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夏目漱石を読むという虚栄 2120

2021-03-10 15:21:48 | 評論

夏目漱石を読むという虚栄

2000 不純な「矛盾な人間」

2100 冒頭から意味不明

2120 「先生」は意味不明

2121 「先生先生と呼び掛けるので」

 

S自身、最初の頃は「先生」と呼ばれて戸惑ったらしい。

 

<私が先生先生と呼び掛けるので、先生は苦笑いをした。私はそれが年長者に対する私の口癖だと云って弁解した。

(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」三)>

 

「苦笑い」の理由は不明。この私が笑われたようで、いらいらする。

「それが」は〈「それ」は〉が適当。「が」のままなら、〈「それが年長者に対する私の口癖だ」ということをお気づきにならないとは思いもよらなかった〉などとすべきだ。「弁解」に普通の意味があるとすれば、「苦笑い」は不快の表現だったことになる。「年長者」以外の条件を青年Pは隠蔽している。隠蔽にSは気づいている。「口癖」には、びっくり。

 

「癖(くせ)」は、もともと悪(わる)いことです。ところが、最近(さいきん)、「きちんとあいさつをする癖(くせ)をつけましょう」などど、よいことにも使(つか)われるようになってきました。これには、曲者(くせもの)もびっくりしていることでしょう。

(川嶋優『満点ゲットシリーズ ちびまる子ちゃんの読めると楽しい難読漢字教室』「曲者(くせもの)」)

 

「最近」が戦後なら、Pの「口癖」という言葉は自嘲の表現だろうか。

 

<先生とおだてているつもりの者を制する言葉。

(『広辞苑』「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」)>

 

「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」を思い出して、Pは「弁解した」のだろう。

 

<併し名前抜きの『先生』の呼称を以て、自分も怪ま(ママ)ず、仲間の間にもそれだけで通用して来(ママ)たのはただ二人だけである。一人は夏目先生、もう一人はケーベル先生。

(阿部次郎*)>

 

「先生」の安部的含意は不明。「自分も怪まず」は意味不明。名無しの「二人」を阿部の「仲間」は区別できるらしい。「ただ」と「だけ」は重複。『こころ』の本文も同じ間違いをしている。「先生」と呼ばれると、「その人」の株価が上がり、配当も増える。「二人だけ」なのを、なぜか、威張っている。常識的には〈「ただ」一人〉なのがめでたかろう。

「先生」の本家本元は「ケーベル」だろう。彼は「賜暇帰国などで講義を中断することもなく、文字どおり一身を講義と学生指導に捧(ささ)げた」(『ニッポニカ』「ケーベル」)という。「先生が疾(と)くに索寞(さくばく)たる日本を去るべくして、未(いま)だに去らないのは、実にこの愛すべき学生あるが為(ため)である」(N『ケーベル先生』)という伝説が流布されていたらしい。

Sは〈伝説の「先生」〉としてPに担がれたらしい。満更でもなかったか。

 

*唐木順三『漱石の周辺』より再引用。

 

2000 不純な「矛盾な人間」

2100 冒頭から意味不明

2120 「先生」は意味不明

2122 「若々しい書生」

 

〈先生〉という呼称を、教師でも医師でも弁護士でもない人に用いると、誤解を招く。

 

<先生と呼んで灰吹(はいふ)き捨てさせる  (初・38)

  (気の付かぬ事〳〵)  (宝十二・梅3)

 

これも有名な句で、長屋に住む寺子屋の師匠などが、表には尊ばれて、裏では軽蔑されていることを、煙草の「灰吹き」で表現した句である。

(山路閑古『古川柳名句選』)>

 

〈先生〉は〈書生〉に対応する言葉だろう。

 

<その時私はまだ若々しい書生であった。

(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」一)>

 

「若々しい」には「馬鹿(ばか)気(げ)ている」(上六)という含意がある。「書生」には「他人の家に世話になり、家事を手伝いながら学問する者」(『広辞苑』「書生」)という意味がある。ただし、Pがこうした意味での「書生」だった様子はない。

 

<実際書生が代助の様な主人を呼ぶには、先生以外に別段適当な名称がないと云(ママ)うことを、書生を置いてみて、代助も始(ママ)めて悟ったのである。

(夏目漱石『それから』一)>

 

この「先生」の含意は「主人」だ。Pは、この含意をQに否定させようとしているか。

 

<これ実に他人の言葉です。他人の親切です。居候(いそうろう)の書生に主人の先生が示す恩愛です。

(国木田独歩『運命論者』)>

 

語り手は高橋信造で、「言葉」を発したのは、その父の高橋剛蔵だ。したがって、「主人」と対比されるのは〈父〉だ。つまり、〈先生=主人or父〉だ。

「先生」は隠語めいている。だが、隠語ではない。意味不明だからだ。

 

<隠語にはまた、他人にわからないことばを使うことで仲間意識を強める、特別なことばを考え出して使うことで単調さを破る、といった効用もある。「ゲルピン」(金に困っている状態)、「バックシャン」(後ろ姿美人)のような語では、その性格が強い。

(『日本大百科事典(ニッポニカ)』「隠語」尾上圭介)>

 

「先生」は「仲間意識を強める」という目的で用いられた隠語まがいの自分語だろう。

 

2000 不純な「矛盾な人間」

2100 冒頭から意味不明

2120 「先生」は意味不明

2123 「先生先生というのは一体誰の事だい」

 

「知らんと云った事のない先生」(『吾輩は猫である』一)の「先生」という言葉には、からかいの気分がある。この「先生」が本物の教師だとしても、からかいの気分が認められる。

Sの呼称としての「先生」にも、からかいの気分が含まれているのだろう。ただし、それは、からかいの気分を逆手に取ったものだ。Pは、世間の人々のからかいの気分を逆転させ、その分だけ親しみを増大させているようだ。「先生」という呼称が不適切であることを十分に承知しているからこそ、あえてこの呼称を用いたのだろう。

語られるPは、Sを「先生」と呼んでいる自分を人々に見せつけることによって、〈Sを「先生」と呼べない人は愚かだ〉という暗示を試みていたのではなかろうか。そうした企図は、実際には成功しなかったので、Pは語り手に成り上がり、自分にとって都合のいい聞き手Qに向って師弟伝説を語っているわけだ。さらに、相方のQが素直に耳を傾けてくれている様子を、聴衆に妄想させている。このGは、『こころ』の読者と区別できない。したがって、作者は読者に対して虚偽の暗示をかけていることになる。

 

<「先生先生というのは一体誰の事だい」と兄が聞いた。

(夏目漱石『こころ』「中 両親と私」十五)>

 

Pの「兄」は、Pの魂胆を皮肉っぽく疑ってみせている。

 

兄 御前が「先生先生」とわざとらしく甘えたように呼んでいるのは一体どんな人だい。

 

「兄」は、Sの正体を疑うと同時にPの性根を疑い、師弟関係をも疑っている。「兄」が疑うのは、当然だろう。「兄」は普通の人だ。ところが、Pは「兄」を蔑む。そして、そんなPを、作者は蔑まない。そんな作者は変だろう。だから、『こころ』は変なのだ。

 

<「柿本先生の御返書です」

と、若者がきめつけるようにいい、書状を大治郎へ(ママ)わたした。そのことばづかいも非礼きわまるものだ。おのれの師を他人の前で「先生」と敬(うやま)ってよぶ。師は〔師父(しふ)〕ともいう。わが父同然の人を他人の前で敬称する(ママ)ことなど、ばかばかしいかぎりであるし、しかも「御返書」などともったいをつける。あきれはてたものだ。

(池波正太郎『剣客商売』)>

 

この「若者」と同様、青年Pも「あきれはてたもの」と評されてしかるべきだ。

大治郎は好青年として描かれている。『剣客商売』は、何度もドラマになっているし、漫画にもなっている。多くの日本人に愛されているのだろう。だから、日本人の常識では、自分の師を他人に向かって「先生」と呼ぶPは「あきれはてたもの」であるはずだ。

怪しげなPが語り手であるP文書を、普通の日本人なら、怪文書かと疑うはずだ。また、こんなおかしなPに尊敬されていたSの「遺書」にも信を置かないはずだ。

(2120終)

 

 

 


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