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夏目漱石を読むという虚栄 4450

2021-08-25 21:43:30 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで

4400 『二百十日』など

4450 『虞美人草』

4451 「病気」の甲野

 

Sは養子妄想を抱いていたようだ。Pも同様。「淋(さび)しい人間」とは、養子妄想を抱いたまま成長した男のことだろう。彼らは、自分が実際に養子なのかどうか、はっきりさせたがらない。本当に養子だとわかると、つらいからだ。逆に、自分が他人に疎まれる理由を養子妄想に結びつけると反省せずに済んで楽だからでもある。Kの「深い理由」やSの「過去」などの物語の主題は養子妄想的なもののはずだが、それを明確に語ることは非常に困難なので、別途の物語によって主題の気分を伝達しようとする。この企画に作者は加担している。だから、本文が意味不明になるのだ。

 

<「みんな私が悪いんでしょうね」と母は始めて欽吾に向った。腕組をしていた人は漸く口を開く。――

「偽(うそ)の子だとか、本当の子だとか区別しなければ好いんです。平たく当り前にして下されば好いんです。遠慮なんぞなさらなければ好いんです。なんでもない事をむずかしく考えなければ好いんです」

甲野さんは句を切った。母は下を向いて答えない。或(あるい)は理解出来ないからかと思う。甲野さんは再び口を開(あ)いた。――

「あなたは藤尾に家(うち)も財産も遣りたかったのでしょう。だから遣ろうと私が云うのに、いつまでも私を疑(うたぐ)って信用なさらないのが悪いんです。あなたは私が家に居るのを面白く思って御出(おいで)でなかったでしょう。だから私が家を出ると云うのに、面当(つらあて)の為め(ママ)だとか、何とか悪く考えるのが不可(いけ)ないです。あなたは小野さんを藤尾の養子にしたかったんでしょう。私が不承知を云うだろうと思って、私を京都へ遊びに遣って、その留守中に小野と藤尾の関係を一日一日と深くしてしまったのでしょう。そう云(ママ)う策略が不可ないです。私を京都へ遊びにや(ママ)るんでも私の病気を癒(なお)す為に遣ったんだと、私にも人にも仰(おっ)しゃるでしょう。そう云(ママ)う嘘が悪いんです。――そう云(ママ)う所さえ考え直して下されば別に家を出る必要はないのです。何時までも御世話をしても好いのです」

甲野さんはこれだけでやめる。母は俯(うつ)向(む)いたまま、しばらく考えていたが、遂(つい)に低い声で答えた。――

「そう云われて見(ママ)ると、全く私が悪かったよ。――これから御前さんがたの意見を聞いて、どうとも悪い所は直す積(ママ)だから……」

(夏目漱石『虞美人草』十九)>

 

「悪いんでしょうね」は下品。「母」は甲野欽吾の義母。「腕組をしていた人」が甲野。「養子」は〈婿〉のことで、「うらなり」の後裔である小野がその候補。甲野の「病気」は、「嘘」ではなかろう。『虞美人草』は、〈甲野は「病気」だ〉という観点で読みなおすべきだ。〈甲野は「病気」のせいで義母を「疑(うたぐ)って信用なさらない」〉と解釈すべきなのだ。

甲野は、「五分刈り」の後裔で、「母」に愛されない。暇人で、義母の娘である藤尾の恋愛の邪魔をして遊ぶ。まるで義妹に恋をしているみたいだ。

『じゃじゃ馬ならし』(シェイクスピア)のような喜劇を、作者は構想できなかった。

 

 

4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで

4400 『二百十日』など

4450 『虞美人草』

4452 「恐ろしい悲劇」は妄想

 

「自由と独立と己(おの)れ」を一緒くたにして〈エゴイズム〉と呼ぶのは安直だ。これでいいのなら、作者が〈エゴイズム〉という言葉を使わなかった理由を知らねばならない。

 

<美男子で金持ちで家柄のよい青年ウィロビー・パターンは、きわめて高慢でしかも自分かってな男であったが、妻を選ぶに際して相手の気持ちを考えず、身がってな行ばかりとるために、ついに女性から次々に手厳しくしっぺ返しをされるという喜劇。

(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「エゴイスト」小池滋)>

 

自覚のないエゴイストの物語が『明暗』だ。作者は、主人公の津田が「女性から次々に手厳しくしっぺ返しをされるという」結末を回避しようとしたが、無理で、未完に終わった。

『エゴイスト』の男女の立場を取りかえたのが『虞美人草』だ。藤尾は女装したウィロビーだ。原典のエゴイストは死なないが、突如、藤尾は憤死する。

 

<尊大と、慢心と、退屈と、また、われらの間に見出される粗野と雑駁との痕跡、それらを正そうとするのが「喜劇」の女神なのだ。

(ジョージ・メレディス『エゴイスト』「序の章」)>

 

藤尾の死後、義兄の甲野は、友人の宗近に宛てて「悲劇は遂に来た」(『虞美人草』十九)と書き送る。義妹の死を悲しむ様子はない。異様に冷たい文章だ。

 

<道義の観念が極度に衰えて、生を欲する万人の社会を満足に維持しがたき時、悲劇は突然として起る。ここに於て万人の眼は悉く自己の出立点に向う。

(夏目漱石『虞美人草』十九)>

 

「自由と独立と己れ」云々の「現代」は「道義の観念が極度に衰えて、生を欲する万人の社会を満足に維持しがたき」時代だろう。だったら、Sは端折り過ぎ。

藤尾の「悲劇」は、甲野の妄想の産物だ。『虞美人草』自体は悲劇でも喜劇でもなく、意味不明。Sの「恐ろしい悲劇」も「遺書」を読んだPの妄想の産物だ。

 

<明治以後も、新派悲劇とよばれる「お涙頂戴(ちょうだい)」劇が中心を占めるのは、日本人は国民性として真の原理的対立を好まず、現実を直視せずに互いに甘えをよしとする性向をもつからだとも考えられよう。西洋の悲劇はいわば「ドラマ」の本質を明示するものであり、日本にこうした悲劇がなかったことは、彼我の演劇観の相違を示唆するものであるといえる。

(『日本大百科事典(ニッポニカ)』「悲劇」毛利三彌)>

 

『エゴイスト』の喜劇を悲劇に偽装しようとして失敗したのが『虞美人草』だ。

 

 

 

4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで

4400 『二百十日』など

4450 『虞美人草』

4453 「真面目」は意味不明

 

「真面目(まじめ)」は、真面目人間になりすますための呪文のようだ。

 

<僕は昨日も、今日も真面目だ。君もこの際一度真面目になれ。人一人真面目になると当人が助かるばかりじゃない。世の中が助かる。

(夏目漱石『虞美人草』十八)>

 

「僕」は宗近で、「君」は小野。Kは宗近の末裔。

「真面目になれ」とは、〈藤尾との火遊びはやめろ〉といった意味だ。

 

<真面目になれる程、精神の存在を自覚する事はない。天地の前に自分が厳存(げんそん)していると云(ママ)う観念は、真面目になって始(ママ)めて得られる自覚だよ。真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。遣っ付ける意味だよ。

(夏目漱石『虞美人草』十八)>

 

「真面目」は、作中で呪文のように機能する。この宗近の与太話を聞かされた小野は、ころりと改心してしまうのだ。小野はあっさりと藤尾を捨てる。捨てられた藤尾はショックで自殺する。そして、「世の中が助かる」という喜劇、いや、「悲劇」だそうだ。

 

<凡(すべ)てが美く(ママ)しい。美く(ママ)しいもののなかに横(ママ)わる人の顔も美く(ママ)しい。驕(おご)る眼は長(とこしな)えに閉じた。驕る眼を眠(ねむ)った藤尾の眉は、額は、黒髪は、天女(てんにょ)の如く美く(ママ)しい。

(夏目漱石『虞美人草』十九)>

 

このように語れば、悲劇的というか、お涙頂戴だろう。『虞美人草』が悲劇なら、藤尾は犠牲者だろう。彼女の性格の悪さは親譲りということになる。

甲野の手紙をイギリスで読んだ宗近は、「此所(ここ)では喜劇ばかり流行(はや)る」(『虞美人草』十九)と答える。「喜劇」の実例は示されていない。『エゴイスト』だろうか。

『エゴイスト』の物語は、ウィロビーの敗北に終わる。悪役が負けるのだから、この物語は立派な喜劇だ。『虞美人草』の悪役が藤尾なら、『虞美人草』も喜劇のはずだ。ところが、作者の観点では悲劇らしい。不可解。真の悪役は甲野の義母だろうが、彼女は改心したふりをして生き残るから、喜劇ですらない。竜頭蛇尾。

『こころ』は、「イゴイスト」(中十五)容疑のSが主人公の喜劇であるべきだ。ところが、「恐ろしい悲劇」のように偽装されている。その結果、Sは「矛盾な人間」として死ぬしかなくなる。矛盾しているのはSではなく、作者の思考なのだ。「矛盾な」は未熟な日本語。真意は〈異常な〉だろう。

『こころ』に続く『道草』では、『二百十日』の圭に始まってKに至る独善家は登場しないが、その後の『明暗』では圭に似た小林という男が出てくる。津田は小林を疎む。晩年のNは、圭的キャラに対する違和感をやっと自覚できるようになったらしい。

(4450終)

 

 

 


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