ヒルネボウ

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夏目漱石を読むという虚栄 3150

2021-05-17 21:59:54 | 評論
   夏目漱石を読むという虚栄
 
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3100 死に後れ
3150 いんちきな「思想家」
3151 『貧困の哲学』と『哲学の貧困』
 
「貧弱な思想家」というSの自己紹介に、Pは突っこまない。謙遜と解釈したからか。では、Sには謙遜する資格があったのか。
 
<彼の著書の中でのプルードンのサン・シモンとフーリエとに対する関係は、ほぼフォイエルバッハが(ママ)ヘーゲルに対する関係に等しい。ヘーゲルに比べると、フォイエルバッハは極めて貧弱である。しかし、ヘーゲル以後に於ては、彼は一時期を画した。何故なら、彼は、キリスト教的良心にとっては不愉快で哲学的批判の進歩にとっては重要な然しヘーゲルによつて神秘的な明暗の中に殘された諸点をはっきりさせたからである。
(カール・マルクス『哲学の貧困』「附録 カール・マルクスの観たプルードン」)>
 
「彼」はプルードンで、「著書」は『貧困の哲学』だ。「貧弱」でも、取り得はある。
Sは自分をプルードンやフォイエルバッハ級の「思想家」と自負していたのだろうか。あるいは、「思想家」という言葉そのものが冗談なのだろうか。
マルクスの考える「貧弱な思想家」の特性は、どのようなものか。
 
<充たすべき欲望がかく多数あるということは、生産すべき物がかく多数あるということを仮定している――生産なくして生産物は存しないから。生産すべき物がかく多数あるということは、それらの物の生産を助けているのはもはやだた一人の人の手ではないことを仮定している。ところで、吾々が生産を助ける一人の人以上の手を仮定した瞬間から、吾々は既に分業に基礎を置く全分業を仮定しているのである。かくて、プルードン君の仮定しているような欲望は、それ自身全分業を仮定している。分業を仮定するなら、そこには交換が存在し、従って又交換価値が存在する。それなら、初めから交換価値を仮定したのと違いはない。
しかしプルードン君は廻り路をすることを好んでいる。いつもその出発点に戻ることになるその総ての廻り路を、同君にしたがって歩いて見(ママ)よう。
(カール・マルクス『哲学の貧困』「第一章 科学上の一発見」)>
 
「分業」が「商品生産とは結び付いていない」(『ニッポニカ』「分業」)という社会はある。
「貧弱な思想家」の特徴は「廻り路をすること」だろう。Sの「ぐるぐる」と同質か。ただし、この「プルードン」に「廻り路」の自覚はない。Sに「ぐるぐる」の自覚はある。
 
<いわゆる人民の代表と国家の支配者に対する全人民の普通選挙権――これが民主派と同じようにマルクス主義者たちの最後の言葉である――なるものはいんちきであり、その背後には少数者専制が隠され、虚偽の民意を体現しているだけにいっそう危険である。
(ミハイル・アレクサンドロヴィチ・バクーニン『国家制度とアナーキー』)>
 
マルクス主義が「いんちき」であることは、アナキストにとって自明だった。
 
 
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3100 死に後れ
3150 いんちきな「思想家」
3152 『国家制度とアナーキー』
 
バクーニンにとっての「貧弱な思想家」は「自由思想家」だろう。
 
<これらの自由思想家諸先生は頭のてっぺんから爪先に至るまでブルジョアであり、実証主義者を自称したり自ら唯物論者を気取るときでさえ、そのやり口、習慣、生活の面では手のつけられぬ形而上学者なのだ。彼らには、生活は思想から出てくるのであって、あらかじめ存在する思想の実現であるかのようにつねに見えるのだ。したがって思想、彼らの貧弱な思想が生活をも支配しなければならないと信じており、だから彼らには、逆に思想が生活から出てくるのであって、思想を変えるにはまず生活を変革しなければならないことが分からないのだ。人民にゆったりとした人間らしい生活を与えてみたまえ、諸君は人民の思想の深い合理性に驚くであろう。
自由思想家を自称する熱心な教条主義者たちが、理論的、反宗教的宣伝を実際活動に先行させているのには、いま一つ別の理由がある。彼らは大部分が見込みのない革命家であって、たんに虚栄心の強いエゴイストであり、臆病者にすぎないのだ。しかもその地位からすれば彼らは教養ある階級に属し、これら階級の生活に充満している逸楽、デリケートな優雅さ、知的虚栄心をひどく大切にする。彼らは、人民革命がその本質においても目的そのものにおいても、荒々しくぞんざいであり、彼らが快適に暮らしているブルジョア社会の破壊をも辞さぬことを、百も承知しているのだ。しかも彼らは、革命の事業に誠心誠意奉仕することで生ずる著しい不都合をまねくつもりが毛頭ないからこそ、またたいして自由主義的でも大胆でもないが、教養や生活上の関係、優雅さや物質的安楽の面でなお貴重なパトロンであり、崇拝者であり、友人であり、同志である連中の不興を買いたくないからこそ、彼らは自分たちを高い地位から引きずりおろし、現在の地位から得ているあらゆる便宜をいきなり奪ってしまうような革命をひたすら嫌悪し、恐れているのである。
ところで、彼らはこの点を認めたがらない。彼らはその急進主義でブルジョア社会を驚かせ、革命的青年層やできれば人民そのものをしっかりと自分たちにひきつけておかねばならない。一体どうすればよいのか? ブルジョア社会を驚倒させねばならないし、そうかといってそれを怒らせてはならないし、革命的青年層をひきつけると同時に革命による破滅は避けねばならないのだ! そのための手段はただ一つ、その見せかけの革命的憤怒をことごとく主なる神へ向けることである。彼らは神の不在を確信しているので、神の怒りも恐れない。官憲、すなわちツァーリから最下位の警官に至るすべての官憲となれば、話は別だ! 銀行業者やユダヤの買占め商人から最下位の富農商人や地主に至るまでの、富裕にして社会的地位の強大な人間となれば話は別だ! 彼らの怒りはてきめんである。
(ミハイル・アレクサンドロヴィチ・バクーニン『国家制度とアナーキー』「付録A」)>
 
バクーニンこそ「貧弱な思想家」かもしれない。「彼の著述から独創的な考えを引き出すことはできない」(ウドコック『アナキズムⅠ』)ということだから。
アナキズムは平凡な思想だろう。「独創的な考え」であってはならない。
 
 
 
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3100 死に後れ
3150 いんちきな「思想家」
3153 自分の影
 
「思想家」について、Pは非常識なことを考えているはずだ。そして、その自覚がありながら、横車を押そうとして失敗し、おかしな言い方をしてしまったようだ。作者は語り手Pに加担しているようだ。つまり、『こころ』の作者は、語り手たちの嘘を嘘と知りつつ、真実のように表現しているみたいだ。だから、『こころ』は非常に読みにくい。
Sは、普通の意味の「思想家」ではない。ただし、普通の意味での「思想家」がどのような人間なのか、必ずしも自明ではない。
〈普通の思想家の覚悟は生きた覚悟ではない。火に焼けて冷却し切った石造家屋の輪郭(りんかく)だ。Pの眼に映ずる普通の思想家はたしかに思想家である。けれどもその思想家の纏(まと)め上げた主義の裏には、強い事実が織り込まれていない。自分と切り離された他人の事実でなくって、自分自身が痛切に味わった事実、血が熱くなったり脉(みゃく)が止まったりする程の事実が、畳み込まれていない〉(本稿1542参照)
Pなら、このように語ったろうか。そうだとしても、意味不明だから、参考にならない。
 
<ひどいものだね、あなたの覚(さと)りの悪さは。自分の影をこわがり自分の足跡(あしあと)をいやがって、走って逃げ出した男がいたが、足を早(ママ)く挙げれば挙げるほど足跡はますます多くなり、走り方をどんどん早(ママ)めても影は体から離れない、自分ではまだ走り方が遅いのだと思ってどこまでも疾走(しっそう)し、力つきてとうとう死んでしまった。日蔭(ひかげ)に入って影を消し、じっと立ちどまって足跡を作らずにいることを知らなかったのだ。馬鹿かげんもひどいものだね。ところであなたは、仁とか義とかいう道徳の世界をこまかくつつきまわり、賛成できるかどうかの分かれめをはっきりさせ、行動を起こすかどうかの変わりめを見きわめ、贈物をやりとりする交際の度(ど)あいを適切にし、好き嫌いの感情をうまくととのえ、喜びや怒りをやわらげて節度づけることに懸命だ。これでは〔あの馬鹿な男と同じむだな骨折りで〕、まず危害は避けられないだろう。〔人のことを気にするより、〕ひきしめて自分の身を修め、慎んで生まれつきの真実なものを守り、世俗の物は人々に返してしまうなら、何物にも乱されることがなくなるだろう。いまわが身に道を修めることをしないで、他人にそれを求めているのは、なんと外界にとらわれたことではなかろうか。
(『荘子』「漁夫篇 第三十一」)>
 
語っているのは「漁(ぎょ)父(ほ)」で、「あなた」は孔子、という設定。
「自分の影」は、Sの「黒い影」と同質。
Sは「あの馬鹿な男と同じむだな骨折り」をして、死にたくなっている。そんなSを、Pは「馬鹿な男」と思わないのだろうか。「傷ましい先生」という言葉に「馬鹿な男」という含意はあるのか、ないのか。あるはずだ。
Kは死に後れだった。だが、Sも死に後れのはずなのだ。「もっと早く死ぬべきだのに何故今まで生きていたのだろう」(下四十八)というKの自問は、Sのものでもあった。Kの自殺とは無関係に、Sも「もっと早く死ぬべきだ」と思っていたはずだ。その理由を、Sは捏造しながら生きていた。Sの捏造と作者の創造が混交している。
(3150終
(3100終)
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