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答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

『やかん』(立川談志他)を聴く

2022年05月28日 | 読む・聴く・観る

 

立川談志の『やかん』を聴こうとしたが、一直線で談志に行くのは芸がないと思い、十代目文治、圓生、三代目金馬、志らく、とつづいて談志の『やかん』をふたつ。

『やかん』。いわゆるダジャレ噺である。といっても、そのようなジャンルがあるかどうかは知らないが、のようなものである。

例をあげる。

平たいところに目があるからヒラメ。

方々を泳いでいるからホウボウ。

こっちへ泳いでくるからコチ。

ウナギは昔、ヌルといったが、あるとき、のみこもうとした鵜(う)が、長いので全部のみこめずに難儀したから、鵜難儀、うなんぎ、ウナギ。

こういうのが延々とつづく噺だ。

談志の落語が他の噺家とは、まるで異なったものであると同様、あるいはそれ以上に、談志の『やかん』は他者の『やかん』とはまったくちがったものである。

特に圧巻なのは、次のようなところだ。

 

学問ってなんでするの?

貧乏人の暇つぶしだよ。

 

努力ってのは?

馬鹿にあたえた夢だ。

 

若者には前途がある。

ない。時間があるだけだよ。

 

怒りは?

共同価値観の崩壊。

 

尊敬は?

価値観が同一してる部分があるだろう?映画であろうが音楽であろうが天文学であろうが、なんであろうが。その価値観に対する憧憬が深い場合、これを埋める行為を尊敬っていうんだ。

 

好みではあろう。ただ、わたしのような理屈っぽい人間には、たまらないおもしろさがある。聞けば、晩年はよくこの噺を高座にかけたのだという。

『やかん』

バカバカしいが、じつにおもしろい。

もとい、バカバカしいから、まことにおもしろい。

 

 


『土木技術の古代史』(青木敬)を読む

2022年05月23日 | 読む・聴く・観る

 

 

 

 

土木屋としては、あとどれぐらいの寿命があるのかわからないなか、今さらではあるが、あらためて「土木」について勉強してみようと思いはじめている。

という流れで、『土木技術の古代史』(青木敬、吉川弘文館)を読む。

ごくごくかいつまんで書くと、土木技術のなかでも「土を盛る技術」に着目し、それがどのように、また、どういうキッカケで変化していったのか、歴史的な背景をたどっていくという筋書きの本である。

なかに、「築堤と道路敷設ー敷粗朶・敷葉工法の導入ー」という項がある。敷粗朶・敷葉工法とは、現在でいうところのジオテキスタイル工法やテールアルメなどがそれに当たる。盛土のなかに敷いたジオテキスタイルや帯鋼補強材と盛土材との摩擦力による効果で、盛土の強度を高め安定を図る工法だ。

テールアルメといえば、昨年、うちの会社でもその施工を行ったところだが、その際、担当者がインターンシップに訪れた生徒用に、その原理と歴史を説明した資料がなかなかに秀逸だったのを思い出した。それによると、1963年にその工法を考案したのは、フランスのアンリー・ビダールという人で、砂山に松の葉っぱを差し込むと、なにもしない砂山より高い砂山がつくれることを見つけたビダールが、その「補強材と土のあいだに働く摩擦力により粘着力が加わったような盛土材となる」という性質を利用して考案したのだという。それを聞いたとき、「ほぉ~ナルホド。アンリー、アタマがいいじゃないか」と、妙に感心したものだ。

ところが、この書によると、日本列島では古代より、百済から伝えられたであろうところの、切りとった木の枝を敷きつめる敷粗朶工法、あるいは、枝葉や草本を敷きつめる敷葉工法が使われており、その代表例として、『日本書紀』に記事がみえる福岡県水城をあげている。それどころではない。当然といえば当然かもしれないが、中国には百済からさらにさかのぼる例が存在し、確認されているものだけで後漢代までさかのぼることができるという。

なにがフランスだ。なにがアンリー・ビダールだ。こちとら古代だぞ。なんて思いながら読み進めた。すると、「敷粗朶・敷葉工法は古代の主要道路造営時に広域で導入されていた」旨が書かれていた。

あれ?

古代道路といえばたしか・・・

わたしの場合、土木系の本は、たいがいは本棚のなかでもすぐ目につくところへ置いてある。探すまでもない。

手にとったのは『古代道路の謎』(近江俊秀、祥伝社新書)という本だ。目次を見る。「古代道路の工法」という章があった。

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 これ以外には、敷葉工法と呼ばれる工法が古代道路で認められている。これは、古墳時代に朝鮮半島から日本に、池の堤を造るための工法として伝来したようである。軟弱な地盤の上に、葉のついた木の小枝を大量に敷き、その上に土を盛り、一定の高さに積んだら、再度、木の小枝を敷き、その上に盛り土を行なう。

 この工法を繰り返す工法であり、木の小枝を敷くことによって、ぬかるんだ土と盛った土とが混ざることを防ぐとともに、地下水をそこで吸収するという意図があったと考えられる。木の枝の層は、盛った土の重さを分散させるクッションの役割をはたすとともに、盛り土全体が崩れることを防止する。

(P.117~118)

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わかりやすいことこの上ない解説だ。そして、あろうことか蛍光ペンでマークされている。

誰が?

もちろん、このわたしだ。

嗚呼、なんということだろう。既にインプット済みの知識だったのである。それなのに・・・カンペキに失念していた。

こんな頭脳で「今さらではあるが、あらためて土木について勉強してみようと思いはじめている」とは。やるだけムダなのではないか。

だが、おのれに対する嘲りと深い失望は、すぐに笑いに変わった。

なにも今にはじまったことではない。これまでもそうだった。たぶん、これからもそうだろう。どうせその程度でしかないのだ。

であるならば、発起発心したことをやめることはないし、やめる理由にもならない。

ということで、今さらではあるが、あらためて土木について勉強してみようと思いはじめている今日このごろなのである。

 

 

 


『論考 日本中世史』(細川重男)を読む

2022年04月28日 | 読む・聴く・観る

 

『鎌倉殿の13人』を毎週たのしんで観ている。しかも没入しきっているのだから、相当気に入っていると言っていい。

大河ドラマにこれほど肩入れするのはいつ以来だろうと指折り数えさかのぼってみると、『真田丸』まで行き着いた。

やはり三谷幸喜である。

たぶん「好き」なのだろう。

巷間ささやかれているように、あれが史実かどうかと言えば、かなりあやしい箇所も多々あるように思えるが、あれはいわゆる「歴史物」、つまり歴史に題材をとった群像劇であって、エンターテインメントとして見ればなんの問題もない。どころかむしろ、「歴史もの」だと開きなおれるからこそ、あの演出や表現が可能なのであって、現代劇であれをやられても、とても見れたものではないのだろう。

通常の「大河」は、そこらあたりが中途半端であるゆえに、何回か見たら興ざめしてしまう。そしてそのうち見なくなる。というのがわたしのパターンだが、どうやら今回は、ずっと観ることになりそうな気配である。

そんな「鎌倉殿」つながりで、『論考 日本中世史』を読んだ。あきらかに「鎌倉殿」がなければ読むことのなかった本である。あいかわらずのミーハーさ加減には笑うしかないが、ま、それもまた、「読む」のれっきとした一形態だ。そんな「本読み」があってもいい。

で、あっというまに読んだ。ごめんなはり線奈半利駅を後免駅で乗り換え、鉄路高松へ向かったというシチュエーションのおかげもあるが、久々にばりばりっと本を読めたそのイチバンの要因は、「おもしろい」ということだろう。原書のヤンキー語風現代訳あり、替え歌ありと、シッチャカメッチャカのようでいてそうではない、ように思えて、やはり、わたしのようなシロートにはシッチャカメッチャカだとしか思えないのだが、たぶんそうではないのだろう。いやきっとそうではないはずだ。という意味も込めて、「おもしろい」本である。

そんな『論考 日本中世史』の「あとがき」で、細川氏はこんなことを書いている。

いたく気に入ったので紹介したい。

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大学教員・大学院生の中には、「歴史研究をしている」だけで自分を「偉い」と思い込み、一般の歴史愛好者を見下しているヤツらがいる。露骨に態度に示すヤツもいれば、外面はフレンドリーな態度をとりながら腹の中真っ黒というヤツもいる。いずれにしろ、こーゆーヤツらの研究に限って、たいしたことない。

バッ!カ!じゃなかろか!ラーメン屋がラーメン屋であるだけで、

「オレはラーメン屋だ!」

と威張っていたら、バカだろう?ラーメン屋さんが威張ってよいのは、おいしいラーメンを作った時である。

(略)

オレのこのラーメンを一人でも多くの人々が「うまい!」と言ってくれることを願ってやまず候。

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いかがだろうか。

既にこの本を読了したわたしは、いかにもこの本の著者らしいこの言説に、もろ手を挙げて同意する。もし、興味を示された方がいたら、一読を勧めたい。

 


読めない日々

2022年03月27日 | 読む・聴く・観る

 

相変わらず本が読めない日がつづいている。

といっても、読む時間がないわけではなく、読もうとしても読む気力がわいてこないというやつだ。

と言うと、「本などというものは“気力“で読むものなのか?」と訝しがる向きがあろうが、その“気“があっても、その“気“に“ちから“がなければ持続できないという意味でいけば、「本読み」という行為には、まさに「気力」が必要欠かさざるものだ。

とはいえ別に、無理して読まなければならないものではない。だが、長いあいだ「本を読む」日常があたりまえのものとしてあった身としては、どうにかして読んでやろうと、ついつい足掻いてしまった挙句、アッチをかじっては放り投げ、コッチをかじってはまたほっぽらかしで、わたしのKindleライブラリは、中途半端に食い散らかした本たちであふれかえっている。

つい先日などは、『本を読めなくなった人のための読書論』(若松英輔)という名の本を見つけ、「お、これだよこれ」と手を伸ばしたはいいが、その冒頭にあった「本を読めなくなったときは“書く“とよい」という主旨の一文を読むなり、その本を閉じてしまった。

確かに、わからないではない。だが、それはわたしに必要とされるソリューションではない。

とはいえ、著者にもその主張にも、なんの落ち度もないことは言うまでもない。そこから先をじっくりと読んでいけば、ふむふむナルホドということがきっとあるはずだ。全編を通して感動の嵐のオンパレード、ページをめくる手が止まらないということは、よほどおもしろい小説でもない限り、まずめったにあり得ない。だから気力と粘りがなければならない。余人は知らず。わたしにとっての「本読み」とは、そういうものである。

そんな近ごろのわたしが、きのう、性懲りもなくまた手を出した。

久方ぶりに早く帰り、ゆっくりと風呂にでも浸かりながら、さて落語を聴こうか、それとも本を読もうか、と思案したあと、ライブラリに「積ん読」していたのを思い出したものだ。

「はじめに」「目次」とつづき、『春』という初章に入るその入り口に

「人間の知恵の価値など風にそよぐブナの木にも及ばないと知ることにこそ、本当の喜びはある。」

というリチャード・パワーズの言葉を紹介しているその本の名は、『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』(森田真生)。

二割ほど読み進めたところに、その言葉のつづきが引かれていた。

「頼りになるのは、謙虚さと観察だけ。」

つないでみる。

「人間の知恵の価値など風にそよぐブナの木にも及ばないと知ることにこそ、本当の喜びはある。(・・・)頼りになるのは、謙虚さと観察だけ。」

 

そのくだりを読み、うむとうなずき本を閉じた。

その気に「ちから」がともなってきたのを、はっきりと感じることができる。

最後まで読めそうだ(たぶん)。

 


好み

2022年03月16日 | 読む・聴く・観る

 

相も変わらず落語を聴いている。

備忘録として2月初めぐらいから聴いたものを書き留めているので、この10日間のそれを列挙する。

・宿屋の仇討ち 

  春風亭一之輔

  三代目桂三木助

  十代目柳家小三治

  立川談志

・宿屋仇(「宿屋の仇討ち」と同じ)

  桂米朝

  桂文珍

・御神酒徳利 

  三代目桂三木助

  春風亭昇太

  桂文珍

  五代目柳家小さん

  十代目柳家小三治

  三遊亭圓生

  三遊亭圓生(つづけて別のやつを聴いた)

・三井の大黒

  三代目桂三木助

・味噌蔵

  三代目桂三木助

  十代目桂小三治

  立川談志

・火事息子

  十代目桂三木助

  三遊亭圓生

・秋刀魚火事

  十代目桂三木助

・唐茄子政談

  古今亭志ん朝

・三年酒

  桂米朝

・八五郎出世

  立川志の輔

  三遊亭圓生

・妾馬(「八五郎出世」と同じ)

  古今亭志ん生

  柳家花緑

・道具屋

  三代目桂三木助

  桂米朝

・包丁

  三遊亭圓生

  桂文珍(包丁間男)

 

だからどうということもないのだが、こう列挙してみると、演者にせよ噺にせよ、好き嫌いが傾向としてはっきりとあらわれてきているのが、我ながらおもしろい。

演者としては、鬼籍に入ったひとでいけば、圓生、三木助(三代)、米朝、小三治。志ん朝も好きだが今はあえて避けている。談志は・・・好きなのかどうなのかがよくわからなくなってきた(笑)。現役では、志の輔、文珍。これについてはあまり数を聴いてないので、もっと他にこれはというひとがこれから見つかるかもしれない。

演目としては、上に書いたものでいえば、これはその数で一目瞭然。「御神酒徳利」と「宿屋の仇討ち」だ。

いずれにしても、「好ましい」という思いを持つような噺や落語家を聴くのが、「たのしみ」としては王道だろう。

あゝ三木助はいいなあ。

あゝ圓生は上手いなあ。

あゝ米朝は見事だなあ。

そういう思いに浸りながら聴くのは、精神衛生上、すこぶるよいものでもある。

だが、そこでわたしの変な一面が、どれどれごめんなさいよ、と顔をのぞかせる。

それでは偏ってしまっておもしろくないだろうが。そうそそのかす。

素直ではない性格が、こんなところにも顔を出す。

さてどうしたものか・・

別に、そのときの気分で聴きたいものを聴けばよいだけのことなのだ。

それなのに・・・

困ったものだ。

 


『「目だけ美人」の氾濫』(浅田次郎)を読む

2022年03月14日 | 読む・聴く・観る

 

浅田次郎のエッセイ集『ま、いっか。』を一日一編ずつ読んでいる。

なかに『「目だけ美人」の氾濫』というエッセイがあった。

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 小説家の仕事の基本は人間観察である。ともかく人間の心理と行動を正確に描き出さねば小説にならないので、無遠慮な観察がすっかり習い性になってしまった。

 そうこうするうち、このごろ美人顔の重要ポイントを発見した。長いこと美人は「目」だと思っていのだが、どうもそうではないらしい。世界に冠たるお化粧大国であるわが国には、「目だけ美人」が多いのである。

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冒頭の入り方ひとつをとっても、さすが現代日本で指折りの手練れだ。じつに上手い。ついつい惹き込まれてしまう。

だが、ナルホドとわたしが深くうなずいたのはその文章ではなく内容だ。

つづきを引いてみる。

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 むろん、淋しげな一重瞼にも美人はいる。多少お肌が荒れていようが、エラが張っていようが鼻が低かろうが、やはり美人は美人なのである。では、彼女らに共通する重要ポイントとはどこであるかとさんざ思いめぐらした末、それは「口元」にちがいないとようやく気付いた。

 いかに目鼻が秀でていようと、肌が美しかろうとパーツの配列が正しかろうと、口元が悪ければすべて悪い、とまで言える。しかも、そういう「惜しい不美人」がすこぶる多いところをみると、おそらく化粧では修正しづらい部分なのではあるまいか。

 厳密にいうと、「口」ではなく「口元」である。

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得たりと膝をうったわたしがそれに気づいたのは、マスク着用が常態となったコロナ禍という今だからである。

まず、その考えが行き着いた先のひとつとして、去年の12月にこんな仮説を書いてみた。

→ 『「目は口ほどにものを言う」を否定する

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たしかに、なにかの感情をあらわすときに目が果たす役割は大きい。感情があらわれやすい部位が目であると言ってもいい。だが、性格や人柄がストレートに目にあらわれるかと言えば、そうでもない。言い方を換えれば、目が汚い人はそれほど多くはない。いかにダークサイドを身体の内に抱えていようとも、よほどの悪人でもないかぎり、そのダークサイドは目単体にはあらわれにくい。

ではそれはどこにあらわれるのか。

口とその周辺である。

それが、みんなの顔の半分ほどがマスクによってすっぽりと覆われてしまったこの2年間を経て、わたしが立てた仮説である。

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つづいて、その舌の根が乾くまもない2日後。

あるひととの出会いがあって、次のように持論を修正した。

→ 『目でも口でもなくバランスなのだということに気づいたこと

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その人のマスクなしの顔は、まったく想定外だった。目だけから受ける印象で描いた顔のイメージと、その下半分がまったく異なっていたのである。

わるくはない。どころか、逆に好印象を抱いた。声と顔と口調とのバランスがとてもよかった。

即刻持論を否定した。

バランスなのである。

と言っても、バランスよく整っているという意味でのバランスではない。目と鼻と口という各パーツの配置が整っていなくてもよい。全体として醸し出されるものが、その人の個性となって魅力的な表情になっていればよいという意味でのバランスである。

考えてみればそりゃそうだ。

目がよいだの口まわりがよいだの鼻がよいだの、あるいはその逆に、目がよくないだの口まわりがよくないだの鼻がよくないだのといっても、一つひとつが独立してあるわけではない。顔というものはそれらの総合体としてあり、かてて加える重要な要素として内面というやつが、もれなく反映されて出てきてしまうものだ。

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浅田次郎もわたしも、「目だけ」ではないという点では一致している。

そして、「要はバランスなのだ」と唱えるわたしも、もっとも重要なのが「口とその周辺」であるという持論を捨てたわけではない。それゆえの「得たり」である。

ところで、氏は「目だけ美人」が多くなった理由をこう説明している。

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 人間はおのれの力を発揮しようとするとき、それが筋肉の力であれ頭脳の力であれ、必ず奥歯を噛みしめて唇を結ぶ。日常生活の中でそういう必要がないから、口元の緩みが地顔になってしまった。かくて「目だけ美人」がヨに氾濫したのである。

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してみると、奥歯を噛みしめて四十有余年、とうとう「への字」が常態となってしまったわたしの口とその周辺も、あながちわるいものでもないのかも。そう思い、あらためて鏡を見てみる。

いや、やはりソレとコレとは別物だ。

苦笑いして、すぐに背を向けたのは言うまでもない。

 


『弱さのちから』(若松英輔)を読んでみようか

2022年03月05日 | 読む・聴く・観る

 

つい数日前、ひどく気分が落ち込んだことがあった。

原因は自分自身の言動にある。

64年も生きてきて、ついにこの程度の人間にしかなれなかったのかオレは。と思うと残念でならず、落ち込んだ気分のまま眠りにつき、それをそのまま引きずった朝、なにを読むというあてもなく開いたKindleライブラリで『弱さのちから』という本を見つけた。

「見つけた」というのは、あまりにも他人事な表現である。

もちろん、買ったのは当の本人だ。買った覚えもたしかにある。しかしそれは、まさに偶然見つけたかのような感覚でわたしの目に飛び込んできた。

著者は若松英輔氏。『「利他」とは何か』(伊藤亜紗、中島岳志、國分功一郎、若松英輔、磯崎憲一郎)の執筆者のひとり、というつながりで買っておいたが、読まずにKindleライブラリで眠っていたものだ。

じつは、今年に入ってほとんど本を読んでない。浅田次郎の小説がふたつに、「利他」に関する研究書をひとつ。丸2ヶ月で、最後まで読みおおせたのは、そのわずか3冊に過ぎない。そしてただ今進行中なのが、藤沢周平の短編集と浅田次郎のエッセイ集。それを一日一編ずつ交互に読んでいる。

読む気が起こらないのだ。

しじゅう落語を聴いているから、という物理的な影響もたしかにある。しかし基本的には、読む気が起こらないという気分に起因するところが大きい。

そんな今のわたしが、久々に「読んでみよう」と思った。

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私たちは、強くあるために勇気を振り絞ろうとする。だが、残念ながら、そうやって強がろうとしても勇気は湧いてこない。それは自分の「弱さ」と向き合いつつ、大切な人のことを思ったとき、どこからか湧出してくる。

(P.6)

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何気なく読んだ本が、ココロのなかに溜まっていた澱やアタマのなかで淀んでいた靄を払ってくれることが、たしかにある。

『弱さのちから』

ぼちぼちと読んでみようか。

 

 


『壺算』を聴く(桂米朝一門ほか)

2022年03月04日 | 読む・聴く・観る

 

このようなことを、プロの土木技術者が口にしてよいものかどうか。チト悩むところだが、そこはそれ、「晒し」の世界に身を置いているのだ。ええいママよと白状する。

わたし数学が苦手である。

たぶん算数も苦手である。

計算問題が苦手といった方が適切だろうか。

子どものころからの苦手のたいていは、「嫌い」に昇格する。わたしの場合もその例にもれない。

それなのに、よく土木技術者でございと、しかもアイ・アム・プロフェッショナルだと胸を張っているなと思われるかもしれないが、それがなんとかなってしまうというところが、「土木」という仕事の奥深さ。もちろんそれについては、人に言えない苦労や艱難辛苦があったにせよ、まあとりあえずここまでなんとかやってきた。

そんな辺境の土木屋が落語『壺算』を聴く。

笑福亭仁鶴

桂枝雀

桂南光

桂米朝

の順にである。

 

以下、あらすじだ。

買い物上手の徳さんが瀬戸物屋で一荷入り(※)の水壺を買う。3円50銭がビタ一文もまからないという番頭の言い値を上手に言いくるめ3円で手に入れる。

壺をいったん持ち帰るふりをして店を出た徳さん、「欲しいのはニ荷入り(※)だった」とふたたび戻り、本来は一荷入りの倍、すなわち3円50銭×2=7円の壺を、自身の一荷入り購入金額を倍した6円で買うことに成功する(この時点で7円ー6円=1円のもうけ)。

~ ※一荷入り:「一荷とは、天秤の両端にかけて、一人の肩にになう荷物。また、一人が肩にかつげるだけの荷物」(『精選版日本国語大辞典』より)。したがって「一荷入りの水壺」とは、一人が肩にかつげるだけの大きさの壺。ニ荷入りはその2倍。 ~

そのあと、一荷入りは必要なくなったからと下取りを持ちかけ、3円で下取りさせることに成功する(この時点で最初に払った3円は番頭の手元にある。下取りについては金のやり取りはない。つまり現金は店側に3円あるのみ)。

ニ荷入りの代金は6円。先に払った3円と下取り金額の3円を合わせると6円。したがってこれで取り引き成立と、徳さん、まんまと7円の壺を3円でせしめてしまう。

 

このカラクリが、しばらく理解できなかった。徳さんの計算にまちがいはないではないか、と首をひねった。

寝入りしなに仁鶴を聴き、わからないまま、翌朝イチバン、枝雀の速射砲で早朝からアタマがこんがらがり、だから数学(算数)はイヤなのだと、浮かない気分のわたしに、おぼろげながら光明を見せてくれたのは、つづけて聴いた桂南光だ。その演出で南光は、あえて「下取り」をキーワードとして口にしてくれている。ひょっとしたら仁鶴と枝雀も言っていたのかもしれないが、わたしは気がつかなかった。そうなれば、あとは確信を得るだけだ。トリは一門の総帥、名人桂米朝。ここに至ってようやっとわかった。

まったくもってアタマがわるいとしか言いようがない。だがそこはそれ、「聴き比べ」の利点である。同じ噺をちがう演出で何度も繰り返し聴いていると、その趣旨や内容が自然とアタマに入ってくる。

バカはバカなりに方法がないわけではない。そのひとつがあきらめないこと。そしてとにかく粘ってみること。数学(算数)ぎらいが土木屋として生きてきた来し方に思いを馳せ、そんなふうに思った朝だった(考えてみれば、ただアタマがわるいだけで、「来し方」だの「思いを馳せ」だのと、そんなたいそうなことではない)。

 

 

ちなみに、その日の昼休みに聴いたのは、同じ噺を米朝一門(桂米朝、枝雀、南光)が一同に会して演じたらどうなるか、というのをそれぞれの高座の録画を切ったり貼ったりして編集した動画である。

 

米朝一門で演じる「壷算」

 

労作だ。

よくぞこしらえたものだとアタマが下がる。

もちろん邪道にはちがいないし、それぞれ(特に米朝はあいも変わらない名人芸)個別の方がよいのだが、とにかく可笑しくおもしろい。そのなかでも、米朝と南光のかけ合いが、ぴたりと息があっていて、じつによいのだ(実際にやっているわけではないのでその表現が適切かどうかはわからないが)。

興味がある方はぜひ。

笑えるよ。

 

 

 


立川談志『日本の笑芸百選』を聴く

2022年02月24日 | 読む・聴く・観る

 

布団に入り、夕方思いがけず見つけた、立川談志『日本の笑芸百選』を聴く(正しくは観るなんだろうが、気分はやはり「聴く」なんだな)。

 

片手ずつ手と手合わせて

あゝもったいないと

ふたりで拝んだ窓の月

 

音曲師柳屋小半治の都々逸なのだという。

なんてすてきなラブソングなのだと、起きあがり、カーテンをチラとあける。

残念ながら月はない。

仕方ないなと、また布団にもぐりこみ、『日本の笑芸百選』を聴く。

こんなに生き生きとした談志には、ちょいとお目にかかれないのではないか。

熱弁・・と表現してはあまりに浅い。

はて・・・

愛か?

近い。

近いが、しかし、それもまたなんだか薄っぺらい。

で、すぐに考えるのをやめ、浸った。

「日本の笑芸」を語る談志の話芸にである。

落語よりおもしろい、と言えば「家元」に対してあまりにも失礼か。

しかし、本当にそう思ったのだもの、仕方がない。

ひょっとしてこの人は、こういう仕事がイチバンしたかったのではあるまいか。

そう感じつつ、立川談志『日本の笑芸百選』を聴いた。

いや、じつにおもしろかった。

 

 

【立川談志】日本の笑芸百選

 

 

 

 


『紺屋高尾』を聴く(立川談志ほか)

2022年02月17日 | 読む・聴く・観る

 

「愚直」という言葉をきくと、いつもいつでもココロのなかに違和感が残ってしまう。

たとえば「愚直にやってきた」とか、またたとえば「愚直にやるしかない」とか、またまたたとえば「愚直なだけがとりえです」とか、つまり、自らのことを「愚直」と表現する人に違和感を覚えるのである。

かといって「愚直な人」がきらいなのではない。けっして好きだとは思わないが、きらいではない。正直で一途な人を見ると、うらやましいなと感じることがたしかにある。

おそらく、いつも感じる違和感は、自分で自分のことを「愚直」と評する人が本当に「愚直」であった例に遭遇したことがないからだろう。そして、そういう人たちが使うときの「愚直」が、決まって自己肯定の言葉だからだろう。

「愚直」とは、一途で正直ゆえに愚かで気が利かない様を言う。けっして肯定的な言葉ではない。したがって、真に「愚直」な人間は自らの「愚直」を恥じる。しかし、その愚鈍さに表裏一体でそなわった「正直」「実直」「地道」「真っ直ぐ」という特性がかいまみえたとき、ときにその「愚直」が人の心を打つ。

 

『紺屋高尾』を聴く。

 

(昭和51年の)立川談志

(平成5年の)立川談志

五代目三遊亭圓楽

柳家花緑

立川志の輔

古今亭志ん朝

古今亭志ん生

(志ん生、志ん朝親子のそれは『幾代餅』、タイトルと設定は異なるが噺は同類だ)

立川志らく

三遊亭圓生

 

の順に3日間にわたって聴いた。

不思議な噺である。

 

たまさか遭遇した花魁道中で見た高尾太夫に一目惚れした染め物職人の久蔵が(演出によっては錦絵~昭和の時代でいうプロマイド、言い換えが説明になっていないか。とにかく実物にはお目にかかってない~を見ただけで恋してしまっている)、彼女を想って寝込んでしまったのが物語の発端だ。

最高位の花魁を買うには3年分の給金に相当する金額が必要だと聞いた彼は、それから3年間一心不乱に働いてためた金を持って吉原へ。職人風情など相手にされないことを見越し、お大尽(だいじん=遊里で豪遊する客)に身を換えておもむいた。通常、大名クラスしか相手にしないトップスターが、なぜかその夜は空いており、しかも相手をしてくれるという。一夜明け、「次はいつ来てくれるのか」と高尾が問う言葉に、3年後にしか来れない久蔵は、たまらず自分の正体を明かしてしまう。一部始終を聞いた高尾は、翌年3月15日に(2月15日という演出もあり。そのちがいがなぜだかはわからない)自らの年季が明けることを告げ、その折に女房にしてはくれまいかと頼み込む。そこからまた一心不乱にはたらいていた久蔵の元へ、約束の日、晴れて自由の身となった高尾がやってくる。久蔵と高尾は祝言をあげ、親方のあとを継いだ染物屋は高尾太夫見たさの客で大繁盛した。

 

というのがあらすじだ。

 

花魁道中、吉原の夜、事はすべて偶然から起こる。

その偶然からあり得ないことを想起し、動いた結果が、またちがう偶然を呼び、さらにあり得ないことを引き起こしてしまう。

物語のはじめから終わりまでを貫いているのは、久蔵の「愚直」である。

かといって、そこをまっこう大上段で純愛物語にしてしまっては、あまりにもあり得ない話なのでつまらない。そこで落語である。そこが落語である。この物語は、浪曲や時代劇でもヒットしているらしいが、わたしは聴いたり見たりしようとは思わない。落語でやるからこそ味が出てくると思うからだ。

「愚直」とは、一途で正直ゆえに愚かで気が利かない様を言う。けっして肯定的な言葉ではない。したがって、真に「愚直」な人間は自らの「愚直」を恥じる。しかし、その愚鈍さに表裏一体でそなわった「正直」「実直」「地道」「真っ直ぐ」という特性がかいまみえたとき、ときにその「愚直」が人の心を打つ。そして、稀にその「愚直」が思いもかけない成果を生みだしてしまう。

これが表現されるからこそ、この噺はおもしろい。

「愚直」を手放しで称賛するのではなく、人間の「愚かさ」をバカバカしく描いたうえで、であるからこそこの噺がおもしろい。

だからこそ、それは落語でなければならない。

またひとつ、落語という芸能の妙味を知った(ような気がする)。