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答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

立川志らくを聴く

2022年02月03日 | 読む・聴く・観る

 

『大工調べ』を聴く。

柳家小三治のあと、古今亭志ん朝、古今亭志ん生とつづけ、立川談志を聴く。

お次は誰か談志の弟子を、と考えて、選んだのは立川志らく。現在の、ではない。若いころの志らくだ。意図してではない。偶然選んだのがそうだった。

これが凄かった。

ちょっとこれまで聴いたことがないタイプだ、という意味でである。

落語聴き比べをはじめてから、一度だけ志らくを聴いたことがある。『らくだ』だった。今回のものからは、それとはまったくちがった印象を受けた。そもそも立川志らくという人については、テレビでコメンテーターやら司会やら審査員やらをやっている人というぐらいのイメージしかなかった。キライというほどではないが、それほどよい印象ではない。一転、俄然興味がわいた。

ちょいと聴き比べてみよう。そう思った。聴き比べ、といっても、他の誰かとではない。若いころの志らくと現在の志らくを同じ演目で、である。

まず選んだのが『死神』。現在→昔という順だ。

次に『子別れ』。これも現在を聴いたあとで昔を聴いた。

つづいて『火焔太鼓』。これは順番を逆にしてみた。若いころ→歳をとってから、という順だ。

若いころの立川志らくは凄い。いや、現在がダメだというわけではない。今は今でわるくはない。

といっても、まだ彼の噺は7つしか聴いていない。それに加えて、ご存じのとおり、なにせ「にわか」落語ファンである。素人にまだ毛も生えていないのかもしれない。

シロートが戯言を言うなと謗られるのを恐れずに私見を述べてみる。

昔は、よいというより凄いのだ。今は、さらなる高みへの発展途上段階のような気がする。十年先にどうなっているか。その時点での彼の噺を聴いてみたい。もちろん、昔も今も、途上にはちがいないのだろうが、現在の方がより途上段階のような気がする。あのそこはかとなく狂気にも似たものをただよわせた新進気鋭の落語家の到達点は、ここではないだろう。こんなものであるはずがない。まだまだ先にあるはずだ。そのような気がしてならないのである。

繰り返すが、シロートの戯言だ。根拠があるわけではない。

ただひとつだけ、これだけはと自信をもって言えることがある。

立川志らく、一挙にお気に入りの落語家になった。その事実だけはマチガイない。

 

 

 


八代目林家正蔵の『中村仲蔵』を聴く

2022年01月22日 | 読む・聴く・観る

 

『中村仲蔵』を聴く。

江戸中期の伝説の名優に題材をとった噺だ。

三遊亭圓生

古今亭志ん朝

古今亭志ん生

の順で来て、八代目林家正蔵(現正蔵ではなく、いわゆる“彦六の正蔵“)を風呂場で聴いていたそのとき、妻が戸をあけた。

「なんだ落語か」

「なんだ」とはこちらが言いたいと、返そうとした言葉を待とうともせず踵を返し、背中を向けて妻がつぶやいた。

「おばあさんの声にそっくり」

おばあさんとはわたしの亡母。彼女にとっての姑だ。

ん?

彦六が?

まさかそんな?

あらたまって聴いてみると、あら不思議。

言葉の端々が、まこと最晩年の母の声に似ているのだ。

ではこうすればどうだろうと、目を閉じて聴いてみる。

ますます似て聴こえてくる。

思わず笑ってしまった。

そうこうするうちに胸につまるものあり。彼女があの世へと旅立ってから2年半。一度たりとも泣いたことはなく、まったくもって親不孝者だなと、自嘲にも似たものを感じていたが、思いもかけないシチュエーションでそれはやってきた。

といっても、YouTubeの画面に目を移すと、当然のことながら母とは似ても似つかぬ爺さんがそこにいる。

また笑いがこみ上げてくる。

ふたたび目を閉じると浮かぶ母の面影。

さすがの林家彦六も、自身の噺をこのようにして聴く人間がいるなど、とうてい考えもつかなかっただろうなどと思いながら、しばしの時を泣き笑いにどっぷり浸かりながらすごしているうちに、茹蛸然となってしまうスキンヘッダー。

いやはやなんともこりゃどうも。


夜半の Kindle

2022年01月14日 | 読む・聴く・観る

 

夜半、寒さで目が覚める。

アタマが寒いのだ。

では帽子をかぶればよいのではないかと妻は言うが、でき得ればそれは避けたい。

なぜってまあ、できるかぎり頭寒足熱でいたいからである。

一昨日もおなじように寒かった。だがそのときは、布団をひっかぶって暖をとると、ほどなくして眠ることができた。

昨夜はちがった。

すっかり眠れなくなったのだ。

どれ、と枕元にある読みかけの本(といっても電子書籍だが)を読む。

『流人道中記』(浅田次郎)だ。

9割ほど読み進めていた上巻はすぐに終わった。

時間も時間だ。やめるか。

と思ったが、すでに物語に没頭してしまっている。眠気もない。買うべしだろう。読むべしだろう。

すぐに下巻をポチった。

時計の針は12時をはるか過ぎている。

そんな時間に、読みたくなった本がすぐ読める。

ましてや、たとえそれが昼間でも、まともな品揃えがある本屋まで行こうとしたら1時間以上かかってしまう土地に暮らす身だ。

なんて便利なのだろう。

AmazonとKindleの悪く言う人は、わたしの知り合いにも相当数いるが、少なくともわたしにとっては、なくてはならないものである。

おかげで、というべきか、そのせいでというべきか、もうそろそろ眠らなければあした(今日か)の業務に差し支えると自制するまでの約2時間。浅田次郎ワールドに浸った夜だった。

軽く眠ったあと、また小一時間ほど読んだのは、ちょっとやりすぎではあったが。

 

 

 


『流人道中記(上)』(浅田次郎)を読む

2022年01月13日 | 読む・聴く・観る

 

今年ほど本を読まなかった正月休みは、ここ十数年ほとんど記憶にない。

そんな休みが明けて数日が経ったある日、ちょっと読んでみようかとわたしをその気にさせたのは、杜の都のヒゲブチョーだ。

1月7日の彼のブログでは、正月休みに読んだという以下の本が紹介されていた。

『建設DX デジタルがもたらす建設産業のニューノーマル』(木村駿、日経BP)

『デンマークのスマートシティ データを活用した人間中心の都市づくり』(中島健祐、学芸出版社)

『新版動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか』(福岡伸一、小学館新書)

『流人道中記』(浅田次郎、中央公論新社)

『あの世この世』(瀬戸内寂聴、玄侑宗久、新潮文庫)

以上5冊だ。

『建設DX』以外は、どれも未読である。

このなかで、わたしがもっとも興味を惹かれたのが『流人道中記』。

なにも読む気がしなかったわたしの読書欲が、むくむくとアタマをもたげはじめたのをはっきりと感じた。

そうだ、久方ぶりに浅田次郎がよいかもしれない。

その心に、ヒゲブチョーのごくごく短い紹介文が追い打ちをかけた。

いわく、

「『壬生義士伝』以来の号泣必至」。

『壬生義士伝』には、わたしもまた泣かされた。

鼻をすすり嗚咽を漏らしながら読んだ。

本を読んで泣いたことは数え切れない。特に浅田次郎には、『蒼穹の昴』『日輪の遺産』・・・などなど、いくども泣かされた。しかし、声をあげて泣いたのは今のところ『壬生義士伝』だけである。

そのタイトルを挙げて「号泣必至」と言われれば、受けて立たねば男がすたる。いっぱしの本読みを気取る資格はないというものだ。

ていうほど大層なこともないのだが、ポチッとやるのには、それを目にしてから数分もあればじゅうぶんだった。

ということで読みはじめた『流人道中記』。ただ今、上巻を9割ほど読む進めたところだ。

 

「いえ。世の中、情理は裏と表でござんす。道理の通らぬ情に絆されてはなりやせん。情のねえ理屈を通してもなりやせん」

 

などという大泥棒稲妻小僧の台詞にしびれたりしながら読んでいる。

幸か不幸か。まだ一度も泣いてはいない。

しかし、たぶんヒゲブチョーの宣伝に誇大大袈裟嘘偽りはないだろう。

なんとなれば、わたしのアタマはすでに浅田ワールドのなか深くに入っている。

浅田次郎、あいかわらずの手練ぶりだ。

道中はまだ半ば、今しばらく浸ってみよう。

 

 

 

 

 

 

 

 


『青菜』(笑福亭仁鶴ほか)を聴く

2022年01月09日 | 読む・聴く・観る

 

笑福亭仁鶴という人の往時の人気が関西でどれほどだったかといえば、それはもう、「どんなんかなー」と考えてものちの彼の姿からはちょっと想像がつかないほど、それはもう大変なものだった。

といってもそれは、ごく一部の好事家を除いては、テレビやラジオのタレントとしてのそれであったような気がする。と、ついつい利いたふうな口をきいてしまったが、あくまでも、その時代にそこで住んでいたというだけのわたしの心象であり、確たる証があるわけではない。

そんな仁鶴の噺をわたしがはじめてきちんと聴いたのは、たぶん『青菜』だったはずだ。笑い転げたのを覚えている。

そんなことなどを思い出しながらの、休日恒例の柚子剪定作業with落語。本日の演目は、もちろん『青菜』である。

例によって聴いた順番に列挙する。

トップバッターはもちろん笑福亭仁鶴。

四十数年の時を経て聴く『青菜』は、やはりおもしろく、何度も何度も声に出して笑った。

今回はじめて知ったが、この噺はもともとが上方由来のものだという。

と言ってもわたしは、仁鶴のそれしか聴いたことがない。

したがって、まずは上方からいくこととした。

桂枝雀

桂文珍

桂ざこば

と、つづけて聴いたそのあとは東京へと移り、

春風亭一之輔

立川談笑

と「今」の人をふたりと、

春風亭柳好

春風亭柳橋

と「昔」の人をふたり。

柳家小三治を聴いてハイおしまい。

にしようと思ったが、まだいっときほど時間がある。

さて・・、もういちど仁鶴を聴いても腹を抱えて笑えるだろうか、と考えた。

といっても、おなじものを聴くのではおもしろくない。幸い『青菜』は笑福亭仁鶴の十八番だけあって、たくさんの動画がアップロードされている。そのなかから、かなり若い時分のものを聴いてみることにした。

が、勢いがよすぎて、なんだかちょっとつまらない。

これでは〆にならんな。

ということで、もうひとつオマケで笑福亭仁鶴。時代がはっきりとはしないが、最初に聴いたものとあとのそれとの中間ぐらいとおぼしき声だ。

結果、笑い転げるとまではいかなかったが、じゅうぶん笑えた。

マクラをのぞくとわずか十数分ほどの噺だ。これだけの数を一日じゅう聴くと、江戸と上方のネタのちがいも含めて、話の筋は覚える。どこでどう笑わせるのかもわかる。

それでいてなお、聴いている者を笑わせるのは、一言であらわせば「芸」だということになるのだろうが、そこには聴く者の「好み」というものが色濃く反映され、一概に上手い下手だけが左右するものでもない。そしておなじ噺家がおなじネタを演じても、よかったりわるかったり、笑えたり笑えなかったりする。演者と演目と時と場所と、そのマッチングのおなじものは二度とない。

そんななかで、誰がいいとかわるいとか(箸にも棒にもかからないのは別として)、わたしのような「にわか」の身で評するのはおそれ多いもよいところだ。

そんなこんなを踏まえ、まこと落語という芸は趣深いなと思いつつ柚子の剪定をした。もちろん上機嫌で、である。


落語聴き比べ ~ 『居残り佐平次』

2021年12月17日 | 読む・聴く・観る

 

『居残り佐平次』を聴いた。

『文七元結』に味をしめて、聴き比べだ。

まずは、1993年の立川談志から。

 

落語 立川談志「居残り佐平次」

 

つづいて、演じた年代がいつかはわからないが柳家小三治。

十代目 柳家小三治【居残り佐平次】

 

ふたつだけの比較だと、圧倒的に小三治である。

この場合の談志は、「1992年の『文七元結』」がウソのように、なんだか冴えない。

なぜだろう?と思ったが、それを解明するほどの(落語に対する)知識も見識も経験も持ち合わせてはいないのだもの、考えるだけムダというものだ。

まあいい。

と、次を物色する。

こうなるとにわかには止まらない。

さてと・・

この前聴いた(観た)『文七元結』の至芸が目と耳に焼きついている。

やはり志ん朝は外せない。

 

居残り佐平次 古今亭志ん朝.wmv

 

1980年東横落語会とある。

威勢がいいし、キレがある。

みごとなものだ。

しかし、小三治の方がやや優位か。

そこは好みとしか言いようがない。

もっと晩年の志ん朝を聴いてみるべきだな。

と思いつつ、六代目三遊亭圓生をチョイスした。

Wikipediaいわく、

「大正時代には初代柳屋小せんの十八番とされ、それを学んで創意を加えた6代目三遊亭円生の高座が傑出していたと評される」だ。

聴かずにおけるか、てなもんである。

 

名作落語194 三遊亭圓生 居残り佐平次

 

これがじつに凄かった。

先に聴いた『文七元結』の圓生は、上手なのだが、なんだかのっぺりとしてつまらなかった。

それがだ。とても同じ噺家とは思えない。上手いしおかしいし面白い。絶品である。

もうこれでじゅうぶん。

お終いにしようと思ったが、『文七元結』の聴き比べで柳家喬太郎を選んだように、ここでも「今」の落語家をひとりぐらいは聴いておかなければ申しわけが立たない。誰に?と訊かれても困るが、そんな気がして春風亭一之輔を選んだ。

 

春風亭一之輔「居残り佐平次」

 

わるくない。

本人はわるくないが、わたしの順番がわるい。

圓生のあとならば、誰の『居残り佐平次』でもかすむだろう。

一之輔も、いのイチバンに聴いていれば、もっと異なる感想を抱いたのではないか。

ただ、志ん朝と圓生を聴いたときには、意味が半分しかわからなかったダブルミーニングのサゲ(オチ)への疑問が、[おこわ=おー恐]→[おこわにかける=計略にかけて人をだます]をマクラで解説した一之輔の工夫によって解消したことは、「ほほ~やるじゃないか。ナルホドそういう手があるのか」と感心した(談志と小三治は、現在では通用しない言葉だからだろう、それぞれ別のサゲに変えていた)。

 

ということで、落語聴き比べシリーズその2『居残り佐平次』の巻、とりあえず終了。

この前でうっすらとはわかっていたが、今回はっきりとしたことがひとつ。

前回も今回も、やれ誰がいい、やれ誰がわるい、とエラそうな能書きを並べてみたが、たった一席だけで、よいわるいの比較をするのはナンセンスということだ。

同じ噺家にしても、その場、その時、その年齢、それぞれによって、たぶん同じではない。

だが、あえてそれを承知で、やれ誰がいい誰がわるいとやるのも、落語という芸のひとつのたのしみ方なのではないか。

と、半可通どころか、いろはのイ、にわかのニ、にも届かぬ身でいながら、すっかり通を気取ってわけの分かったようなことを言ってしまったところでお終いとしたい。

この分だと、どうやらしばらくつづきそうではある。

 

 


『利他行動を支えるしくみ〜「情けは人のためならず」はいかにして成り立つか』( 真島理恵 )を読みはじめたこと

2021年12月11日 | 読む・聴く・観る

 

その本を読んでみたいと思ったのはタイトルに惹かれてだった。

ジャケ買いならぬ題買いである。

しかし、Amazonで8,250円というお代を見てぶったまげた。

そんな高価な本、いまだかつて買ったことがない。

中古品をのぞいて見ると一つだけ2,200円のものがあったが、そのコンディションを確認すると「良い」である。Amazonの中古本は、上から「ほぼ新品」「非常に良い」「良い」「可」というふうにそのコンディションがランク付けされているが、わたしは、なくて仕方がない場合をのぞいては「非常に良い」を買うことにしている。なのに「良い」である。それはまあよしとしても、2,200円という値段だ。(あくまでわたし周辺に限っての話だが)他人よりは本への出費が多いわたしであるが、ひとつの本の代金が2,000円超えの場合は、すんなりぽちっとはいかない。ちょっとばかり躊躇して、そして、どうしても欲しければ買う。それがいつもの流れである。今度のやつはどうか。そもそもがタイトルだけに惹かれているのだ。そうまでして買いたい本でもない。当然食指は動かない。

はずなのだが、8,000円のものが2,000円で買える、というところでキャッチされてしまった。絶対的金額ではなく相対的金額で安いと感じる。ああ、バカは死ななきゃ治らない。

ポチ。

 

ほどなくして届いた本の表紙には、「西合志町民図書館」と書かれたシールが貼っており、その上に「リサイクル本」という朱色のハンコが押してあった。地名の語感からすると鹿児島か?興味を抱いて調べてみると熊本県だった。かなり有名な図書館らしい(現在は合志市西合志図書館)。へーそうなんだ。だがまあそれはいい。リサイクル本っていうのは一体・・・そっちの方が引っかかる。ついでだ。これもまた調べてみた。

どうやら図書館で要らなくなり、そのままだと廃棄するしかない本を無料配布するシステムのようだ。そうなんだ・・。いっぱしの本読みを気取っているくせに、若いころから図書館というものを利用する習慣がないわたしは、たぶん図書の世界では常識なのであろうそのシステムについて、まったく知らなかった。

おもむろに、包装のシールを破り開いてみた。あらあら、まるきり読んだ形跡がない。新品同様、いやどうも新品のようだ。表紙の裏にある「貸出期限票」もまっさらのままである。さらにその裏には、「寄贈」という黒いスタンプが押されてあり、「22.3.24」という数字が書き込まれていた。おそらく平成22年3月24日に誰かから図書館に贈られたものなのだろう。

あれ?

本を買う際の記憶がよみがえった。

たしかこの本の発行日は・・・巻末でその日を確かめると、2010年2月28日とあった。買う前に、東日本大震災の前年に書かれたものなのだなと感じたのを覚えていたのである。

とすると、初版が発行されてひと月ほどのホヤホヤを誰かが図書館に寄贈して、そのまま誰にも読まれずに約10年の年月が経ったものが、リサイクル本となり、どこをどうやってか不明だが中古本屋の手に渡り、そこでも誰にも読まれずに、とうとうこの辺境の土木屋のところにやってきたというのかこの本は。まるでこのわたしに読んでくれと言わんばかりに。

そう思うと、少なからず興奮を覚えた。

では、と若干居住まいを正して読みはじめる。

 

******

人は、なぜ利他的に振舞うのだろうか。

(中略)

本研究の目的の要諦は、この利他性に関するパズルを適応論的アプローチを用いて解くことにある。

(P.1)

******

 

本のタイトルは『利他行動を支えるしくみ〜「情けは人のためならず」はいかにして成り立つか』。著者は真島理恵氏。

思いがけない、そしておもしろい出会いだ。

さて、わたしにとってこの出会いが奇貨となるか、ただの思い過ごしで終わるか。

いずれにしても、心して読もう。

 

 

 


(三代目古今亭志ん朝の)『文七元結』を聴く

2021年12月09日 | 読む・聴く・観る

 

『文七元結』を聴く。古今亭志ん朝の、である。

いやいや飽きないやつだね、と笑わないでほしい。

どうしても気になるところがあり、聴いてみることにしたのだ。

この前聴いたこれは

 

古今亭志ん朝(三代目) - 文七元結

 

いくつぐらいかはわからないが、けっこう若いころのものであり、それだけで評価するのは名人志ん朝に対して失礼ではないかと思ったからだ。

今回聴いたのはこれである。

 

【文七元結】 古今亭志ん朝

 

 

結果、小三治イチバン説を撤回する。

こと『文七元結』に関しては、わたしが聴いたなかでは古今亭志ん朝がナンバーワンだ。

しかし、談志別格説に変わりはない。

志ん朝はまことに上手い。いや、上手いというありきたりの表現は失礼ではないかと思えるほどの至芸である。だが、ウェットにすぎる。「人情」が勝ちすぎると言えばいいだろうか。物語が美しいのである。

人情噺だもの。それのどこがわるいと言われれば、なーんにもわるくはございませんと答えてアタマを下げよう。しかしこの噺は、そうでない方が相応しいとわたしは思う。

その点、談志はドライだ。

両者のちがいが際立っている一例をあげれば佐野槌の女将の人物描写だ。「いい人」を、これでもかというほど「いい人」に描く志ん朝と、行動と方法を見れば誰がどう考えても「いい人」なのだけれど、闇の世界の匂いをかすかに漂わせながら五十両を貸す談志の女将には、口には出さないが「どうせこの金、返ってはこないんだろうけどね」とでも思っているのではないか、という淡々として乾いた凄みがある。

肝心の主人公長兵衛はどうか。志ん朝の人物設定と描写は絶妙だ。どうしようもない人間が、身投げを救う場面では徳のある人物に変化し、最後はまた市井の凡夫に戻る。と書けば単純だが、他の話者よりはるかにボリュームがあって力点が置かれている吾妻橋の場面では、それが微妙に行きつ戻りつする様をみごとに表現している。一方、談志が描く長兵衛は、徹頭徹尾どうしようもない人間であり、そこに立川談志という人のこだわりがあるのはあきらかだ。

いやいやそれを、湿っている乾いていると表現するのはお門違いなのかもしれない。人情噺の王道とも言える「いい人」たちの物語を絶妙の話芸で紡いでゆく志ん朝に対し(といっても、それを単なる美談に終わらせないところが志ん朝の見事なところなのだが)、「いい人」だからそうしたのではなく「人間」だからそうなったとでもいうような物語にするべく腐心しているように思える談志。もしもどちらかを選べと言われれば、わたしは談志の『文七元結』に肩入れしたい。

そういうわたしが、『思いがけず利他』における中島岳志氏の『文七元結』観の影響をもろに受けているのは確実だし、そうである以上、『文七元結』を演じる落語家がどうのこうのと論じる資格はないだろう。

だが、古今亭志ん朝が演じる『文七元結』があまりにもすばらしかったから、感想を書き留めておこうと思った。それもまた、わたしにとっての「利他とはなんぞや」を考える行為の一貫だ。

何を言ってるんだよコイツは、とお思いかもしれないが、そういうことである。

 

 


(立川談志の)『文七元結』を聴く

2021年12月04日 | 読む・聴く・観る

 

【文七元結】 立川談志

 

 

『文七元結』を聴く。

立川談志、平成15(2003)年10月の高座(京王プラザホテル)である。

落語通でもマニアでもないくせに、こういうことを言うのもなんだが、わたしは長いあいだ立川談志という人の落語が好きではなかった。

なんというかその、あの早口と、時として聞き取りにくいあの口調になじむことができなかったのである。

「長いあいだ」という前フリをして、「好きではなかった」という結論へともっていくのはもちろん、今ではそうではないということに他ならない。変えさせてくれたのは『芝浜』だ。それがいつの時代のどの高座だったのか、しかとは覚えていないが晩年にはちがいない。ナルホドこれが、この人が名人だと呼ばれる所以か。まこと至芸とはこういうものを指して言うのだろう。そう思った。以来、「談志の落語は好きではない」などと口走ることはない。だがそう言いつつも、好んで聴くほどでもない。それがわたしと立川談志のあいだがらである。

そんなわたしが、居住まいを正して『文七元結』を聴いたのはなぜか。

先日読んだ、そして今また再読している、『思いがけず利他』(中島岳志)において折りにふれて顔を出し、基調となっているのが『文七元結』、しかも「立川談志の」『文七元結』であるからだ。

******

私が「利他」という問題を考える際、その核心に迫っていると考える落語の噺があります。「文七元結」です。

(P.14)

ポイントは、五十両と共に起動する「利他」です。父を助けようとする娘、長兵衛を助けようとする女将、文七を助けようとする長兵衛、そして近江屋の主人。利他的贈与が連鎖し、五十両が循環することで、みんなに幸福がもたらされます。

しかし、重要なことは長兵衛が必ずしも「根っからの善人」や「模範的な人間」ではないということです。

(P.17)

では、落語が重視するものは何か。それは「小義名分」である。そう談志は言います。

人間は小さな存在です。細かいことに執着し、嫉妬ややっかみを繰り返す。エゴイズムから逃れ出ることもできない。しかし、その「人間の小ささ」を大切にするのが落語であると、談志は主張します。

(P.28)

卑小なる人間の「業」を見つめ、温かく包み込むことで、存在そのものを肯定する。「いのち」を抱擁する。人間の不完全性を容認し、大らかなまなざしを向ける。そのことによってこそ、人間は救われる。談志は、これが落語のエッセンスだと言うのです。

(P.29)

ポイントは、長兵衛が文七に五十両を渡すことが「業の力」だということだと思います。そうでなければ「落語は業の肯定」だという談志の卓越した定義が破綻してしまいます。

私は、ここに「人間の業」と「仏の業」が同時に働いていると考えています。凡夫の「どうしようもなさ」という「業」が、「利他の本質」へと反転する構造こそ、「文七元結」の要だと思います。

(P.49)

自分はどうしようもない人間である。そう認識した人間にこそ、合理性を度外視した「一方的な贈与」や「利他心」が宿る。この逆説こそが、談志の追求した「業の肯定」ではないでしょうか。

(P.55)

「利他」というのは、何か単独で「利他」という観念が成立しているわけではありません。大きな世界観の中で、無意識のうちに、不可抗力的に機能しているものです。重要なのは、「利他」が「利他」と認識されない次元の「利他」です。

長兵衛は、霧の吾妻橋で、そんなところに立っていたのだと思います。

(P.57)

「文七元結」の長兵衛の行為は、与格的です。その行為は、意思の外部によって引き起こされた「衝動」であり、「業」としか言いようがないものです。立川談志は、この長兵衛の非合理性に人間の豊かさを見出し、晩年までこの噺を演じ続けました。

(P.97)

******

ここまで書かれて聴かずにおれるか?てなもんである。

そして聴いた、というわけである。

 

ちなみに、よせばイイのに野暮を承知で土木屋的うんちくをひとつ。

この噺、明治中期に三遊亭圓朝が創作したものだというから、舞台となった吾妻橋はこれ。

 

 

『墨田花吾妻賑』(楊州周延作)

 

 

明治20年に掛け換えたばかりの錬鉄プラットトラス橋ではないだろうか。

あるいは、作者である三遊亭圓朝が馴染んていたのは、その先代。明治9年に架設したが、洪水により、そのわずか9年後には流出してしまったという西洋式木橋(方杖橋)かもしれない。

 

 

『大川の景 あずまばし』(三代歌川広重作)

 

しかしやはり、どうせなら江戸期の橋をイメージしてたのしみたい。

 

 

『隅田川八景 吾妻橋帰帆』(歌川広重作)

(以上浮世絵は、『東京人』july 2020、 特集「橋と土木」より)

 

というのは、噺を聴いたあとで調べてわかったこと。

こうなりゃどうでも、もいちど聴かずにゃいられない。

聞くとこの噺。演者によって様々な解釈がなされ、改作されているという。

YouTube をさらっとながめただけでも、志ん朝、志ん生、圓生に小三治、いずれ劣らぬ名人上手の高座が並んでいる。

さて、どうしたものか?

しばし思案ののち、やはりふたたび談志だと決めた。

『思いがけず利他』に書かれているのは、なんといっても「立川談志の」という括弧付きの『文七元結』であるのだもの。著者に敬意を表する意味でも、もひとつ聴いてから他を、という順序にするべきだろう。

ということで、あしたの朝あたり。

(立川談志の)『文七元結』。

もいちど聴いてみようか。

 

 

 


「なにかわかると考え方というのもわかる」(土井善晴)

2021年11月29日 | 読む・聴く・観る

 

『利他と料理』(を読んだ。

利他つながりの中島岳志さんつながりだ。

土井善晴さんという人については、顔というよりもあの語り口の方にわたしの印象がかたよっている。わるい印象ではない。かといって、好ましいというレベルかと言えばそれほどでもない。という程度のものだ。

ところがどっこい。その土井善晴さんが、おもしろい人かつ凄い人物であるということが、この対談本によってわかり、いっぺんにファンになってしまった。

内容はこの本の出版元であるミシマ社がつごう2回にわたって開催した中島土井両氏によるオンライン対談で、その視聴者との質疑応答も掲載されている。

そのなかに、「水から茹でる、お湯から茹でる、切ってから茹でる、切らずに茹でるなどなどの基準はあるのか?」という問いがあった。土井氏の答えはこうである。

「もうね、こんなん、ぜんぶ正解ですよ」

読んだだけで耳の奥であの口調が完全再現されるのだから、考えてみれば強烈な個性ではある。

そのあとにつづく言葉を引用してみよう。

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ぜんぶ正解だけども、基本的に覚えておくのは、根のものは水から茹でる。青いものは熱湯で茹でる。根のものはデンプン質なんです。れんこんだって、ものすごい粘りのあるデンプンがとれる。そういうものを熱いところに入れたら、デンプンがぜんぶ凝固して、火が通らないようになってしまうんです。

******

この次のひと言がポイントだ。

いわく、「なぜかを知っておくと自分で判断できる」。

引用をつづけよう。

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小さく切ったときは熱が伝わりやすいから、湯に入れるとか。大きく切ったら時間を稼げるとか。煮汁がどれだけ煮詰まるんだとか。緑のものだったら、色を優先させるんだったら切ってから短時間で茹でる。そのかわり栄養価はなくなりますよ。でも、見た目を優先するとき、色が変わってもいいときがあります。味噌汁なんか、青いものもみんな水から茹でますよ。煮立ってから入れなくてもいい。なぜか?量が少ないと短時間で火が通るから、最初(水)から入れても問題なしと、考えます。

(P.150〜151)

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そうつづけたあと、最後にこの答えのなかでもっとも重要な言葉が飛び出す。

 

考えてみてください。

考えたらわかりますよ。

なにかわかると、考え方というのもわかる。

 

これを単に「茹で方」あるいは料理についての指南だと受け取ると、この言葉がもつ意味あるいは価値を真に理解することはできない。

ではこれは、なにをあらわそうとした言葉なのか。

答えに代えて土井さんの言葉をもう一度繰り返してみることとする。

「茹で方」の個別事例は脳内から除外して読んでみてほしい。

 

「考えてみてください。考えたらわかりますよ。なにかわかると、考え方というのもわかる」

そして

「なぜかを知っておくと自分で判断できる」

 

そういうことである。

金言だと思う。

特に若い人にとっては。