夏目漱石を読むという虚栄
4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで
4300 臭い『草枕』
4330 「非人情」は非自然か
4331 漂流する思考
『草枕』の第一段落は次の一個の文だけでできている。
<山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。
(夏目漱石『草枕』一)>
なぜ、「登り」か。「考えた」の主語は、「余(よ)」だ。「こう」は第二段落以下の叙述。
第二段落で知情意の悪文になる。しばらく読み進むと、次のように語られる。
<存分食えばあとが不愉快だ。……
余(よ)の考(かんがえ)がここまで漂流して来た時に、余の右足(うそく)は突然坐(すわ)りのわるい角(かく)石(いし)の端(はし)を踏み損(そ)くなった。
(夏目漱石『草枕』一)>
「考えた」と「余(よ)の考(かんがえ)がここまで漂流して来た時に」は、明らかに矛盾している。「考えた」は〈「考え」てい「た」〉などでなければならない。前の段落の最後が「……」で終わっていることからも、このことは明らかだ。なお、彼の思考は最後まで漂流し続ける。
作者は、語り手に「考(かんがえ)」を纏めさせられなかった。だから、主人公が「考(かんがえ)」を中断できるよう、その足もとに「坐(すわ)りのわるい角(かく)石(いし)」を置いてやった。過去の主人公が見事に「角(かく)石(いし)の端(はし)を踏み損(そ)くなった」ので、現在の語り手は一息つくわけだ。言葉の手品。
<あざやかな自然描写と東洋的な人生観、芸術観が示されている。余裕派を標榜(ひょうぼう)した漱石の初期代表作の一つ。
(『百科事典マイペイディア』「草枕」)>
Nの「人生観、芸術観が示されている」というのは、伝説。
語り手でもある主人公の「余」は「余裕派を標榜(ひょうぼう)した」画工と言える。だが、実際には余裕なんか、全然ない。羊頭狗肉。『じゃりン子チエ』(はるき悦巳)の小林マサルと一緒。のびのび、のびのび、のびのび、のびのび……。
<正岡子規の写生文に始まり、高浜虚子や夏目漱石によって確立。人生に余裕ある態度で臨み、高踏的に人生を観察する低徊(ていかい)趣味(漱石の造語)の文学。
(『日本史事典』「余裕派」)>
「確立」は意味不明。〈「人生に」~「臨み」〉は意味不明。
この文芸用語は、「主として自然主義を中心とする文壇からやや嘲弄的に使用された」(『日本国語大辞典』「余裕派」)という。これには「反自然主義の立場」(『近現代文学事典』「余裕派」)といった程度の意味しかない。
4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで
4300 臭い『草枕』
4330 「非人情」は非自然か
4332 「神経が過敏なのかも」
辞書には、しばしば例文として文芸作品から引用されている。だが、不適切な場合もある。なぜなら、文芸作品に用いられた語句は、それが印象的であればあるほど、日常的な用い方と違っているものだからだ。〈自分語かも?〉と疑うべきだ。
- <人情のないこと。人に冷たいこと。思いやりのないこと。
- (「不人情」と区別して)人情から超然として、それにわずらわされないこと。夏目漱石、草枕「不人情ぢゃありません、―な惚れ方をするんです」。「―に眺める」
(『広辞苑』「非人情」)>
「非人情な惚れ方」という言葉が②の意味で理解できるか。私にはできない。しかも、この辞書の説明だと、②の「非人情」は〈超俗〉などが適当のように思われる。
<西洋の詩は無論の事、支那(シナ)の詩にも、よく万斛(ばんこく)の愁(うれい)などと云(ママ)う字がある。詩人だから万斛で素人(しろうと)なら一合(ごう)で済むかも知(ママ)れぬ。して見ると詩人は常の人よりも苦労性で、凡骨(ぼんこつ)の倍以上に神経が鋭敏なのかも知(ママ)れん。超俗の喜びもあろうが、無量の悲(かなしみ)も多かろう。そんならば詩人になるのも考え物だ。
(夏目漱石『草枕』一)>
「西洋」と「支那(シナ)」を並べるのはナンセンス。
「神経が鋭敏」は怪しい。語り手の「余」は、〈語られる「余」は「神経が鋭敏」ではない〉と暗示している。〈「神経」過敏ではない〉という虚偽の暗示をしているのだ。
「超俗の喜び」について、語り手は経験済みだろうか。「超俗の喜び」とは、〈躁鬱〉の〈躁〉のことだろう。「無量の悲(かなしみ)」は、躁の反動として味わう〈鬱〉のことだろう。語り手は語られる自分の精神状態を隠蔽している。
〈人情〉は「自然」(『広辞苑』「人情」)だ。では、「非人情」は〈非自然〉か。
<あの女は家のなかで、常住芝居をしている。しかも芝居をしているとは気がつかん。自然天然に芝居をしている。
(夏目漱石『草枕』十二)>
「あの女」は那美。同棲していないのに「常住」とわかるわけがない。
読心術者でもないのに「気がつかん」とわかるわけがない。
「自然天然に芝居をしている」はどういう冗談だろう。「芝居」をしないのが〈非「自然」〉で、つまり「非人情」か。〈テクニカラー〉を〈天然色〉と訳すような感じか。
少し後で、「あの女の所作(しょさ)を芝居と見なければ、薄気味がわるくて一日も居たたまれん」(『草枕』十二)と修正。「芝居」が「薄気味がわるく」感じられるのなら、那美は尼神インターの誠子が演じるかわいそうな女たちの同類だろう。
4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで
4300 臭い『草枕』
4330 「非人情」は非自然か
4333 「芝居」と「技巧」
那美の「芝居」は、三千子や静の「技巧」の同義語だろう。だが、それは男の誤解かもしれない。女は、幼時期から他人を誘うような態度を示すものだ。
<過度な情緒性と人の注意を引こうとすることが特徴で、具体的には注目の的でないと楽しくないとか、過度なほど性的に誘惑的、挑戦的な対人交流などが挙げられる。
(『精神科ポケット事典[新訂版]』「演技性パーソナリティ障害〔演技性人格障害〕」)>
那美の意味不明の言動が「芝居」なら、画工の「非人情」論も「芝居」だろう。
<わたしは、虚栄心の強い者たちがすべて、よい俳優であるのを見いだした。虚栄心の強い者たちは演技し、そして、自分たちが人々から喜んで見物されることを欲する、――彼らの全精神がこの意欲にこめられているのだ。
(フリードリッヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラ』「第二部〔21〕人間と交わるための賢さについて」)>
主人公の画工には、那美が実際に「芝居」をしているのか、どうか、わからない。いや、わかりたくない。なぜなら、彼自身がのびのびキャラを演じているからだ。他人の演技を認めることは、同時に自分の演技をも認めることになりかねない。作者も文学者を演じている。
『天使のはらわた』(石井隆)の土屋名美は、名美を演じている。名美を演じない名美は、名美ではない。名美を演じきれなくなったとき、名美は男の前から消える。
<名美か? 名美だな? 今どこなんだ 話し合おうじゃないか? どこなの? ヤケになって バカな事 やってんじゃないだろうな? 女と男は違うんだからね バカしちゃ モシモシ! 名美! モシモシ! 名美! どこなの!?
(石井隆『シングルベッド』)>
男たちは名美を探し続けている。その間だけ、男たちはやっと生きていられる。名美は、男たちのために名美を演じてくれる。名美とは、そういう女だ。名美を演じきれなくなったとき、彼女は男の前から消える。『グラディーヴァ あるポンペイの幻想小説』(イェンゼン)参照。
男が女を愛するとき、女の嘘をも愛する。『昼下がりの情事』(ワイルダー監督)参照。
<だれかうまい嘘のつける相手 探すのよ
(千家和也作詞・浜圭介作曲『そして神戸』)>
Nの小説に出てくる男たちは、自分の被愛願望を自覚できず、それを女性に擦り付けて非難する。女たちは何者でもない。つまり、いないのも同然なのだ。彼女たちに性的魅力はない。女装した男たちだからだ。那美は女装した「余」だ。
*GO TO ミットソン『漫画の思い出』石井隆 志村太郎の「ミットソン」- 漫画の思い出:著者別「い」 (wakwak.com)
(4330終)