夏目漱石を読むという虚栄
2000 不純な「矛盾な人間」
2200 不自然な「自然」
2220 不確かな「記憶」
2221 「記憶のうちから抽(ひ)き抜いて」
Pの「記憶」は怪しい。
<私はその晩の事を記憶のうちから抽(ひ)き抜いて此所へ(ママ)詳しく書いた。これは書くだけの必要があるから書いたのだが、実をいうと、奥さんに菓子を貰(もら)って帰るときの気分では、それ程当夜の会話を重く見(ママ)ていなかった。
(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」二十)>
「その晩の事」とは〈夜話の段〉(上十六~二十)と私が勝手に呼ぶ場面での出来事だ。この夜、静は〈Sがネガティブになったのは「大変仲の好(い)い御友達」(上十九)の自殺と関係がありそうだ〉と仄めかす。「記憶のうちから抽(ひ)き抜いて」は意味不明。語り手Pは「抽(ひ)き抜いて」残った方の「記憶」について語っていない。だから、聞き手Qに二種の「記憶」の軽重について考えることはできない。
「書くだけの必要がある」というのは意味不明。「だけ」と「必要」は重複のようだ。〈読んでもらう「必要」〉があるのだろう。「会話」の間、Sは用があって外出中だった。Pが「帰るとき」には、Sは帰宅していた。わざとらしい。
<われわれが自分の行なったことや、他の人々が行なったことを思い出すとき、われわれは過去を考え直し、記述し直し、感じ直すのかもしれない。これらの再記述は、過去について完璧に当てはまるのかもしれない。そして、そうした再記述こそ、われわれが、今、過去について断定的に主張している真実なのである。だが、逆説的ではあるが、それは、過去においては真実ではなかった。言い換えれば、その行為が行なわれた時点で意味を持っていたような、意図的な行為に関する真実ではなかったのかもしれない。だから、私は、過去自体が、過去にさかのぼって改訂されていると述べているのである。私が言いたいのは、行なわれたことに対してわれわれの意見が変わるということだけでなく、ある種の論理的な意味合いにおいて、行なわれたこと自体が修正されるということなのだ。われわれが、自らの理解と感受性を変えるにつれて、過去は、ある意味において、それが実際に行なわれたときには存在しなかった意図的な行為というもので満たされていくのである。
(イアン・ハッキング『記憶を書きかえる 多重人格と心のメカニズム』)>
時間の錯綜は、普通に起きる。だが、「再記述」の主体にその自覚はない。少しでも自覚すれば、再々記述を始めてしまうことだろう。
歴史を含め、通常の物語の語り手は、記憶の複雑な成り立ちを無視し、出来事があたかも必然的に生じたように語る。ところが、PやSは、そのように語らない。では、作者は、〈SやPは語り手として失格だ〉という表現をしているのだろうか。していない。
〈夜話の段〉において、実際には、青年Pは静との「会話を重く見て」いた。ところが、「帰るとき」には「気分」が変わって、自分が「重く見て」いたことを忘れてしまった。「重く見ていなかった」という部分は「再記述」に相当する。つまり、記憶幻想だ。
2000 不純な「矛盾な人間」
2200 不自然な「自然」
2220 不確かな「記憶」
2222 夢のような「記憶」
記憶は不確かなものだ。
<夜の音楽会。大ホールは満席。そこに一人のスパイ氏が座っている。彼は、ある女性を尾行している。午後九時。彼女が現れる時間だ。演奏は佳境に入り、有名な女性歌手の声量ある歌が、ホールに響く。スパイ氏の目は、彼女の居場所を突き止めようと客席を追うが、一方ですばらしい歌声も楽しみたい。
こんな時、スパイ氏の大脳の地図の二つのセットが忙しく活動している。一つは歌声を聞き、別のセットが尾行という、音を聞くのとは別のカテゴリーをつくって活動しているのである。
(イスラエル・ローゼンフィールド『記憶とは何か 記憶中枢の謎を追う』)>
Pの「大脳の地図の二つのセット」は、〈理想的な「先生」の物語〉と〈具体的なSの物語〉だ。P文書では、この二つの「カテゴリー」が混交する。
<その夜遅く、スパイ氏は、自分が尾行していた女性が、音楽会でどんな顔をしていたか、どうしても思い出せない。困ったことに、女性歌手が歌ったメロディーばかりが無意識に口をついて出てくる。しかも驚いたことに、彼の想像のなかで、そのメロディーは、尾行していた女性が歌っているではないか。これと同じような経験を持つ人がいるにちがいない。
これは、記憶というものは、人間の大脳のなかに生じたイメージが、そのままそっくり反復されて出てくるのではなく、大脳内でいったんカテゴリー化されたものが再構成されて出てくるのであるということを、よく示してる。カテゴリーの再構成が起きるのは、異なった大脳地図のニューロン・グループの結合が、一時的に強められるときである。
(イスラエル・ローゼンフィールド『記憶とは何か 記憶中枢の謎を追う』)>
青年Pは「スパイ氏」のようだった。彼は自分が「尾行していた」Sの言葉を、「先生」的人物が発したもののように記憶を作り変えてしまう。そのことにSは気づいてPに「警告を与えた」のだろう。ただし、『こころ』の作者がこうした真相を暗示しているのではない。
語り手Pは、「その人の記憶」について、「イメージが、そっくりそのまま反復される」ように語っている。つまり、文字で記録されたものを読み返すように語っている。ところが、同時に、「カテゴリーの再構成が起きる」としか思えないような事柄を語っている。その結果、本文は意味不明になっている。
『こころ』における「記憶」という言葉は意味不明だ。また、「記憶」の内容も判然としない。『こころ』の本文は、「記憶」の中身を確かなものとして語ろうとするPやSの意地の露呈みたいだ。この露呈が「自然」と形容されるのだろう。「記憶」は、夢のように「自然」なのだろう。ただし、作者が〈語り手たちは、知らず知らず、嘘をついている〉といった文芸的表現をしているのではない。Nが自身の混乱を露呈しているのだろう。
2000 不純な「矛盾な人間」
2200 不自然な「自然」
2220 不確かな「記憶」
2223 「ところがその晩に」
記憶の内容が変わらないまま、その価値などが変わるのなら、容易に自覚できよう。
<私が進もうか止(よ)そうかと考えて、ともかくも翌日(あくるひ)まで待とうと決心したのは土曜の晩でした。ところがその晩に、Kは自殺して死んでしまったのです。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」四十八)>
「進もうか止(よ)そうかと考えて、ともかくも翌日(あくるひ)まで待とう」と決心したのは、「土曜の晩」だけではなかったのかもしれない。「Kは自殺して死んでしまった」という出来事のせいで、「その晩」が特別な晩としてSの記憶に残ったのかもしれない。つまり、実際には、特別なことが起きるまで、Sは様子見を続けていたろう。真相は、〈いつまでもKの出方を「待とう」〉と「決心した」〉というのではなかろうか。私には、そのように疑われる。そのように疑わない語り手Sの魂胆を、私は疑う。
作者が〈Sは記憶の偽造を反省できない人間だ〉といった文芸的暗示をしているのであれば、辻褄は合いそうだ。しかし、そんな様子はない。だから、『こころ』は意味不明なのだ。
<自分と三千代との現在の関係は、この前逢った時、既に発展していたのだと思い出した。否、その前逢った時既に、と思い出した。代助は二人の過去を順次に遡(さかの)ぼってみて、いずれの断面にも、二人の間に燃える愛の炎を見出(みいだ)さない事はなかった。必竟は、三千代が平岡に嫁ぐ前、既に自分に嫁いでいたのも同じ事だと考え詰めた時、彼は堪えがたき重いものを、胸の中に投げ込まれた。
(夏目漱石『それから』十三)>
「自分」は代助。〈婚前の三千代は代助を愛していながら、代助によって平岡と結婚させられた〉と代助は思う。「思い出した」は〈思い起こした〉と〈思い始めた〉の二様に取れる。この二種の作業は、同時に進行しているようだ。ただし、語り手がそのように語っているのではない。作者も記憶幻想の可能性を考慮していないはずだ。
「いずれの断面」についても具体的に語られていない。「愛の炎」の記憶が代助にはないからだ。「愛の炎」は、「過去」ではなく、現在における代助の感傷の比喩にすぎない。彼は〈「愛の炎」の物語〉という空疎な物語の世界を借りてきて、その世界の主人公を演じようとしている。勿論、語り手がそのように語っているのではない。作者が〈三千代に対する代助の関係妄想〉と〈作中の現実としての三千代と代助の「関係」〉とを混同しているのだ。
語り手は、次のように続けるべきだろう。
〈「自分と三千代の現在の関係は、この」次逢う時、さらに「発展して」いることだろう〉と、代助は「思い出した」〉
作者が〈恋愛とは被愛妄想の共有だ〉といった文芸的表現を試みているわけではない。
Nは、〈男女関係はどのように成立し、中断し、そして、再燃するか〉という問題に答えられない。そのことを自他に対して隠蔽するために小説を悪用している。
(2220終)