、ちびりちびりと読んでいたのが桜木紫乃のエッセー集『おばんでございます』。あぁあ、終わってもうた。残念の余韻を引きずりながら読了。

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じくじくと後で悩んでみせるのも、ずるさのひとつだろう。ずるいオトナになっちまったな、と自嘲するのもまたずるさ。結局オイラこんな人間なのさ、と開き直るのは名乗るより恥ずかしいもんだなあ。(P.070)

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紫乃さんにそう言われると、「いったいオレは“ずるさ“を何乗して生きてきたのだろうか」と、思わず我とわが身をふりかえり、可笑しくて仕方がない。だが、不思議と「恥ずかしい」という感覚が起きてこないのは、それだけ面の皮が厚くなったということの証か。

どれどれお次は・・・

Amazonで紫乃さんのエッセイ集を物色してみるが探し当てられないまま、短編集をひとつ購入。

さてと、冬のあいだのほんのいっとき、夢中になって読んだ桜木ワールドに、また浸ってみようか。

と、心なしかサクラギチックになっている文章に気づき、やおら「恥ずかしさ」が込みあげてくる。

「結局オイラこんな人間なのさ」

開きなおって眠りについた。

 

 

 


本を読むということ

2021年06月26日 | 読む・聴く・観る

 

「社内の暗黙知を形式知化する」

クリティカルチェーン・プロジェクトマネジメント(CCPM)を導入した14年前。わたしが掲げた目標のひとつである。そして、どういった目的のためにそれを実現しようとしたかといえば「人材育成」であった。

「暗黙知」という概念はマイケル・ポランニーが提唱したもので、知っていても言葉には変換できない経験的・身体的な知。すなわち、言葉や文章で表すことの難しい、思い(信念)、視点、熟練、ノウハウなどだ。それに対して「形式知」とは、その暗黙知が言語化されたものである。

その対立するふたつの概念の関係性を、

共同化:暗黙知からあらたな暗黙知を生み出す

表出化:暗黙知からあらたに形式知を生み出す

連結化:形式知からあらたに形式知を生み出す

内面化:形式知からあらたに暗黙知を生み出す

という4つの相互変換プロセス(SECIモデル)に分け、それを繰り返すことがあらたな知識の創造につながり、それが強みとなって組織としての成果を上がるのだというのを提唱したのが野中郁次郎さんであることは、今さらわたしが説明するほどのことでもない。

(と言いながら、自分自身の”おさらい”という意味で説明してみた。あってるか?)

にもかかわらず、まことにお恥ずかしい話だが、それに関する書籍を、今の今までただの一度も読んだことがなかった。

で、今さらながらではあるが、『知識創造の方法論』を読んだ。

いろいろ様々あるなかで、なかでも簡単そうで、しかもとっつきやすそうなものを選んだつもりだが、これがなかなかに難物で、その情報量の多さにあっぷあっぷしながらようやっと最後までたどり着いた。

読了後、さて、いったいオレのココロにもっとも印象に残ったのはどこのどの部分だったのかと、蛍光ペンでマーキングした箇所を飛ばし読み。結局チャンピオンとなったのは、メタファーの効用について『リーダーシップ・ストラテジー』で勝見明氏が紹介した例を引用したものだった。

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 跳び箱を跳べない生徒たちを10人ずつA、B二つの組に分けたとする。A組には、踏切板は足をそろえて強く踏み切る、手は跳び箱の前方に着くといった技術的なポイントを教え、B組には「パーンって踏み切ったら空を飛ぶような感じで跳んでみなさい」とイメージを伝える。するとA組は1~2人しか跳べないが、B組は踏み切りも手の着き方もうまくできて、みんなが跳べるようになる。つまり、細部の技術にこだわるより、「こんなふうに跳びたい」という、目指す跳び方のイメージを共有すると、チームの成果は飛躍的に高まる。

(Kindleの位置No.2413)

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ん?そこは本質の部分ではないのでないか?

はい、おっしゃるとおり。

ま、かたいことを言いなさんな。

これはこれで、ひとつの本の読み方ではある。

ということにしておこうじゃありませんか。

 

 


『現象学の理念(まんが学術文庫)』(須賀原洋行著、フッサール原著)を読む

2021年06月02日 | 読む・聴く・観る

スゴイ本を読んだ。

 

 

 

まんが学術文庫の『現象学の理念』(フッサール原著、須賀原洋行)だ。

なぜこの本を買ったのか。まったく覚えていないが、気がつくとKindleライブラリーに入っていた。

現象学についてはまったく興味がなかった。

知り合いに竹田青嗣やフッサールを好んで引用する人がいるのだが、彼の言葉や文章がそういった展開になるといつも、なんだかとても難しそうで自然と拒否反応を示す自分がいた。そう、あえて遠ざけていた分野である。

それがなにを思ったのだろうか。まったく覚えていないが、気がつくとKindleライブラリーに入っていた。

 

新しいラーメン屋ができていることに気づいた主人公が、「さっそくチェックしないとな」と暖簾をくぐるところから物語は始まる。

そこで注文した「現象学的還元ラーメン」を食べ終わったあとの店主と主人公の会話を「吹き出し」の箇所のみ抽出して紹介したい。

 

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「お客さん・・・」

「最初 スープを飲んだ時に「うまい」という声を発したよね」

「ああ 本当にうまかった」

「その瞬間の感覚 自分の中に生じた「快」・・・その一点に集中して思い出してみて」

「スープを飲んだ瞬間・・・・?」

「そう そこ」

「あんたは今 フッサールという哲学者が自分の哲学の基礎においた「現象学的還元」という手法を実行して純粋直観による「快」を直接 観取したのだ!」

「いやそんな・・・ムツカシイことをしたおぼえは・・・」

「逆 逆」

「難しいことをまったくしなかったということなのだ」

「??」

「お客さんは 魚介と肉の旨味だのコクだのキレだのデュラム小麦だの いっぱい知識があるようだけど 現象学的還元というのはそういう・・・既存の知識や経験をいったんカッコに入れて横に置いといて スープをあなたが味わったその瞬間に あなたが持っている知識や先入観などはいっさい関係なくただ感じたうまいという「快」・・・ 

それは「うまい」という言葉以前の純粋な直観なのだ あなたは今 自分の内部にあるそれそのものを取り出すことに成功した」

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あえて絵を抜いたが、ほぼ無表情の登場人物の絵がじつに趣があっていい。

Amazonの商品説明にはこう書いてある。

 

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ラーメンを食べたとき、あなたは何を思いますか?「出汁はなんだろう?」「この値段でこれなら合格!」とか?いえいえ、まずは「うまい!」あるいは「まずい!」と思いますよね?―20世紀哲学の源流となった、フッサールの『現象学の理念』をラーメン屋のラーメン作りを通してわかりやすく解説。面白く、まんがにしました。難解な“現象学”が美味しく学べます!読んで賢くなれる。本当に「うまい!」一冊です。

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とはいえ、わたしのような凡人にとって、「難解な”現象学”」は、「まんが」にしたところで難解なままであり、これだけを「読んで賢くなれる」わけではない。

しかし、

”本当に「うまい!」一冊です”

これは確実に言える。

じつにおもしろく味わい深い本である。

読み進めていくうちに、ついつい「わかった」ような気がした自分がいて、いやいやそれではダメだと、これまたついつい『現象学入門』(竹田青嗣、NHKブックス)を買ってしまった。

だが買ったあとになって、別のわたしが問うている。

「まずはこのまんが本を読み返してみるべきではないのか?」

まことにもっておっしゃるとおり。

まずは再読、だな。


『センスメイキング』(クリスチャン・マスビアウ)を読む

2021年05月26日 | 読む・聴く・観る

センスメイキング――本当に重要なものを見極める力』(クリスチャン・マスビアウ)を読んだ。

前半20%ほどがおもしろくて、そこから退屈(特に中程が)で、終盤になってまた、やおらおもしろくなって読み終わった。もちろん、その「おもしろい」や「つまらない」は、あくまでわたしにとって、という括弧つきである。他の人が読むとどうなのかについて、わたしは関知しない。といっても、その「おもしろさ」と「つまらなさ」の量的なバランスが、わたしに残された心象と等しいかといえば、そのようなことが定量的なページ数で測れるわけもない。

と、やたら回りくどい前置きをして結論。

とてもおもしろかった(なんじゃそりゃ)。

 

たぶんそれは、近ごろわたしがずっと考えていることとリンクする部分が相当数あるからだろう。

たとえばこのような。

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技術や、そこから生まれたソリューションを何よりも大切に崇めているとき、我々は、人間の知を特徴付ける機敏さや微妙なニュアンスに目をつぶっている。技術を第一に崇めたてていると、ほかのところからにじみ出ているデータを取り込むことをやめてしまう。それでは、最適化ではなく、全体的な思考から生まれる持続性あるう効率を失ってしまう。(Kindleの位置No.3989)

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またたとえばこのような。

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最適化は、大規模利用を目的に資源を集計することであり、大規模利用を司る主人は技術である。だが、申し訳ないが、技術に我々の主人になってもらう筋合いはない。技術には、同僚、いや、それよりも訓練の行き届いたアシスタントないしは相棒辺りに降格していただこうではないか。(同No.3989)

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最終盤にきた今朝、早朝にもかかわらず思わず拍手をしかけたのは、次の文章だ。

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スティーブ・ジョブズが口癖のように言っていた「これはすべてを変える」という言葉がある。しかし、このモットーの呪縛から逃れて「これは一部のものを変える」と言い換えてみてはどうか。

そもそも、幅広い人文科学の教育では、何ものも「すべて」を変えることなどできないことを教えてくれるではないか。(同No.4008)

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ではいったい、それらはわたしの思考のどことリンクするのか。わかっている人にとっては言わずもがなのことだろうが、ここはあえて、野暮を承知で書いておかなければならないだろう。

それは、いわゆる「ICT施工」に代表される、昨今の業界を席巻する風潮に対するわたしの心持ちとである。

「おやおやあらまナントナント、アンタ、バリバリの推進派じゃなかったのか?」

そういう声が聞こえてきそうだ。

そう。おっしゃるとおり。よもや最先端を走っているとは思いもしないが、わたしはバリバリの推進派と目されているし、実際にそうである。

だがそれは、けっして自家撞着も自己矛盾でもない。

わたしのなかでは、「だからこそ」なのである。

 

i-Constructionを「愛・コンストラクション」と読み替える人は多い。わたしもまた、わるくない読み替えだと思っている。

ただ、その「愛」の対象がどこであるかで、i-Constructionはその様相をがらりと変えてしまう。そのことに、わたしたちは十分に自覚的でなければならない。

その対象が、技術やマシン、あるいはそれらを総合したテクノロジーなのか。その技術によってできたモノなのか。そこではたらくわたしたちなのか。わたしたちがつくるモノをふだんの暮らしで使う「人」なのか。

少なくともわたしは、これからも「人」にこだわっていきたい。

(それしかできないっちゅうのもあるケドね)

なんてことを思いつつ、『センスメイキング――本当に重要なものを見極める力』(クリスチャン・マスビアウ)読了。

 


積ん読キスト

2021年05月25日 | 読む・聴く・観る

めったには会えないけれど、「呑み友だち」かつ「読み友だち」であると断言できる、わたしにとっては稀有な存在だとも言えるAさんが、昨夜某SNSで、「今呑みながら読んでいる」という本のなかのこんなセンテンスを紹介していた。


「例えば新聞記者であるからそれを自分の使命と考えたりする人間には大概は何かが不足している。そういう人間は飲んでいる時でも新聞記者の積りでいるのだろうか」

 

吉田健一『旅の時間』だという。

ぐっときた。

こちらもまた呑んでいたものだから、余計にである。

すぐさま、Amazonで「ぽちっと」というやつを実行したのは言うまでもない。

嗚呼、

かくしてまた本が増えていく。

読まれるのを待機している本は数多くあるというのに。

こういう流儀を積ん読キズムというのだろうか。

いやいやそのような立派なものではない。

だがこれだけはまちがいない。

 

アイアム積ん読キスト。

積ん読キスト、ここにあり。


ウーダ

2021年05月03日 | 読む・聴く・観る

 

「おきようよ」

孫2号の声に目を覚まし時計を見ると、まだ5時20分だ。

いつもなら起きている時間だとはいえ、せっかくの休みである。まして、きのうとおなじく今朝も寒い。ほんの数分だけ躊躇したがせっかくのご指名だ。誰がこの家でいちばんの早起きかをよく理解している彼の明晰さに免じて、起きてやることにした。

朝餉をいっしょに食い、ほどなくしていると三々五々と皆が起きてきた。お役御免とばかりに部屋にこもって読みかけの本をめくる。

ドイツ電撃戦に学ぶ OODAループ「超」入門』(夕撃旅団、パンダ・パブリッシング)である。

連休に入り、OODAループに関する書籍をたてつづけに読んでいる。

OODAループ思考[入門]』(入江仁之、ダイヤモンド社)

プロジェクトを成功に導くOODAループ入門』(鈴木道代、スローウォーター)

PDCAよりOODAか?違います』(なんとなくなシンクタンク)

につづいて、これが4冊目だ。

OODA LOOP。ウーダループと読む。ジョン・ボイドという人が編みだした理論らしい。

ジョン・リチャード・ボイド(1927~1997)。米国の軍事研究家。戦闘機パイロットとして朝鮮戦争に従軍。その後「戦闘機兵器学校」で教官を務め、学生と勝負をするたびに、どんな不利な位置からでも40秒で逆転できたことからついた異名が「40秒ボイド」というから、なんだか西部劇の主人公みたいだ。48歳で空軍を退役したあと、軍人年金だけを受け取って研究生活に入り、独自にたどり着いた結論がOODAループだという。

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 人間行動学の一種ともいえる「OODAループ理論」には、大きく2つの過程があります。

 まず第一過程で、人間が行動を行うまでの手順を一般化し4つの段階に分けます。すなわち、1.情報を得る「観察」(Observations)、2.そこで得た情報の「方向づけ」(Orient)、3.情報に基づく「判断」(Decision)、そして最後に4.「行動」(Action)と、人間の行動は常に四段階を経ているとし、これらの頭文字を取ってOODAループと呼ぶのです。(『ドイツ電撃戦に学ぶ OODAループ「超」入門』、Kindleの位置No.37)

「人間が何らかの行動をとるときは、このループを無意識に必ず回してから行動に入る」、というのがボイドの主張なのです。(No.47)

 ただし、これだけなら、言われてみればそうかもしれない、で話は終わってしまいます。

 しかし、この第一過程を基に「OODAループを高速に回転させると、”行動も同時に高速化されるため”、スポーツやゲームにおいて敵に対し一方的に優位に立てる」、というのがOODAループ第二過程の運用であり、こちらが理論のキモになってきます。(No.57)

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といっても、スポーツやゲームや、ましてや戦闘で勝つために読んでいるわけではない。

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OODAループはアメリカ空軍大佐のジョン・ボイドが提唱した、敵に先んじて確実に勝利するための基本理論です。当初は、戦闘機パイロットとしての経験に基づいた、まさに一瞬の戦闘に勝つためのものでした。しかし、その後ボイドが諸科学の知見を取り入れて汎用性を持たせた結果、OODAループは戦略、政治、さらにビジネスやスポーツにまで広く活用され、「どんな状況下でも的確な判断・実行により確実に目的を達成できる一般理論」として欧米で認められるようになりました。(『OODAループ思考[入門]』、Kindleの位置No.10)

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そう、ここ2ヶ月ほどつづいている「ためにする読書」の一環である。

せっせと仕込みをつづけてきたものが、ようやっとアタマのなかで形づくられてきたような気がしている。

さてと、そろそろまとめに入ろうか。いやその前に・・・窓の外を見ると、孫らが遊んでいる。春の光がまぶしい。[観察]。考えが変わった。[方向づけ]。弁当をもってピクニックにでも行くか。[判断]。うん、思い立ったら行動だ。さあ行くべ。[行動]。

あらあら、結局、原っぱに寝ころんでビールでも呑むのがオチなんぢゃないのか?

別のわたしがそう問いかけたが、思い直しはしない。

なんたって、OODAループは速やかに回すべしなのだもの。

 

 


『水のある風景』(版画・文:喜田愛子、文:宮村忠)を読む

2021年04月10日 | 読む・聴く・観る

『水のある風景』(版画・文:喜田愛子、文:宮村忠)を読んでいる。いただいた本だ。

じつを言うとわたしは、いわゆる献本を読まない人である。いや、まったく読まないことはないのだが、ついつい後回しになり「積ん読」されてしまうことが多い。

その理由は、深く考えるまでもない。わたしの本読みは、「読みたい」「読んでみたい」という欲求からはじまるからだ。しかも、そう欲したにもかかわらず、読まずに置かれる本も多くある。そんななかで、自らの読書欲求にもとづかないものがどうなるか。いやいや、まことに申しわけない。そして、それほどエラそうに言えた義理ではないが、それがわたしの現実なのだから仕方がない。

しかし、この本はちがった。まず、会社に届いた包みをあけるなり目に飛び込んできた表紙の装丁に胸がときめいた。

これは・・・

良本の予感である。

そして、

駅からの帰路、ぽっぽっとちょうちんに灯がともった。「もうすぐ新しい年度が始まるな」。これが私の春の訪れだ。

ではじまり

川をめぐる水共同体の精神「おらが川意識」は案外このような小さな出来事がきっかけになっているのかもしれない。そんなことを考えながら今日も用水沿いを歩いている。

で締めくくられる『二ヶ領桜』という小文を読むと、予感が確信めいたものに変わった。

一話一話の構成は、喜田愛子さんの文章と版画が1頁ずつ、その一つひとつに彼女の師である宮村忠さんがつけた「作品を訪ねて」という解説文(というか単なる解説を超えそれはそれで立派に宮村さんの作品として成立している)に図や写真が載った見開きのページがついて、つごう4頁がワンセット。その一つひとつが、とても味わい深い。

わたしがもっとも印象深かったのは、ちょうど全体の半分ほど進んだところにある『要』という「中条堤」のことを書いた稿である。

今、その稿を読むなりこれを書いている。つまり、まだ全体の半ばまでしか読んではいない。

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「中条堤がわかれば、利根川がわかる。利根川がわかれば、日本の川のこともわかる」。そんな“なぞなぞ“のようなことを恩師である関東学院大学の宮村忠教授から聞いたことがある。中条堤は利根川治水の要ということだけでなく、河川工学を学ぶ者にとっても要の場所と言えるのだろう。中条堤の役割や仕組みはわかる。しかしなぜその場所になったのか。それは単純に土地の条件だけでなく、治水と利水の複雑な組み合わせや歴史の中で培われた力関係、政治的な部分が大きく関わってくる。「河川を知る」ことは、単に流量や水質、気象や地盤、水害史といった目に見える部分や記録できる部分だけを追い掛ければ済むというだけではなさそうだ。その流域の生活そのものを知らなくては理解し得ないのだろう。

(P.62)

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その締めくくりはこうだ。

 私には到底、理解できるような代物ではない。川を知れば知るほど「川のことはわかりません」と言いたくなる。「“わからない“ことがわかりました」と逃げ口上を用意したくなる。その罪滅ぼしが、川を描く事につながったのかもしれない。

 

もとより、リアルにお目にかかったことがない人ではあるが、著者の人となりが想像できるようなその文を読んでいると、

「文は人なり」

そんな言葉がアタマのなかを行きつ戻りつした。

 

惜しむらくは、ひとつ一つの話にセットとしてあるその版画のほとんどがモノクロであること。それがオールカラーならばどんなにかすばらしいものであったろうことは、表紙の作品を見ると容易に想像がつく。

とはいえそうなると、ただでさえ高価なこの本の値段がさらに跳ねあがってしまうのだろうな、などと推測しつつ、いやしかしぜひ見てみたいものだと『水のある風景』を読む。

残るあと半分は、休日朝のたのしみにおいておくとしようか。

 

 

 

 


「なぜ」と「どうやって」 ~ 『今日からはじめる情報設計』(アビー・コバート)を読んでいる

2021年03月31日 | 読む・聴く・観る

『今日からはじめる情報設計』(アビー・コバート著、長谷川敦士監訳、安藤幸央翻訳)を読んでいる。

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いま作っているものに潜む「なぜ?」を理解することは、そのものに潜む意図と潜在的な可能性とを解き明かすことにつながります。

(略)

強力な「なぜ」を持ち続けることだけが、あなたを先に進めてくれます。弱い「なぜ」ではだめです。あなたの「なぜ」は、単に形式的なものではなく、あなたの行うこと自体の一部であるべきです

(P.45)

「there are many ways to skin cat」[直訳すると、「猫の皮を剥ぐ方法は1つだけではない」。ものごとを達成するにはいろいろなやり方がある、という意味]ということわざは、意図していることを実現するためにはいろいろなやり方があることを教えてくれます。ほぼ何事においても、いろいろなやり方があるものです。

(略)

ものごとに取り組むにあたって、「なぜ」に真摯に向き合い続けている限り、「どうやって」の可能性は無限に増えていきます

(P.47)

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「なぜ」からスタートしなくても「どうやって」を考えることはできなくはない。

しかし、「どうやって」からのスタートや、形式だけの「なぜ」では、「どうやって」の可能性は増えない。

「ふ~ん、ええことゆうやないの」

シャープペンで線を引いたあと、これいただきやなとメモをする。

「読んでいる」とはいいつつも、すっかり寝坊助になってしまい、ほとんど「読む」時間などはない春はあけぼの。ぼちぼちと。

 

 


他山の石

2021年03月25日 | 読む・聴く・観る

政権与党の大幹部が、自党から出た公職選挙法違反案件について「他山の石として対応しなければいけない」と言ったとか。

野党の皆さんは怒り心頭のようだが、なんといっても彼の人はわが国のリーダーのひとりである。いくらなんでもストレートな誤用ではあるまい。もしそうだとしたら・・・これはまあ弩級だと形容してもおかしくないほどのまちがいで・・・しかし・・・もし何もかにもわかってわざと使っているとしたら・・・容疑者の行ったことを「他山の石」として自分は上手くやらなければと戒めるのであれば、他人と自分という比喩において「人の振り見て我が振り直せ」的使い方をしたならば必ずしも誤用だとは言いきれないような気もするわけで・・・いやいや・・・どう見てもそこまでのような感じではないし・・・いずれにしてもこの勝負、ストレートに理屈で反応して怒る時点でそっちの負けだな、などと苦笑いしつつ新聞を閉じ、読みかけていた『「超」入門 失敗の本質』(鈴木博毅)を読む。

終わりまであと1割ほどを残したところに、「過ちを認める、プロジェクトの正しい方向転換を妨げる危険な心理的要因として、日本軍の作戦経過から導きだされる4つの要素」について解説している箇所がある。

 

 

                 (同書より)

そのうち、「2」についての解説はこうだ。

 

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 問題が未解決のまま、対策を見つけていない状態には、ある種の心理的苦しさがともないます。

 そこから一旦、集団において何らかの合意が得られると、結論を再度懸念する相手に対して「今さら蒸し返すな」という心理が働くのは、ごく自然なことかもしれません。

 しかし、議論も結論も、最終的に追求すべきはベストな解決策、ベストな結果を生み出すことです。

 求めているのは、集団あるいは担当者の心理的平和ではありません。議論を避ける、一度出した結論を強硬に擁護することは、「再度の不安定状態」を避けたいという心理的な圧力が生み出した危険な態度、行動である可能性を理解すべきでしょう。

(Kindleの位置No.1911)

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なるほど、と納得。

まさに「他山の石」。

「もって玉を攻(おさ)むべし」なのである。

 


『お帰り寅さん』を観る

2021年03月22日 | 読む・聴く・観る

ただただぐだくだとする休日はいつ以来だろう。

太鼓教室の保護者が

「年中無休ですもんね」

と笑うほどに、

そして

娘が

「マグロやね。止まったら死ぬ」

とあきれるほどに、

いつもなにやかにやで動いているわたしにとってそれは、なんとも自堕落で素敵なことではある。

そんななか買い物がてらの短いドライブ中、妻がなにげに問うてきた。

「仕事やめたら何をたのしみにする?」

「・・・わからん」

わるい癖だ。

ついついつれない返事をしてしまう。

その夜、BSテレビ東京で『お帰り寅さん』を観た。

泣きながら笑いながら「寅さん」を観た

やはり「寅さん」はいい。

ひとりうなずいていると、ふと昼間の妻の問いかけを思いだした。

「仕事やめたら何をたのしみにする?」

わたしにいわゆる「老後」というものがあるとしたら、日がな一日のたりのたりと暮らしながら、一日一本の「寅さん」を観て過ごすっていうのはどうだろう?

実現するかどうかは別として、そういうのもわるくはない。

 

なんてことを就寝前にケータイで打ちこみ、起きぬけにたしかめ、「ふん」と鼻で笑う朝。

さて、今週も盛りだくさんだ。ぼちぼちと、がんばっていきましょうか。