浅田次郎のエッセイ集『ま、いっか。』を一日一編ずつ読んでいる。
なかに『「目だけ美人」の氾濫』というエッセイがあった。
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小説家の仕事の基本は人間観察である。ともかく人間の心理と行動を正確に描き出さねば小説にならないので、無遠慮な観察がすっかり習い性になってしまった。
そうこうするうち、このごろ美人顔の重要ポイントを発見した。長いこと美人は「目」だと思っていのだが、どうもそうではないらしい。世界に冠たるお化粧大国であるわが国には、「目だけ美人」が多いのである。
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冒頭の入り方ひとつをとっても、さすが現代日本で指折りの手練れだ。じつに上手い。ついつい惹き込まれてしまう。
だが、ナルホドとわたしが深くうなずいたのはその文章ではなく内容だ。
つづきを引いてみる。
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むろん、淋しげな一重瞼にも美人はいる。多少お肌が荒れていようが、エラが張っていようが鼻が低かろうが、やはり美人は美人なのである。では、彼女らに共通する重要ポイントとはどこであるかとさんざ思いめぐらした末、それは「口元」にちがいないとようやく気付いた。
いかに目鼻が秀でていようと、肌が美しかろうとパーツの配列が正しかろうと、口元が悪ければすべて悪い、とまで言える。しかも、そういう「惜しい不美人」がすこぶる多いところをみると、おそらく化粧では修正しづらい部分なのではあるまいか。
厳密にいうと、「口」ではなく「口元」である。
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得たりと膝をうったわたしがそれに気づいたのは、マスク着用が常態となったコロナ禍という今だからである。
まず、その考えが行き着いた先のひとつとして、去年の12月にこんな仮説を書いてみた。
→ 『「目は口ほどにものを言う」を否定する』
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たしかに、なにかの感情をあらわすときに目が果たす役割は大きい。感情があらわれやすい部位が目であると言ってもいい。だが、性格や人柄がストレートに目にあらわれるかと言えば、そうでもない。言い方を換えれば、目が汚い人はそれほど多くはない。いかにダークサイドを身体の内に抱えていようとも、よほどの悪人でもないかぎり、そのダークサイドは目単体にはあらわれにくい。
ではそれはどこにあらわれるのか。
口とその周辺である。
それが、みんなの顔の半分ほどがマスクによってすっぽりと覆われてしまったこの2年間を経て、わたしが立てた仮説である。
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つづいて、その舌の根が乾くまもない2日後。
あるひととの出会いがあって、次のように持論を修正した。
→ 『目でも口でもなくバランスなのだということに気づいたこと』
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その人のマスクなしの顔は、まったく想定外だった。目だけから受ける印象で描いた顔のイメージと、その下半分がまったく異なっていたのである。
わるくはない。どころか、逆に好印象を抱いた。声と顔と口調とのバランスがとてもよかった。
即刻持論を否定した。
バランスなのである。
と言っても、バランスよく整っているという意味でのバランスではない。目と鼻と口という各パーツの配置が整っていなくてもよい。全体として醸し出されるものが、その人の個性となって魅力的な表情になっていればよいという意味でのバランスである。
考えてみればそりゃそうだ。
目がよいだの口まわりがよいだの鼻がよいだの、あるいはその逆に、目がよくないだの口まわりがよくないだの鼻がよくないだのといっても、一つひとつが独立してあるわけではない。顔というものはそれらの総合体としてあり、かてて加える重要な要素として内面というやつが、もれなく反映されて出てきてしまうものだ。
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浅田次郎もわたしも、「目だけ」ではないという点では一致している。
そして、「要はバランスなのだ」と唱えるわたしも、もっとも重要なのが「口とその周辺」であるという持論を捨てたわけではない。それゆえの「得たり」である。
ところで、氏は「目だけ美人」が多くなった理由をこう説明している。
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人間はおのれの力を発揮しようとするとき、それが筋肉の力であれ頭脳の力であれ、必ず奥歯を噛みしめて唇を結ぶ。日常生活の中でそういう必要がないから、口元の緩みが地顔になってしまった。かくて「目だけ美人」がヨに氾濫したのである。
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してみると、奥歯を噛みしめて四十有余年、とうとう「への字」が常態となってしまったわたしの口とその周辺も、あながちわるいものでもないのかも。そう思い、あらためて鏡を見てみる。
いや、やはりソレとコレとは別物だ。
苦笑いして、すぐに背を向けたのは言うまでもない。