夏目漱石を読むという虚栄
4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで
4300 臭い『草枕』
4340 「着想」のみ
4341 「どこへ越しても住みにくい」
第二次大戦前の青年は『草枕』を好んだらしい。性的場面と軽薄才子が好みそうな屁理屈が混在しているからだろう。
<とかく住みにくい人の世の煩いを逃れ、芸術のための桃源郷を求めて熊本郊外の温泉を訪れた画工が、宿の美しい娘那美(なみ)の妖(あや)しい言動に驚かされるというのが発端。那美は出戻りで、不羈奔放(ふきほんぽう)な魅力に富む女性だが、彼女を画中の人にしようとする画工の苦心を通じて、人の世はものの「見様(みよう)」でどうにでもなる、俗塵(ぞくじん)を離れた心持ちになれる詩こそ真の芸術だという独自の文学観、いわゆる非人情の美学が語られる。しかし、この文学観はのちに作者によって否定された。
(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「草枕」三好行雄)>
「とかく住みにくい」は誤った引用。〈「熊本郊外」に「桃源郷」がある〉という伝説でもあったのか。私は知らない。
「出戻り」は「差別的な語」(『明鏡国語辞典』「出戻り」)だそうだ。
語り手によって「語られる」のであり、作者が語るのではない。
この「作者」は〈作家〉つまりNのことだ。Nは、どうして持論を撤回してしまったのだろう。「非人情」は、客寄せのための宣伝文句だったからだ。『草枕』は枕なのだ。つまり、前置きだ。Nのすべての小説は枕だ。『道草』は、文豪伝説にとって道草だが、N個人にとっては本道だ。『明暗』は枕が長すぎて、本道に差し掛かったところでNが死ぬ。
<住みにくさが高(こう)じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ(ママ)越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画(え)が出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらする唯(ただ)の人である。
(夏目漱石『草枕』一)>
「安い」は、〈住み易い〉と〈心安い〉などを無理に重ねた言葉。「住みにくい」と思ったから、画工は放浪しているのだろう。「悟った」という体験があるのなら、作品はすでにできているはずだ。「出来る」は〈「出来る」のだろう〉などの誇張だ。
「人の世」の傍点は不可解。『創世記』で「神」に追われて放浪の旅に出たカインが辿りついた「ノド(さすらい)の地」は、彼にとって住みやすかったろう。「鬼」は唐突。〈渡る世間に鬼はない〉とは無関係か。
「やはり」は変。画工は、ご近所さんが「ちらちらする」だけで息苦しくなるらしい。「唯(ただ)の人」は、「神や怪物ではない普通の人」(『広辞苑』「ただびと」)のことだが、「異常な能力や性情などを持たない常人」(『広辞苑』「ただびと」)のことではないらしい。社会を「作った」人はいたろう。彼らが「専門家に対して、一般の人」(『日本国語大事典』「ただの人」)つまり素人であるはずはない。
4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで
4300 臭い『草枕』
4340 「着想」のみ
4342 「詩人という天職」
語り手の画工は、おかしな話を続ける。
<越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束(つか)の間(ま)の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降(くだ)る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故(ゆえ)に尊(たっ)とい。
(夏目漱石『草枕』一)>
「越す事のならぬ世」という話は、唐突。「寛容(くつろげ)て」という語は、Kの「安心」やSの「鷹揚(おうよう)」などの同義語らしい。「命」は〈生涯〉と解釈するが、「命を」の「を」は処理できない。〈人々が自分を受け入れてくれないのなら、自分を変えればいいのだが、自分を変えるのは無理〉という話が抜けている。無理である理由を隠蔽するためだ。
「ここに詩人という天職が出来て」くるのなら、そこに救世主という「天職」も出来てこないのか。「使命」を降す主体は「天」だろう。
「長閑(のどか)」と「人の心を豊かにする」と「寛容(くつろげ)て」の関係が不明。「心配のないさま」(『広辞苑』「のどか」)と「心の満ち足りているさま」(『広辞苑』「ゆたか」)と「安心する」(『広辞苑』「くつろぐ」)が、夏目語ではほぼ同じ意味になるらしい。〈慢心≒安心〉か。
<住みにくき世から、住みにくき煩(わずら)いを引き抜いて、難有(ありがた)い世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは(ママ)音楽と彫刻である。こまかに云(い)えば写さないでもよい。只 まのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧(わ)く。着想を紙に落さぬとも璆鏘(きゅうそう)の音(おん)は胸裏(きょうり)に起る。
(夏目漱石『草枕』一)>
「音楽」の次に出てきそうな〈舞踊〉がない。総合芸術の〈演劇〉もない。
「着想」だけで、作品はない。
この後、大量の難読漢字をモザイクに用いて本音を隠し、改行。気分のことを話題にするうち、色気の話になり、それもすぐに種が尽きたか、食い気に堕して、「……」で、また改行。「余(よ)の考(かんがえ)がここまで漂流して来た時に」と始める。
<ものうい眼が、諦めの甘美な風情ととけ合い、睫毛のこまかくふるえる影が、こんな風に頬にうつりもするだろう。そのとおりだ。そしてそのとおりではないのだ。何が欠けているのか。何でもないものさ。が、この何でもないものがすべてなのだ。
(オノレ=ド・バルザック『知られざる傑作』)>
このように語る画家は、後に不定の「すべて」を描ききったつもりになる。
一方、『草枕』の画工は「着想」を模倣するのだろう。
ちなみに『知られざる傑作』を映画化した『美しき諍い女』(リヴェット監督)は駄作。
4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで
4300 臭い『草枕』
4340 「着想」のみ
4343 「胸中の画面」
漂流を続けてきた『草枕』だが、結末もない。
<ある日、元夫と再会した那美さんの顔に「憐れ」を感じ、画を完成させる。
(『近現代文学事典』「草枕」)>
嘘だね。「再会した」は〈「再会した」後、別れて、その後、偶然、また再会したが、言葉を交わす暇もなく別れることになった〉などの不当な略。「完成させる」は大間違い。
<画家は、この貴婦人と、そが美しき装ひを草々の筆にて描き、ひたすらこの細部のために忍耐を留保せしものの如し。ここに至りて、画家の筆の微に入り細をきはめたるは、この豆人物、天眼鏡を用ゐざれば見るを得ざらしめんがためなり。こは美服をまとへる紅顔可憐の青年なり。ああ、いかばかり彼女は、いとほしく、ほれぼれと、青年の姿に見入ることぞ。
(アンリ・ド・レニエ『水都幻談』「美しき貴婦人」)>
那美も、去って行く「元夫」に見入ったようだ。
<茶色のはげた中折帽の下から、髯だらけな(ママ)野武士が名残(なご)り惜(おし)気(げ)に首を出した。そのとき、那美さんと野武士は思わず顔を見合せた。鉄車はごとりごとりと運転する。野武士の顔はすぐ消えた。那美さんは茫然(ぼうぜん)として、行く汽車を見送る。その茫然のうちには不思議にも今までかつて見た事のない「憐(あわ)れ」が一面に浮いている。
「それだ! それだ! それが出れば画(え)になりますよ」
と余は那美さんの肩を叩きながら小声に(ママ)云った。余が胸中の画面はこの咄嗟(とっさ)の際に成就(じょうじゅ)したのである。
(夏目漱石『草枕』十三)>
「野武士」は比喩。〈那美の物語〉が「成就(じょうじゅ)した」のではない。
那美さんは余の手を邪険に跳ね除けた。その顔から「憐れ」はもう完全に消えている。
「せからしか! 貴様(きさん)、なんばしよっとね。こんだらが」
ぐふっ。非人情がちとすぎたようだ。ボディー・ブローはじわじわと効いてくる。那美さんの拳骨が、しゅっしゅっと余の顔面ぎりぎりで往還していた。芝居ではない。
余は痛む腹を抱えて線路へ飛び降りた。
「あの人、出歯亀よ~」と叫ぶ女の声がする。例によって、ストレス解消の芝居だ。
余が踏切まで漂流してきたときに、余の右足は突然坐りの悪い角石の端をふみ損なった。余の自慢の鼻へ山路が急接近する。そこには柔らかそうな何かがこんもりと置かれてあった。ありがたい。ぐしゃ。それは、ひり出されたばかりの馬糞の山だった。ポワ~ン。
これが本当の(ト鼻をつまんで)くっさあ枕。
(4340終)