散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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ツツジ満開、ようやっと・・・

2015-05-05 14:07:07 | 日記

2015年5月9日(土)

 

 

 

 GW帰省の間の写真を載せたいのに、うまくいかない。時間ばっかり喰って、どうにもうまくいかない。

 ようやく1枚、ちょうど1週間前の午後に到着して最初に撮ったツツジの写真。

 中央に日陰が落ちているのが惜しいけれど、感じは伝わるかな。

 

 どこのお城かって?

 これが自慢の、わが家の白塀。

 

 今日はこれから修士論文指導、帰宅後に続けよう。

 

 

 


GWの帰省 ② ~ 柿田で草刈り / 9条は百万の軍隊に匹敵する

2015-05-03 21:58:23 | 日記

2015年5月3日(日)

 

 午前はデスクワーク、午後は外回りのつもりだったが、空模様が怪しいので順を入れ替え、午前中は柿田の離れ地で草刈り。ここはそこそこ面積があるので、一度では片づかない。

 昼過ぎに引き上げると、母が庭でユキノシタの葉を摘んでいる。30分後、それが天ぷらに姿を変え、ざる蕎麦の具になって現われた。

 NHK杯を見ているうちに半分眠ってしまい、午後は雨を良いことにだらしなく長い午睡。昨日届いた翻訳再校に、夜になってようやく着手する。

 

***

 

 憲法記念日に、国中が改憲論議で沸き返っている・・・といえるかどうか、少なくとも愛媛新聞の一面見出しはそう読める。

 改正のポイントは実は一つではなく、なるほど改正を論議する意味のあるものも混じっている。しかし9条に関する限り、改変が僕らを利するとは思えない。到底「改正」にならない。

 何度か書いてきたことだが、教条主義的な硬直した姿勢から観念的に護憲をいうのではない。9条を堅持することが、僕らにとって非常な利益だというのである。歴史上の某有名人の言葉をもじるなら、「憲法9条は国防上、百万の軍隊に匹敵する」と言いたいのだ。

 9条を守りに使うばかりでなく、これをかざして国連その他にうって出る、それこそ本来の積極的平和主義である。

 安保体制との矛盾はとりあえず放っておいてよろしい。何枚かの舌を併用し使い分けるのは外交の常道で、その「フクザツカイキ」(どくとるまんぼうも笑いのネタにしていたな)に耐えられなくなった時こそ、逆に危ないのである。これも稚拙ながら一度ならず書いた。

 

 え~っと・・・これだ。ちょっとくどいな、そのうち書き直しておこう。

 今はできない。翻訳が先だからね。

 

二枚舌のススメ ~ 「現実性」続き (2013年8月10日)

http://blog.goo.ne.jp/ishimarium/e/e2eb1c557a56cbef56ab1f84d98f5b20

 

 


ひさびさGWの帰省 ① ~ まんぼうの青春/落ち葉の役割

2015-05-03 09:35:13 | 日記

2015年5月2日(土)

 朝一番の飛行機を使うこと、3月の松野町行きで覚えた。

 日頃から早起きとはとてもいえないが、早起きが嫌いではない。必要よりも早く4時過ぎに起き出して、空が明るんでくるのを感じながら荷物を作った。この時間のことを「他の惑星にいるみたいな」と表現した人があるが、真にその通りの光の移ろいである。

 電車は当然空いていて空港までは問題なかったが、羽田3Fの出発ロビーに上がって魂消た。大変な行列である。

 出発55分前にここまで来ていたが、保安検査場を通過するまでに30分近くかかった。60番ゲートが目の前で助かったが、そこに着いたときには既に乗客の半ばが乗り込んでいる。

 GWである。

***

 機内では意外に眠りもせず、『どくとるまんぼう青春記』のページを繰っていった。ずいぶん久しぶりに読み直したが、文体も内容も懐かしいというに尽きる。

 叙述の順序などはともかく、細部に至るまで記憶通りなのが驚くほどだったが、ひとつ見落としていたことがあった。

 著者・北杜夫は1927年生まれ、先日他界したギュンター・グラス、そして我が父と同年である。その彼が、この世代特有の傷ましい難しさについて短く書き留めていたのに、気づいていなかった。

 「思えば私の年代は、悲しい世代でもある。日本の敗戦という衝撃を、いちばん愚かに純情に味わった人間であったかも知れない。もっと子供であったなら、それは素通りもしていたことだろう。或いは、もう一年早く上級学校へはいっていたなら、批判的な精神も芽生えていたことだろう。戦争体験、敗戦体験というものはごく微妙で、一年の差でがらりと異なっているように思う。簡単に戦中派、戦後派とわけて区別できるものではない。」

 「私は幼児そのままの皇国不敗の信念の中で青春期の入り口に達した。その日本は木っ端微塵に敗れた。すると、それまで聞いたこともないデモクラシーとかいうものがやってきた。一体、どこの国のどこの州の名前かと戸惑うほどである。デモクラシーでなければ一切がいけなく、日本が戦ったことは野蛮な軍国主義で、命を賭けて戦った者はもとより、それに協力した者も一切がいけないとされた。父はもちろん戦犯候補者である。」

 好きな作家と聞かれて北杜夫の名を挙げることはついぞなかったのだが、いま読み返してみて不思議なほどよく覚えてもおり、その言葉遣いやものの感じ方に味噌汁の味のような親近感があることに驚く。近すぎた、のかもしれない。

 あっという間に松山空港に着いた。

 ***

 三月末には一面の菜の花、庭は水仙が咲き競っていた。五月初旬は百花繚乱、殊にわが家はツツジの盛りである。PC環境の問題で、白塀の上から薄桃色に緋色を交えた大ツツジの写真をすぐに掲載できない。

 門の樽木には今年もツバメ。まだ雛の声はせず、どうやらただいま抱卵中かと思われる。日陰に腰を下ろせば、そこかしこからウグイスが聞こえる。しばらくすれば、ホトトギスの出番だ。

 夕方、日差しの和らいだ頃に、まずは門前の棚畑で父が刈り残した草を刈る。その後、気になっていた大日への隘路へ、落ち葉の始末に回る。

 わが家は南向きの斜面に建って、北側に山を背負っている。東向きの門を出て左前に棚畑、家屋と畑の間はかなりの急坂が山へ向かって登り、そこを右へ折れて棚畑の山側を回り込んでいくと、さらに20歩ほど急坂を上りきったところで河野塚との分岐標識がある。さらに左へ登っていくと、そのかみ河野水軍の本拠地があったと伝えられる河野塚だが、右側の道が20mほどの隘路になっていて、これを抜けると大日前の開けた平地になる。

 隘路の山側は鬱蒼たる雑木林で、これがわが家の薪炭林だったのだ。シイノキが主体と見えるが、落葉樹も多数混じっており、これが秋口には大量の落ち葉で隘路を埋める。落ち葉を掻き出さないと大日との間の行き来に支障が生じ、実際三月の帰省時には実ったミカンを運び出すのに難儀した。今度は東京を発つ前から、この隘路の掃除を課題にしていたのである。

 これは単純だが根気の要る仕事だ。K商店とマジックで書かれたミカン箱大のプラスチック容器を抱え、落ち葉を詰め込んでは30歩ほど戻って、2余りの高さから棚畑の北側に落とし込む。その繰り返しである。K商店は母方の義理の叔父が開いていた豆腐店で、小発明の才のある叔父が他にはない美味な豆腐を作って繁盛していたが、叔父の他界で店も終わった。その次男が昨年難病で死んだと聞いたときは、しばらく茫然とした。プラスチックの箱のマジックの文字は、商店が流行った頃と変わらずくっきりしている。

 運びながら、「青春期」の前に読み始めて読みかけになっている「ロビンソン・クルーソー」のことを考えた。道具というもののありがたさである。長靴、軍手、箱(カゴでもかまわないが)、そのどれがなくても、この単純な作業が事実上成立しない。しかもどのひとつをとっても、自力では作れないものばかりである。「ロビンソン・クルーソー」を読みながら、田園の生活を年に1~2週間でもしてみる、それだけで文明と文化について甚大な気づきがあるのではないか。

 黙々と50往復ほどもしただろうか、無尽蔵に見えた枯れ葉があらかた片づく頃、棚田の北の壁際には、高さ2mの枯れ葉の山ができあがった。下の畑からあがってきた父がいつになく嬉しそうである。

 「よう運んだな、ミカンが喜ぶわい」

 あ、と額を打った。大日への通路を確保するだけではないのだ。枯れ葉がほどよく腐食して、樹木にとっては願ってもない養土になる。薪炭林はエネルギーだけでなく、天然肥料の供給源でもある。隘路に戻ってみれば、枯れ葉の上層は羽布団のように乾いて軽いが、下層は土と既に一体化し、ドングリまじりの見るからに豊かな軟らかい土になっている。カート・ヴォネガットが「チョコレートのような」と表現したことを思い出した。これを回収するのは、障害物の排除であるばかりでなく、自然の恵みの享受でもあったのだ。労働にも喜びがあったことだろう。

 日暮れて作業を終え、見上げればオンゴメンゴの上の空にほぼ満月が登りかけている。翻訳再校の分厚いレターパックが、予定通り玄関で待っている。

 夕餉の卓で話を聞いて、母が同じことを言った。

 「ミカンが喜ぶねえ」

 この人々にとって、果樹は喜怒哀楽をもつ生きた仲間なのだ。

 窓の外にはヤモリの影、三月には1匹しか見えなかったが今は4匹、小さな2匹は最近産まれた子どもではあるらしい。彼らもむろん仲間である。

Ω