夏目漱石を読むという虚栄
2000 不純な「矛盾な人間」
2300 「恋は罪悪ですよ」
2350 「本当の愛」
2351 「罪悪」かつ「神聖」
困ったことに、「恋は罪悪」であるだけではない。
<「又悪い事を云った。焦慮(じら)せるのが悪いと思って、説明しようとすると、その説明が又あなたを焦慮せるような結果になる。どうも仕方がない。この問題はこれで止(や)めましょう。とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ」
私には先生の話が益(ますます)解らなくなった。然し先生はそれぎり恋を口にしなかった。
(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」十三)>
Sは「説明し」ていない。だから、「その説明」の「そ」の指すものはない。
「この問題は」は〈「この問題」について論じるの「は」〉などの不当な略。
「然し」の後は、〈私は「それぎり恋を口にしなかった」〉などが適当。
Pは〈「神聖」〉がわからないのか。〈「罪悪」かつ「神聖」〉がわからないのか。不明。
<「ちょっと待ってよ。私はもっとロマンチックな神聖な純粋な気分でいるのよ。どうして、すぐ寝るとか寝ないとかいう話になるのよ」
(北川悦吏子『ロング バケーション』5)>
この「神聖」は「神聖なる恋愛、二人は決して罪を犯(おか)しては居らぬ」(田山花袋『蒲団』)の場合と同様で、肉体関係のこと。
<「ああ、いいなあ……」南はうっとりする。
「何が」
「男の人に好きって言われるの」
「何言ってるの……」
「私、言わせるのは卑怯(ひきょう)な気がして、いつも自分から言ってました」
「黙らない人だなあ……」と、杉崎は、その唇をふさいだ。
(北川悦吏子『ロング バケーション』7)>
南は被愛願望を隠蔽し、自立した女を演じようとして、かなり無理をしていた。
<外(ほか)へはやられぬ。神聖なる玩具(おもちゃ)として生涯(しょうがい)大事にせねばならぬ。
神聖とは自分一人が玩具にして、外の人には指もささせぬと云(ママ)う意味である。
(夏目漱石『虞美人草』十二)>
「自分」は藤尾で、「玩具(おもちゃ)」にされるのは小野。藤尾は「玩具(おもちゃ)」に愛されたがる。
この「神聖」は語り手の皮肉の表現だ。『こころ』の「神聖」はSの自嘲の表現か。いや、Sの自分語らしい。『こころ』の「神聖」は複雑すぎて、無意味のようだ。
2000 不純な「矛盾な人間」
2300 「恋は罪悪ですよ」
2350 「本当の愛」
2352 『近代の戀愛觀』
『文学論』では、〈「恋」は「神聖」〉として称揚されてはいない。
<ただ恋は神聖なりなど、説く論者には頗(すこぶ)る妥当を欠くの感あるべし。所謂Plato式恋愛なるもの、もし世に存在すると仮定せば、これには劣情の混入しあらざること勿論なれども、同時にまた劇烈の情緒として存在し能はざることも明かなり。
(夏目漱石『文学論』「第一編 第二章 文学内容の基本成分」)>
「劇烈の情緒」の不足を補うために、SはKを巻き込む。
<精(せい)神(しん)と肉體(にくたい)と兩(りやう)方(はう)からの完全(くわんぜん)な全的(ぜんてき)な人格的(じんかくてき)結合(けつがふ)を個人(こじん)と個人(こじん)の間(あひだ)に見(み)ることは、戀(れん)愛(あい)生活(せいくわつ)の外(ほか)には断(だん)じて有(あ)り得(う)べからざる事(こと)だ。両性(りやうせい)の肉體(にくたい)的(てき)結合(エニシ)には他(た)の何者(なにもの)とも比(ひ)すべからざる絶大(ぜつだい)なる精(せい)神的(しんてき)意義(いぎ)の存(そん)することを知(し)らねばならぬ。文字(もじ)通(どほ)りに同心(どうしん)一體(いつたい)といふ言葉(ことば)は、他(た)の如何(いか)なる生活(せいくわつ)に於(おい)ても適用(てきよう)し得(う)べからざる語(ご)である。
(厨川(くりやがわ)白(はく)村(そん)『近代の戀愛觀』)>
『近代の恋愛観』は『こころ』の八年後に出た。
<先生、屹度今でも遣つて居るに相違ない。若い時、あゝいふ風で、無闇に戀愛神聖論者を氣取つて、口では綺麗なことを言つて居ても、本能が承知しないから、つい自か(ママ)ら傷つけて快を取るといふやうなことになる。そしてそれが習慣になると、病的になつて、本能の充分の働を爲ることが出來なくなる。先生のは屹度それだ。つまり前にも言つたが、肉と靈とがしつくり調和することが出來んのだよ。
(田山花袋『少女病』三)>
「罪悪」とは、「自から傷つけて快を取るといふこと」かもしれない。
<A・アルステーンスも非妥協的な態度はおなじであるが、しかし彼の場合は精神分析を背景にしている。この著者はフロイトに依拠して、マスターベーションが神経衰弱症においてある役割を果たし、器官障害を引きおこす(フロイトにもその器官障害の仕組みはわかっていなかった)、と主張しているのである。自慰という罪を犯した者はもはや非難されない。「教育的援助」こそがその者を難局から救い出すことができるであろう、というわけだ。
(ロジェ=アンリ・ゲラン『マスターベーション糾弾!』*)>
「戀愛神聖論者」はオナニストと疑われたわけだ。〈静であてがきをしたことはない〉と、語り手Sは暗示しているのか。だが、〈エロ本を種にしたせんずりのせいで「病的になって」いたかも〉という不安を隠蔽しているのかも。
*ジョルジュ・デュビー他『愛とセクシュアリテの歴史』所収。
2000 不純な「矛盾な人間」
2300 「恋は罪悪ですよ」
2350 「本当の愛」
2353 「信仰に近い愛」
青年Sは少女静に愛の告白をしようと思わない。「好きっていいなよ」(葉月かなえ『好きっていいなよ。』)と言う気もなかったようだ。被愛願望を悟られたくなかったからか。
<私は女らしかったのかも知(ママ)れません。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」十四)>
「女らしかった」は〈女々しかった〉などが適当のようだが、〈意気地なしだった〉という話ではなかろう。〈受動的だった〉という事実の隠蔽に違いない。
<私はその人に対して、殆んど信仰に近い愛を有っていたのです。私が宗教だけに用いるこの言葉を、若い女に応用するのを見て、貴方は変に思うかも知(ママ)れませんが、私は今でも固く信じているのです。本当の愛は宗教心とそう違ったものでないという事を固く信じているのです。私は御嬢さんの顔を見るたびに、自分が美く(ママ)しくなるような心持がしました。御嬢さんの事を考えると、気高い気分がすぐ自分に乗り移って来るように思いました。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」十四)>
「その人」は静。「殆んど」の被修飾語が決まらない。〈「殆んど」~「近い」〉だと、近くない。〈「殆んど」~「有っていた」〉だと、「有って」いなかった。〈「信仰」そのものである「愛」の物語〉は、〈神は私を愛する〉というものだろう。だったら、〈「信仰」と区別できない「愛」の物語〉は〈静はSを愛する〉というものだろう。つまり、被愛妄想だ。
「宗教だけに用いる」は間違い。〈科学信仰〉などと用いる。〈若くない「女に応用するの」は「変」ではない〉という考えを、SとPは共有しているようだ。Sの場合、〈若くない「女」〉とは、静の母のことだ。Sの被愛願望の本来の対象は、静の母だった。Pの場合、静だ。
「本当の愛」は、〈被愛妄想の「愛」〉の美化だ。「宗教心とそう違ったものではない」という説明は無理。「宗教心」の方が難しそうだからだ。
「美しくなる」の真意は〈赤ちゃん返りする〉などか。
「気高い気分」は意味不明。「気分」は「乗り移って」こない。「神仏・霊魂などがとりつく」(『広辞苑』「のりうつる」)というのが常識。〈「考えると」~「乗り移って来る」〉か。あるいは、〈「考えると」~「思いました」〉か。「来るように」だから、来ていなかったわけだ。〈「すぐ」~「乗り移って来る」〉か、〈「すぐ」~「思いました」〉か。
<愛は信仰より成る。信仰は二つの神を念ずるを許さぬ。愛せらるべき、わが資格に、帰依(きえ)の頭(こうべ)を下げながら、二心(ふたごころ)の背を軽薄の街(ちまた)に向けて、何の社(やしろ)の鈴を鳴らす。
(夏目漱石『虞美人草』十二)>
「信仰」は夏目語か。
Sには、この程度の「説明」もできなかったのか。そうだとしたら、なぜか。
(2350終)
(2300終)