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夏目漱石を読むという虚栄 1550

2021-03-03 23:41:55 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1500 さもしい「淋(さび)しい人間」

1550 淋しい夏目語

1551 「貴方も淋しい人間じゃないですか」

 

浅薄な誤読を始末してしまおう。

 

<「私は淋しい人間ですが、ことによると貴方も淋しい人間じゃないですか」

これを読ませる、いや、聞かせる、いや、泣かせる科白(せりふ)というのではないか。大抵の人はこんな言葉に接すると、漱石先生から「貴方も淋しい人なんじゃないですか」と、直接に語りかけられたような気持ちになってしまう。そしてわれとわが心を小説に没入させていく。ほとんどの現代人は自分を疎外された孤独な寂しい人間と思っているからである。その意味からも、『こころ』は多くの人に読まれる作品であるといえようか……。

(半藤一利『漱石先生(そうせきせんせい) お久(ひさ)しぶりです』)>

 

Pは泣かされなかった。「私はちっとも淋(さむ)しくはありません」(上七)と否定している。

 

<「君も寂しがる性(たち)だね」と云って、大村は胡坐(あぐら)を掻いて、また紙巻(かみまき)を吸い附けた。「寂しがらない奴(やつ)は、神経の鈍い奴か、そうでなければ、神経をぼかして世を渡っている奴だ。酒、骨牌(かるた)、女。Haschisch(ハッシッシュ)」

二人は顔を見合せて笑った。

(森鴎外『青年』二十一)>

 

Pは「神経の鈍い奴か、そうでなければ、神経をぼかして世を渡っている奴」なのか。

Sには「酒に魂を浸して、己(おの)れを忘れようと試みた時期」(下五十三)があった。では、「Haschisch(ハッシッシュ)」は試したろうか。試さなかったとしたら、なぜか。

 

<現代の人は 誰もが 何かココロのサビシサを 持っています 

(藤子不二雄A『笑ゥせぇるすまん』「瑞雲の杖」)>

 

『青年』の大村は疎外感について下手に語っているらしい。

 

<人間の社会活動による産物、たとえば、労働活動による生産物や社会関係、あるいは頭脳活動による観念、思想、芸術などが、それ自身あたかも生命を与えられたように自己活動し、それによって独自の力をもつかのように現れ、それらを生み出した人間自身に対して、逆に彼を支配してしまう疎遠な力として現れるようなことをいう。この状態では、人間の活動は当の人間に属さない外的な、疎遠なものとなり、そのことによって、人間の本質は取り除かれ、また他の人間との社会関係もゆがめられてくる。

(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「疎外」似田貝香門)>

 

「当の人間に属さない外的な、疎遠なもの」は、「不可思議な恐ろしい力」などと呼ばれている何かと同じだろう。ただし、『こころ』の主題は、こうした疎外ではなかろう。

 

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1500 さもしい「淋(さび)しい人間」

1550 淋しい夏目語

1552 「淋しい笑い方」

 

Pが「淋しい人間」というSの言葉に泣かされていたら、あるいは、泣く真似をしていたら、『こころ』は喜劇だろう。

 

<ジューリイの顔をださぬ舞踏会や、ピクニックや、芝居は一つもなかった。彼女の衣装はいつも流行そのものであった。しかし、それにもかかわらずジューリイは、いっさいのことに幻滅した人のように見えて、だれに向かっても、自分はもはや友情も、恋も、人生のどんな喜びをも信じない、ただ、あの世での心の平静を待つばかりだと言うのであった。こうして、彼女はいつか、ひじょうに大きな幻滅を経験した娘――恋人を失うか、あるいは恋人に手いたく欺かれるかした娘という調子を、わがものとしてしまったのである。彼女には、そんなふうなことは何もなかったのだけれど、人々も彼女をそうした女として見ていたし、彼女自身も、人生で多くの苦痛をなめてきたように思いこんでいた。この憂鬱(ゆううつ)はしかし、彼女の陽気に楽しむことをさまたげなかったし、彼女のもとへ(ママ)出入りする若人たちの、愉快に時をすごす邪魔もしなかった。この家へ(ママ)集まるほどの客はみな、いちおうそれぞれに、まず女主人の憂鬱な気分に義務をささげてから、あらためて世間話や、ダンスや、知的遊戯や、カラーギン家ではやっていた作詩競技などにとりかかるのだった。ただ、二、三の若い連中だけが、ボリースもその一人だったが、ジューリイの憂鬱な気分に比較的深入りし、彼女のほうでもこれらの青年を相手に、浮世のはかなさなどについて、人まぜしない、やや長い語らいを持ったり、悲しい絵や、格言や、詩で埋められた自分のアルバムを、ひらいて見せたりするのだった。

(レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ『戦争と平和』)>

 

夏目語の淋しい系の言葉の意味は混乱しているようだ。

 

<「寂しい人だ」「寂しい顔」「寂しい表情」「寂しい笑いを漏らす」「試合に敗れ、寂しく控え室に消えていく」など、それを、見る側が寂しさを感じるような様子とも(客観的な属性)、相手自身が寂しく感じているとも(主観的な感情)二樣の解釈が成り立つ。

前者は「寂しい感じの……」で言い換えられる。後者は「……そうな」を付けて「寂しそうな顔」と言うべきだが、感情性の強い形容詞では省略されることが多い。

(森田良行『基礎日本語辞典』「さびしい」)>

 

夏目語の淋しい系の言葉は、「客観的な属性」と「主観的な感情」の「二様の解釈」が同時に成り立つ。たとえば、Sの「淋しい笑い方」(上七)は、〈Sは淋しそうに笑った〉とも取れるし、〈Sの笑顔を見てPは淋しくなった〉とも取れる。

「寂寞(せきばく)」(下五十三)も同様。語られるS自身が「寂寞(せきばく)」の情を抱いているのか、語り手Sから見た過去のSの有様が「寂寞(せきばく)」と形容されているのか、判然としない。

「淋しい」から〈そら恐ろしい〉つまり不安を経て「恐ろしい」に至るが、その対象が不明なので「不可思議」という出発点に戻るのかもしれない。「ぐるぐる」だ。

 

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1500 さもしい「淋(さび)しい人間」

1550 淋しい夏目語

1553 パニック障害

 

日本語を初歩からやり直さなければならないようだ。

 

<うらさぶるこころさまねし ひさかたの天(あめ)のしぐれの流らふ見れば

(『万葉集』巻第一・八二)>

 

普通、さびしい系の日本語は静かな情緒を表す。

 

<「さび」とは単に閑寂な素材を閑寂な用語で詠んだ閑寂な句をいうのではなく、対象を見つめる作者の心が人生の無常をしみじみと感じとり、すべてをいとおしむ心の深さ、あたたかさがにじみ出る美的な気分をいう。

(『旺文社 全訳古語辞典』「さび」)>

 

典型的な例。

 

<中野のさと一之が家に秘めおける一卷物や、ざれ言に淋しみをふくみ、可笑みにあはれを盡くして、人情世態無常觀想殘す處なし、

(小林一茶『おらが春』)>

 

一方、夏目語のさびしい系の言葉が指す感情はかなり激しい。

 

<けれども彼の淋しみは、彼を思い切った極端に駆り去る程に、強烈の程度なものでないから、彼が其所まで猛進する前に、それも馬鹿々々しくなって已めてしまう。

(夏目漱石『門』二)>

 

「淋しみ」のせいで「猛進する」可能性があるわけだ。「駆り去る」は意味不明。

園まりは「淋しくて 死にたくなっちゃうわ」(岩谷時子作詞・宮川泰作曲『逢いたくて逢いたくて』)と歌う。この場合の欠如は恋人だが、甘えの誇張であり、本気ではない。

 

<思い当たる原因はないが、突発的に強い不安や動悸(どうき)、めまい、呼吸困難など、多くの身体的・精神的な発作に襲われ、死の恐怖や自分自身をコントロールできない症状を起こすこと。

(『百科事典マイペディア』「パニック障害」)>

 

結果として、「人込みにでるのが不安になり、行動や生活が狭められる可能性があり、うつ症状がでたりすることもある」(『ニッポニカ』「パニック障害」)という。

Sの場合、「思い当たる原因」はある。それは、Kの死に対する罪悪感だ。しかし、それは偽装された「原因」だ。Sのいう「罪悪」(上十二)は意味不明なのだ。

(1550終)

(1500終)

(1000終)

 

『夏目漱石を読むという虚栄』第一章 目次

はじめに~文豪伝説の終わりのために

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

寺村輝夫『王さまうらない大あたり』

1100 文豪伝説

1 正直な感想から始めよう

  〈意味〉の意味/SとKと静とPを紹介しよう/Sはスネ夫のS

2 読むと貧弱になる『こころ』

 超短編の羅列/アララな人/『こころ』批判も意味不明

3 わかったつもり

 浅い理由と深い理由/「明治の精神」は時代精神ではない/痩せ我慢

4 恣意的な読み込み

 文豪伝説の主題/ありすぎる主題/間違いだらけの翻訳のよう

5 「恐ろしい影」

 もう一人の自分/さもしき玩具/「自分の頭がどうかしたのではなかろうか」

1200 語り手は嘘をつく

1 夏目語

 「意味は、普通のとは少し違います」/「みんなは云えないのよ」/自分語と個人語

2 理解について

 「私を理解してくれる貴方」/「解釈」と「理解」/『やまなし』

3 作者と作品と語り手

 読者に擬態/鶏と卵/作品と異本

4 怪しい語り手たち

 「奥さんは今でもそれを知らずに」/「誤魔化(ごまか)されて」/「解釈は頭のある貴方に任せる」

5 自己完結的

 二重思考/丸投げ/「殉死」の「意義」

1300 あらすじすらすらすらと読めない

1 「上 先生と私」のあらすじ

  解けない謎はない/「恋に上(のぼ)る階段」/仮面夫婦

2 「中 両親と私」のあらすじ

  「本当の父」/「立場」/看取りと読み取り

3 「下 先生と遺書」のあらすじ

  自殺の動機は不明/詐取は被害妄想/三角関係はなかった

4 異本のあらすじ

  「これが先生であった」/常識としての美談/「自叙伝」の真相

5 不図系

  「思い出した序(ついで)に」/複数の〈自分の物語〉/「不図(ふと)した機会(はずみ)」

1400 ありもしない「意味」を捧げて

1 支離滅裂

  統合失調症あるいは精神分裂病/二種の隠喩/「矛盾な人間」

2 作家ファーストで何四天王

  何四天王を紹介しよう/太宰治/芥川龍之介/宮沢賢治

3 慢語三兄弟

  小林秀雄/江藤淳/吉本隆明

4 忖度ごっこ

  昭和のいる/野口さん/井戸茶碗

5 夏目宗徒

  読めない「人間の心」/読めない『Kの手記』/読めない聖典

1500 さもしい「淋(さび)しい人間」

1 尻切れ蜻蛉

  自殺の美化/小説のような夢/『壷坂霊験記』

2 Sの「死因」

  主人公はK/「寂寞(せきばく)」/「失恋」と「死因」

3 隠者ハッタリ君

  窮状の露呈/中途半端な人/逆さまの隠者

4 「覚悟」とか「主義」とか「人生観」とか

  「私の眼に映ずる先生」/「強い事実」/「人世(じんせい)観(かん)とか何とか」

5 淋しい夏目語

  「貴方も淋しい人間じゃないですか」/「淋しい笑い方」/パニック障害

(終)

 


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