ヒルネボウ

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夏目漱石を読むという虚栄 2150

2021-03-13 00:38:31 | 評論

 

   夏目漱石を読むという虚栄

2000 不純な「矛盾な人間」

2100 冒頭から意味不明

2150 「本名は打ち明けない」

2151 「先生」はあだ名

 

「先生」という呼称によって「本名」を秘匿し、PはSを神秘化する。

「本名」の真意は〈実名〉だろう。

 

<事実・実体に相応した名。

(『日本国語大辞典』「実名」)>

 

語り手Pは、Sの「実体」を隠蔽したいのに違いない。

 

<物の名と実とを一致させること。

(『新漢語林』「正名(せいめい)」)>

 

「先生」は、あだ名のようなものだ。あだ名は、本名を隠す働きもする。

 

<一般に前近代社会では名前は単なる記号ではなく、呪術的意味をもち、地位や身分、帰属集団などを示す役割を果たした。

(『日本歴史大事典』「名」坂田聡)>

 

語り手PはSの正体を隠蔽している。作者は「呪術的」思考を隠蔽しているはずだ。

 

<実名を知られるのを忌んだ原始信仰に基づき、実名を呼ぶのを不敬と考えるようになったところからの風習。

(『日本国語大辞典』「字(あざな)」)>

Nは日常的に呪術的思考をしていたのに違いない。

 

<化け物は正体がばれるとその呪力(じゅりょく)を失うものである。古代では名前は物そのものと変わらないから、名前を知られた化け物はひとたまりもなく降参してしまう。

(稲田浩二・稲田和子『日本昔話100選』「大工と鬼六」)>

 

鬼六の同類がグリム童話に出てくる。その名はルンペルシュティルツヘンという。

〈粉屋の娘は、小人の力を借りて藁から金糸を紡ぐ。それを贈られた王様と彼女は結婚するが、小人は見返りに彼女の子をほしがる。彼女は小人の名を唱えて彼を撃退する〉

小人の名について、「ピョンピョンはねる小さな棒? 錘(つむ)、でしょうか」(乾侑美子『「ルンペルシュティルツヘン」って何でしょう?』*)という説がある。

〈粉屋は貧しい家の娘たちに糸を紡がせ、搾取し、王に賄賂を贈って貴族になった〉といった真相が想像できる。

「先生」からは〈専制〉が連想される。Sは僭主のような怪しい人物だろう。救世主を騙る詐欺師のようなキャラだ。作者はそうした物語を隠蔽している。

 

*『ルンペルシュティルツヘン』パンフレット所収。

 

 

 

 

2000 不純な「矛盾な人間」

2100 冒頭から意味不明

2150 「本名は打ち明けない」

2152 「名もない人」

 

Pの母親は、SのことをPに話すとき、「御前のよく先生々々という方」(中六)と言う。Pの兄も「先生先生」と言う。Pは、家族に対してさえ、Sの「本名」を隠していたのかもしれない。Sは「先生」というあだ名の先生なのだろう。〈センセイ先生〉か。

 

<「先生先生というのは一体誰の事だい」と兄が聞いた。

「こないだ話したじゃないか」と私は答えた。私は自分で質問して置(ママ)きながら、すぐ他(ひと)の説明を忘れてしまう兄に対して不快の念を起した。

「聞いたことは聞いたけれども」

兄は必竟(ひっきょう)聞いても解(わか)らないと云うのであった。私から見ればなにも無理に先生を兄に理解して貰う必要はなかった。けれども腹は立った。又例の兄らしいところが出て来たと思った。

先生々々と私が尊敬する以上、その人は必ず著名の士でなくてはならないように兄は考えていた。少なくとも大学の教授位だろうと推察していた。名もない人、何もしていない人、それが何処に価値を有(も)っているだろう。兄の腹はこの点に於て、父と全く同じものだった。

(夏目漱石『こころ』「中 両親と私」十五)>

 

「こないだ」のことを語り手Pは語らない。語り手Pは聞き手Qに対して〈QがSを尊敬しないのなら、「兄」の同類だよ〉といった暗示をかけている。作者も同様。

「自分で質問して」と「すぐ他(ひと)の説明を忘れて」は、別の物語。だから、これらを「置きながら」で結ぶのは無意味。

「聞いても解(わか)らない」は〈「聞いても」御前が「先生先生」と尊敬したように言うほどの立派な人物かどうか、「解らない」〉などの不当な略。

「私から見れば」は意味不明。「先生を兄に理解して」は意味不明。「必要」はあったはず。目的が果たせそうになくなったので、「必要はなかった」とうそぶく。この「なかった」は、語り手Pにとっての過去の出来事を表すのではなく、語られるPにとっての過去の出来事を表す。語られるPは自己欺瞞をしていたのだ。語られるPは、怪しげな魂胆を兄に見抜かれまいとしていたらしい。語り手Pは、語られるPの怪しげな魂胆を聞き手Qに対して隠蔽している。つまり、語られるPは兄を騙そうとして失敗したが、語り手Pはその失敗から学ばず、「兄」を俗物に仕立てることによって、Qを騙そうとしているわけだ。「腹が立った」というが、その理由をPは明示しない。愚兄賢弟の暗示か。Pは怪しい語り手だ。

「又例の」とあるが、先の「例」は語られていない。「兄らしいところ」は「動物的」(中十四)と形容されているが、具体性に欠ける。兄の方では〈「又例の」弟「らしいところが出て来た」〉と思ったことだろう。どっちもどっち。目糞が鼻糞を笑うような話だ。

突然の改行。そして、語り手Pは聞き手Qと会話を始める。実際には、語られるPが兄と会話すべきだった。情けない男だ。

「名もない」の「名」は、「本名」の「名」と同義だろう。

 

 

2000 不純な「矛盾な人間」

2100 冒頭から意味不明

2150 「本名は打ち明けない」

2153 P的人間

 

Pと「兄」のやりとりに関する部分を会話に仕立て直そう。〈M〉は公平な司会者だ。

 

兄 先生先生というのは一体誰の事だい。

 本当は、どんな人かって聞きたいんでしょう? 

P こないだ話したじゃないか。

M 聞きました? 

兄 聞いたことは聞いたけれども、必竟(ひっきょう)聞いても解らない。

M お二人とも困りましたね。どこからやりなおせばいいのでしょうか。

 

語りの場である「此所(ここ)」に移動し、語り手Pにとって都合のいいQが野次で参加する。

 

Q Pよ、頑張れ。

P 無理に先生を兄に理解して貰う必要はなかった。

Q 異議なし! 

M 本当に、そうなんですか? 

P けれども腹は立った。

 

さらに、夢の中へ。

 

P 又例の兄らしいところが出て来た。

兄 御前のような高学歴の男が「先生先生」と尊敬する以上、その人は必ず著名の士でなくてはならない。少なくとも大学の教授位だろう。

P 違う。名もない人、何もしていない人だ。

兄 それが何処に価値を有っているだろう。

Q 偏見だ。

M 普通ですよ。

P 兄の腹はこの点に於て、父と全く同じものだった。

Q そうだ! 父も兄もMも、引っこめ! 我々はこんな人たちに負けないぞ。

 

公平なMは、話し相手の「兄」とともに、Pの〈自分の物語〉から排除された。Pにとって都合のいいQだけが残る。『こころ』の読者は、このQに擬態しなければならない。

語り手Pは、Sの「価値」を過不足なく表現することができない。その弱点を隠蔽するために、語られるPの窮状を語ったのだ。語り手Pは怪しい。

作者が読者に対して〈語り手Pに注意せよ〉と示唆しているのであれば、支障はない。ところが、そんな様子はない。だから、実際に汚い手を使っているのは作者なのだ。

『こころ』はP的人間と「兄」のようなG的人間を選別する篩だ。「受け入れる事の出来ない人」とはGのことだ。P的人間は被害妄想的に外敵Gを捏造する。

(2150終)

(2100終)


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夏目漱石を読むという虚栄 2140

2021-03-13 00:38:31 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

2000 不純な「矛盾な人間」

2100 冒頭から意味不明

2140 「此所(ここ)」はどこ? 

2141 「ただ先生と書くだけで」

 

『こころ』の冒頭の第二文は、第一文の不備を補おうとして傷口を広げる。

 

<私(わたくし)はその人を常に先生と呼んでいた。だから此所(ここ)でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。

(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」一)>

 

「だから」は、「此所(ここ)でもただ先生と書くだけで」までしか関わっていない。

「あんたのお名前、なんてえのお?」と、トニー谷が算盤を弾きながら歌うと、聞かれる素人はツイストを踊っていたっけ。思い出しただけ。

閑話休題。

〈「私はその人を常に先生と呼んでいた」の「だから此所(ここ)でもただ先生と書くだけ」にする。ただし、「先生」の「本名は打ち明けない」でおく。その理由は次に述べる〉

このように語るのが日本語として適当だ。

「此所(ここ)」はどこ? 「此所(ここ)」がどのような性質の場所なのか、判然としないので、「本名」を秘匿する理由が推量できない。「本名」を明示しても、その後、「先生」で通すことはできる。たとえば、P文書では「静(しず)」と明記されているが、語り手Pは「奥さん」で通している。「ただ先生と書くだけ」の「ただ」と「だけ」は重複。「ただ」が名前みたいだ。

 

 ① 過去のPは、Sに向かって、「本名」を用いず、「先生」と呼びかけた。

 ② 過去のPは、Sについて誰かに語るとき、「先生」という呼称を用いた。

 ③ 「此所(ここ)」の語り手Pは、Sについて語るとき、「先生」という呼称を用いる。

 ④ 「此所(ここ)」の語り手Pは、聞き手Qに対して、Sの「本名」を秘匿する。

 

冒頭の二文の本筋は〈②→③〉だ。〈①→②〉というのは幼稚。他人には通じない。青年Pは、現実の②の場面でも、③のような物言いをしていたのだろう。つまり、Sが生きているときからPは〈SとPの物語〉の語り手だったわけだ〈③→④〉は唐突。

以上を繋ぐと次のようになる。

 

 ①… ② → ③ … ④

 

〈…〉は弱い流れを表す。①と④は、ほとんど無関係なのだ。何らかの関係があるとすれば、語り手Pは次のような真相を隠蔽しているのだろう。

〈過去のPはSについて語るとき、誰にもSの「本名」を打明けなかった。「だから此所(ここ)でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない」でおく〉

語り手Pは、〈青年PがSの「本名」を秘匿していた理由〉そのものを秘匿しているわけだ。ただし、秘密めかした気分を伝達しようとしている。暗示による忖度の強制。この文は謎めいているが、謎ではない。

 

2000 不純な「矛盾な人間」

2100 冒頭から意味不明

2140 「此所(ここ)」はどこ? 

2142 「受け入れる事」

 

思想には二種ある。〈広場の思想〉と〈密室の思想〉だ。

「此所(ここ)」が広場なら、そして、Sが「一人の罪人(ざいにん)」なら、〈静を含めた関係者の名誉のために「本名は打ち明けない」〉という判断は妥当かもしれない。

 

<古代ギリシアのポリスの公共建築物や柱廊に囲まれた広場。市場にも使われ、市民が政治、哲学などを論じて閑暇を過したポリス的生活の中心。

(『ブリタニカ国際大百科事典』「アゴラ」)>

 

「此所(ここ)」は密室らしい。ただし、PとQの関係は不明。

 

<結社への加入に際してイニシエーション(入社式)を施し、会員が組織内部の位階に応じた秘儀を通過し、人間存在を変革していくこと自体に結社の存在理由をみいだしている。

(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「秘密結社」綾部恒雄)>

 

「人間存在」は意味不明。

「遺書」が読み上げられる「此所(ここ)」で、「入社式」が催されるようだ。

 

<私の過去は私だけの経験だから、私だけの所有と云っても差支(さしつかえ)ないでしょう。それを人に与えないで死ぬのは、惜(おし)いとも云われるでしょう。私にも多少そんな心持があります。ただし受け入れる事の出来ない人に与える位なら、私はむしろ私の経験を私の生命(いのち)と共に葬(ほうむ)った方が好(い)いと思います。実際ここに貴方という一人の男が存在していないならば、私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にならないで済んだでしょう。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」二)>

 

〈「過去」は「経験」で「所有」で「人に与え」られる〉らしい。意味不明。

「過去」の何を「受け入れる事」になるのか。〈「経験を」~「葬った」〉は意味不明。

「私の過去はついに私の過去で」なんて無意味。「間接に」は意味不明。

〈『こころ』は高校卒業程度の日本語の知識があれば十分に理解できる〉と主張する人は、次の三点について、わかりやすく説明しなさい。ただし、短めにね。

 

問一 「受け入れる事」とは、PがSの何をどうすることか。

問二 「受け入れる事の出来ない人」にも、「受け入れる事」がSの何をどうすることか、理解できるのか。理解できるとしたら、あるいは理解できないとしたら、なぜか。

問三 ある人が「受け入れる事の出来ない人」かどうか、どうやって判別するのか。

 

これらの問題に答えない『こころ』ファンを、私の読者として想定しない。消えろ。

 

2000 不純な「矛盾な人間」

2100 冒頭から意味不明

2140 「此所(ここ)」はどこ?

2143 「自分で自分の心臓を破って」

 

「自分以外のものを受け入れようとすればすべて『ふり』になる」(いがらしみきお『ぼのぼの』)とオオサンショウウオさんは喝破した。

 

<他方、ほとんどの人は単に物事を「受け入れ」てしまう。「これが小学校で教える事柄である」と言ってそれでおしまい。常に、「これが最良の方法なのだろうか」と問いかける必要がある。考えることが重要なのです。この能力は記憶を主体とする教育からは生まれない。

(吉成真由美『知の逆転』ワトソンの発言)>

 

「受け入れる事」とは、次のようなことか。

 

<私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴せ(ママ)かけようとしているのです。私の鼓動が停った時、あなたの胸に新ら(ママ)しい命が宿る事が出来るなら満足です。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」二)>

 

Sが依拠しているところの血液顔射儀式の実態を、私は知らない。だから、この文に含まれたすべての語句の真意がわからない。

Pが「満足」できなくても、Sは「満足」か。あるいは……。止めよう。空しい。

 

<「このぶどうしゅは、わたしの血(ち)、おおぜいの人(ひと)びとのつみをゆるすために、わたしがこれから流(なが)そうとしている血(ち)です。そう思(おも)って、のみなさい。そして、これからも、わたしのことを思(おも)いだすために、これとおなじことをたびたびおこないなさい。」

でしたちは、イエスのいうことがわからないながらも、なんだか、かなしい気(き)もちで、イエスのさいてくれた、パンをたべ、さかずきのぶどうしゅをのみました。

(山本静枝『キリスト』)>

 

私にはイエスの言葉がわからない。原典のカニバリズムの実態を知らないからだろう。

 

なお、伝統的社会に多くみられる秘密結社には入社的なものが多いが、これらはさらに、

(1)結社がその部族の社会組織の重要な一環を占めており、その部族の男は一定の年齢になるとすべて「死と再生」のモチーフを伴うイニシエーションを受け秘密結社員になるもの、

(2)妖術者(ようじゅつしゃ)や呪医(じゅい)、舞踏者たちが職能的、専門家的ないしは階級的な閉鎖集団をつくる場合とがある。

(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「秘密結社」綾部恒雄)

 

青年Pは「妖術者」か。作品の外部には夏目宗という秘密結社があるのだろう。

 

(2140終)

 


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