夏目漱石を読むという虚栄
2000 不純な「矛盾な人間」
2100 冒頭から意味不明
2150 「本名は打ち明けない」
2151 「先生」はあだ名
「先生」という呼称によって「本名」を秘匿し、PはSを神秘化する。
「本名」の真意は〈実名〉だろう。
<事実・実体に相応した名。
(『日本国語大辞典』「実名」)>
語り手Pは、Sの「実体」を隠蔽したいのに違いない。
<物の名と実とを一致させること。
(『新漢語林』「正名(せいめい)」)>
「先生」は、あだ名のようなものだ。あだ名は、本名を隠す働きもする。
<一般に前近代社会では名前は単なる記号ではなく、呪術的意味をもち、地位や身分、帰属集団などを示す役割を果たした。
(『日本歴史大事典』「名」坂田聡)>
語り手PはSの正体を隠蔽している。作者は「呪術的」思考を隠蔽しているはずだ。
<実名を知られるのを忌んだ原始信仰に基づき、実名を呼ぶのを不敬と考えるようになったところからの風習。
(『日本国語大辞典』「字(あざな)」)>
Nは日常的に呪術的思考をしていたのに違いない。
<化け物は正体がばれるとその呪力(じゅりょく)を失うものである。古代では名前は物そのものと変わらないから、名前を知られた化け物はひとたまりもなく降参してしまう。
(稲田浩二・稲田和子『日本昔話100選』「大工と鬼六」)>
鬼六の同類がグリム童話に出てくる。その名はルンペルシュティルツヘンという。
〈粉屋の娘は、小人の力を借りて藁から金糸を紡ぐ。それを贈られた王様と彼女は結婚するが、小人は見返りに彼女の子をほしがる。彼女は小人の名を唱えて彼を撃退する〉
小人の名について、「ピョンピョンはねる小さな棒? 錘(つむ)、でしょうか」(乾侑美子『「ルンペルシュティルツヘン」って何でしょう?』*)という説がある。
〈粉屋は貧しい家の娘たちに糸を紡がせ、搾取し、王に賄賂を贈って貴族になった〉といった真相が想像できる。
「先生」からは〈専制〉が連想される。Sは僭主のような怪しい人物だろう。救世主を騙る詐欺師のようなキャラだ。作者はそうした物語を隠蔽している。
*『ルンペルシュティルツヘン』パンフレット所収。
2000 不純な「矛盾な人間」
2100 冒頭から意味不明
2150 「本名は打ち明けない」
2152 「名もない人」
Pの母親は、SのことをPに話すとき、「御前のよく先生々々という方」(中六)と言う。Pの兄も「先生先生」と言う。Pは、家族に対してさえ、Sの「本名」を隠していたのかもしれない。Sは「先生」というあだ名の先生なのだろう。〈センセイ先生〉か。
<「先生先生というのは一体誰の事だい」と兄が聞いた。
「こないだ話したじゃないか」と私は答えた。私は自分で質問して置(ママ)きながら、すぐ他(ひと)の説明を忘れてしまう兄に対して不快の念を起した。
「聞いたことは聞いたけれども」
兄は必竟(ひっきょう)聞いても解(わか)らないと云うのであった。私から見ればなにも無理に先生を兄に理解して貰う必要はなかった。けれども腹は立った。又例の兄らしいところが出て来たと思った。
先生々々と私が尊敬する以上、その人は必ず著名の士でなくてはならないように兄は考えていた。少なくとも大学の教授位だろうと推察していた。名もない人、何もしていない人、それが何処に価値を有(も)っているだろう。兄の腹はこの点に於て、父と全く同じものだった。
(夏目漱石『こころ』「中 両親と私」十五)>
「こないだ」のことを語り手Pは語らない。語り手Pは聞き手Qに対して〈QがSを尊敬しないのなら、「兄」の同類だよ〉といった暗示をかけている。作者も同様。
「自分で質問して」と「すぐ他(ひと)の説明を忘れて」は、別の物語。だから、これらを「置きながら」で結ぶのは無意味。
「聞いても解(わか)らない」は〈「聞いても」御前が「先生先生」と尊敬したように言うほどの立派な人物かどうか、「解らない」〉などの不当な略。
「私から見れば」は意味不明。「先生を兄に理解して」は意味不明。「必要」はあったはず。目的が果たせそうになくなったので、「必要はなかった」とうそぶく。この「なかった」は、語り手Pにとっての過去の出来事を表すのではなく、語られるPにとっての過去の出来事を表す。語られるPは自己欺瞞をしていたのだ。語られるPは、怪しげな魂胆を兄に見抜かれまいとしていたらしい。語り手Pは、語られるPの怪しげな魂胆を聞き手Qに対して隠蔽している。つまり、語られるPは兄を騙そうとして失敗したが、語り手Pはその失敗から学ばず、「兄」を俗物に仕立てることによって、Qを騙そうとしているわけだ。「腹が立った」というが、その理由をPは明示しない。愚兄賢弟の暗示か。Pは怪しい語り手だ。
「又例の」とあるが、先の「例」は語られていない。「兄らしいところ」は「動物的」(中十四)と形容されているが、具体性に欠ける。兄の方では〈「又例の」弟「らしいところが出て来た」〉と思ったことだろう。どっちもどっち。目糞が鼻糞を笑うような話だ。
突然の改行。そして、語り手Pは聞き手Qと会話を始める。実際には、語られるPが兄と会話すべきだった。情けない男だ。
「名もない」の「名」は、「本名」の「名」と同義だろう。
2000 不純な「矛盾な人間」
2100 冒頭から意味不明
2150 「本名は打ち明けない」
2153 P的人間
Pと「兄」のやりとりに関する部分を会話に仕立て直そう。〈M〉は公平な司会者だ。
兄 先生先生というのは一体誰の事だい。
M 本当は、どんな人かって聞きたいんでしょう?
P こないだ話したじゃないか。
M 聞きました?
兄 聞いたことは聞いたけれども、必竟(ひっきょう)聞いても解らない。
M お二人とも困りましたね。どこからやりなおせばいいのでしょうか。
語りの場である「此所(ここ)」に移動し、語り手Pにとって都合のいいQが野次で参加する。
Q Pよ、頑張れ。
P 無理に先生を兄に理解して貰う必要はなかった。
Q 異議なし!
M 本当に、そうなんですか?
P けれども腹は立った。
さらに、夢の中へ。
P 又例の兄らしいところが出て来た。
兄 御前のような高学歴の男が「先生先生」と尊敬する以上、その人は必ず著名の士でなくてはならない。少なくとも大学の教授位だろう。
P 違う。名もない人、何もしていない人だ。
兄 それが何処に価値を有っているだろう。
Q 偏見だ。
M 普通ですよ。
P 兄の腹はこの点に於て、父と全く同じものだった。
Q そうだ! 父も兄もMも、引っこめ! 我々はこんな人たちに負けないぞ。
公平なMは、話し相手の「兄」とともに、Pの〈自分の物語〉から排除された。Pにとって都合のいいQだけが残る。『こころ』の読者は、このQに擬態しなければならない。
語り手Pは、Sの「価値」を過不足なく表現することができない。その弱点を隠蔽するために、語られるPの窮状を語ったのだ。語り手Pは怪しい。
作者が読者に対して〈語り手Pに注意せよ〉と示唆しているのであれば、支障はない。ところが、そんな様子はない。だから、実際に汚い手を使っているのは作者なのだ。
『こころ』はP的人間と「兄」のようなG的人間を選別する篩だ。「受け入れる事の出来ない人」とはGのことだ。P的人間は被害妄想的に外敵Gを捏造する。
(2150終)
(2100終)