散日拾遺

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【読書記録】「呉清源とその兄弟 ー 呉家の百年」

2020-04-08 11:52:03 | 読書メモ
2020年4月7日(火)
 午後からAクリニックの診療に出かけ、帰りの移動はちょうど緊急事態宣言について首相の記者会見が行われている時間帯である。空いた車内は移動書斎、ゆっくり楽しみながら読み終えた。

 長兄・呉浣、次兄・呉炎、そして呉泉こと呉清源。冒頭で筆者が述べるとおり、宋家の三姉妹に引き比べてみたい三兄弟である。
 宋靄齢(1889-1973) 孔祥煕の妻
 宋慶齢(1893-1981) 孫文の妻
 宋美齢(1898-2003) 蒋介石の妻
 「一人は金を愛し、一人は国を愛し、一人は権力を愛した」と称される。

 いっぽう、
 呉浣(1910-1994) 元満州国事務官、大戦末期に台湾に移住
 呉炎(1912-没年不詳) 中国共産党の活動家を経て大学教授・詩人
 呉泉(1914-2014) 棋士として日本に永住
 著者桐山桂一氏は宗家三姉妹を踏まえて、下記のように記す。
 「一人は家のために生き、一人は祖国のために生き、一人は才能のために生きた」

 丁寧な調べに基づいた好著だけに語りどころに事欠かないが、ここでは少々ヤブニラミ的に三カ所だけ転記しておこう。呉清源の生涯の中で、不条理とも感じられる奇異なできごとにまつわる箇所である。不条理と言っては誤るか、いずれも人為に関わることであり、日本と日本人のあり方に関わりなしとしない。

【国籍抹消事件】
 「そのころ不思議な出来事も起こっている。呉清源の国籍問題である。もともと中国生まれの呉清源は、来日後の八年間、中国籍のままで過ごしていたが、戦局の悪化により、日本に帰化し、日本国籍で戦後を迎えた。ところが、その年の夏、在日華僑の人々が璽光尊と打ち合わせをしたうえで、呉清源を杉並区役所まで連れて行った。本人を別室で待たせたまま、在日華僑の人々は役所との間で、特別なやりとりをしているらしかった。それは呉清源の日本国籍を抹消する手続きであった。呉だけでなく妻・和子の国籍もそのとき消された。
 むろん国籍の離脱などは本人の意志がなければできないものであるが、このときは戸惑う役人を前に、「敗戦国の国民が何を言うか!」と華僑が怒鳴りつけ、強制的に呉清源夫妻の日本国籍を抹消する手続きが取られたという。そのような無法が通用する混乱期でもあったのである。別室で待たされていた呉清源にとっては、いったい何が行われているのか、さっぱりわからなかった。やがて呉清源には在日華僑の手から、中華民国の仮パスポートが手渡された。中国籍に戻されたという意味であろう。
 ところが、橋本宇太郎との第一次打ち込み十番碁が始まり、八月下旬の第一局目で呉清源が負けてしまった。何しろほぼ二年間もろくに碁石を握っていなかったのである。すると、今度は在日華僑の人が再び呉清源のもとを訪れ、
 「だらしなく負けてしまう者には用がない」と言って、もらったばかりの仮パスポートを呉清源から取り上げてしまったという。」
(P.258-9)
 ※ 璽光尊(じこうそん、1903-1983)は宗教団体「璽宇(じう)」の教祖。本名は長岡良子(ながおかながこ)

 とんでもない話だが事実である。この結果、呉清源夫妻は無国籍状態となってしまった。少々怒鳴られたからといって、一夫婦の国籍を抜く手続きをおめおめとったというのが呆れた話で、親に怒鳴り込まれて被虐待児のマル秘情報を伝えた市役所職員のルーツがここにある。

【日本棋院除籍事件】
 「そのころ奇妙な事実も発覚した。呉清源が日本棋院から除籍されているというのである。本人はもちろん1928(昭和3)年に来日してから、ずっと日本棋院の所属棋士であると思っていただけに、寝耳に水の出来事だった。
 『そのころ読売新聞は私に引退を勧めてきました。でも、私にはそんなつもりは毛頭ありませんでした。ですから、引退の提案は断ることにし、同時に25年間にも及んだ読売新聞との専属契約も解消することにしたのです。そして、毎日新聞主催の本因坊戦に申し込んでみたところ、日本棋院から初めて除籍の事実を知らされたのです。そのとき「外来者として申し込んでほしい」と言い渡されたのです』(呉清源)
 たしかに呉清源は日本棋院から1948年に「名誉客員」という称号をもらってはいた。その時点で棋院を除籍となったらしかった。いったい何があったのか、驚いた呉清源は旧知の木谷実に真相を調べてもらった。
 『すると、もっと驚きました。私の師匠である瀬越憲作先生が、戦後間もない1947年に、私の辞表を日本棋院に提出していたというのです。師匠が出した辞表であるため、日本棋院が私に確かめないまま、それを受理したというのです。それにしても、当の本人に対し、何の説明もなく、除籍するとはおかしな話です。』(呉清源)
 除籍の事実に納得がいかない呉清源は、直接、瀬越に質してみた。すると、こんな返事があった。
 『いろいろ圧力があって、やむを得なかった。翌年には私も(日本棋院の)理事長を辞めさせられた。』
 圧力とはいったい何だったのか。呉清源はそれ以上、瀬越に問い質すことはなかった。瀬越は1972年に83歳で亡くなった。自殺であった。(中略)除籍の問題は謎のまま、未だに呉清源は日本棋院の「名誉客員」というただ一人の特別な立場にいる。(引用者註: 本書は2005年の刊行)」
(P.307-8)

 著者とともに問う、圧力とはいったい何だったのか。呉清源が黙して耐えたところに、この人物の宗教家的な philosophy が現れている。僕などならさぞかし騒いだか、あるいは謎の圧力の不気味さにあえなく押しつぶされたことだろう。
 「師匠が出した辞表であるため、日本棋院が私に確かめないまま、それを受理した」というところに、今日標準では了解の難しい往時の師弟関係が表れてもいるが、呉の言うとおり「それにしても、当の本人に対し、何の説明もなく、除籍するとはおかしな話」で、日本棋院はこれについて釈明する責任を歴史の法廷で問われている。

【無冠の名人】
 1939-41 木谷実   先相先に打込む
 1941-41 雁金準一  呉の4勝1敗で打ち切り
 1942-44 藤沢庫之介 向先で4勝6敗
 1946-48 橋本宇太郎 先相先に打込む
 1948-49 岩本薫   先相先に打込む
 1950-51 橋本宇太郎 先相先維持
 1951-52 藤沢庫之介 先相先に打込む
 1952-53 藤沢庫之介 向先に打込む
 1953-54 坂田栄男  向先に打込む
 1955-56 高川格   先相先に打込む

 「最後の打ち込み十番碁の相手となったのは、本因坊四連覇中の高川格であった。1955年7月から翌1956年11月にかけて打たれたが、やはり第八局で高川を打ち込んでいる。
 打ち込み十番碁は十六年もの長きにわたって続いたが、高川が敗れた後は、相手となる棋士は、もはや誰もいなくなった。その意味でも、川端のいう「孤独」の棋士であった。日本最強の棋士であることは間違いなかった。囲碁界ならば、「名人」の称号を贈っても何ら不思議はなかった。
 『鎌倉十番碁のとき二十五歳だった私は、このとき四十二歳になっていました。この歳月を考えると、感慨無量のものがありました。仮に十番碁でだれかに打ち込まれていたら、私の棋士人生もそれでおしまいだったような気がします。ただ、囲碁界には古来、頂点を極めた技量を誇る棋士に名人の位を与える習わしがありました。しかし、私に名人位を贈るという話は、ついぞ一度も出たことがありません。』(呉清源)」
(P.294-5)
***

 「囲碁界には古来、頂点を極めた技量を誇る棋士に名人の位を与える習わしがありました」と呉清源が述べているのは、徳川時代の棋界のあり方を正しく伝えるものである。当時、一時代に名人は一人だけとされ、該当者がなければ敢えて不在のままに置かれた。真の強者の冠であった。
 「名人」の称号を求めては、熾烈な競争があり政治がらみの暗闘もあったが、文化文政期に活躍した本因坊元丈と安井知得は互いの技量を認め合い、相手をさし置いて自分が名人に推されることを、いずれの側も望まなかったという。囲碁史を飾る美談とされる。
 いっぽう呉清源は当時の一流棋士の全てを打ち込み、昭和前半において一頭地を抜く別格の存在だった。その彼にとって最大の不幸は、1961年にバイクに撥ねられ、命はとりとめたものの深刻な後遺症が残ったことである。折しも、読売新聞社が1957年以来の日本最強決定戦(呉は第1期と第3期に第一位)をあらため旧・名人戦を開始した年であり、この頃から新聞社主催の各種棋戦が開催されるようになった。
 交通事故後はっきり棋力と意欲の落ちた呉は、これら新時代のタイトルに縁がなく、そのため記録上は無冠に見えるのである。しかし、戦争をまたぐ難しい時代に15年にわたって最強者として君臨し続け、今日AIに再評価されるような数々の名手・名棋譜を遺した功績は比類がない。その呉清源を名人と称える機を逸し、それどころか謎の圧力に屈して棋院から除籍した昭和棋界の了見が残念である。

 とはいえ、呉清源という存在はそんなことで翳みはしない。彼にとって、碁はただ勝負を決するだけのものではなかった。

【呉にとって碁とは何か】
 「取材が終わると、川端は色紙を取り出し、「無」という文字を書いて贈った。
 たしかに呉清源は囲碁の世界の中に宇宙を見ていた。碁盤そのものが東西南北の四方と上下の大地を表わすものだと考えていた。碁盤には縦横十九路があり、天元を中心に三百六十一の交点が存在する。呉清源はこれが方角を表わしたり、史記を表わしたりするのだと考えていた。
 『盤上は宇宙です』と、私のインタビューにも答えていた。
 『もし棋士になっていなかったら、私は宗教家になっていたのではないでしょうか』とも話していた。だから、囲碁を勝負事などとは考えず、陰陽の調和の理想世界だと考えていた。例えば、このように私に語った。
 『古代中国の陰陽思想の理想とは、陰と陽の調和にありますから、碁もまた調和をめざすべきものだと考えます。盤上のすべての石の働きを引き出す一手こそ最善で、それが調和を意味します。必然的に碁盤全体の釣り合いを考えつつ、石を置くことになります』
 そのような思想で碁を打つ者など、日本の囲碁界ではだれもいなかったであろう。川端のいう「宗教の人づきあいの方に、こころだのみがあるのかもしれない」というのは、そのような世界をいうのであろう。」
(P.294)

 「そのような思想で碁を打つ者など、日本の囲碁界ではだれもいなかった」には異論がある。著者桐山氏が自身で碁を打つかどうか聞いてみたいところでもあるが、それはさておき最後にもう一カ所。

 「私は二〇〇〇年に初めて呉清源にインタビューをしたが、そのときしきりに強調していた言葉が「調和」であった。「中和」とも言った。中国語では調和と同じ意味になるという。囲碁の世界も、国際政治の世界でも、「中和」こそめざす理想なのだと言葉を強くして語ったのである。
 『古代中国で最も尊ばれたのは「中和」です。「中」というのは、陰陽思想で、陰陽どちらでもない、まさに無形のものです。無形の「中」が形となるときは「和」となって現れます。「道」というのも、これは法則ですから、無形です。形に表れるときは「徳」となって現れるのです。」
 そんな哲学を熱っぽく語り、そして「中」の文字について、こんな説明をするのであった。
 『「中」という文字は、一本の棒で突き刺した形をしており、棒によって、左右に分けられた部分が陰と陽を示しています。要するに「中」とは、陰陽の釣り合いがとれた一点のことで、最善を謂するのです。』
 呉清源はこの「中」の一点を求めて碁盤の上に石を置き、また心の修行を続けてきたのである。」
(P.315)

「中」という文字は、一本の棒で突き刺した形をしており・・・

Ω

万葉秀歌 012 はるすぎて・なつきたるらし(持統天皇)

2020-04-08 11:24:55 | 日記
2020年4月8日(水)

 春過ぎて夏来たるらし白妙の衣ほしたり天の香具山 [巻一・二八] 持統天皇

 来るらしは「来にけらし」、衣ほしたりは「衣ほすてふ」が耳に染みついているのは新古今集/小倉百人一首の影響によるもので、万葉の原文が如上であるのに初めて気づいた。
 「これだけの僅かな差別で一首全体に大きい差別を来すことを知らねばならぬ」と茂吉先生。というのも、
 「「らし」というのは推量だが、実際を目前にしつついう推量である。この歌は、全体の声調は端厳とも謂うべきもので、第二句で「来るらし」と切り、第四句で「衣ほしたり」と切って、「らし」と「たり」で伊列の音を繰り返し一種の節奏を得ているが、人麿の歌調のように鋭くゆらぐというのではなく、やはり女性にまします御語気と感得することが出来るのである。結句で「天の香具山」と名詞止めにしたのも一首を整正端厳にした。天皇の御代には人麿・黒人をはじめ優れた歌人を出したが、天皇に此御製あるを拝誦すれば、決して偶然でないことが分かる。」(朱書、引用者)
 この「節奏」をつくりだす「らし」と「たり」が、百人一首版ではいずれも違う音になってしまうのである。日本語は語尾・文尾に命があるとかねがね思うところ。患者さんとのやりとりなどはその最たるものだ。

 「真淵の万葉考に、「夏のはじめつ比、天皇埴安の堤の上などに幸(いでま)し給ふ時、かの家らに衣を懸ほして有を見まして、実に夏の来たるらし、衣をほしたりと、見ますまにまにのたまへる御歌也。夏は打しめれば、万づの物ほすは常の事也。さてはあまりに事かろしと思ふ後世心より、附そへごと多かれど皆わろし。古への歌は言には風流なるも多かれど、心はただ打見打思ふがままにこそよめれ」と云ってあるのは名言だから引用しておく。」
 いっぽう、
 「僻案抄に、「只白衣を干したるを見そなはし給ひて詠給へる御歌と見るより外有るべからず」といったのは素直な解釈であり、燈に、「春はと人のたのめ奉れる事ありしか。又春のうちにと人に御ことよさし給ひし事のありけるが、それが期を過ぎたりければ、その人をそそのかし、その期おくれたるを怨ませ給ふ御心なるべし」と云ったのは穿ち過ぎた解釈で甚だ悪いものである。こういう態度で古歌に対するならば、一首といえども正しい鑑賞は出来ない。」
 曲直を鮮やかに対比して見せる。「写実」が大事であり、「素直な心」が肝心なのである。
 「現在鴨公村高殿の土壇に立って香具山の方を見渡すと、この御製の如何に実地的すなわち写生的だかということが分かる」が決め言葉。(P. 32-3)

 大化改新後に近江大津に営まれた都が、壬申の乱を経て飛鳥浄御原宮に遷り、そこから藤原京を経て平城京に至る。藤原京は持統8(694)年から和銅3(710)年まで、16年間の首都は今日の感覚ではひどく短いが、持統・文武・元明の天皇三代にわたって都であり続けたのは、本邦における「永続する首都」イメージの初めと思われる。
 藤原京址の存する鴨公村は昭和31年の合併で橿原市となっており、香具山は東南に一里といったところか。「山というよりは小高い丘の印象」などと記載あり、その親しみ深さが御製にも漂っている。


Ω

緊急事態宣言

2020-04-07 15:31:15 | 日記
2020年4月7日(火)

 「やらないで後悔するより、やって後悔する方が良い」
 概ね同感だし実際そのようにしてきたが、例外もいろいろとある。フロイトが『罪と罰』の愛読者に対して警告したのは一例。
 また、この格言は個人の信念や encouragement に限定すべきもので、共同体の決断に安易に援用すると偉いことになる。たとえば「戦争」など。

***

 緊急事態宣言がきょう出される見込みで、そうなると「生活必需品の供給には支障がない」ことをどれほど強調しても、買いあさりに走るお利口さんが一定数出現することは間違いない。「だって不安なんだもん」と居直るのはお止めいただこう。「不安」を免責事由にできるのは、ホンモノの不安症状にさいなまれる闘病者だけだが、この人々の多くは買いあさりに走るエネルギーなど持ってはおらず、出遅れてつらい思いをするばかりだ。困ったちゃんの大多数は、病者ではなく健常者と数えられる人々である。

 20年越しの摂食障害を抱えてきた女性Aが、買い物先で途方に暮れた。豆腐が店にないのである。行きつけのスーパーから始めて近隣の店をいくつか回ったが、どこにも一つも残っていない。彼女が安心して摂取できる食材は限られており、中でも豆腐はか細い健康を支える大黒柱である。それがどこにも見当たらないという事態を、思春期以来初めて経験したという。
 「お豆腐は日持ちがしないのに、どうしてって思いました。たまたまどこの家でも、お鍋か湯豆腐をすることにしたんでしょうか。あの日は暖かかったんですけれどね。」
 日持ちも何も考えてはいない、あるものを買える時に買えるだけ買おうとするから、何を買ったかにも気づかず店の棚から冷蔵庫に運び込むのであろう。この種の無思慮で粗暴な行為が、鳥の餌ほどの少量の食材を噛みしめて命をつなぐ人から、貴重な糧を取り上げるのだ。せめて買ったものを捨てることなく、食べきり使いきったことを願う。

 昨日はMSF(国境なき医師団)のニューズレターが届いた。イラクとスーダンの子どもたちの窮状が伝えられており、痛ましいのは世界の注目が新型コロナばかりに向けられることにより、こうした辺縁事象へのさらでも乏しい関心が失われることである。
   

***

 コロナ騒動の与える害が社会的弱者にとっていっそう深刻であることは疑いないが、そんな中で意外な効果を一つ発見した。
 精神科の患者さんには、春が苦手という人が多い。木の芽時がどうこうという生理的な話よりも、この季節が新社会人や新入生の門出の時であることに関わりが深いことである。晴れやかな表情で新生活に飛び込んでいく人々にメディアは焦点を当て、賑々しく報道する。見聞きするにつけ、引き比べて自分の惨めで至らないことが痛感され、いっそうつらくなるというのである。ちょうどその季節に「外出自粛」が重なった。
 「皆さんには申し訳ないけれど、今年はずいぶん楽です。」
 済まなさそうに語った人が一人ならずある。長らく日陰で辛抱している人々なれば、こうした免荷を少しぐらい楽しんだところで、責められる筋合いはないであろう。

 同様の効果は、実は僕自身にも及んでいる。忙しいのが苦手、人混みが大嫌いという都市生活不適応者にとって、公然と引きこもっていられるこの日頃はホッとするところがなくもない。
 電車に乗っての外出は診療に出かける時に限定しているが、ガランと空いて窓の開いた車内は、読書に集中できる快適な移動書斎になっている。
 森田療法の導入期には、絶対臥褥を命ぜられる。小賢しく能動することを禁じられ、手も足も出せないダルマさん状態に置かれることによって、矮小な精神の妄動過熱がリセットされる仕組みであろう。森田神経質と称されるある種の自意識過剰状態には、とりわけ有効なショック療法である。
 謎の病原体によって、社会全体が絶対臥褥に置かれた現状。長らく続いてきた神経質から我に帰り、我を取り戻す機会として作用することを願う。律法によっては安息を守ることのできなくなった人類への、強制的な安息命令。真の緊急事態宣言は神から出ている。

Ω


監獄の誕生 ー 朝刊の記事から

2020-04-07 07:55:30 | 日記
2020年4月6日(月)

 フーコーの『監獄の誕生』を2002~03年に512日間東京拘置所にいた時に読みました。独房で監獄について勉強するのは、普通の人にはできない特権でした。
 1987年から8年間滞在した旧ソ連・ロシアには、フーコーの本は体制が崩壊する90年ころに入ってきた。インテリは皆いかれていた。ソ連は「パノプティコン」ではないのかと。私は「ふ~ん」と聞いていましたが、独房で読んだ『監獄の誕生』は面白かった。
 そのころ公判が開かれ、私の事件で取り調べを受けた外務省の同僚や商社の人たちが、検察の主張に自ら迎合していきます。嫌なら調書に署名しなければいいのに、なぜ彼らは迎合するのか。フーコーによれば、監獄で収容者は監視の目を意識することで自らを監視し、自分の良心の声を聞く。そして自白によって自らを断罪する。裁判はその通りの展開となり、謎がスパッと解けました。
 私が迎合しなかったのはなぜか?役所も監獄と同じ構造だったから。もう一つは私が哲学や思想など「外部」に触れていたからでしょう。
作家・元外務省職員 佐藤優さん(朝日新聞 4月6日朝刊19面)

(引用者註: パノプティコン = panopticon < pan-opticon すなわち全方位の被収監者を一望の下に監視できる建築構造。被収監者の側では「全方位から」監視されていると感じられよう。)
***

 『狂気の歴史』は学生にも勧めていた。「良心」という言葉は同調圧力に抵抗する聖なる源としてとっておきたい気持ちがあるが、仮借なきフーコーは良心もまた同調圧力の手先として機能することを暴いてみせる。
 これに抵抗する力の淵源として佐藤氏は二つの条件を挙げているが、ここはやや謙遜しておられるかな。同じく役所に勤め、同じく哲学や思想に触れていても、迎合する者はいくらでもいる。勤め方・触れ方を規定する、さらなる μυστεριον が当然ながら存在する。

   

Ω

呉清源が帰化した日

2020-04-04 14:22:41 | 読書メモ
2020年4月4日(土)

 「ところで、日本棋院の機関誌『棋道』は1937(昭和12)年の新年号を「呉泉六段帰化記念号」と題して、特集を組んでいる。日本棋院の副総裁・大蔵喜七郎や国家主義者の頭山満らが、呉清源の帰化を歓迎する一文を寄せているが、萱野長知ひとりは冷静に書いている。
 ≪日支両国の区別を持たぬ私にとっては、支那人が日本に帰化しやうと、日本人が支那人にならうと、聊(いささ)かも感銘を覚えない、支那から日本に帰化すると云ふ事を非常に重大な問題として取扱ふ事を寧ろ不審に思ふ位である≫
 萱野は呉清源の囲碁にかける姿勢にも、才能にも賛辞を贈った人物である。その萱野が帰化問題に対して、わざわざ「不審」という言葉を記したことは、まさに日本に帰化し名蹴れば、囲碁さえ打てなくなるような息苦しい世相への痛烈なる批判であろう。満州という広大な中国領土をのみ込んだ日本は、一人の棋士の国籍さえ、のみ込んだわけである。呉清源を日本の「同胞」「臣民」に加えることを半ば強いるような時代の圧力が、ありありと見える。」
桐山桂一『呉清源とその兄弟 ー 呉家の百年』岩波書店(2005)



***
 萱野長知という人物の構えと発言に、まずは大いに共感。ついでそのプロフィルをネット上に探し、あらためて考え込む。

 萱野 長知(かやの ながとも、1873年10月12日 - 1947年4月14日):
 日本の政治運動家・民間外交家で大陸浪人・アジア主義者の代表的人物のひとり。高知県出身。玄洋社社員。
【経歴】
 自由民権運動に傾倒するが、後に大阪時事通信社の社員となる。
 後に中国に渡って中国語を学び、広東・香港で新聞通信員となり、辛亥革命中の孫文と知り合う。1906年(明治39年)、宮崎滔天、平山周、和田三郎(高知共立学校時代の同級生)らと革命評論社を設立。『革命評論』を創刊して、孫文らの辛亥革命をアジア主義者の立場から支援する。
 日露戦争時は玄洋社が編成した満洲義軍に参加する。
 満洲事変解決のために犬養毅の命を受け、蒋介石との停戦和平交渉に出向くが松井石根陸軍中将(当時)、外務官僚重光葵、書記官長森恪の妨害により、失敗した。1946年9月18日、貴族院議員に勅選された。
(Wikipedia)

 玄洋社社員、つまり頭山満らの盟友の一人に数えられる人物だが、呉清源の帰化をめぐる上記の発言は、頭山との間に微妙な対照を醸している。「日支両国の区別を持たぬ」はアジア主義者として当然の主張だが、「区別を持たず」とする上の句に続けて、

 A. だから呉が日本にいる以上、日本国籍をとって日本人になるのが当然だ
 B. だから呉が日本国籍をとろうととるまいと拘泥しない

 粗雑に分けてこれら二つの下の句が想定される。そして、その人の本当の立ち位置は上の句ではなく下の句で示されるはずだ。アジアの解放を大義として掲げる者が、具体的な文脈の中でたとえば対華二十一箇条要求に対してどのような態度をとるかということとの、並行現象でもある。
 呉の帰化に「聊かも感銘を覚えない」としたことと、蒋介石との停戦和平交渉に向けて尽力したこと、ここに見る限り萱野長知という人物にはブレない軸があったように思われる。これがアジア主義であるなら、アジア主義も立派なものだ。

 頭山満については『中村屋のボース』にも多く登場する。頭山と玄洋社の評価をめぐって、同書の筆者がしばしば批判を招いているのを見かける。
 R.B. ボース(1886-1945)と呉清源(1914-2014)では生まれ年が30年も違うが、同じ歴史位相の中で日本に帰化することを選んだアジア人という点では共通している。
 ボースは碁を打っただろうか?萱野という人物には、どんな印象を抱いていただろうか?

萱野長知(上記サイトより)

Ω